傾国4
沈んでいた意識が浮上し、僕は目を覚ました。いつもと違い目覚めがとても良い。それはボロボロで肌に痛いくらい擦り切れた麻のシャツを着ていないからか、それとも寒く硬い床で寝ていないからだろうか。肌を包む服はとても触り心地が良く、横になっている寝台は沈み込んでしまいそうなほど柔らかい。それらはとても心地良いはずだというのに、けれども分不相応に感じ何処か居心地が悪かった。
あれからどうなったのだろうか。スラムはどうなっているのだろうか。母はどうしたのだろうか。
「……どうなったかなんて決まってる」
僕は母を見捨てたのだ。幾ら意識がない間に連れ出されたとはいえ、あのような惨状を目にしたとはいえ、母を一度も思い出さなかったのだから。何と薄情な息子だろうか。母は炎に焼かれ死んだのだろうか。それはどんなに辛いことだろう。どれだけの痛みを伴ったのだろう。
僕がいなければスラムは焼き払われずに済んだのだろうか。僕が大勢の命を奪う原因となったのだろうか。僕が…………。
自責の念に駆られた僕は、寝台に顔を埋め泣き叫んだ。
声が部屋の外まで聞こえたのだろう。誰かが慌てて部屋に入って来て僕の様子を確認するとすぐに出ていったが、暫くするとまた誰かが部屋に入って来た。
「どうされました。何を泣いていらっしゃるのです。そのように泣いていては、殿下のその美しい空色をした御目が真っ赤に腫れてしまいますよ」
あの男だ。彼は寝台に腰掛けると僕の頭を撫でた。それは人をゴミだと言った冷血漢とは思えないほど
優しいものだった。この男は一体、何なのだろうか。どうしてあんなにも酷い事をしておきながら、僕にはこんなにも優しくするのだろうか。
僕は堪らなくなり俯せていた顔を上げ、涙に声を詰まらせながら男に問いかけた。
「どう、どうしてっ、スラム、に、あん、あんなこと」
「ああ、昨夜の事に御心を痛めておいででしたか。殿下はお優しい」
そんな詰まらないことで泣いていたのか。男はその様な顔をしたが、すぐに笑顔を張り付けた。
「ぼ、僕が、いたから。あんな」
「ああ殿下。それは違います。どの道スラムはああなる運命だったのです。女王陛下の命令で決まったことでした。サンブランにゴミは要らぬと。ですから殿下のせいでああなったのではありません」
女王陛下、この国の頂点があの様に悍ましい事を指揮したというのか。この男だけではなく、全ての特権階級にとってスラムの住人は人ですらないのか。僕はその事実に絶句した。
でもそうなのだろう。それが真実だ。だって目の前にいるこの男は、スラムの惨状など大した事では無いと言わんばかりの笑みを浮かべているではないか。貧民は彼らにとって物以下の存在なのだ。
「か、母さんは」
母は死んだのか。そう意味を込めて男に問うと、彼はそれまで笑みを浮かべていた顔を曇らせた。ああ、やはりそうなのか。
「……オーギュスタには可哀想なことをしました。けれども彼女はもう余命幾許も無かった。生前のオーギュスタは、よくこう言っておりました。私が病に倒れたら潔く死にたい。そうなった時は私に殿下を頼むと。けれども殿下のことが心配で堪らなかったのでしょうね。それに私とも連絡が取れる状況になかった。だからああしてオーギュスタは生き続けたのでしょう。けれどもこれからは、私がオーギュスタの分まで殿下をしっかりとお育て致します」
胸が張り裂けそうなほど悲しいはずなのに、何処か心の片隅で安堵した自分がいた。あのまま生きていたところで、何方にせよ母は痛みに苦しんだ。ならばあれで良かったのかもしれない。これで彼女に煩わされる事も無くなる。
一瞬そんな考えが頭を巡り、そうしてすぐに自己嫌悪に陥った。何だ。僕もそう特権階級の人間と変わらないほど屑じゃないか。
僕が再び寝台に顔を埋めると男が笑みを漏らした息遣いが聞こえた。それから彼は先程と同じように僕の頭を優しく撫でた。
結局、僕は駄目な人間だ。自分にとって優しい方へ、楽な方へと流れてしまう。男にされるがまま目を閉じた。
「僕は殿下じゃない」
思えばこの男は、出会った時から僕を殿下と呼んでいる。けれど僕は生まれも育ちもスラムであったし、それ以外の場所に出た事もなかった。殿下なんて雲の上のような存在が、掃き溜めで生れ落ちるだろうか。間違いなくこの男は勘違いをしているのだろう。オーギュスタなんて母の名前も、スラムでは驚くほど多くいる名前だ。
「いいえ。貴方は王太子殿下の御落胤なのです」
御落胤。それは一体何だ。理解できない言葉に僕は、顔を男の方に向け目線で問いかけた。
「殿下の父君は、このサンブラン王国の王太子殿下であらせられるイディオ様。母君は由緒あるディズール侯爵家の一人娘、オーギュスタ・ド・ディズール。貴方は王侯貴族の中でも特等の血筋をお持ちでいらっしゃるのです」
「そ、そんなの知らない。そんなの間違いだ」
母はスラム一の娼婦だった。侯爵令嬢なんて高貴な人間が娼婦になるだろうか。有り得ない事だろう。それに父親は客の誰かだろうけど分からないと、母に昔確かに言われた。だから、そんな事がある筈が無い。
「いいえ。間違いようがないのです。何故なら殿下。貴方はイディオ様に生き写しなのですから。その御目と御髪の色も御顔も、何もかも全てが瓜二つなのですよ」
理解ができない。怖い。僕には男の言う事が、真実かどうかなんて分からない。だた一つだけ、この男がそうだと言えば偽りも本物になる。それだけは何故か分かった。白と言えば白になり、黒と言えば黒になる。この男は事実を捻じ曲げる程の権力を持っている。
だから、もしかしたら僕が本物かどうかなど、彼にとってはあまり重要では無いのかもしれない。対外的にそれらしく見え、納得させる材料さえあればいい。それと無く王太子と似た容姿。母親の名はオーギュスタ。たった二つの条件さえ揃えばこの男が持つ権力が後ろ盾となり、あっという間に偽りの存在である僕は王族の仲間入りを果たすのだろう。それに僕はもう天涯孤独で行く当てもなく、この男に反抗できる術すら持ち合わせていないし、世間の事は何も分からない子供だ。彼にとってこんなにも都合がよく、操りやすい人形があるだろうか。
「ああ、いけませんね殿下。体が冷え切ってしまわれて。直ぐに温かいスープを御用意致しましょう。体を温めなくては」
男は僕の震える体を擦りながら、至極楽しそうにそう言った。それがまた僕の恐怖心を更に煽った。
そんな気分では無い。食欲なんてあるものか。僕は弱々しく首を横に振った。それからきつく目を閉じると意識を飛ばすことに集中した。眠って何もかも忘れてしまえばいい。何も考えてはいけない。
「殿下、もうどこにも逃げられやしませんよ。いずれ貴方はこの国の王となるのです。どうぞ何も考えず眠っていらして結構です。私の可愛い可愛い殿下。私が貴方を導いて差し上げましょう」
体が小刻みに揺れていたが、僕は自分の事だというのにそれに気づかない振りをした。ただ体を縮め膝を抱え、襲い来る恐怖をやり過ごすことだけを考えた。それから辛い現実は見たくないとまた意識を手放した。