とにかく、逃げましょう。
階段を降りるときに気がつきました。
あ、ゴミを持って降りるんだった。
「王妃様、申し訳ありません。 忘れ物しました。
ちょっとだけ待っててください。 すぐ戻りますから。」
王妃様に一言ことわって、ミニランプを王妃様に渡し、
すぐに部屋の取って返した。
部屋の中は、蝋燭の火を落としてしまったので、かなり暗い。
けれども、ゴミの箱は、出入り口付近に置いてあったので
見つけるのはかなり容易い。
ゴミと枯れた花が入った木箱をえいさっと持ち上げました。
一抱えの枯れた花に埃にゴミ。
木箱の中身は、水気もあり、結構ずっしりと重いです。
こんな時は、強化ビニール袋の存在があればと思わずにいられない。
軽いはずの木箱の重みすら、負担に感じてしまいます。
お腹をいささか突き出した感じで、ぐっと箱を両手でもって
よたよたと階段を降りていこうとしたら、問題がありました。
この箱のせいで、足元の階段が見えないのです。
落ちないように、転ばないように、
慎重に一歩一歩、降りていくうちに、腕が、手がしびれてきました。
今日は、なんだか、力仕事を随分している気がします。
明日は、筋肉痛に苦しむことになるのでしょう。
このままいくと、私は、筋肉マッチョへの道まっしぐらかもしれません。
体力がつくのはいいのですが、乙女として、そこは回避したいです。
******
マリアは、いきなり引き返したメイを、ちょっとあきれた顔で見ていた。
慌てて戻る後姿に、思わず小さな苦笑がもれた。
忘れ物をしたからといって、王妃をその場で放りっぱなしで戻る態度、
先程までの会話といい、さっぱり侍女らしくない。
自分は王妃なのに、その身分に遠慮する感じは、かけらも見当たらない。
けれども、不思議と不快な思いをしては、なかった。
本当に、久しぶりに感情を高ぶらせたことも起因しているのかもしれないが、
あの子との会話の後、心地よい風が心に吹いていることに気がついた。
なにかが、いつもと違っていた。
その違いに一種の爽快感すら覚える。
この感覚は、なんだろう。
久しく感じたことの無い気持ちよさに、目をそっと閉じる。
マリアの本当の心の重みが軽くなったわけではない。
今も、何も変わっているわけではない。
けれども、かすかな光が当てられ、休息の息をついた気がしたのだ。
そうして、上から大きな箱をもって、ゆっくりと降りてくるメイの姿に、
マリアは、作った笑いではなく、自然な笑みを浮かべていた。
******
「すいません。お待たせいたしました。」
待っていてくれた王妃様に一声お礼を言って、
再度、2人で階段を降りていく。
王妃様を先頭に、階段を半ば過ぎた頃に、下から、なにやら声が聞こえました。
この塔近辺で話した声が、この塔の中で反響しているのでしょうか。
ですが、なんだか、どかどかと大人数の足音もします。
「王妃様、止まって下さい。」
王妃様は、私の言葉にぴたっと足を止めてくれた。
「誰かが来るようです。」
「そのようですね。私に緊急の用でもあるのでしょう。」
王妃様は、首を軽く傾げただけで、下の階段方面に目を向けた。
王妃様の言葉に、私は首ごと頭をひねる。
この塔に立ち入ることが出来るのは、侍女と王妃様だけだって。
それなのに、どさどさといろんな人を連れてくるなんて、おかしくないですか?
