第二理― <遭遇>彼女が目の前に現れた
たまに人間生きていられるだけで毎日刺激的で衝撃的だという言葉も聞くけれど、実際の日々なんてつまらないと思えることの方が多い。だからこそ何か起こった時は衝撃的と形容するわけだし。
でもこんな衝撃的な一日は後にも先にもこれっきりなんだと思う。
これまで過ごしてきた平穏な日常がうわべだけのものだったなんて、誰も想像しなかっただろうから。
つい十分前のことだ。
アパートのボロい錆びだらけの階段を駆け降り、通学でいつも使っているチャリを雑多に並んだ自転車群から引っ張り出したボクは、既に開始時刻には間に合わないことが決定している補習のために通学路を走らせた。
久遠は嘘を嫌う。行くと言った以上は行かないわけにもいかない。
天気は快晴、二日ほど雨も降っていないから道路も濡れていないから、スピードを出しても危険じゃない。川沿いの並木道を抜け、行きつけのセブンイレブンを曲がって、下り坂に差し掛かった時だった。
(そろそろ始まる頃だ……)
たぶんまたボクが着かないのを心配してそわそわしてるんだろうな。
腕時計に目を遣って、頭の中に浮かんできた久遠の慌てる姿に苦笑したその瞬間――
――曲がり角から道に飛び出してきた人影が視界に映り込んだ。
思わず思考停止し、力いっぱいブレーキを握り込む。
だけど間に合わない。ぶつかるッ!
そう思った交錯の一瞬。
目を、疑った。
美しい金髪を翻した人影、白い洋装の外人少女はこっちに振り向くと、止まりきれなかった僕の自転車の両ハンドルの上に逆立ちするように飛び越え、さながら曲芸のような身のこなしで後輪上部についた荷物置きに飛び乗った。
しかもその一瞬でさりげなくボクのブレーキを握る手を外している。
そして曲がり角を過ぎる瞬間、角の向こうの死角に見えたそれは……。
(えッ……!?)
ありえないものが、見えた……。
再び加速を始めた自転車の制御に集中するようになると、後ろで女の子が腰を下ろしたのを感じ取る。
「追われてるの。助けてくれる?」
流暢な日本語でそう言ってくる。現代日本で聞かない言葉ランキング百位には入りそうな台詞で。
「追われてるって誰にッ」
チャリ制御で手一杯のボクが半分叫ぶような調子でそう訊くと、
「わからないの。でも警察ではないから安心して。たぶん別の組織」
別の、ってその言い方だと別の国家組織みたいに聞こえるんだけど。
ただ、あれが警察じゃないことだけは確かだ。ありがちなあの制服を着ていなかったからとかそんな理由じゃない。
一瞬だけ見えたその人影は身長百四十センチぐらいの女の子で。
いや、それよりも異常なのは、その頭上に掲げられたものだ。
一瞬でも誰にでも識別できる特殊な鋭い形状は――鎌。
刃渡り一・五メートルはあろうかという大鎌だった……間違いなく。
坂を下りきると、上り坂になっている学校へ向かう道を諦め、さらに緩い傾斜を下る方にチャリを回す。
坂の上に見える行空高校の校舎。
今もボクを待っているだろう久遠に、心の中で謝りながら――。
海岸沿いの大通りまで一息に下ったボクたちは、見晴らしのいい海浜公園でようやく自転車を止めて、向かい合った。
「ボクは大鳥瑞端」
自販機で買ったスポーツドリンクを一口含んでとりあえず名乗ってみる。何故か目を丸くして驚いた様子の女の子は、プシュッと缶のプルタブを上げて、
「私はクレア……クレア=理=ディストルツィオーネ」
そう言って一口飲んだ。
改めて名前を交わした少女、クレアをつい観察してしまう。まず頭に浮かんだ感想は、奇しくも『可愛い』だった。次に連なるのは、溢れる気品と言えばいいのだろうか。
どうも薄絹らしい純白のワンピースに身を包み、足は高そうなミュール。
これで白のつば広帽子があれば、高地の避暑地に来たいいとこのお嬢様のイメージそのまんまだな。
