リリルアーシャの恋と決意
皇女リリルアーシャは、借金の実の親に売られたのだと、
王の傍に居た噂好きな娼妓達が楽しそうに囀っていた。
「皇女様も私達と同じ。うふふ、どちらがより可哀想かしらね」
そう言われて、思わず首を傾げた。
売られたと言っても、親の顔すら覚えていない幼少の砌の事。
恨み辛みなどの感情は元より、実の親に対する怒りや思慕の情すらも、
リリルアーシャには湧いてこなかった。
首を傾げたのは、リリルアーシャが、『可哀想』と言われた部分に関してだ。
確かに、金で子供を売った親は、世間一般にはひどい親なのだろう。
だが、貧困と重税に喘ぐこの国ではそう珍しい事ではない。
事実、このことを教えてくれた娼妓達も、
金額は違えども同じように親に売られたのだと言っていた。
ただ売られた先が違っただけ。彼女は娼館、リリルアーシャは王宮。
どちらも、衣食住、全てが揃った状態で、何不自由なく毎日生きて行ける。
だが、どちらがより可哀想か、比べることは出来ないのではないかとも思う。
王の傍に侍る美しく囀り、微笑み、舞い踊る彼女達は、
王に献上され、王の興味が薄れたら交換される極彩色豊な美しい鳥達。
彼らの入れ替わりは激しく、時に一月と持たない事もあったが、
その中には、王のお気に入りと呼ばれる娼妓が数人いた。
そのうちの一人、ラヴィニアローズと謳われた美しい女性がいた。
綺麗なリュートの音を奏で、美しく着飾り、ひっそりと王に侍る彼女は、
いつも幸せそうな笑みを浮かべていた。
リリルアーシャが知る限り、王の傍で微笑み笑い媚びる女性は沢山いたが、
王の傍で楚々と控え、ふわりと浮かぶ風花の様な儚い笑みを浮かべる彼女は、
他とは一角を違えた上品さを携え、いつも王のお気に入りの場所に座っていた。
王が近づくと、細かな震えが止まらないリリルアーシャを、
王が気が付くより早く、王の視線から度々隠してくれた。
誰よりも穏やかで優しくて、嫋やかで賢く美しい。
由緒正しい貴族の血を引くらしいとの触れ込みで献上された王のお気に入りの寵姫だった。
そんな彼女に、リリルアーシャは、一度だけ王宮で声をかけられたことがあった。
「皇女様、貴方はもう少し大人になるべきですわ」
大人になれといわれて、少しだけ顔を歪めた13歳のリリルアーシャを、
宥めるように優しく微笑む彼女に、リリルアーシャは質問を返した。
「どうやったら大人に成れるのでしょうか」
大人になれば、あの気持ち悪い王の存在に慣れ親しみ、
娼妓達の様に侍ることが出来る様になるのだろうか。
今は、進んでなりたいとは思わないが、何時かはそんな日が来るのだろうか。
ふふふと目を細めるラヴィニアローズは、いつもの様にふわりと微笑む。
「皇女様、貴方は恋をしたことがある?」
そんな彼女からの問いに、リリルアーシャは頭を捻った。
「恋? 物語の中で語られる男女間の特別な感情のことでしょうか」
知識としては知っているが、本当の事は何一つ知らないと言ったこの返答に、
彼女はにっこりとほほ笑んだ。
「ええ、恋を経験して、女性は一人前になるの。
恋をすれば、貴方は大人になれるわ」
「恋」
「恋をすれば、人は強くも弱くも成れるわ。
恋をすれば、心の中に決して消えない光が生まれるの。
それは、人生の最も確かな指針になるの。
そのためには、何だって出来るくらいに」
強くで弱い?
消えない光?
何を言っているのか解らなくて、リリルアーシャは首を傾げた。
だが、恋をすれば大人に成れるというのなら、と少しだけ興味が湧いた。
「どうやってするのですか?恋は」
彼女は微笑みながらも困ったように頬に手を当てた。
「あら、恋は一人ではできないのよ。相手が必要」
「相手。それは誰ですか?」
真っ直ぐすぎる質問に、彼女はいつもの様に微笑んで答えた。
「貴方の心が選んだ人」
心が選ぶとは、どういうことなのだろうか。
教師たちが言う、為政者として正しき人格を見極めろということと同じだろうか。
「選ぶ基準は何でしょうか?どこで、どうやって見分けたら良いのでしょう」
さっぱりわからないなりに出てきた質問に、ラヴィニアローズは胸に手を当てた。
「基準はね、貴方の心。
その人に会うと、ココがね、温かくて嬉しくて、きゅっと胸が痛くて、
どうやっても目が離せなくなるの。
逃げ出したいくらいに怖いけど、離れたくない。
一緒にいれば、息を顰めていても胸が高鳴る。
目が合うと痛くて切なくて、でも、幸せで泣きたくなるの」
逃げ出したいのに離れたくない?
