策士は過去に迷う。
鉄の女と呼ばれたノルバ総括総長の話です。
たかが女に何が出来る。
女は丈夫な子を何人も産み育て、長の血筋を繋ぐしか、出来ることはないだろう。年頃になり子が産めるようになった時、私に宛がわれるはずの男にそう言われた。
あまりにも馬鹿にした台詞に憤り、見返してやると里を飛び出し、マッカラ王国に来た。マッカラ王国は学問を尊ぶ知識の都。
ここでなら、私が女であっても男と同等に立つことが出来る。
そして、その能力が優れているなら、女の私が男の上に立つことだって出来るはず。
女が子を産み育てるだけの存在であればいいとなど、二度と言わせない。
温かい家庭も家族も、子もいらない。
女としての幸せなど、穴を掘って埋めてやる。
邪魔なものは、何一ついらない。
そう信じて、本当に何もかも打ち捨てて、真っ直ぐに目的までの最短距離を走った。
目的の為なら手段を択ばない鉄の女。
人の情けを母の腹に置き忘れてきた鬼女。
誰にも気を許さない可愛げの欠片もない魔女。
負けた連中が裏表関連なく、酷い噂を撒き散らす。
ふんっと鼻で笑って、悔しいなら結果を残せ、残せないならただの木偶の棒とかわらないと正面から遣り込める。
男だと言うことだけにプライドを振りかざす輩共が悔し紛れに臍をかんでいるのが、痛快だった。
たかが女と侮った相手に、ぐうの音も言えないくらいに叩きのめされるのだ。
私はお前たちより優秀なのだから仕方ないだろうと、いい気分に浸って何が悪い。
だが、誰もが認める地位を築き、凱旋気分で意気揚々と里に帰った私が見たのは、愕然たる事実だった。
従弟であるあの男は、ラドーラ領主である大殿の信頼を得て、多くの難仕事をこなし、一族の中でもその人ありと知られるほどの名声と確固たる地位を築きあげていた。一族の人間が彼を見る目に尊敬と畏敬の念が見て取れる。
その上、あの男は多くの女をその腕に囲い、幸せな家庭を築いていた。
笑って、これがワシの子よと紹介された幸せそうな顔に、どうしようもない敗北感を感じた。それが何故なのか、解りたくもない。
気が付けば、子が産める年齢ではなくなっていた。
後ろを振り返ることなどありえないと思っていたのに、初めて過去を振り返った。私が必死で手に入れた地位や名誉が、やけに軽く薄い物に思えた。
所詮と言われたたかが女が、どれ程頑張ったとしても、駄目だということか。
硬く踏みしめていた足元が、ぐらぐらと揺れている気がした。
*********
マッカラ王国の象徴とも言える高く聳える賢者の塔。
世界でも名立たる頭脳を集めた知識の宝庫とも言える学者達の研究室。
その塔の中層に位置するマサラティ老師の部屋に、
本日の客人一同が揃ったのは正午を少し過ぎた頃だった。
客人は、ヤトが連れてきたイルベリー国出身の船乗り二人と、ファイルーシャの商人マラドフ、
書架市場の総括総長ノルバ、その弟子で司書長のサーリアと秘書のカーラーンである。
そして、部屋の主であるマサラティ老師と彼の弟子二人、カナンとルカを入れて総勢10人。
だが、折角揃ったというのに、彼らは互いに顔を見合わせるなり挨拶もせず、
ヤトを筆頭に、各々が各自好きな事をし始めた。もちろん、誰も咎めない。
なぜなら、咎めるべき部屋の主が、長椅子に転がって背中を向けたままであったからだ。
ヤトやノルバが声をかけても、老師は生返事を返すだけ。
むすっとした顔を崩さないまま、青い背表紙の分厚い本から目を離さない。
部屋の主は明らかに気分を害しているようだ。
ノルバは心の中で大きなため息をついた。
その原因は、わかっている。
ノルバは目の端で客人二人を見た。
客人二人が持っている書簡。それが原因だ。
彼らが持ってきた老師宛の書簡は、老師がずっと待っていた物らしい。
彼らは当初、本来の目的と言える彼らの国からの書簡を老師に渡そうとした。
老師も嬉々としてその手を差しだしたが、突如、ヤトにその手を払われたのだ。
それどころか、ヤトは客人二人に書簡は後回しにすることを約束させたのだ。
これには老師も酷く立腹し抗議したが、ヤトの言葉で口をつぐむしかなかった。
ヤト曰く、老師は典型的な研究者タイプの人間で、興味のある事とない事の落差が激しい傾向にある。
なので、研究に関連があると思われる書簡を手に入れたなら、
こちらの話を早く切り上げ、さっさと研究に勤しもうとするに違いない。
ので、後回しにした方がよいのだとか。
「面倒な話が早う終わるのは悪くはないが、そこの賢い爺の思考が横に逸れるのは、
