警邏の医務室にて
「メイは、寝たようだな」
レヴィウスの胸でいきなり、縋り付くように泣き出した。
セランは、メイの突然の様子の変化に、ただびっくりしていた。
緊張の糸が、切れたのだろう。
さっきまで、真っ青な顔で、
気丈に振舞っていたのが嘘のようだ。
セランは、レヴィウスに抱きかかえられたまま、
眠りに落ちたメイの顔をじっと見つめた。
昨日、あれほど、皆に注意されたにも限らず、
また、変なものに巻き込まれたメイを、
父親として、懲らしめようと意気込んでいたのに、
あの様子をみて、何も言えなくなった。
まあ、事情は後から聞くとするか。
軽く苦笑しながら、小さなため息をついた。
ドアが軽くノックされ、カースがいささか早足で入ってきた。
カースは、警邏に、
メイをつれて帰るための書類を出してきたのだ。
「許可が下りました。
今日は、連れて帰ってもいいそうです」
カースは、そう報告しながら、レヴィウスの腕の中で、
おとなしく寝息をたてている、メイの側へと足を急がせる。
「涙の跡が。
泣いたんですね」
顔をみながら、カースはメイの頬の
涙の跡を、指でそっとぬぐっていった。
今、俺達三人の中心にいるメイ。
いつもよりも、数段顔色が悪い。
人形のように白い顔の、メイの様子がただ気に掛かった。
ふと、だらりと力なく降りていたメイの右手が目に入った。
真っ赤な、ところどころにむらがある、
幅の短い布が、ぐるぐるに巻きついていた。
頭に、ガンっと衝撃を受けたような気がした。
俺は、医者なのに、なんで気がつかない。
気が動転していたせいか、すこし大きな声になった。
「おい、レヴィウス、メイをそこのベットに乗せろ。
その右手の怪我を見たい」
メイの顔を見ていたレヴィウスは、セランの言葉通りに、
ベットの上に、静かにメイを降ろした。
靴を脱がせ、袖をまくる。
現れた足首と手首に息を呑む。
メイが、痛みを訴えないから、いままで気がつかなかった。
メイの両手首に、両足首に、
酷く縄のこすれた跡がくっきりとついていた。
そして、縄目の跡と一緒に残る、破れた皮膚と血の跡。
右手の手のひらに、巻かれた布をはがす時にも、再度息を呑んだ。
血が中途半端に乾き、張り付き、それが何度も繰り返されたと
推測される包帯代わりの布は、
はがすとまだ、じっとりと血が染み出しているのがわかった。
傷口は鈍い刃物のようなもので、深く切り刻まれていた。
一度や二度の切り口ではこんな風にならない。
メイの靴を床に落としたとき、何かがカランと音を立てた。
眉を顰めると、カースが、
その靴底から血の付いた木のナイフを見つけた。
おそらく、メイは逃げ出すために、
このナイフで、自分の手を切りつけたのだろう。
その様子を想像するだけで、奥歯がぎりぎりと音を立てる。
「どうだ、セラン」
声を掛けられて、我に返る。
レヴィウスが、俺の様子をみながら、じっと俺の返答を待っていた。
「これは、酷い。 おそらく結構な量の出血があったはずだ。
顔色が悪いのも、意識を失ったのも、そのせいだな」
カースは、手に持った木のナイフの柄を、
ぐっと握り締めながら顔をゆがめた。
「治るのですか?」
カースの答えに、首を振る。
「わからん。
傷口を今から縫うが、跡は残るだろうな」
そう言いながら、手のひらの消毒と傷口の深さを調べる。
神経が切れていたら、指が動かなくなる。
メイは、手先の細やかな作業を得意としていた。
その作業を、その結果を褒められると、
太陽が輝くような明るい笑顔を見せる。
あれが、失われるかもしれない。
それは、俺にとっても、受け入れがたい未来だ。
軽く消毒液をかけ、
手のひらの出血を止めるため、止血の粉薬を塗りこむ。
血で、白い粉がピンクにじわっと染まっていく。
粉薬が固まりかけたところで、それを取り除き、
まだ出血している大きな血管の周りに、
粉薬を練ってクリーム状にしたものを塗りこんだ。
しばらくすると、血管の出血が止まった。
そのまま、皮膚縫合に掛かる。
