シスター・オルランド(1)
(1)
オーガストは、我が目を疑った。否、いま見ているものは幻であってくれと、むしろ、そう望んだ。
ダチェット伯オーガスト・ユースタス・スタンレーは、ロンドンやリバプールでの用向きを、無理やりに短い日程に詰め込み、急ぎ、ダチェットへ駆け戻ってきたところだった。
妻である伯爵夫人アンが、どうしても、急に館を留守にせねばならない事情ができたからだ。
……オーガストは、妹のユージニア・リリアンを、ひとり館に置いておくのが、不安で仕方がなかった。
そして、今。
十日ぶりに目にした妹の姿に、オーガストは驚愕していた。
渦を巻き、長く美しかった妹リルの金髪は、耳元から下が、すべて消えうせていた。
初冬の空気の中、か細く白い首筋が、痛々しいまでに露わになっている。
(2)
「なっ……」
言葉にならないひとことを発し、オーガストのくちびるが戦慄いた。
兄オーガストのあまりの剣幕に、リルの身体は、獅子を前にした獲物めいて凍りつく。
だが、リルはすぐに、オーガストの前から逃げ出そうと、子鹿のように足を踏み出した。
すかさずオーガストが、リルの折れそうな手首を掴む。
「一体……その髪はどうしたのだ?! リル! 何のつもりだ。自分でやったのではあるまいな? なんてみっともないことを」
オーガストの冷酷なほどに整った形のくちびるから、矢継ぎばやに詰問がくりだされた。
リルの身体が小さく震えだす。そして、あまりの兄の癇癪のおそろしさに、とうとう、その場にうずくまってしまった。
蒼い目から大粒の涙が、幾つもこぼれ落ちる。
(3)
……なぜ、リルは、こんな馬鹿げたことを? なぜ僕の問いに応じようともしない?!
オーガストの心は、激しい焦りでじりじりと焼け付いた。
この愛しいちいさな妹は、何が気に入らなくて、こんな真似をするのだ。
あの陽射しを受け虹色に輝く美しい髪を。こんな風に、みすぼらしくも切ってしまう必要など、どこにあると!?
いつもであれば、ダチェット伯の怒りが、ここまで激しくなる前に、聡明なる妻アンが仲裁に飛んでくるはずだった。そして、猛るオーガストの手綱を引き、宥め静める。
だが、今、館に伯爵夫人は不在だ。主を止められる者は、どこにもいはしなかった。
締め上げられる手首の痛みに、リルが声にならない悲鳴を上げる。オーガストはやっと我に返り、指の力を緩めた。
解放した妹の手首。そのミルク色の膚に、青黒く自身の指の痕が残っていることに気付き、オーガストの胸は、罪悪感にきつく締め付けられる。
このときの、リルの手首の痣は、しばらく消えず、そのことは長い間、オーガストの心を苦しめ続けた。
(4)
いつからだろう、こんな風になってしまったのは……。
溜息にして吐き出せるならば、すべての憂鬱を吐き出してしまいたいとでも言わんばかりに、オーガストは、深い吐息を洩らした。
父母が逝った、あの事故の日から、ちいさなリルは、声を失った。
孵ったばかりの雛のようにおしゃべりだった妹は、それきり口をきくことはない。
また、その時から、オーガストの眉間には、まるで消えることのない苦悩の証のように、深い皺が刻み込まれるのが常となった……。
可愛いリル。いつだって名を呼べば、子犬のように飛びついてきた。
抱き上げて触れる、やわらかですべらかな頬。
渦を巻いて輝く金の髪。
蜂蜜のようなミルクのような甘い匂いのするちいさなリルのぬくもりを、いまでもありありと思い出せる。
なのに……なぜ、僕たちは、こんな風になってしまったのだろう。
(5)
……リルが朝食の席へと下りてきたら、なにか明るい話をしてみよう。
そうだ、なにか欲しい物はないだろうか?
月並みだが、新しいドレスなどは、どうだろう?
翌朝オーガストは、そんな気持ちを胸に、タイを結ぶ。
朝食の間へと下り、執事が引いた椅子に掛け、卓についたオーガストは、席の支度がひとつしかなされていないことに気付いた。
察しの良い執事は、主が、傲慢な程に美しい黒曜石の瞳を自らに向ける前に口を開いた。
「リリアンさまは……レディは、ひどくお加減が優れないご様子で。まだお休みでいらっしゃいます」
オーガストが、右眉をぐっと引き上げてみせる。
それは、まさに『気難し屋』という、社交界での彼の通り名に違うことのない表情だった。
執事が続ける。「熱がおありやもしれませぬ。今、ミセス・ターナーが、お側に」
(6)
くちもとへと運びかけたティーカップをソーサーへと戻し、オーガストはおもむろに立ち上がった。
そのまま、館の大階段へと向う。
階上の妹の寝室の前で、オーガストはしばし佇む。
手を伸ばしかけ、わずかにためらう。そしてついに、扉を叩いた。
応じたのは女中頭の声だった。オーガストは戸を開き、中へと入って行った。
「……おはよう、ミセス・ターナー」
声を掛けるべき上級使用人へ挨拶は、主の方から。いかなるときも、オーガストは紳士としての作法を踏み外すことはない。
「嗚呼、おはようございます、旦那様」
ミセス・ターナーの返答は、囁きに近いものではあったが、その声音はひどく張りつめ狼狽していた。リルが体調を崩すと、彼女はいつも、そんな声を出す。
続けて、オーガストに何ごとかを告げようとして、口を開きかけたミセス・ターナーは、眼前の主の瞳が、ひどく物憂げな色をしていることに気付く。
女中頭は、賢明にも口をつぐむと、そっと席を立ち、リルの部屋を後にした。
(7)
リルは眠っている。
頬は薔薇色に染まっていた。触れて確かめなくても、それが熱を出したときの妹の顔色であることなど、オーガストには解りすぎる程に解っていた。
寝台の端に腰掛け、薄紅色の頬に影を作るリルの長い睫毛に、オーガストはそっと口づける。
リルの声は、もう取り戻せないのだろうか……。
ならばせめて、妹の気持ちが知りたい。何を望み、何を悲しんでいるのかを。
いったい、どうすればいい、僕に何ができる……?
