後編
七時少し前。
「猛クン発見」
待ち合わせの場所である駅前の公共掲示板に着いた猛は、聞き覚えのある声にそちらを振り返った。
迷彩柄の半袖シャツに黒のタンクトップ、昨夜と同じくダメージジーンズと言った出で立ちの葉月がこちらを指差し笑っている。
「いやいやいや、悪ィね。急に外せない用事が入ってさ」
「いや、良いっすけど」
案の定悪びれた様子もない葉月は軽い足取りで猛に歩み寄ると、偏光サングラスを指で押し上げた。
相馬から葉月へと連絡が行ったのを知る猛は、もう一人の待ち人である陸の姿を探す。
「どうよ、猛クン。体の調子は」
同じように辺りを見回しながら、葉月が猛に尋ねた。
「普通。ちょっと寝不足っぽいけど。……寝ても寝ても寝たりない、みたいな」
猛の言葉は嘘ではない。
家に帰った時など、眠気のあまりベッドに潜りたくなったのだが、その一方で妙に頭が冴えて眠れなかった。もしかすると一眠りしておいた方が良かったのかも知れないが。
葉月はジーンズから扇子を抜き取ると、やはり辺りを見ながらパラリとそれを広げた。
「昨日が初めてだったもんな。まァ、そのうち徐々に慣れると思うよ。オレもそうだったし」
「葉月さんも?」
葉月の揺らす扇子から生温い風が猛の方にも送られてくる。
葉月を見ると、葉月は口許に薄い笑みを浮かべて頷いた。
「【六道鬼】と対峙するとどうしたってこちらの精神は磨耗する。それを補う為に体は休息を必要とするんだ。オレなんかガキの頃は暇さえあれば寝てる子だったよ」
「へぇ、そうなんだ」
「最終的には精神力と根性が要になるからね。猛クンも慣れるまでは、なるべく多くの睡眠をとるよーに」
「はぁ……」
念を押すように軽く猛を見た葉月は、パチンと扇子を閉じる。曖昧な返事をする猛の後ろに陸の姿が見えたようだ。
「陸チャン、こっちー」
高く手を掲げて扇子を左右に大きく揺らす。
容姿に似合わぬその所作に猛は恥ずかしくなったが、陸は平気な顔で二人へと歩み寄った。
「ジャスト七時。流石だね」
駅に掛る時計はちょうど七時を指している。
陸も一度自宅に戻ったのか、キャミソールにジーンズと言ったラフな出で立ちで、猛と同じように竹刀ケースを下げている。
ケースの肩紐の部分には緋色の布が申し訳程度に巻かれており、それを目にした猛は自然と手首に巻いてあった白布に視線を落とした。
あの夜、見掛けた布に間違いない。
そんな不思議な確信を得る。今更間違う筈もない。
「さァて、参りますか」
二人を見やり葉月が言う。
陸は少し顔を上げると少し眉を顰めて葉月を見た。
「場所は?」
「南央区。たぶんね」
曖昧な物言いだが葉月の態度に迷いはない。駅の改札を抜ける姿はいつものように飄々としていて、それが何処か自信すら醸し出している。
葉月に続いて陸も改札を抜ける。猛も相馬から渡されていたカードを使い改札を抜けると、慌てて二人の後を追った。
「猛クン、着くよ」
葉月に肩を叩かれ目を覚ますと、電車はまもなくホームに止まる所だった。
いつの間にやら寝てしまっていたらしく、きょろきょろと辺りを見回す。
「大丈夫か?」
「……平気」
猛の返事に葉月は小さく笑うと、人波に紛れるようにして電車を降りる。
猛の隣に座っていた陸は猛が立ち上がるのを待って電車を降りた。
竹刀ケースを持つ二人とチンピラさながらの服装の三人組。目立つだろうかと余計な事を考えていた猛だったが、想像以上に人は他人には無関心のようだ。
日頃滅多な事では降りない駅前は、小さな商店街と飲食店街が立ち並ぶが、繁華街と言うには少し物寂しい。降りる人も少なく、猛達の他には四人ほどの会社員だけで、その人たちも皆足早に改札を抜けると、人の気配は無くなった。