温かくて嬉しいなら、どうして痛くて切ないのか。
幸せなら笑うだろうに、なぜ泣きたくなるのか、さっぱりわからなかった。
眉を寄せて悩むリリルアーシャの眉間に指をあてて、つんと突いた彼女は、
ふわりと笑って美しく微笑んだ。
「貴方が、いつか、恋を知れば解るわ」
ラヴィニアローズは、後に、反乱軍に情報を漏らしていた罪で処刑された。
地方から始まった大規模な反乱軍が、情け容赦ない王の軍に鎮圧され、
反乱軍と繋がりがある輩に粛清の嵐が吹き荒れたのだ。
そのうちの一人がラヴィニアローズだった。
彼女の義理の姉の嫁ぎ先の弟が、反乱軍に参加していたらしい。
遠縁過ぎるのではとさすがの王も思ったらしいが、
宰相や他の寵姫達の勧めもあって、彼女を捕縛して牢に繋いだ。
ラヴィニアローズは、いつもの様に微笑んでその決定を受け入れたらしい。
「私の命は愛しい人に捧げたのです。
死を賜ったとて、憂うことなどございません」
そういって、いつもの様に、美しい花が描かれたリュートを抱きしめていた。
嘗ての寵姫に愛しい人と言われて、流石の王も多少心が痛んだのか、
せめて毒杯をという配慮があったらしい。
彼女の死に顔は美しく微笑んだままだったとか。
だが、リリルアーシャには薄らとだが、解っていた。
彼女の言う愛しい人とは、恐らく王ではないだろうと。
ラヴィニアローズは、毎日、決まった時間に後宮の外れとも言われる、
日当たりのよくない北の庭で、リュートを掻き鳴らしていた。
その時は、練習だからと、いつもと違う曲を楽しそうに奏でる。
指のリズムや調子、そして曲が、誰か愛しい人に語りかける様に歌うのだ。
その時の彼女は、本当に幸せそうに微笑んでいた。
リュートを奏でるのが本当に好きなのだろうとただ単に思っていたのだが、
ある日、リリルアーシャはある光景を目にして、納得した。
神殿からの慰問の帰り道、王宮正門でちょっとしたトラブルがあったらしく、
急遽、ムシュカと二人で、いつもは使わない北の門への道に進路を変えた。
砂が入り込むことが多く、いつも閉じられている北門付近には、
王の後宮に面した場所が幾つかあり、
近づくと罰せられる事もあるため、余り人の出入りが少ない。
ちょっとした冒険気分で、いつもと違う道に新鮮さを感じていた。
きょろきょろと辺りを窺ったリリルアーシャの耳に入ってきたのは、
耳に馴染んだ美しいリュートの音色。
そして、後宮を囲む壁に手をつき、反対の手は胸にあてて、
じっと壁を見詰めて佇む青年がいた。
こんなところで何をと、不審人物を警戒するムシュカに背を押されたが、
リリルアーシャは思わず足を止めてしまった。
青年の右袖に刺繍された、図柄を見たからだ。
辺境に咲く、青で縁どられた薄紫色の花、その芯は赤く、
薬草としても珍重される、とても珍しく美しい花。
花の名前は彼女と同じ、ラヴィニアローズと言うのと、以前に彼女に教えてもらった。
ラヴィニアローズの大事にしているリュートに咲く絵柄と同じ刺繍。
彼の胸に押し付けられた一輪の花。
その青年は、切ないながらも熱情を秘めた視線で、真っ直ぐに壁を見詰めていた。
只一心に、何かを求めてやまない苦しみを耐えているとしか思えない様相だった。
声も掛けず立ち尽くすリリルアーシャに、気が付いたのだろう。
ふいに青年が振り返った。
背は高く、筋骨隆々な逞しい体躯だが、その風貌にはどことなく気品があり、
青年の仕草や瞳には高い教養と知性が感じられた。
袖に入った刺繍以外は、何の変哲もない地味な服装だったが、
一般庶民とは明らかに違う品位があった。
「美しい音色に誘われて、つい、ここで聞き惚れていました。
高貴なる方のご機嫌を損ねたなら謝罪いたします」
美しい礼をして、すっと頭を下げる青年は、場所や服装を鑑みなければ、
まるでどこかの王侯貴族のようだ。
だが、足音を極力立てない所作は、なにかしらの武に通じる精練された出で立ち。
侍女のムシュカが警戒して、リリルアーシャの前に立った。
二人の出現に困ったように笑顔で対応していた青年は、
リリルアーシャの視線から隠す様に、そろりと上着で袖口を隠し、