めくれた皮膚の端と端とゆっくりと合わせて、
パズルのピースを繋げるように、針で縫い合わせていった。
メイの意識はないが、痛みはあるのだろう。
時折、腕が肩が足が、作業中に軽く跳ねる。
カースとレヴィウスに体と腕を支えられながら、
治療を終えた。
「これで、後は様子見だ。
明日、メイの目が覚めたら、
もっと状態がわかるだろう」
手を洗い、さらに目に付いた、あちこちに出来ている
擦り傷や軽い切り傷に軟膏を塗りつける。
「こんな傷だらけになって、怒るに怒れないでしょう」
カースは、小さな声でつぶやきながら、メイの頬を撫でていた。
その顔は何時になく寂しそうだった。
こんなカースの顔を、いままで見たことは無かった。
置いていかれた子供のような顔をしていた。
「そうだな。 家につれて帰ろう。
家のベットで、寝かせてやりたい」
側の椅子から立ち上がったレヴィウスが、すっとメイの体を抱き上げた。
レヴィウスは、愛しい存在をその目に焼き付けるように何度も瞬き、
抱き上げたメイをじっと見つめていた。
こんなレヴィウスの顔も、長年付き合ってきたが初めてだった。
その眼差しや、表情に、
じんっと心に染み入るような静かな優しさを感じていた。
おい、メイ。
お前は、こんなにも、俺達に愛されているんだぞ。
あんまり心配かけるなと、大きな声で、耳元で、
起きたら言ってやろうと決意した。
レヴィウスは、ぐっと、その体を胸に抱き寄せ、
自身の顎を突き出すようにして、体を反転させ、戸口に向かって歩き出した。
「帰るぞ、カース」
俺は、三人の後姿が見えなくなっても、その残像を目で追うように、
戸口をぼうっと見つめていた。
その時ばかりは、俺は、神様がいるのならばメイにと、
願いをかけたい気分になっていた。
医務室を、三人が出て直ぐに、オーロフがやってきた。
「先生、遅くまですいません。
犯人の男の様子も見てもらいたいんですが、いいですかね」
本音を言うと、やなこったと言ってやりたいが、
医者の本分を建前に出されると、ぐうの音もでない。
「ああ、連れてきてくれ」
軽く言い捨てるように、息を吐きながら言うと、
オーロフは、その顔をゆがめて言い澱んだ。
「あー、先生。 別室でお願いするのでもいいかな」
その返答に眉を寄せる。
「生きてるんだが、正直、普通に触れないんですよ」
オーロフは、肩を軽くあげ首をかくかくと鳴らした。
「落雷が直撃した人間ってものに、出会ったのは初めてでしてね」
その言葉に納得した。
セラン自身は、船にいる間に、
何度か、雷に感電した人間を見たことがあった。
船の上では、逃げ場は無いに等しい。
だから、マストに落ちた落雷で、
感電した船員を2度見たことがあった。
直撃ではなかったが、一様に、体に帯電して、
触れるとこちらが感電することがあった。
「雨は、まだ降っているのか?」
この部屋には窓がなく、外の様子がさっぱりわからない。
「いや、もう止んでいる」
オーロフは、左手を左右に振った。
「そうか、ならばそいつは、地面に転がして放電させろ。
それが一番手っ取り早い」
雨でぬかるんでいるだろうが、そんなことは俺には関係ない。
俺の娘をあんな目に合わせた奴に、哀れみなどもってのほかだ。
「わかった。どのくらい転がしておけばいいんだ」
オーロフの目は、俺の言葉の意図を読み込んだみたいで、
的確に次の指示を聞いてくる。
「程度によるが、30分ってとこだな。
放電しつくすと、今、逆立っている髪の毛や体毛が落ち着く。
それで、わかるはずだ」
「わかった、それが終わったら呼びにくる。
それまで、後ろの患者の世話をよろしく頼む、先生」
そういうと、直ぐにきびすを返して部屋から出て行った。
放電がすまないと、危なくて触ることも出来ない。
本当にやっかいな患者だ。
ちっと舌打ちをした。
それから、オーロフに頼まれた、後ろの患者の2人に目をやった。
チェットとリリーだ。
正直、彼らは気絶しているだけなので、
手当てらしい手当ては要らないだろう。
まあ、チェットの顔の様子は、軟膏を塗ってやっても良いが、
