星咲きぬ/椿姫
ほかのオマケや本編にかなり状況説明が依存している話です。
お読みでなかった方、申し訳ありませんでした。
(1)
昼下がり。
テディ・バートラムは、自宅の居間の気に入りの肘掛け椅子に、その大きな背中をゆったりと預けていた。
金融専門紙に目を通すテディの傍では、妻リルが地図帳を広げる。
ふたりが結婚してもう、一年になろうとしていたが、つい過日、テディは、リルに提案した。
様々な事情から先延ばしにしていた新婚旅行に、そろそろ出かけようではないかと。
仕事で世界中を飛び回るテディとは違い、故郷のカントリーハウスから、ほとんど出ることもないという暮らしをしていたリルにとって、旅行という言葉は、響きだけでも、エキゾチックでスリル満点なものに感じられた。
「可愛い小鳥さん、君が行きたいと思うところすべてに行ってみようじゃないか、そうだな、南極探検以外はね」
夫の言葉に、リルは大いに発憤した。
そんなわけで、このところは時間ができるとすぐに地図帳を開いて、旅行先を思案しているのだった。
メイドのエマが、ティーセットを載せた銀盆を手に、居間へと入ってきた。
テディの好む、セイロン産の極上の茶葉の香りが部屋に広がる。
「やあ、エマ。ありがとう」
カップとソーサーを受け取りながら、テディがオクタヴィストの声で言った。
リルも顔をあげ、花蕾ほころぶかのごとく、エマに微笑みかける。
妻のせつなく可憐な横顔、その白磁の頬に、テディは思わず、しばし見とれた。
もはや、人妻となり男を知った女であるはずのリルではあったが
永遠に、清らかな乙女のままなのではないかと思われるほどに。
結婚前とまるで変わることなく、はかないほどの美しさだった。
特に今日は、くるくると渦巻く金の髪を結わずに下ろしているせいか、なおのこと、まるでいたいけな少女のように見える。
だがそれも、まだ二十歳にもならぬリルの若さを思えば、無理からぬこと。
近頃は、社交に出すようにもなったが、この小鳥は、これまで故郷の館の庭から、ほとんど外に出ることもなかった妖精姫だったのだから……。
美しい妻が、これからどんどんと大人びて、咲き誇る花のようになるに違いないと、テディも、そう思い描かないわけではない。
だが。
それが楽しみなような、このままずっと、ほころびかけたつぼみのまま清らに揺れていてほしいような。
テディの気持ちは、かすかに揺らめく。
そして……つい今朝方。
寝台の中で。
この清らかな天使に対して自分がした不埒な振舞いを思い出すにいたり、その悦びがはらむ背徳の味に、思わず腰がぞくりと震えた。
その一方で、リルに、そんな風に触れることは、夫となった自分にだけ、この世でただひとり自分にだけ、許されたものなのだと。
そんな自らの浅はかな独占欲が、快楽を深めていることに気付き、自嘲の嗤いが、こみ上げなくもなかった。
夫の脳裡にある、そんなみだらな考えになどまるで思い至らないリルは、サファイアの瞳を揺らしながら、さも愛しげに、テディの髭だらけの顔を見上げていた。
そんな中、「熊髭の主人のよこしまな考えなど、私の方ではすべてお見通しだ」とでも言わんばかりに、メイドのエマが、冷ややかな視線で、主テディを一瞥する。
むろん、その冷たい目に気付かぬようなテディではない。
だが、素知らぬ顔で朗らかに、エマにこう問いかけた。
「どうなんだい? エマ。最近は、『キンドルさん』の様子は?」
エマは、ごくかるく空色の目を細めた。だが、すぐにはっきりと誰の目にも解るように、暖炉の上へと視線を向けながら、主に応じる。
「おそれながら、『キンドルさん』は、私の目には、いつもと特段のかわりは見えないように思えますが、旦那様」
ふむ、と唸ってから、テディは黒目がちの焦茶の目をくるくると動かした。
「君がそう言うなら……なるほど、そうなんだろうな、エマ」
メイドと夫の話を聞きながら、リルは、暖炉の上にある唐三彩の駱駝の置物へ目を向ける。
赤や緑の発色が美しい、その古い東洋の陶器の駱駝は、リルの兄、ダチェット伯爵からの贈物だった。
動物好きのリルは、そのプレゼントをことのほか気に入り、すぐさま駱駝に『キンドルさん』と名前をつけると、この居間の暖炉の上に飾ることを決めた。
ダチェット伯の家令であるリック・キンドルに、よく似ているから、というのが理由らしかった。