そのまま何もなかったように、大通りに向けて歩いて行った。
その翌日に、なんとなく足が向いた北の庭で、
リリルアーシャは、その青年の事をラヴィニアローズに話した。
余りに美しい音色に誘われたらしい人がいたと聞いた時には、
何も変化がなかったのだが、その青年の袖口に、
リュートに描かれているのと同じ花の刺繍があったと、
そう言った途端に、彼女はあの青年と同じように胸を押さえて、
痛みを耐える様に俯いて体を震わせた。
慌てて体を支えたリリルアーシャが見たものは、ぽろりと流れる一粒の涙。
そして、今までになく輝かしい、切なく美しい笑顔だった。
あの時に、解ったのだ。
あの青年が、彼女の恋をした相手なのだろうと。
そして、あの青年も、自身の危険を顧みないくらいに彼女に恋して止まないのだと。
彼女が王の寵姫である以上、決して結ばれない相手だ。
哀しい結末を予測して、リリルアーシャはそっと口を噤んだ。
恋の片鱗が、ほんの少しわかった気がした。
王の宴席で、反乱軍が一人の生き残りも出さずに全て根絶やしにされたと報告があった。
喜ばしいと笑う人々の中で、彼女が一瞬だがその笑顔を消した。
僅かだが彼女の瞳に絶望の影が見えた矢先に、
ぶれた指先がリュートの弦を弾き、異響音がボンと鳴り、弦が切れた。
その白い指先を赤く染めた血が、リュートの絵柄にぽたりと落ちる。
その時の彼女は、目を閉じてその痛みを逃がしているようにも見えた。
彼女は、いつもの様に、楚々として美しく王に微笑む。
だから、リリルアーシャ以外は、彼女の変化に気が付く者はいなかった。
あの時、彼女は自らの死を望んだだろう。
恋とは、死を望むほどに恐ろしくもあるらしい。
恋とはかくも奥深いものなのかと慄いた。
だが、リリルアーシャが大人になるためには、恋を知らねば大人になれない。
そう思ったリリルアーシャは、彼女の教師たちに尋ねた。
「恋とはいったい何?どうやったら恋できるの?」
彼らの答えは、判を押したように同じだった。
「貴方は皇女なのです。恋だの愛だのに現を抜かしてはなりません。
いつか、王の傍に王妃として立ち、この国と民を背負っていくのです。
その為には、誰もが賛美する素晴らしい女性にならねばなりません」
恋について、正しく教えてくれる教師はいなかった。
小さなリリルアーシャの問いに周囲は戸惑い、
後に、その会話は無かったものとして終わらされた。
その時からずっと、リリルアーシャの心には、その疑問があった。
が、知る機会も学ぶ要素も与えられなかったゆえに、疑問はずっと解決されぬまま。
ラヴィニアローズが言う様に、いつか解るのなら、
そのうち解るのだろうと漠然とした感情を持つしかなかった。
だが、リリルアーシャの平穏な日々はそのころから変わってきた。
王の横暴と前王妃の我儘は酷くなるのに、税は重くなる一方。
雨は降らず、村も町も飢えと貧困に苦しむようになり、
王都の民の顔からも笑顔が消えた。
そのうち、何処からともなく噂が流れてきた。
今の王は、本当の王の血を引いていない簒奪者。
だから、女神が怒っているのだと。
前王妃は、王は確かに前王の認めた王子だと高々に叫んだが、
人々からの不安と不信の目は酷くなるばかり。
反乱の芽を潰す為に、噂を流していたとされる人々を粛清するが、
人の口に戸は立てられない。
ファイルーシャの都は、急激に王と前王妃を排斥しようとしていたが、
それを阻んだのが、皮肉にもリリルアーシャの存在だった。
たしかな王の血を引く皇女が、王の婚約者であり、次期王妃になる。
彼女が王妃となり、その子が生まれれば、女神の怒りは解かれるだろう。
それまで、女神の横暴に耐えなければならない。
前王妃と宰相が、王の血筋には一切触れず、民の前ではっきりとそう宣言した。
そのことで、排斥運動の波は一応治まった。
リリルアーシャの教師たちは、期待を寄せられる彼女に、
より一層厳しい教育を施した。
時には、体罰や食事抜きといった要素を取り入れてまで、
リリルアーシャを彼らの知る理想の淑女に育て上げていった。