起きてからでも、問題ない状態だ。
「すぐ近くで落雷にあったっていうのに、こんなに軽症ですむなんて、
幸運がよくもまあ、降ってわいたものだ」
メイの説明では、落雷の直撃を受けた男からは、
1mぐらいしか離れてなかったらしい。
そのうえ、どしゃぶりの大雨。
雨水は、雷の影響を広げやすい。
以前に見た船員達は、全て、床に溜まった雨水を伝って感電し、
体の機能をかなり損傷していた。
穏やかな顔で、寝ている彼らの様子に、
ほっと息をついた。
メイが、あれだけ気にしていたのだ。
傷が浅くて、よかったというべきだろうな。
2人の顔を見ていたら、チェットの目がうっすらと開いた。
しばらくぼうっとしていたが、何度か瞬きを繰り返して、
目の焦点をあわせていった。
それを待ってから、声を掛けた。
「おい、チェット。俺がわかるか」
チェットの目を覗き込む。
「きちんと返事をしろ。状態をきちんと把握したい」
チェットの目の光が、強い視線を返してくる。
ああ、これなら、大丈夫だ。
「セラン先生。俺は問題ない。大丈夫だ。
どこもなんともない。それよりも、リリー、リリーは?」
隣のベットに寝ているリリーに目をむけ、必死な形相で聞いてきた。
こいつとは、何度かあったことも話したこともあるが、
こんな風に真剣な態度での対応は初めてだった。
「ああ、問題ない。意識を失っているだけだ。
直に目が覚めるだろう」
チェットは、俺の返事にほっとした顔を見せた。
その表情にもかなりの戸惑いを覚える。
「そう、良かった」
ベットをゆっくりと降り、リリーの側に座り、
その手を握り締めた。
そして、その目はじっとリリーを見つめていた。
いままでのチェットと明らかに違った。
「お前、変わったな」
ぼそっとつい感想を口にした。
その言葉に、ゆっくりとこちらを向いたチェットは、
苦笑し、驚くことを告げた。
「俺は、もう嘘をつかないって決めたんだ」
その表情は、淡々としていながらも、神々しく、
どこかの聖者の銅像のようだった。
「口を開けば嘘をつくお前が、嘘をつかないって、
随分の変化だな。 当然、いい変化だがな」
その表情にも、言い放つ言葉にも好感が持てる。
こんなチェットは、まさに別人のようだった。
「もう必要ないからね。
俺は、やり直すって決めたんだ」
言いながらリリーの手をぎゅっと握り締めていた。
「リリーの為か」
チェットは軽く、首を振る。
「いいや、俺の為だよ。 教えてもらったんだ。
まだ、俺は間に合うって。
今からでも、やり直せるって。
だから、嘘はもういらないんだ」
強く何かを信じる想いが、溢れてくるような視線に、
思わずたじろぐ。
「そうか。お前の本気を理解したよ。
お前がその気なら、出来るだけ俺も力になろう」
気がついたら、口から応援する言葉が出ていた。
「ありがとう。先生。
もし、どうしようもなくて、
力を借りたいときは、お願いします」
気持ちよい返しの言葉。
これからを期待させる。
それが、楽しみになりそうだ。
うっすらとリリーの目が開き、
チェットが握るリリーの手に、力が少しずつ加えられていく。
それに気がついたチェットが、リリーの側で声がかけた。
「リリー、気がついた? どこか痛む?」
リリーの目が、先ほどのチェットと同じく瞬きを繰り返す。
たが、リリーはチェットの顔を見つめたまま動かない。
完全に2人の世界だ。
「おい、リリー。
どこか痛むのか。返事をしろ。
患者の状態をきちんと把握しなきゃならん」
俺の言葉で、やっと俺が側にいる事に気がついたみたいで、
リリーの頬が、少し赤くなった。
「はい。先生。 私は大丈夫です」
か細い声で、ちょっと目線を横にずらしながらリリーは答えた。
「先生、リリーは足に怪我をしているはずです。
そちらも見ていただけませんか」
チェットが、リリーの横に座って、肩を抱きながら、
ゆっくりと抱き起こした。
「足? 見せてみろ」
靴をゆっくりと脱がせて、状態を見る。
片足の甲と足首が酷く腫れていた。