「ホントに此処……?」
疑わしげに葉月に視線を投げかける。葉月は猛に目もくれず、偏光サングラスを外すと少し目を細めた。
「だから、たぶん。学校に近いとは思うんだけどねー」
のんきな口調ながらも葉月の視線は真剣で、猛はそれ以上何も言わなかった。
「こっち」
サングラスを胸ポケットに仕舞った葉月が扇子を広げながら歩き出す。
何と無く陸を見ると、陸はやはり無言のままで葉月に付いて歩き出した。
商店街を抜けバス通りを歩く。時折聞こえるのは犬の遠吠えだけで、傍らを走る車の数も少ない。
やがて三人は小学校の前まで来た。
葉月は足を止めるとスンと鼻を鳴らす。
「こっちだ。近いな」
運動場に面した細い道へと向かう葉月は、扇子を仕舞うとグローブを外した。
それを見た陸もケースに巻き付けていた緋布を外すと、髪が邪魔にならぬようにとそれで軽く一つに纏めた。
「猛クン、準備しといてね」
前を歩く葉月が振り返りもせず言う。
猛は一度軽く手首に巻いた白布を撫でると、小さく頷いた。
運動場を迂回すると、そこは拓けた広場になっていた。
普段は小学生が遊び場として使っているのか、置き去りにされたサッカーボールが一つ転がっている。
猛はそこに足を踏み入れた瞬間、むせかえるような臭いに襲われた。
──……獣臭い。
思わず左手で口許を覆うと、白布のお陰か少し臭いはマシになった。
ふと傍らの二人を見ると、それぞれ眉を顰めている。どうやらこの臭いを感じたは猛だけではなかったようだ。
「『畜生』か。厄介だねェ」
何処かで聞いた覚えのある言葉を葉月が呟く。
その言葉が相馬の元で陸が呟いた物と同じだと気付いた猛は、ケースを下ろしながら葉月に問掛けた。
「畜生って、そんなに厄介なんですか?」
「ン?あァ。奴らは思考能力が低い代わりに、本能の部分が著しく高い。攻撃力も高く、まさに野生の獣そのものさ」
「違うのは、野生の獣は無用な殺生は行わない。畜生はただ殺すだけ」
ケースを投げ捨てた陸が葉月の言葉を引き継ぐ。
猛がそちらを向くと、陸は猛の物より一回り小振りな刀を手にしていた。間違いなく、あの夜、猛が目にしていた物だ。
「厄介なのはもう一つ。他の【六道鬼】と違って奴らは群れを成して現れる。連携プレイを甘く見ちゃいかんよ?」
慎重に辺りを伺いながら葉月が言う。
いつの間にか太陽は沈み、不自然な静けさが辺りを支配していた。
猛は昨夜と同じようにベルトに【六道】の紐を通すと、白布に手を遣りながら葉月と同じように辺りを伺った。
二人に背を向けるようにして陸が背後に視線を配る。
互いの息遣いすら感じとれる。もしかすると鼓動の音すらも聞こえるんじゃないだろうか。
張り詰めた緊張感の中、猛はゆっくりと【六道】に手を掛けた。じんわりとした暖かさが猛の手を通り体全体を支配する。昨夜は無我夢中で分からなかったが、覚えのある感覚に猛は神経が鋭敏になるのを感じていた。
不意に。
「左ッ!」
陸の声に猛は大きく前に跳んだ。
背後を掠めた獣の息遣いを確認する間もなく、【六道】を抜き取り身構える。
陸と猛の間に立つ獣は、全長約二メートル。動物園で見たライオンほどの大きさで、濃い灰色をしている。ただ瞳はギラギラと鮮やかな緋色で、猛の知るどんな獣とも違っていた。
獣──畜生はぐるりと辺りを見回すと、大きくのけ反りながら遠吠えを放つ。
低い地の底から響くようなその声は、酷く不快で心臓を鷲掴みにされたような錯覚をもたらした。
猛は心を鎮めて【六道】を構える。
畜生の向こうでは陸がチラチラと左の方を見ながら、同じように【六道】を構えていた。
「弱点は喉。まだ居るぞ」
猛よりも僅かに後ろに避けた葉月は早口で言うと、口の中で咒を唱え始めた。
