狸は期待する。
抜けるような青い空
浮かんでいるのは白い雲。
雲の中に白い門。
ここは、ある空間に繋がるこの世界からの
唯一の入り口。
彼は、風に乗るように、滑らかに移動していた。
門をくぐると、真っ白な道が真っ直ぐ上に伸びている。
その先に、龍宮古書店があった。
入り口の自動ドアのボタンを押して、中に入る。
浮いていた足をつける。
二十畳くらいの一間の部屋。
周りは本の壁。
本棚は、上へ上へと積み重ねている。
これらの本がこの世界の記憶。
この若い世界はまだまだ、成長する。
だから、本もどんどん増えているのだ。
クリーム色の床に皮のソファーセット
焦げ茶の丸い高足の机。
その上に、彼は金魚鉢を逆さにしたような
ガラスの入れ物を置いた。
中には、蛍とほぼ変わらない大きさの、光の玉が浮いていた。
弱弱しい、薄い光を放っている。
これが蛍ならば、瀕死状態であろう。
「よくがんばったね。もう大丈夫。
ここならば、君は消えることなく十分な休息を取れるだろう。」
彼は、光に向かって声を掛けた。
「君を責めるつもりは無いよ。
我々では、どうしようも無かった。
神々が選んだ君でも、変えられなかった。」
机の上の光が返事をするように点滅する。
「だが、歪んだ運命は修復されつつある。
君が、芽衣子さんを呼び寄せたからだ。」
光はまた、点滅を繰り返す。
机の上の光に、彼は手をかざした。
彼の手から、淡い光が降り注いだ。
光の玉は少し大きくなり、輪郭が消え、
少年の形を取った。
だが、幽霊のように透けている。
白い髪に薄い青い眼。
「今だけ、この姿を保てるようにしよう。
聞きたい事があるんだろう。」
(僕は、どうなるの?)
「魂の休息をここでとる。
傷がいえたら、神様の下に帰れるよ。」
(どうして?)
「覚えているかい?
君は神々が選んだ、この世界の申し子。」
(うん。今なら覚えてる。)
「歪んだ力を正常に戻すために、使命を刻まれた。」
(でも、僕は、できなかったよ)
「玉を、芽衣子さんをひきつけたのは君だよ。
君は、セイレーンのために心から望んだ。
その結果、世界は、一番望んでいた方向に向かっている。」
(僕は、もどってもいいの?)
「ああ、何年掛かるかわからないが、
いつか戻れる。」
(うれしい。ありがとう。)
「もう、眠れ。
次に起きた時は、輪廻の輪に戻る時だ。
その時は、使命なんて無い。
普通の人間として、生きれるはずだ。」
少年の姿はどんどんぼやけて、また小さな光の玉になった。
ガラスの入れ物の中から伝えてくる意識は
途切れ途切れになり、眠った。
彼は大きなため息をつき、こげ茶色の皮のソファーに
深く沈みこんだ。
手のひらを上に向け、欲しいものを頭に浮かべる。
暖かい、香りのよいコーヒー。
あの時、芽衣子と一緒に飲んだ。
あれから、あのコーヒーは彼のお気に入りだった。
机の上にコーヒーの受け皿を置き、カップを持ち上げ、
香りを吸い込む。
香ばしい、苦味と酸味のある香り。
一口含むと、濃くのあるまろやかな味わい。
コーヒーを味わいながら、微笑む。
本当に芽衣子はびっくり箱のような人だ。
この世界に降りて、まだ間もないのに、
彼女はもう、二つも宝玉を手に入れた。
それなのに、彼女自身はまったく無自覚だ。
どうして、宝玉が手に入ったのかすら、
わかっていないに違いない。
それに、彼女と関わる多くの運命が
神々の願った通りに動き始めていた。
特に、二つ目の宝玉、情愛。
セイレーンのために、心から情愛を望んだのは彼。
自分の身を省みず、魂さえもすり減らして、きえる寸前まで、
彼は、セイレーンの運命を変えようとしていた。
もし、芽衣子が来なければ、彼の魂は消滅し、
狂って暴走したセイレーンの力は、あの付近の海を
死の海に変えていただろう。
それだけ、あのセイレーンの力は強いのだ。
すでに、死期を悟っていた彼が、二つめの宝玉を体に入れるのは、
その魂に、大変な痛みと負担を負ったことだろう。
その犠牲があってこその、この結果であったとも言えるだろう。
だから、その魂が消える前に救い上げに行ったのだ。
彼は、神々からの使命を果たしたのだから。
その魂は癒されるべきだ。
「美味しそうね、春海。私にも入れてちょうだいな。」
多分、自分が帰ってくる前から、この空間にいたのだろう。
夏凪が上から降りてきた。
「ああ、祝い酒の代わりだ。勤務中だからな。」
春海が手を軽く振ると、机の上に、
ほかほかと湯気のたつ、
一客のコーヒーセットが現れた。
「随分、ごきげんね。」
「ああ、悩ませていた案件が一つ、消えたからな。」
「知ってるわ。龍宮の宮でも、神様が喜んでいたもの。」
夏凪はカップを手に取り、コーヒーの香りを吸い込んだ。
「これで、あのセイレーンは正しい運命を進む。
強き光をまとう水の精霊王になる運命を。」
「芽衣子さんは彼女と契約したの?」
コーヒーを一口飲む。
美味しい。
「いいや、だか、生涯の指針を得るだろう。
彼女の強い光の影響で、
あのセイレーンは、正しき力の使い方を見つけるはずだ。」
春海の顔は今までに無いくらいに、嬉しそうだった。
「どのくらい掛かるかしら。」
「わからないね。 だが、歯車は廻り始めた。」
「そう簡単にいくかしら。」
不安がよぎり、眉間がかすかに寄る。
春海は、落ち着いた様子で、コーヒーを飲みほした。
コーヒーカップがトレイに戻され、かちゃりと音を立てる。
「精霊王になる水の幼生は、成長が著しく遅い。
だから、その過程と環境は、正しく導かれなければならない。
が、神の力が未だ及ばないこの世界、生命の理が邪魔をする。」
「そうね、神の声が届かないから、負のエネルギーに囚われやすくなる。」
「そうして失った多くの使徒達を、見てきたはずだ。」
「でも、あのセイレーンは間に合ったわ。」
夏凪もコーヒーを飲み干し、カップとトレイを机の上に戻した。
「これからだ。
芽衣子さんが、そのまま歯車を歪まさなければ、
彼女の旅の最終地で、水の精霊王は誕生するだろう。」
「光と力の起源の玉もね。」
春海は片手を軽く振り、机の上から2客のコーヒーカップは消えた。
「ああ、楽しみだ。」
未来が楽しみだなんて、こんな風に思うのは久しぶりだ。
二人はお互いの言葉を頭の中で反復し
楽しそうに笑った。
机の上には、眠りについた少年の魂の光玉。
彼が帰る未来はきっと明るくなるだろう。