リリルアーシャは必至で勉強した。
民の為に。
王と前王妃の為に。
そして、皇女として立派な王妃になる為に。
そうして出来上がったのは、皆が考える理想の皇女様。
国の為に、民の為に、身を捨て心を立志、常に博愛と慈悲の心を持つ女性。
皆の理想の皇女を演じる。気が付けば、それが日常となっていた。
時がたち、リリルアーシャが成人近くなり、演技も上手くなってきた頃、
リリルアーシャの保護者である前王妃の態度が急変する出来事があった。
教えられたままに皇女として正しい行動をするリリルアーシャを、
疎ましく思う様になったのはその事件が切っ掛けだった。
王の重税に苦しむ民を代表して懇願に来た辺境の領主は、
王の眼前で捉えられ、反逆者として何本もの槍で串刺しにされた。
更には、その罪の余波を受けた領主の小さな息子は、
奴隷として王に売られる為、重い鎖に繋がれ庭に転がされていた。
まだ3つにしかならない、小さな子供の眼には悲しみと絶望があった。
当然ながら、リリルアーシャは、皇女として、王に苦言を申し上げた。
「王よ、貴方の守るべき民に、このような無体を成されないでください。
この国の王なれば、その慈悲の心を持って、どうか寛大なご処置を」と。
教師たちは、皇女として正しい事をすれば、リリルアーシャを褒め讃える。
だから、彼らにも喜んでもらえると思っていたのに、
返ってきたのは罵倒と冷たい視線。
「人形の癖に、余計な事をするな」
「お飾りが偉そうな口を。何様のつもりなの」
王は、リリルアーシャが台詞が、よほど気に入らなかったのか、
リリルアーシャがその背に守ろうとした幼子を取り上げて、
前王妃が番兵代わりに庭に配置していたお気に入りの獣に向けて、その体を投げた。
幼子は、悲鳴を上げる間もなく、獣に喉笛を噛み千切られ絶命した。
呆然としていたリリルアーシャに、王はふんと鼻面を上げて言った。
「お前が逆らったから、この者は、このように、死んだのだ。
本来なら奴隷に落とされるだけで済んだものを。
お前がこいつを殺したのだ。哀れな事よの
お前こそ、慈悲の心を持たぬ最低の人間だ」
母である前王妃も広げた扇の向こうで、眉を顰めて言った。
「そもそも王に逆らった反逆者は守るべき民ではないでしょう。
王の慈悲でわざわざ奴隷にしたのに、貴方は、なんてことを。
それに、あの美しい毛皮を反逆者の血で汚すなんて。 ああ、汚い」
リリルアーシャは、王と前王妃が何を言っているのか解らなかった。
出ていけと怒鳴られて部屋に戻ってからも、何がどうしてこうなったのか、
頭が混乱して解らなかった。
だが、只一つ脳裏に残った台詞。
あの幼子が殺されたのは、リリルアーシャが原因だと言うことだ。
助けたいと思った。助けるのは皇女として正しき行いだと。
だから、堂々と助けなければいけないと行動した。
結果は、推して知るべしだ。
リリルアーシャは、この時、選択を間違えた事を知った。
教師の顔色を窺うように、前王妃と王の顔色を窺わなければならなかったのだと、
気が付いたのは、後の祭り。
あの日から、王と前王妃は、リリルアーシャの周囲を削ぎ落としにかかった。
そう、文字通り、削ぎ落とした。
王家に長年勤めていたという教育係はすべて解雇され王宮から放逐された。
王家に忠誠を誓っていた護衛も、一人ずつ櫛の歯が欠ける様に取り上げられ、
乳母であるムシュカ以外は全ていなくなった。
正しい事が正解ではない。ならば、どうしたらいいのか。
皇女として育ったリリルアーシャは、
皇女として生きる以外の方法を知らなかった。
あの時、リリルアーシャは間違えた。
だから大切な者を沢山失った。
彼らは、リリルアーシャを守る為に死んでいった。
大切な人と考えて、ふと視線を上げる。
見上げたグレンの顔。
顎から頬に掛けての男らしいライン。
グレンの顎には薄らと髭が伸び、出会った時よりも精悍さを増している気がした。
真剣に前を向いて馬を走らせるグレンは、正直、とても恰好よかった。
見上げた視線の先に、グレンの唇がある。
あの男らしい唇が、リルに優しいキスの雨を降らせているのだ。