骨折はしてないようだが、足首の捻挫と
足の甲の部分の骨にヒビが入っているんだろう。
「手当てはしてあるみたいだが、固定したほうがいいな。
今から薬を塗りなおして、さらしと包帯で巻きつける。
しばらくそのままでいろ」
解熱作用がある軟膏を塗りつけ、
さらしを細く切り、包帯の上にさらしを巻きつけて、
解けないように硬く結んだ。
その手当てが終わっても、リリーとチェットは
お互いに見つめ合ったままだった。
どこか緊張感の漂う様子の2人の世界に、
気を利かせることにしようと口をはさんだ。
「今から他の患者を診てくる。
その間、しっかり話し合え」
治療道具一式を手早く籠に放りこみ、部屋を後にした。
気が進まないが、犯人の男の様子を見に行ってこよう。
セランが出て行き戸が閉まると、チェットは待ちきれないように、
リリーに向かって話を始めた。
「リリー、聞いてくれ。
俺は、変わろうと思う」
リリーの側で、その薄い灰色の目を見つめながら、言葉を選んでいく。
「今更と怒るのも理解している。
リリーが俺と別れる決心をしたのも承知している。
でも、言わせてくれ」
どうか、この言葉が、リリーに届いて欲しい。
そんな気持ちを込めながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「今まで、すまなかった。
俺は、君に甘えていたんだ。
君だけは、俺を見捨てないと。
随分、傲慢な考えだった」
口の中が、乾いてきて、喉の奥に唾液を送り込むために、
ごくりと音をたてて、つばを飲み込む。
「取り返しがつかなくなってから、気がつく俺は
本当に馬鹿だ。
でも、君に、どうしても知っておいてもらいたい」
真っ直ぐなリリーの視線には、なんの感情も見られない。
その反応に、すこしたじろぐが、
奥歯をぐっとかみ締め、リリーを見つめ返す。
「俺は、君を愛してる。
ずっと側にいてほしいのは君だけだ、リリー」
リリーの表情は人形のように、固まったままだ。
「これから、真っ当に働いて、生きていこうと決めた。
苦労は、かけないとはいえない。だから、引き止められない。
君の人生を、未来を縛るつもりはないんだ。
だけど、たとえ、これから俺達が別れたとしても、
俺が君を愛していて、これからの未来を一緒に歩いていきたいと
思っていることだけは、覚えていて欲しい」
リリーの頬に涙が一筋落ちた。
「これは、夢?
私は、都合のいい夢を見てるの?」
リリーがうつろな表情で、チェットを見つめていた。
その目元には涙が溜まっていた。
チェットは、その涙をそっと指で払うと、
その頬にキスを落とし、握っていたリリーの手を目の前まで持ち上げ、
ぎゅっと両手で包み込んだまま微笑んだ。
「リリー、違うよ。長い悪夢からやっと覚めたんだ」
もう片方のリリーの手が、チェットに伸ばされた。
その感触を確かめるように、そっと彼の頬に手をあてた。
「本当なのね。 嬉しい、本当に嬉しいわ。
私も、貴方に告げたいわ。
今までも、これからも愛してる。
ずっと、側にいたい。
これからもずっと、未来を貴方と歩いていきたい」
リリーの目から、涙がとめどなく溢れてくる。
気がついたら、チェットも泣いていた。
2人は、その涙を止めようとは思わなかった。
暖かな涙を流しながら、お互いにひしと抱き合っていた。
そのぬくもりに、ただただ幸せを感じていた。
リリーは、チェットの腕の中で、夢見心地で話しかける。
「聞いて欲しいことがあるの、これからのことなの。
私も決めたことがあるのよ」
チェットも、リリーを抱きしめながら、
間に合えた喜びに歓喜する。
「ああ、話し合おう。
俺達の未来を。これからのことを」
2人の心は、明るい光に照らされていた。
そして、その光をもたらしてくれたあの子に、
いつかきちんとお礼を言いに行こうと笑いながら、相談していた。
楽しい計画は、時がたつのも忘れさせる。
2人の今後の計画談義は、明け方近くになって、
ミリアが飛び込んでくるまで続いた。