そして、その『駱駝のキンドルさん』のほこりを、毎朝、はたきで掃うのは、メイドのエマの役目となったわけなのだ。
(2)
「……テディ。『キンドルさん』が、どうかしましたか?」
おずおずと訊ね、リルはテディの黒いスラックスの膝に、そっと手を添える。
妻のちいさな白い手をそっと取ると、テディは大きく笑った。
「エマはね、どうも、大層『キンドルさん』が気に入っているようなんだよ。リル」
陽気な調子の主テディの声に、エマが、かすかに口の端を歪める。
だがそれに気付いたのは、やはりテディだけだった。
リルは、とろける甘い微笑みをエマへと向けて言う。
「まあ、ほんとう、エマ?」
だって、本当にかわいらしい駱駝の置物だもの。エマが気に入って、当然だわ。
リルはひとり納得する。
……あんなに素敵な贈物を下さるなんて、オーガスト兄さまは、なんてお優しいの。
リルの兄ダチェット伯爵オーガスト・ユースタス・スタンレー卿は。
超弩級の美男子ながら、眉間には消える事のない皺と、険しく引き結ばれ、めったに緩むことなどない口もとをしており、社交界では『気難し屋』として名高い男だった。
『お優しい』などという言葉で修飾されることなど、普通ならありうべくもない。
そして。
そんなオーガストは、リルにとっても、長らく気難しくひどく怖ろしい兄だった。
だが、そんなダチェット伯も、最近では、すこしずつ変わり始めているようで、唐三彩の駱駝は、そんなオーガストが、ずっと表に出すことができずにいた、リルへの愛情のあらわれのひとつだった。
「時に、エマ」
手にしたサーモンピンクの新聞を、ガサリと卓に置くと、テディが言う。
「君、そんなに『キンドルさん』がお気に入りなら、どうだろう、いっそ『自分のもの』にしてしまうというのは?」
そのテディの提案が、何を意味しているのか、リルには咄嗟には解らなかった。
困惑に睫毛を震わせながら、夫を見上げる。
エマは、目を伏せたまま黙りこくっていた。
そんなエマのようすが、リルは次第に気遣わしくなる。
「……エマ、あなたそんなにも『キンドルさん』のことが気に入ってくれていたのね? わたし、しらなかったわ」
リルの言葉に、弾かれたようにエマが顔を上げた。
「い、いえ、奥様……それは、あの」
「わたしも、とっても『キンドルさん』が素敵で可愛いと思っているのよ、エマ」
……それに、あの駱駝は、何と言ってもオーガスト兄さまからの贈物なんだもの。
「ああ、でも。あなたがそんなに『キンドルさん』のことがすきなのだったら……わたし」
「おいおい、リル。オーガストの方でも、大層、キンドルさんを気に入っているようなんだよ」
テディが、やさしく告げる。
夫の言葉に、リルの胸がぎゅっと軋んだ。
ああ、そうだわ。
オーガスト兄さまに、無断で、せっかくの贈物を手放すなんて。
兄さまだって、『キンドルさん』のことを気に入って、わたしに買って下さったに違いないのに。
でも。
エマは、とってもよく仕えてくれているし、わたしも頼りにしてきた。だから……。
「ねえ、エマ。わたしオーガストにいさまに伺ってみるわ、『キンドルさん』のこと。あなたにあげても良いかどうか。ううん、心配しないで。きっと、にいさまも解って下さると思うの」
「そんな……!! 奥様、そんなことは、ああどうか。そんなことはなさらないでくださいまし」
エマが、うろたえて声を上げる。
テディが、ふたたび新聞を取ると、急ぎ広げる。
その手は、小刻みに震えていた。
「でも、エマ、『キンドルさん』のこと、気に入っているのでしょう?」
リルは立ち上がって、エマの手をそっと取った。
と、テディが、ごくわざとらし咳払いをする。
「ともかく、リル。オーガストが、『キンドルさん』を手放せないというのなら、仕方がないだろう? そうなったら……」
「そうなったら? なんですか。テディ?」
リルが勢い込んで訊ねる。
テディが、広げた新聞の向こうから応えた。
「まあそうなったら……エマが、ここを辞めるよりほかあるまい?」
「辞める? どうして。いやよ、そんなの」
リルは、エマの手を強く握りしめる。
「辞めちゃうの? エマ。『キンドルさん』をあげられなかったら、辞めてしまうの?」
ああ。エマが辞めるなんて。
一体、どうして、こんな話になってしまったのかしら。ちっとも解らない。
リルは、突然のことに、ただただ混乱していた。
なにかこの家で、ひどく気に入らないことでもあったのかしら?