ほんの少しそう考えたら、トクンと胸が音を立てる。
会ってからまだ数日にしかならないのに、グレンの印象はリルの中で、
日を重ねるごとに変化していた。
最初は、無礼で不躾で勝手で、人の話を全く聞かない変な人だと思っていた。
だが、彼の優しさに触れ、博識さに感心し、その強さに胸がときめいた。
現実を見据えた上での明るい未来を語る目に、その話に、
何時しかリルは引き込まれる様になっていた。
グレンは、リルに自分を知ってもらおうと、積極的に自分の事を話した。
「俺は、ラドーラの港町で、ラドーラの民と砂の一族に育ててもらったんだ。
母が幼少時に亡くなった事もあって、少々過保護気味だったかもしれないが、
彼らは俺を若様と慕って、どんな時も揺るがない信頼と愛情を与えてくれる。
だから、俺は俺に出来る全てで、彼らを領主として守ると決めている」
民を守るのが、王たる者の務め。
帝王学の最初に一ページに文言してあった。
「民を守りたいなら、なぜ王位を望まないの?」
リルの言葉に、グレンは首を振った。
「俺が守りたいのは、ラドーラの民であって、全ての民じゃない」
きっぱりと告げるグレンの瞳に揺れはない。
「でも、グレンは王の血を引いているのでしょう」
リリルアーシャと同じ。
いえ、リリルアーシャより、もっと直系に近い血筋を。
「確かに血は繋がっているだろう。
だが、俺は王に成るつもりはないし、血筋だけで王に成れるとは思ってない」
リリルアーシャは、僅かではあるが、王の血筋を引くから皇女となった。
その存在を否定するグレンの言葉に、思わず眉を顰めた。
「王は、常に全ての民に対して平等であるべきだ。
私情を捨て、感情で国を治めてはならない。帝王学で語られる文言だ。
だが、俺は決して平等に成れないし、感情を切り捨てられない。
つまり、俺に王は務まらないんだ。だから、無理」
簡単に否定する言葉に、彼の傍に座っていた老人や、仲間が言う。
「ワシらが育てた若様は、とても我儘ですけぇのう」
「そうそう、決めたことは絶対曲げない強情っぱりだし」
「好き嫌いが顕著に表れる性分だから、平等って無理でしょうね」
「感情の無い若なんて、もう若ではないですよ」
「だぁなぁ、昔からちーっとも変わらねぇし」
「無理無理、どうやったって、若は若にしかなれねぇから安心しろ」
それなりに貶す言葉の奥底に見え隠れする確かな愛情。
そのことに気が付いて、リルはくすりと笑った。
「ま、待て待て待て。
その言い方だと、俺は物凄く我儘で強情な子供の様な男に聞こえる。
ちゃんと訂正しろ。俺は紳士であろうと常に努力しているぞ。
俺の目指す頂は、真摯で誠実でありながらも有能な男だ。
一途さも付け加えて、ちゃんと訂正してくれ。
リルが誤解したらどうするんだ」
リルの笑いに、思わず否定の言葉を要求したが、返ってきた言葉はあっけないものだった。
「若、本当の若を知ってもらわねば、妻問いは失敗しますぞ」
「若、無理に隠したってすぐにばれますから」
「若、誤解も何も、本当の事ではないですか」
「惚れた女の前で、カッコつけたいのは解るが、無理じゃろう」
「だよねぇ、若、紳士って意味わかってないでしょう」
「今も本当に好き勝手しているし」
皆がうんうんと頷いて同意し、リルも頷いた。
グレンは、子供がそのまま大人になったと言えば聞こえが悪いかもしれないが、
とても素直で感情を隠すことをしない。
彼らの表情を見れば、そんなグレンがラドーラの民達に、
とても愛されていることが解る。
だが、もし、グレンが王に成ったのなら、全ての民が同じようにグレンを愛し慕うかもしれない。
「貴方が王になったなら、もっと多くの民が救われるかもとは考えないの?」
今のサマーン王国は、心の底から正しき王を求めている。
そして、グレンは、心がまっすぐな人だ。
リルは、グレンとならば、国を正しく治めていけるかもしれない。
そう思って尋ねたら皆が笑った。
「リル様は、若を王の器という。光栄な事じゃ」
「じゃがのう、若の器は、ラドーラ製なんじゃよ」
ラドーラ製?