オーガストは、眠る妹に頬を寄せた。
なにも変わっていない。どこか子供めいた、この甘い香りも、ちいさく微笑むようなくちもとも。
いま、ここで眠るリルは、何も変わっていないではないか? あの頃と、なにも……。
リルの額に、短くなってしまった巻毛に。
オーガストはキスの雨を降らせ続ける。
僕のちいさなリル……なにがあっても、お前だけは守りたいのに。
(8)
久方ぶりに朝食の席へと姿をみせたダチェット伯爵令嬢の姿に、メイドも執事も、内心の驚きを隠せなかった。
そして執事は、リルの姿を見た主ダチェット伯爵が、一体、どんな反応を示すだろうかと考えると、胃の腑が握りつぶされるような思いだった。
はたして。
リルを見た刹那、オーガストの手にしていたティーカップは、激しく震え始めた。
かろうじて、中の紅茶をこぼさないように持ちこたえてはいたが、彼の息は荒く、すばらしい仕立ての上着の肩は、激しく上下している。
「リル。その服は……その格好は」
こう言ったきり、オーガストは二の句が継げずにいた。
見覚えのないドレスだ。ドレス?
……いや、あれは『ドブネズミ』だ。
オーガストは、心中で毒づく。
リルが身につけているのは、濃い灰色の不格好な服だった。
ドレスの流行に詳しいとはとても言い難い、男のオーガストの目から見てさえ、それは、まるでリルの身体に合っていないシロモノだった。
胸元はひどく窮屈そうで、なのに腰回りは緩いのか、奇妙な皺が寄っている。
(9)
驚き呆れ果てた兄オーガストの視線。
それは苛立ちの棘を帯びていて、リルの心も体も、ずたずたに引き裂いてしまう。
もう、兄は癇癪をおこして怒鳴ることもしないのだと。
そう感じると、リルの気持ちは、ますます挫けた。
けれど、リルには、そのドレスを纏うべき理由があった。リルは、かたく決心していたのだ。
とある目的を果すことを……。
なるほど……?
それほどまでに、僕の与えるものが気に入らないというのか、妹は?
オーガストは、はらわたの煮えくりかえるような思いを、氷の表情の下に押し隠していた。
あんな無様なドレスを着る方が、僕が見立ててやったものを着るよりマシなのだと、そう言いたいのか?
立ち上がり、リルを刺すように見下ろすオーガストの周囲の空気は、いまや、彼の激しい怒りのせいで揺らめいて見えるほどだった。
その怒りの炎に当てられ、とうとうリルの気持ちの糸が、ふっつりとちぎれる。
大きなサファイアの瞳から、いくつもの涙の粒がこぼれ落ちた。それらは静まりかえった朝食の卓の、白いクロスの上に落ちて、ちいさな雨だれの音を奏でる。
「泣けばいいと思っているのだな?」
厭味に満ちみちたひと言でリルにとどめをさすと、オーガストは椅子に掛け、ナプキンをぞんざい広げる。
そして、ごく優雅に、卵にナイフを入れ始めた。
(10)
「心配しないで、オーガスト。あんなに愛らしい良い子が、幸せになれないはずなんてないのよ。だって、私が、こんなに幸せになれたというのだから」
胸元に、そして肘の内側に押し当てられる、やわらかなくちびるの感触を味わいながら、オーガストは最愛の妻の言葉を聴く。
「大丈夫、とにかく私に任せて頂戴」
なにを、任せろというのだ?
シーツの波間の中、オーガストは、月の女神のように神々しい光を放つ妻の膚へと指を滑らせた。
「その方を是非、午後のお茶にご招待してね」
なぜ? どうして、テディ・バートラムを、ここに招待しろと?
そんな、オーガストの疑問は、「そら、その素敵な眉間の皺にキスをさせて」という、妻の囁きで霧散した。
「『気難し屋』ぶりは健在のようだな。オーガスト、その眉間に寄せた皺の原因は、一体なんだい?」キャリッジの中で、テディこと、セオドア・バートラムが訊く。
いつもながら、つい、本心を吐露してしまいたくなるような、そんな率直な朗らかさ。
テディと顔を合せるのは久方ぶりはあったが、オーガストは、つい心中の困りごとを口にしていた。
「頭が痛いのは、その『リル』なんだよ、テディ」
「……続けたまえよ、ダチェット卿」
ああ、これが、奴の手だったに違いない、きっと。
あの時から。僕はテディの手の内に載せられていたのだ。なんと癪に障ることだろう?!
僕は、なにひとつ認め許した憶えなどないのに。
なぜ、いま。
アンと式を挙げたこの場所で、白い大理石の上を歩いたりなどしているのだ?
なぜ、祭壇の前に、あの癪に障る旧友が立っているのか、まるで意味が分からない。
あの男と来たら、またしても顔中を髭だらけにして。
僕の腕に、ちいさな白い蝶のようにとまるリルを、いまから奪い取る気なのだ。
……お願いよオーガスト、その眉間の皺。今日だけはやめて頂戴。
右側から、アンのするどい囁きが飛んできた。
いいや、アン。
たとえ、神が許しても、僕は許すものか、あいつにリルをやるなんて。絶対に。
(おわり)