シスター・オルランド(2)
(1)
「ねえ、リル、あなた喋れるようになったんですって?」
弾む声で、わたしにこう訊いたのは、ロッテだったかもしれないし、エッタだったかもしれない。
どっちだったとしても、きっと大きな違いはないのだ。たぶん……。
だって、どっちもきっと同じことをわたしに訊ねたに違いないもの。
先に口を開いた方が、声にしただけのこと。
ドローイングルームの隅、ビロード張りの椅子に座るリルは、双子の兄たちの妻たちを、交互に見上げた。
カナリア色のドレス。
涙の形をしたエメラルドの耳飾りが、ピンク色の耳たぶの上で揺れている。
あわせ鏡のふたり。ロッテとエッタ。
アーサーの妻がエッタ。ヘンリーの妻がロッテ。
ブルネットの艶めいた髪を、まったく同じに結い上げて、まったく同じに紅いくちびるをほころばせて、笑う。
(2)
「ねえ、リル。あなた、あの熊みたいな髭の大男と婚約したって本当なの?」
今度はエッタが訊いた。ロッテかも知れない。
リルは黙ったまま、ちいさく双子の義姉に頷いた。
伯爵夫人は、ミセス・ターナーに呼ばれて座を外したきりで、もう先から、リルは孤立無援だった。
「あのひと、テディ・バートラム。今は髭はないんですって?」「あら惜しいわね、立派なおひげだったのにね」「あのひと、アンとワルツを踊ってたわ」「そうね、とびきり上手だったわね」「リル、あなた、あの時いなかったのよね」「そうだわ、どうしていなかったのかしら」「そうよ、どうしたの? リル」
リルは金の睫毛を震わせて、まばたく。
一体、どの質問に、そしてどっちの姉に応えればいいの?
リルは、心細くて仕方がなくなる。目頭が熱く痺れた。ひとつぶ、涙がタフタのドレスの膝にこぼれ落ちた。
ぱた、と乾いた音がする。
もうひとつぶ、そしてまたひとつぶ。
ロッテとエッタが、同時に息を飲んだ。
「まあ、可哀想なリル。泣いているわ」「ほんとうに、泣いているわね。お気の毒なリリアン」
リルの前に、同時にまったく同じスワトウ刺繍のハンカチーフが差し出された。右側のハンカチーフには、Cのイニシャル。左側はH。
右斜め前がシャルロッテ? ううん。そんなの簡単すぎる。ワザとハンカチーフを取り替えたのかも。
それに、わたしは、一体どちらのを受け取ったらいいのだろう?
リルは、ますます途方に暮れた。
(3)
「やあ、カナリアたち、ここにいたのかい?」
賑やかな足音をさせてやってきたのは、ヘンリーとアーサーだった。
ヘンリーはすかさず、リルの右斜め前の双子の片割れへと手を伸ばし、その腰を引き寄せる。
……ああ、じゃあ。ハンカチーフは正しかったの?
いいえ。
ひょっとすると、ヘンリー兄さまたちだって、自分の奥さんがエッタでもロッテでも。
本当はもう、どちらでもいいのかもしれない……。
リルは蒼い両目に、涙をいっぱいにたたえながら、そんなことごとを考えていた。
「おや、リルが泣いてるぜ?」と、アーサーが言う。
「泣いてるな、相変わらず甘えん坊だ」ヘンリーが続けた。
「こんなところに、皆で寄っていたのか、アンはどこだ?」
次にドローイングルームに入ってきたのは、ダチェットの主、長兄オーガストだった。
(4)
「アンは、メイド頭に呼ばれていったわ」「出て行って、もう二十分にもなるわ」
ロッテとエッタが口々に応じる。
その同じ音色の声を聴きながら、オーガストは、リルが涙をこぼしていることに気がついた。
「どうしたのだ? なぜ、リリアンが泣いている?」
「僕たちが来たときには泣いていたぜ?」「ああそうさ、もう泣いていたのさ、オーガスト。僕たちが泣かしたんじゃない」
ヘンリーとアーサーが、次々と言う。
「……お前たちの妻が泣かせたのなら、お前たちが泣かせたのと同じことだろう?」
オーガストは、嘆かわしいと言わんばかりに、ひとつ首を横に振る。
「あら、ダチェット伯爵、お怒りになってはいやよ」「そうよ。私たち、リルにフィアンセの話を訊いただけよ」
ロッテとエッタの言葉に、オーガストの眉間の皺が、くっきりと深くなる。
「僕はまだ認めてはいないからな、リル……テディとの結婚など」