その言葉に首を捻っているリルの頭を、グレンが優しく撫でて微笑んだ。
「リル、正直に言うと、俺は王に絶対に成りたくない。
父が言った。王とは民に搾取される生き物だと。
人生を搾取されることを当たり前に受け入れる者が王に成れるのだと。
俺には無理だ。 前王の様に、やりたいことも出来ず、
好きな女を妻に迎える事も出来ないような王に成りたくない。
多くの民を救う為に、俺は俺の大事な者を奪われたくない。
もしそうなれば、俺は俺で居られなくなる」
搾取。
言われてみて、初めて理解した。
リリルアーシャの今までの人生はずっと搾取され続けていたのかもしれないと。
「ワシらはのぅ、若が変わることを望んでおりませんのじゃ」
「若は、ワシらの若で、ラドーラの次期領主様じゃ。それ以外認めんよ」
「リルさんよ、ワシらは若を守りたい。今のままの若がええんじゃ」
「もしや王妃になりたいのかもしれんが、若に捕まったからには、諦めが肝心じゃよ」
「ラドーラ領主の妻もええもんじゃよ」
「そうじゃ、若と一緒に笑って暮らせる。レモーネ様の様にのう」
リルは慌てて首を振った。
私は王妃になりたいわけじゃない。
王妃にならなければならないのだと。
だか、リルが首を振った事でグレンが焦って言葉を紡ぐ。
「リル、王妃の冠はあげられないが、俺は俺のままで君を幸せにしたい。
俺は、君のその笑顔が好きだ。いつも笑っていてほしい。俺の腕の中で。
無理強いはしたくないが、君に俺を知ってもらう機会を逃したくない。
だから、儀式が終わったら、俺と一緒に、ラドーラに来てくれ」
グレンにとって、これは実質のプロポーズである。
王の婚約者であったリルにとっても、初めての事。
リルがリリルアーシャであることも、国の未来も、何もかも忘れ、
只のリルとしてグレンと一緒にラドーラに行けたら、どんなに幸せだろう。
想像だけで涙が出そうなくらい、嬉しい。
嬉しくて、幸せで、胸がぎゅっと痛いのに、心が温かい。
そして同時に、自覚した。
リルは、グレンの事が好きなのだと。
心が温かくて嬉しくて、なのに胸が痛くて泣きたくなる。
逃げ出したくなるほど胸が高鳴るのに、グレンから目が離せない。
これが、ラヴィニアローズが言っていた、恋だと気が付いた。
グレンにはリルが皇女であるとか、王家の血を引いているとかは、もちろん伝えてない。
だから、グレンはリルそのものが好きなのだと思うと、心の底から嬉しかった。
一瞬だけ見えた、グレンと手を取り合ってラドーラの領主夫妻となり、笑いながら暮らす幻想。
ああ、もし、ここで頷くことが出来たなら、あの幸せな絵は現実となるのかもしれない。
だが、リルは頷くことが出来なかった。
リルは、いや、リリルアーシャは王妃となって国を正さなければならない。
命を懸けて託された願いは、いつもリリルアーシャの胸に重く伸し掛かっている。
それを忘れたことなどない。
儀式が始まったならば、リルはリルで居る事は叶わないだろう。
リルは、いえ、リリルアーシャはファイルーシャの王に追われている。
このままレナーテの神殿に到着すれば、衆目の眼がグレン達に集まる。
そんな中、王の手の者が私を目にして、
リリルアーシャが神殿に来た事を知るだろう。
巫女姫に全てを話して匿ってもらっても、
今の神殿関係者の半数以上が、王達と繋がりがあると聞いている。
どうあがいても、リルが皇女で王の婚約者であるという事実がばれるだろう。
それに、恐らくだが、乳母のムシュカが王に捕まっている。
今までの王の手口から、リリルアーシャの大事な人を人質にして、
言うことをきくよう要求するだろう。
命を張って私に仕えてくれる最後の味方。
彼女をリルは、いえ、リリルアーシャは、見捨てることなど出来はしない。
私は、どうやったって、王の下に連れ戻されるだろう。
そうなれば、グレンと一緒にラドーラに行くことは不可能だ。
押しつける様に降りてくる想像の悪夢は、暗く重く、哀しく痛い。