「ネイシスさんとローラさんかしら。
でも、大人数の足音のように聞こえますが。」
この塔には、紫がいる。
ネイシスさんがそんな大人数を連れてくるだろうか。
訳がわからないまま、首をううーんとひねっていると、
下から階段を上がってくる人が見えた。
「これは、王妃様。 お帰りが遅いので何かあったかと、心配いたしました。」
下から上がってくる人達の、一番先頭を歩いていたのは、
以外に体格のいい年配の侍従長さん。
顔は、絶妙に割れ顎が長い長方形。
お髭がちょび髭なのが、顔型に余り似合ってません。
チャップリンみたいに、可愛く小さいなら似合ってるのに。
誰も、似合ってないよって教えてくれる人がいなかったんでしょうか。
あ、侍従長のひげ論議をしたいのではないのですよ。
そうですね、王妃様を心配して迎えに来たんですね。
なるほど、お話が長くなりましたからね。
ていうか、長くなったのは、話し込んだ私のせいですよね。
ここで、正直にいうと、怒られるでしょうか。
「そうですか。
祈ることに夢中で時間を忘れたようです。
心配をかけました。 今、戻るところです。
さあ、行きましょう。」
ナイス言い訳です、王妃様。
これなら、怒られません。
ありがとうございます。
王妃様は、いつもの話し方で、左の服の裾を左手でそっと掴んだ。
そして、じっと視線を侍従長さんに向けた。
これは、先に階段を降りろということではないでしょうか。
私にでもわかる、空気読め状態にもかかわらず、侍従長さんは、
先程から浮かべていた、にこにことした完璧スマイルのままで、
道をどけようとも、先に降りようともしない。
王妃様は、軽く首をかしげ、侍従長の名前を呼んだ。
「シグルド、どうかしたのですか?」
おう、侍従長さん、そんな名前だったんですね。
「いいえ、どうかされるのは、貴方ですよ、王妃様。
そして、後ろのお前だ。」
にこにこ笑っている顔と、言っている言葉がちぐはぐです。
如いて言うなら、お面のように貼り付けた笑顔が、気持ち悪いです。
「それは、どういうことですか?」
「大人しく、我々に従ってください。
そうすれば、命までは取りません。」
その言葉を最後に、侍従長さんの背後から、いきなり体格のいい男の人達が
縄を両手に、階段を上がってきた。
はい?
何故に縄が必要なんでしょうか?
というか、いきなり私をお前呼ばわりですか。
それに、なんだか、後から来る人達、顔が歪んでますよ。
それじゃあ、まるっきり悪人顔です。
(メイ、呆けてないで、早く逃げるのよ。)
は、そうでした。
よくわかりませんが、ここは、逃げるが勝ちです。
にこにこ悪人顔の侍従長さんや、歪んだ顔の皆様には、
近づいてはいけない気が、ひしひしとします。
下が駄目なら、いけるのは上のみです。
「王妃様、早く上に。 逃げますよ。」
王妃様の横に降りて、上がってくる人達に、持って降りていた木箱を
えいやっと投げつけました。
埃とゴミと枯れたお花の水気入りです。
後で掃除が大変だと思いますが、今はこれしか投げるものが無いのです。
先頭の男の人の鼻に、箱の底がクリーンヒットしたみたいで、
ぶっ と、豚みたいな声が聞こえましたが、そんなのを気にしている場合ではありません。
王妃様の手を握って、急いで上に駆け上がります。
息を止めて、階段を上に上にと進みます。
思いもかけないことで、慌てていたのでしょう。
王妃様の足がもつれました。
その拍子に、王妃様の持っていた鍵が、階段に落ちました。
王妃様は、その鍵を拾い上げようとしましたが、それをしている暇はありません。
鍵は私が持ってますから、問題ないでしょう。
そのまま、王妃様の手を握ったまま、一気に駆け上がります。
そうして、扉に飛びつくようにたどり着き、
ポケットの鍵をガチャガチャと探り、鍵穴に差し込む。
「王妃様、お逃げになっても、逃げ場など、どこにもないのですよ。
そのことは、貴方が一番ご存知のはずですよ。」
下から、侍従長の浪々とした声が響きます。
その声に、背筋が寒くなり、額に冷汗がつうっと流れました。
早く早く早く。
開けて開けて開けて。
頭の中には、それだけがぐるぐる回ります。
鍵を回して押して、引く。
そして、開いたドアに、王妃様の背中を押して、部屋の中へ。
私も入り、鍵をかけます。
ギィーガチャリ。
その音が、下からの侍従長の笑い声と重なりました。
「くっくっくっ。
無駄だということは解っているだろうに、悪足掻きを。
こちらには、予備の鍵もある。
そして、今、落として行った鍵もね。」
扉を背に、息を止めたままだった、私の心臓は、ばくばくと大きな音を立て、
それに押されるように、息を大きく盛大に吐いた。
酸欠で、目の前が白くなってきたが、首を振って白を追いやる。
ぜはぜはと息を切らせながら、今の侍従長の言葉が頭の中でこだまする。
どうしよう、どうしたらいい。
侍従長は鍵を持ってる。
ここに入ってくるのは容易いというか、すぐに入ってくる。
きょろきょろと、今日一日で見慣れた、塔の内部を見渡した。
塔の内部は蝋燭の光もなく、月の光はまだわずかにしか差し込んでいない。
部屋の内部の判別できないほど暗いが、今日一日の掃除経験で、