畜生は慎重に三人を見回す。しかしやがて猛を見据えると、一つ吐息を吐く間に猛の方へと飛込んで来た。
「っ!」
畜生の爪を辛うじて【六道】で受ける。餓鬼とは比べ物にならない程の力強さに猛はグッと息を飲んだ。
重い。体躯の差があるのだから当然だが、これは長々と相手を出来そうもない。
猛の事を組み敷き易い相手だと思っていたのだろう。畜生は爪を防がれた事に不満そうに喉を鳴らしながら飛び退る。そこを狙って陸が【六道】を奮ったが、畜生は陸を見もせずに横に跳んだ。
陸は即座に体勢を整えると畜生の方へと向き直った。
先程の遠吠えのせいだろうか。畜生の数は四匹に増えていた。そのどれもが猛達を見据え、今にも飛び掛ろうと様子を伺っている。
「一人頭二匹。サポートよろしく」
言うが早いが陸は畜生の群れへと駆け出す。
一匹の畜生はそれを迎え討とうと体勢を低くすると、この世の物とも思えぬ咆哮を放ちながら地を蹴った。
猛も後に続いて畜生の群れへと向かう。いつもよりも格段に素早い動きに猛の思考回路は驚いたが、体はまるでそれが自然だと言うように素直に動く。今はただ、【六道】に突き動かされるままに動いた方が良さそうだ。
飛び掛る畜生を薙ぎ払い、もう一匹へと斬り掛る。かわされた所に畜生が喰らい付こうと飛び掛るが、紙一重で後ろに跳びそれを避ける。
陸を気にしている暇はなさそうで、猛の神経は目の前の畜生の群れに注がれていた。
「猛クンッ!」
後方の葉月の声に猛は半ば無意識的に【六道】を構えて勢い良く突く。
葉月の支援だろうか。一瞬怯んでいた畜生の喉元に、猛の持つ【六道】はするりと飲み込まれた。
「【六道】」
猛が小さく呟くと。まるでそれに応えるかのように【六道】が震えた。
白布から猛へ。猛から【六道】へ。伝わる熱は光へと姿を変え、貫いた畜生は細やかな粒子となって【六道】に吸い込まれる。
しかしそれに見とれている暇はない。
右から迫る畜生の爪が猛の頭を狙う。何とか【六道】でそれを防いだ猛は、前に跳んで距離を取った。
「【六道】」
向き直ると同時に聞こえたのは陸の声だった。
ひゅるりと聞き覚えのある音と同時に畜生の喉元が斬り裂かれる。畜生は空気が抜けるような微かな音を発しながら、その姿を薄れさせて陸の持つ【六道】へと吸い込まれた。
視界の端にそれを捉えながら、猛は【六道】を持つ手に力を込めた。
残された畜生のうち一匹が葉月へと向かう。
それに気付いた猛は慌てて葉月の元へと駆け出したが。
「残念でした」
ニィと笑った葉月が右手を突き出すと、畜生の体は大きく弾かれ宙に舞った。
まるで見えない壁でもあるのか、葉月から一定の距離を保ち畜生の体が地に落ちる。
「【六道】ッ!」
そこを狙って猛は大きく跳躍すると、畜生の喉元へと【六道】を突き立てた。
光となった畜生の体がずわりと広がり【六道】へと吸い込まれる。
気付かぬうちに息を止めていた猛が立ち上がると、葉月はニヤリと笑いながら【六道】を──いや、【六道】に吸い込まれた畜生を見た。
「オレが何も出来ないと思うなよ?」
──もしかして、この人が一番強いんじゃ……。
内心そんな事を考えた猛だが、何も言わずに陸の方を見る。残された畜生は手負いの状態で、灰色の毛並は所々が泥にまみれていた。
猛は呼吸を整えると陸の元へと駆け寄る。汗ばんだ額に髪が張り付いているが、陸に怪我は見当たらない。隣に立った猛をチラリと見た陸は、少しだけ口許に笑みを浮かべた。
「右から。次に下から袈裟切り」
「え?」
「右、下からの斜め切り」
ボソボソと呟く陸の声が聞き取れなかった訳ではない。単純に言葉の意味が分からなかっただけだが、陸にはそれが分からなかったらしい。