俯いていたら、暫くしてグレンのため息が聞こえた。
リルは、彼の求婚にまともな返事すらできていなかった。
失望、させてしまったのだろうか。
そう思ったら胸がキリリと痛む。
「レナーテの大神殿に着いたら、リルは巫女姫預かりとなる。
そうなれば、俺は儀式が終わるまでリルに会いに行くことすら出来ないだろう。
巫女姫の宮は男子禁制の場だから。
その間に、どうか考えてくれ。俺とラドーラに来て、俺の妻となる事を」
ああ、グレンはどこまでもリルに優しい。
いっそこのまま、ラドーラに浚って行ってほしい。
そう言えたならどんなに良いか。
ムシュカの顔や、嘗ての臣下たちの顔が脳裏に浮かぶ。
解っている。
私は、貴方たちを決して裏切らない。
その命に代えてまで守ってくれた皇女としての私を、
私は何としてでも守り抜く。そう、嘗ての心に誓を立てたのだから。
張り裂けそうになる胸を押さえて、リルはゆっくり頷いた。
そして考える。
グレンは、こんな私を好きになってくれて、プロポーズまでしてくれた。
リルの人生でこんなに嬉しかった事はない。
グレンとの別れは、身を切られる様に辛いかもしれない。
リルは胸に手を当てて、自分の心臓の音を聞く。
幸せ、だった。
グレンと一緒の時間という幸せを、心から感じることが出来た。
沢山の嬉しい事楽しい事を、一生に一度の恋を、グレンが与えてくれた。
これから先、何があっても、リルは忘れないだろう。
グレンが見せてくれた幸せな夢を。それだけでいい。
それだけでリルはこの先何があろうとも生きて行ける。そう思った。
あの時、ラヴィニアローズが言った、恋は人を強くも弱くもする。
その言葉の意味が今なら解る。
グレンは、リルが皇女で王の婚約者であった事実を知れば、
どんなにか傷つくことか。グレンを裏切ったリルを憎むだろうか。
悲しむだろうか、恨むことさえあるかもしれない。
そんな未来を想像しただけで、泣きたくなる。
いつか、グレンは、リルでない女性を妻として、その胸に抱くのだろうか。
リルの事をすっかり忘れて。
ちくりと痛む心を上回る黒い感情が湧きあがって、息を飲んだ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
そんな未来を見るくらいなら、死んだ方がましだとも思った。
顔も見えない誰かに、一瞬だが激しい怒りと嫉妬を覚えて、更に愕然とした。
恋を知り、幸せを感じていた心の裏には、こんなにも醜い感情があったなんて。
黒い心の靄を振り払うように、リルは小さく首を振る。
グレンにリルは何をしてあげられるのだろうか。
沢山の感情と共に、恋を教えてくれた彼に、何か出来ないだろうか。
リリルアーシャは、考えた。
そして、思い至った。
彼の望みを叶えるべく、二人の王と交渉しようと。
彼の望みはラドーラの領主権だと言っていた。
二人の王にとっての、彼の王位継承権の放棄は、願ってもないことだろう。
上手くいけば、王の儀式に先だって、グレンに領主権を渡せるかもしれない。
巫女姫に相談して、二人の王につなぎをつけてもらおう。
神官長と巫女姫が立会いの下、賛同してくれれば、領主任命と王位放棄を同時に行い、
グレンは王位を望む醜い争いに巻き込まれずにラドーラに帰れるだろう。
リリルアーシャに出来る事をしよう、グレンの為に。
今のリリルアーシャは、グレンの為なら何でもできる気がした。
それに、たとえどんなに憎まれたとしても、ここまですれば、
グレンは決してリルの事を忘れないだろう。
僅かな日数過ごしただけの相手ではなく、忘れられない女として、
グレンの心に刻み込まれるだろう。
その考えに至って、ぐっと心を引き締める。
ほの暗い感情が、リルの口角をゆっくりと持ち上げた。
頭の上からグレンの声がして、心臓がドキリを音を立てた。
「さぁ、あれが大神殿があるレナーテの街だ」
宵闇が空を染める瞬間に、グレンが指を指した。
その指先にぽつりと見える小さな灯り。
ああ、もう着いてしまったのか。