身長は百五十センチぐらいだろうか。
細くたおやかな手足はすらりと長いモデル体型だ。その長い金髪は肩を過ぎてウェスト辺りまで伸びている。シャープな印象の切れ長の目尻、長い睫毛。スッと通った鼻スジ、桜の花びらのような唇、陶磁器のような白く透明感のある玉の肌。
そして紅綱玉のように赤い……瞳。
まるで作り物みたいだ、とさえ思える圧倒的な美少女だった。ボクに見られていることに気づいたのか、クレアは少し頬を赤らめてコホンとたしなめるような咳払いをした。
「っと、ごめん。つい……」
――見蕩れてしまった、と続けることに気恥ずかしさを感じてしまう。改めて意識するとまっすぐ目を見ることができそうになかった。
「それで君は何なの? どうして追われるか、その理由に心当たりはないの?」
少し前に見た外国のサスペンスドラマの台詞を思い出しつつ、その場の空気をごまかすようにそう切り出すと、
「私が“何”か……!?」
なんということもない台詞のはずなのに、クレアは再び目を丸くして息を呑んだ。人に対して『何』は失礼だったかな、と思っていると、クレアは少し上を見上げ、
「ミズハは何歳なの?」
質問に質問で返すのは反則。脈絡もないし、名前教えた途端呼び捨てにしてるし。
「生まれてから十七年」
こっちの質問に答えなかったから、少しズレた言い方で返してしまった。しかしクレアは特に気にする様子も見せずにボクをまじまじと見てくると、
「日本にはティーンズの公的機関はないって聞いてたけど、十七で“こっち”のことを知ってる人間もそれなりにいるんじゃない♪ まさかこんなに早く会えるとは思ってなかったケド」
何故かやたら嬉しそうに意味不明の台詞を返してくる。日本語にも関わらず会話にならない苛立ちが顔に出たのか、クレアはコホンと今度は自重を表明するような咳払いをして、
「私は呪役者よ。確か日本では英国式に受呪者と呼ぶのでしょう?」
マレディツィオーネ? カースド? 何を言ってるんだろう、この人は。
「私は無所属だけれど、あなたは何処に所属しているの? やっぱり非公式の公的組織? それとも英国式に受呪救済会の方かしら? あるいは――」
「待った待ったっ!」
矢継ぎ早に質問を重ねてくるクレアに手のひらを突き出して、さらに続けようとする言葉を止める。
「どうかしたの?」
不思議そうに首を傾げるクレア。
しかしすぐに誇らしげな顔になり、一人勝手に何かを納得してうんうんと頷いた。
「そういえば日本では公の場で話しちゃいけないんだったわね。こういうの何て言うのだったかしら? 日本語と日本文化を勉強するためにLiteNovelって呼ばれてる書籍を読み込んできたのよ。イタリアで会った親切な日本人に教えてもらったの。彼は『日本文化と言えばコミックとアニメーション、それとライトノベルだネ! アレはソーグッド! 欠かせないヨ』と口ぐせのように言っていたわね」
とりあえずツッコミどころが満載だけど、少なくともソイツが日本人じゃないことだけは確かだと思う。目をキラキラと輝かせてラノベから得た(どこか間違った)知識をうっとりと語り始める外人美少女。
すさまじくシュールな光景だった。
「日本は美少女が多いのよね? 資料に出てくる女の子はほとんど美少女だって書いてあったの。さっき会ったあの娘もとても愛らしい姿をしていたけれど、いきなり凶器を向けられるとは思わなかったわ。さすが日本ね。来日して半日もしない内から“こっち”側の存在と遭遇するなんて。こういうの東洋の神秘って言うのでしょう?」
この人の頭の中の日本像について、興味本位に色々問い質してみたいくらい面白い認識をお持ちのようだけど、そんなことよりもボクが気にするべきは――曰く、あの娘。
銃刀法違反どころでは済まないあの危険人物、大鎌を持ったあの少女を。