どこに何かあるかぐらいは、頭の中に入ってる。
あるのは、掃除道具が満載のロッカーと拝殿や、机や椅子くらい。
とりあえず、あのロッカーを扉の前に移動させよう。
つっかえ棒の替りの障害くらいにはなるかもしれない。
同じく肩で息をしている王妃様を置いて、ロッカーを扉の前に移動させるべく、
ロッカーの横に立ち、その横側を押した。
掃除道具が満載された木のロッカーは、見た目どうり、どっしりしてかなり重い。
照、お願い、一緒に押して。
これ、重たい。
(解ってる)
ずずずと床を引きずるように、入り口付近のロッカーが動きます。
ですが、男達の方が、いささか早いようです。
これは、もしかして、間に合わないでしょうか。
心の底から焦ってますが、火事場の馬鹿力は発揮されてません。
どうして、こんな時に、出ないんでしょうか。
「うぬぬぬ。」
思いっきり力を入れますが、遅々としてしか進みません。
そうしたら、いきなりロッカーの進む速さが倍速しました。
私の背後に王妃様がたって、一緒に押してくれてます。
ずささっとロッカーがたちまち、扉の前に移動しました。
やっぱり、二人より三人です。
間一髪で、侍従長の扉がゆっくりと開きました。
どうやら、侍従長はあの扉の仕組みをしらないようで、
私と同じく開けるのに苦心したらしいです。
「なんだ、これは。
くそ、おいお前ら、これをよけろ。
早くしろ。」
侍従長の苛立ちを含んだ声が、ロッカーの背中から聞こえました。
助かったと思ったのは、やはり一瞬です。
どうしよう、さっきみたいに物をぶつけようにも、
この塔の部屋にはあまり物がないんです。
唯一物が満載しているロッカーをどけられたら、本当に頭打ちです。
ばくばくと音をたてる心臓の音が、自分でも驚くほど耳障りです。
自分の呼吸音が、やけに耳に大きく聞こえます。
それでも、あがく為に投げるものを探そうと、拝殿に近づいたら、
拝殿の奥の紫の部屋への仕掛けが、いきなり開きました。
紫の銀の髪が、持っていた小さなランプでキラキラと光ってます。
私たちの様子をみていた紫が、手招きしてました。
悩んでいる暇など全然ありません。
思いっきり息を吸い込んで、
王妃様の手を引っつかみ、穴の中に急いで飛び込みます。
紫は、床の石を踏みつけ、壁の穴がするっと閉じました。
そのまま、狭い石段を王妃様の手を引いたまま、上へ、紫の部屋へと上がっていきました。
紫の部屋の狭い入り口をくぐった時。
ドガン、ドサ、カラカラ。
何かが、突き破るような大きな音がして、掃除道具が転がる音がしました。
侍従長たちが、ロッカーの壁を排除して、部屋に入ってきたようです。
「ふん。 手間取らせやがって。
隠れていても、この狭さだ。
すぐに見つかるさ。
おい、お前ら、壁の蝋燭に火をつけろ。
真っ暗でよくみえないだろうが。」
真上から、両手で口を覆うようにして、弾む息を殺しながら、下の様子を探ります。
程なくして、蝋燭の明かりが灯り、下の様子が、ほんのりとした光りで
見えてきました。
塔の中にいる人数は、全部で5人。
侍従長と、侍従のお仕着せをきた若い人、鼻を押さえている男の人、
あとは、着くずした警邏の制服を着た、頭皮の薄い禿げかけた男の人が二人。
彼らが、蝋燭の火を頼りに、部屋を、きょろきょろと見回し、
私達の姿が無いことに、どうやら憤りを感じているみたいで、椅子に八つ当たりしてました。
ガタン。 ゴツッ。
拝殿の、いつも王妃様が膝を乗せている椅子が蹴り飛ばされて、
転がってます。
「くそ、どこに隠れたんだ。
王妃を見つけて、アデルが言っていた王妃の秘密とやらを盾に
王に裁判の失効化を迫るしか、もう方法がないんですよ。
裁判が刑を執行したら、俺達は必ず、この国を追われる。
そんなこと、認められるはずが無い。 俺達には後がないんだ。
どこかに必ず隠れているはず、探せ。」
暗がりの中、すぐには、ここは見つからないとはいえ、
拝殿の下を探れば、取っ手が見つかることは、解っていた。
このまま、手をこまねいて見ていたって状況は最悪になるだけだ。
紫が木の床部分を通って、漆喰の壁に作られた窪みにランプを置いて、光を緩めた。
なんとか顔が、お互い判別できるだけの薄灯り。
きょろきょろとあたりを見渡したけど、見えるのは、斜めになった天井の天窓だけ。
天窓には、月の光が当たっても薄っすらとしか光が通らない
真っ白な分厚いカーテンが、貼り付けられたように掛かっている。
あの天窓、確か、開くのよね。
最初に紫に会ったとき、紫はあの天窓の上に座ってた。
あそこから、皆で逃げられないだろうか。
それか、なんとか外に助けを求めることは出来ないだろうか。
小声で、紫に話しかける。
「ねえ、紫、あの天窓は開くのよね。」
紫も小声で答えてくれた。
「ああ。 でも、今、開けるのは、駄目だよ。」
「どうして?」
「月の光が、あの窓から、差し込んでしまう。
そうすれば、下から月の光が見えて、ここに部屋があることを
やつらが感づいてしまう。」
上を見上げると、月の光は、ぴったりと張り付いたカーテンに当たって、
細い光がカーテンの陰から、すでにもれている。
「奴等が、この塔の仕組みに気づかないように、祈るしかない。」
祈る?祈るだけなの。
誰に?