遮るものが何もない砂漠の距離は思っていたよりも遠く、そして近い。
一歩一歩、馬が前に進むたびに、リルの、いやリリルアーシャの胸がキリキリと痛みを与えていた。
馬上のリルが見上げた先にあるのは、グレンの顔。
胸の音を誤魔化す様に視線を下に向けると、逞しいグレンの腕が見えた。
リルを馬上で支える様にお腹に回っている腕。
その腕にそっと手を触れれば、その逞しい筋肉に安心した。
離したくない、離れたくない、ずっとこの腕の中に居たい。
狂おしい程の感情が、リルの心で吹き荒れる。
彼の逞しさ、温かさ、手の感覚、優しい目、笑った顔、怒った顔、拗ねた顔、
さらりとした柔らかな髪、柔らかな声、胸から聞こえてくる強い鼓動の響き。
ああ、全部、全てだ。
彼の全てをこの目に、この心に、焼き付けておこう。
もうじき、彼とは会えなくなるのだから。
たとえリルがグレンに失望され嫌悪されても、
彼が立派に領主に任命されて、生きて無事にラドーラに帰れるなら、
リルはなんでもするつもりだった。
生きて、立派な領主になる姿を見ることは、恐らくないだろう。
狡猾な二人の王、嘗ては震えて怯えるだけだった存在と交渉すると決めた。
だが、それに伴って、王の意識はリリルアーシャに向くだろう。
どちらが王になったとしても、交渉などを仕掛けてくる皇女は、
彼らにとって処刑対象になることは、考えに難くない。
ブルリと全身が震えた。恐れはもちろんある。
だが、それ以上にグレンを守りたい。
決意が恐れを押しとどめる。
これが恋をすると強くなるということなのだろう。
リルの僅かな手の動きに、グレンが反応して視線を向けた。
「どうしたリル?疲れたか?もう少しで次のオアシス跡地に着く。
だが、体調がすぐれないなら、ここらで少し休むか?」
グレンは、心配そうにリルを見下ろしながら馬の速度をやや弱める。
レナーテの街の明かりが見えてから、
リルの様子が変わったのに気付いているのだろう。
グレンは、リルの顔を覗き込みながら心配してくる。
「・・・大丈夫。大丈夫なの。心配しないで」
リルがそういうと、グレンは決まって微笑む。
「心配するに決まっている。
リルは弱いくせに、強くありたいと見栄をはる意地っ張りだ。
そんな所も可愛いが、俺にもっと甘えてほしい」
髪を優しく撫でながら、リルの柔らかい頬を霞める。
グレンの熱い視線と余りの甘やかしさに、リルの頬がじわじわと熱くなる。
そんな風に、リルを見ていてくれたのか、と感激もする。
皇女なリルは、誰かに甘えた事が一度もなかった。
甘えてほしい。そう言われることがどれだけ嬉しくて愛しくて切ないのか、
リルは人生で初めて知った。
それと同時に、どこまでも優しく甘いグレンに、胸が引き裂かれる程痛い。
「・・・そうね。いつかは、そうなるのかしら」
そんなリルが心底可愛いと言わんばかりに、グレンは笑み崩れる。
「そうなるさ。ああ、楽しみだな」
甘い視線をそのままに、先程まで馬の手綱を握っていた、
ごつごつした指がリルの柔らかな頬をゆっくりと撫でる。
指の一本一本が落とす体温が、どうしようもなく愛しい。
恋だと自覚した途端に膨れ上がる感情に振り回され、
リルは嵐の中に立ちすくんでいる。
「そうね、いつか貴方が・・・」
指をよける様に頬を引くが、馬上の為、僅かに空いた距離もすぐ詰められる。
「貴方という呼び方も悪くないが、その可愛い唇で俺の名前を呼んで、リル」
そんな事を至近距離で言われたら、心臓はバクバクと早打つ。
「・・・グレン」
心臓の音を聞かれたくなくて、慌てて胸を抑えるリルに、グレンの視線はどこまでも甘い。
パアッとお日様が照るように笑うグレン。
ああ、この声も、この顔も、全て全て全て、決して忘れない。
時が、今この時で止まればいいのに。
グレン、グレン、グレン、私は、貴方が、好きです。
溢れる感情に蓋をして、ぐっと口を噤む。
リルは、流れ落ちる涙を隠すために、そっとグレンの胸に顔を押し付けた。