早口で同じ意味の事を告げた陸は猛の返事を待たずに畜生へと向かう。
左に向かって走り出す陸に猛は考える間もなく右側へと走り出した。
挟み討ちにされる形になった畜生は陸の攻撃を避けようと後ろへと跳ぶ。
しかし。
猛が両手に構えた【六道】を右から左へ薙ぐと、退路を絶たれた畜生は寸前で体勢を低くして猛の攻撃をかわした。
そこに陸の【六道】が襲う。足元を狙った攻撃に畜生は地を蹴り跳び上がる。
「【六道】ッ!!」
先程左へと薙いだ遠心力を利用して猛は下から上へと【六道】を振り上げた。
その動きが先程陸が指定された通りだと言う事に猛が気付いたのは、畜生が光の粒となって消えた頃だった。
体全体が酷く重い。
ともすれば落ちそうになる瞼を必死になって開きながら、猛は葉月の肩を借りて歩いていた。
少し遅れて後に続く陸にはいつもと変わった様子はなく、ゆっくりと歩みを進めている。
「重いな、猛クン。少し痩せた方が良いんじゃナイ?」
「すんませんね」
冗談めかして笑う葉月に猛は眉を寄せる。その表情に葉月は喉を震わせて笑った。
「まァ良くやったよ。三匹も転生させたんだから」
「……転生?」
聞き慣れぬ言葉に猛は少し首を捻る。
眠気と疲労で思考回路は上手く働かないが、葉月は気にする様子もなく頷いた。
「猛クン、キミの【六道】と陸チャンの【六道】の違いに気付いたか?」
「え?……あ~……」
歩く度に揺れる頭はそのままに、猛は必死になって考える。しかし耐え間なく襲う睡魔に邪魔され、考えはなかなか纏まらない。
「……大きさ?」
「阿呆」
眠気混じりの答えを返すとベチリと額を叩かれる。
容赦なく叩かれた痛みで一瞬眠気は遠退いたが、今度は疲労感が猛を襲った。
「猛クンの【六道】は畜生を光に変えただろうが。対して陸チャンの【六道】は畜生をそのまま吸い込んだ。見てたろ?」
「あ~……そう言えば、そんな気……も」
「寝るな阿呆。お姫様だっこするぞ」
「……起きてますよ」
今度は拳でぐりぐりと眉間を刺激され、猛は無理矢理眠気を払う。
葉月は偏光サングラスの向こうで疑わしげに目を細めたが、直ぐに気にするのを止めたようだった。
「猛クンの持つ【六道】は唯一【六道鬼】を転生させる事が出来る。光の粒になるのがその証拠だ。転生された【六道鬼】は再びこの世に生を受ける事が出来る。輪廻転生ってヤツだな」
「はァ……」
「だが陸チャンの【六道】は【六道鬼】を消滅させる事しか出来ない。猛クンの【六道】が『神刀』と呼ばれる所以だ」
「……へぇ」
駅までの道のりを歩きながら猛は必死になって記憶の棚を整理する。
もしもまた同じ事を尋ねられた時に答えられなければ、葉月に小突き倒されるのは目に見えている。
「そんな凄い物なんだ……コレ」
肩から下げたケースを見下ろし小さく呟く。
その声が聞こえないはずはないのに、葉月は何も言わずに猛の体を支え直した。
駅に着き改札を抜けると、ちょうど電車が到着した時だった。午後八時を回って帰宅する人も増えたのか、猛達が降りた時よりも多くの人が電車から降りる。
それに反して乗り込む人は少なく、空いた席を見付けた三人は思い思いの場所に腰を下ろした。
と言っても猛は葉月の支えがなければ立っているのもやっとなので、自然と葉月の隣に座る事になる。
「今日は家まで送るから、遠慮なく寝てな」
「ありがとう……ござ、ま……」
軽く頭を叩かれるが痛みはない。礼の言葉すらも言い終える事が出来なかったが、葉月は小さく笑うだけで何も言わなかった。
──母さん……どんな顔するかな……。
記憶が途切れる最後の瞬間、ふと早苗の顔が脳裏によぎったが、すぐにその姿も薄れる。
心地良い電車の振動を感じながら、猛は睡魔に飲み込まれるようにして目を閉じた。