「馬鹿ね、紫。 祈るって誰に祈るのよ。
未来は、もがいて、あがいた人間のみが変えられるのよ。
諦めたら、そこで終わりなのよ。」
でも、光が当たって見つかっては、私が助けを呼んでいる間に
この部屋が、見つかってしまう。
王妃様や紫が見つかったら、やつ等の企みは成功してしまう。
「光の差し込む位置に月があるのは、何時まででしょうか。」
王妃様が、小さな声で紫に聞いてきた。
いきなり話しかけてきた王妃に、紫は些かびっくりしながらも、小さな声で答えた。
「あれは、北東に向いている窓なんだ。
あと、一時間もすると、月の向きは、中天に向かって移動する。
そうしたら、下の窓にも月の光が強く差し込み、壁に反射して、ここは見えない。
その時なら、天窓を開けられる。」
王妃様は、深く頷いて、私に言いました。
「あと一時間、ここで待ちましょう。
もし、それまでに間に合わなければ、私がやつらに捕まればいいだけのこと。
手荒なことはしないと言ってましたし、
あの様子ならば、すぐには殺されないでしょう。」
王妃様は、そっとベールを頭から外し、ふうっと小さなため息をついた。
「何、言ってるんですか。
王妃様、奴等は裁判を辞めさせるために、王妃様の秘密を知って、
それを盾に脅そうって考えているんですよ。
そんな奴等の言うことなんか、信じちゃいけません」
「そうだね。
秘密が、消えれば、脅す材料は無くなるよね。」
紫も、いきなり、何を言ってるんですか。
「紫、馬鹿なことを言わないように。
紫が死んでも、裁判は無くならない。
無駄死には、絶対駄目だからね。もったいないでしょ。
あの窓に上がるためのロープとか、あるんでしょ。出して。
月が移動したら、私があの窓から、顔を出すわ。
そして、塔から何とか降りられるか試してみる。」
「駄目だよ。
外に降りられるほど長いロープは無いんだ。」
紫の顔は、悲しそうに歪められた。
だから、逃げられないのだと言うかのように。
うん。
無ければ、作るだけだ。
「紫、後で弁償するから、このシーツとか毛布とかもらってもいい?」
ベッドの上に掛かっているシーツを引っ張りました。
「いいけど、それを使うの?
古いものだから、途中で切れるかもよ。」
「でも、切れないかもしれない。
だから、王妃様、紫、手伝って。
細く切ったのを結わいて、しっかりと結ぶの。」
船で、航海途中、何度もロープの修復作業を手伝った。
その際、麻の繊維と椰子の繊維を叩いて一緒に結わいて、ロープにしたものを
幾つも皆で作った。
紫のベッドカバーの布地は、使い込まれて柔らかくなっていたけど麻繊維。
麻は濡らせば、強くなり膨らむ。
何とかなるかも知れない。
紫が、鋏と予備のシーツも持ってきてくれたので、
私は、黙ってベッドシーツを切っていった。
毛布も同じような要領で、細く切る。
4つ編みの要領で、毛布と麻を交互に動かし編みこんでいく。
見本に一つ作って、紫と王妃様に同じように作ってくれるように頼んだ。
床下で、がらがらと何かが倒れて壊れる音がした。
やつ等は、かなり焦っている。
急がないと、もし見つかったら、紫も王妃様も私も、一巻の終わりだ。
3人で黙々と手を動かしていた。
その時、ドオンっと言う大きな音がして、
塔全体が大きく揺れた。