わたしったら、なにも思いつかないわ……なんて情けないのでしょう。
「辞めちゃいや、エマ」
リルは、懸命にエマの目を見つめる。
「もしかしたら……お給金が足りないのかしら。違って? わたしったら、気付かなかったわ」
「いいえ奥様、給金は過分に頂戴しております」
慌ててエマが応じた。
「だったら、他にはどうしたらいいのかしら……」
そう言ったきり口をつぐみ、リルは、すっかり途方に暮れて、大きな目を涙で潤ませる。
目の前の可憐な女主人の狼狽ぶりには、エマの胸も、潰されそうなほどにせつなくなった。
「奥様……私はお暇など頂戴しようとは思っておりません、どうぞご安心ください」
「ほんとう? ほんとに。ほんとうね。エマ?」
そこでまた、意地悪くテディ・バートラムが口を挟む。
「おっと、だが『キンドルさん』のことは、どうするんだい? エマ」
(3)
エマは、ごくかすかに口もとをわななかせる。
「『そのこと』につきましては……言うなれば『時期尚早』ということですわ、旦那様」
「『時期尚早』とは、なるほど。エマ、たしかに、物事には潮時というものがあるからね」
テディが、ひとつ朗らかな笑い声を立てた。
と、リルが決然と暖炉を見やった。
真っ直ぐに暖炉へと歩み寄って、マントルピースの上の唐三彩を、両手で抱え上げる。
そしてまた、エマの前へと戻ってくると、駱駝の置物を差し出した。
「……奥様?」
「これはあなたのものよ。エマ。いま、あなたに差し上げるわ」
「いいえ、いいえ。そんな、奥様、困ります」
唐三彩の駱駝を前に、エマは、本気で困り果てていた。
そして、その場で、エマの困惑の理由を、真に理解しているのは、やはりテディただひとりだった。
そもそもの発端を作ったにもかかわらず、この期に及んでも、まるきり我関せずといった風に新聞の向こうで笑いを堪えているテディを、エマが、思い切り睨み付ける。
そして、懸命に考えを巡らせた。
「奥様、駱駝を頂戴するかどうかはともかく……この『キンドルさん』は、もとの場所に置いておきましょう。
私は、朝はこのお部屋をお掃除して、昼間も旦那様や奥様の御用で、このお部屋に参上することが多うございます。それに、ここにあれば奥様にも、前と変わらず御覧頂くことができますので、メイド部屋にあるよりは、ずっとよろしいかと」
なるほど、苦し紛れにしては、なかなかの名回答だな、と。
テディはエマの提案に、新聞の陰で感心する。
そんなこんなで、駱駝の『キンドルさん』は、また暖炉の上へと戻って行った。
と、テディの顔を覆うようにして、大きく広げられていた新聞が、突然、ガサリと捲られた。
「旦那様」
テディの眼前には、エマの顔があった。
「……こんな風に奥様が無用なご心配をなさるはめになったのは、旦那様のせいだってこと、お解りでいらっしゃいますね?」
はたして、エマの後ろで佇むリルの可憐な瞳は、事情をすべて飲み込めず、まだかすかな不安で揺らめいている。
「あとは、旦那様の責任です」
こう捨て台詞を残すと、淡い金色のお下げ髪を揺らし、エマはさっさと居間から下がっていった。