「まあ、伯爵ったら。もう、リルはロンドンでドレスを仮縫いしているのに」「そうよ、凄く素敵なレースなのよ、羨ましいわ」「そうよ、羨ましいわね、私たちも、もう一度結婚したいわ」
「ほう? いったい誰とかね? スタンレー『夫人』」
オーガストの声が、苛立ちに震えた。
「ねえ、伯爵ったら、ヘンリーとアーサーが言う通りね」「ほんとうに、言うとおり」
「何がだ?」
エッタとロッテを、オーガストが鋭く睨み付けた。
(5)
「リルをひとりじめしたくて、いつも双子をリルに近づけないように追い払ってたって」
双子の妻たちは、まったく同時に、同じ声でこう言って、まったく同時に、同じ笑い声をたてた。
「……ひとりじめ? 何を。ヘンリー、アーサー。そもそも、お前たちが、いつもやんちゃばかりして、リルを危ない目に逢わせていたのではないか?!」
「ずるいんだ、オーガストばかり。リルをいじめて泣かせるのは楽しいのにな」「そうさ、面白いのに。オーガストが、ひとりじめさ」「リルは甘やかされてる」「だから、こんなに泣いてばかりなんだな」
ヘンリーとアーサーが、ワザと同じ顔で笑う。
と、双子の妻の片割れが言った。
「ねえ? リル。わたしはエッタ? それともロッテ?」
(6)
ひとつまばたきをしたリルの睫毛から、また涙の粒がこぼれ落ちた。
困惑し、涙をこぼしながらも、リルはふと気がつく。
エッタもロッテも、互いに互いの真似をしているんだわ? わざと。
ふたりの区別がつかないように。
そうよ、昔、ヘンリー兄さまとアーサー兄さまもやっていたじゃない。
エッタもロッテも、本当は、ちゃんと見分けて欲しくなんかないのだわ……きっとそう。
「みわけなんか、つきません……ろってもえったも、わたしが、ふたりのこと、くべつできないほうがいいとおもっているんだもの、とても、いじわる」
か細く震える声ながら、リルが、ついに言い返した。
オーガストが、驚きに目を瞠る。
ヘンリーとアーサーが、グッドウッドの最終局面で、ダークホースが躍り出てきたときのような顔をして、身を乗り出した。
(7)
ロッテとエッタは、顔をみあわせて、同じ顔で笑った。
「そうよ、すぐに区別が付けられるようになられたら、つまらないわ」「本当にね、リルが困るところを見るのが可愛くて、面白いのに」「絶対、当分は区別が付けられないわね」「そうね。でも、そのほうが、あなただって楽しいわよね? リル」「でも、時々、泣いたりするのは気の毒ね」「そうね、でも泣くのも可愛いわ」「それに面白いわね」「私たち、意地悪かしら?」「ちょっと意地悪かもね」
義姉たちのやりとりを聞きながら、リルはふたたび涙をこぼし始める。
(8)
「皆で集まって何しているの?」
天使の羽音をさせて、部屋に降り立ったのはダチェット伯爵夫人アン・マリアだった。
そして、「リル? どうしたの。泣いてるのね」と言って、部屋の隅の椅子で震えている気の毒な義妹に駆け寄った。
リルはアンに飛びついて、泣きじゃくる。泣いている理由など、とても説明出来はしない。
ダチェット伯爵家の双子の方はといえば、さすがにばつが悪そうに、煙草入れから煙草を取り出したりなどしてみせ、双子の妻たちは、悪びれた風もなく肩をすくめる。
ひととおり、リルの背を撫でて宥めてから、アンは顔を上げて振り返ると、まっさきに夫のダチェット伯オーガストを、ひたと睨み付けた。
「アン、誤解だ。僕はなにも……誓って、僕はなにもしていない。本当だ」
とまどいうろたえるオーガストに、双子夫婦たちは、しめしあわせたように、冷たい視線を投げつけた。
「オーガストが泣かせたんだ、義姉さん」「伯爵が、リルをいじめたのよ、アン」
(9)
「……オーガスト?」
アンが氷の声で呼びかける。
「あなたってひとは、いつまでそんな子供じみたことを……そんなにテディとの結婚が気に入らないの? 妹を泣かせて嬉しい?」
「オーガストは、『まだ結婚を認めた訳じゃない』って言ってたよ。義姉さん」
「そうなのよ、アン。もう、リルのドレスだって縫い上がるのにね」
双子たちが、追い打ちをかける。
いま、孤立無援となったのは、ダチェット伯爵だった。
オーガストは、一声呻くと、眉間の皺を、これ以上ないほどに深くし、長い長い溜息をついて俯いた。
(おわり)