今回に限っては聊か困る。ほれ、研究馬鹿の偏屈爺の鼻面にエサをぶら下げて、
大人しく待てが出来るとはワシは思わんでのぅ。
なに、手紙なんぞは逃げはせぬよ。
数時間後になったとて、ちーっと楽しみが後になるだけじゃ。
問題ない問題ない」
かかかっといつもの様に大口で笑うヤトの目は、今回は全く笑っていなかった。
研究に関連があると解っている書簡を、本人の目の前で後回しにされたのだ。
研究馬鹿の老師が拗ねるのは無理もないことなのだろう。
老師自身、自分の性質を理解しているゆえにこれに関しての反論は難しい。
よってこの状態だ。つまり、文句は言わないが抗議はしたいといったところであろうか。
明らかに客を招き入れる主人の態度ではないが、
誰も咎めないのをいいことに、老師は、
準備が整うまで好きにすると言った態度を改めることはなかった。
そんな部屋の主の意向を気遣ってか、雑多な物であふれた研究室で、
とりあえず各自好きな行動をとることにしたようだ。
ノルバはやれやれと首を回し、今度こそ深いため息をついた。
研究以外に興味を持たない老師の性格は知っているが、
それに付き合っていたら進むものも進まぬだろうにと思ったのだ。
だが、今の状態でもノルバがするべきことはある。
客人の観察だ。
当初、外国からの客人達は、やや放置とも言えるこの状態に少々戸惑っていたようではあったが、
ノルバが窺っていることに気が付いたのか、すぐにその表情や態度から感情が消えた。
若いが、状況に応じて感情の切り替えが出来る優秀な人材のようだ。
両者とも、どちらかというと比較的若く、際立った顔立ちから華やかな印象を受ける。
年の頃は、弟子のサーリアとほぼ変わらないくらだろうか。
彼らの、こんがりと海で焼けた肌の色は、砂漠の者の肌とは聊か趣が違う。
海面を照りつける太陽の光と海を渡る爽やかな風を纏っている気がした。
ローブを着ていても解る逞しい体躯に、すらりとした長身。
どこかの王族と言っても疑わない理知的な視線と精悍な顔立ち。
かたや、麗しの美姫を連想させるリンとした涼しげな顔立ち。
両者とも、パッと見は際立った美貌を持つ異国の要人といった容姿だが、
彼らの放つ独特な雰囲気が、そのような立場の人間では決してありえないことを示していた。
壁を背に、死角をつくらないその立ち位置と、いらぬ注意をひかぬよう程よく薄められた気配。
そして体重を感じさせない脚捌きと隙があるようでない仕草は見事なものだ。
それらは、一朝一夕の訓練では決して身に付かない。
多くの実践で磨かれ、体に染みついた者だけが持つことが出来る独特な空気。
だが、そこだけ色を切り取ったかのような、目を引く独特の存在感が彼らにはあった。
彼らは只者ではないと、ノルバはすぐに気が付いた。
油断のならない怪しい外国人を、この場に連れてきたヤトの真意が読み取れず、
舌打ちしたくなるところをぐっと抑えた。
こちらが窺っていることに気が付いているだろうが、
客人二人は、大人しく部屋の様子や全員の状態を確認しつつ、こちらには視線を一切向けず、
時折肩付近に顔を出すペットの小猿の相手をしている。
何の変哲もない小猿だが、それなりに躾が行き届いているようで、
むやみやたらに動き回ったり鳴くこともない。
いや、彼らは、まるで馴染んだ空気のように、その場にいた。
ほぼ初対面の相手を前に、過不足無く待つその姿勢には、高い知性と忍耐力が感じられ、
ヤトの相手をしている下品なマラドフよりは、かなりの好印象をノルバに与えた。
この二人は若いなりに礼儀のなんたるかを知る人物のようだ。
口うるさいと評判の書架市場総括総長ノルバは、見ているだけであったが、
この初対面の客人に対しての評価を上げた。
それに比べ他の奴らはと目を向ける。
ノルバにとっては忌々しい幼馴染であるヤトは、巨漢で片腕で下品な物言いをする商人マラドフ相手に何やら新しい賭け談議をしていた。
目の前でこれ見よがしに揺らしているヤトの皮袋がチャリンチャリンと音を立てる。
マラドフは唸りながら指を二本立てて、ヤトが首を振る。
「ほれ、ほれ、どうする」
「くそぅ、懐事情は確かに厳しい。 が、ここで勝てば10倍」
「そうよのう、そうよのう、勝てば丸儲けよ。だからこそ、これだけじゃ」
ヤトは指をばっと広げた。
「アホ抜かせ。それじゃあ尻の毛まで毟られるぜ、3本にしろよ、糞爺」
「かっかっか、大勝負には思い切りが必要よ。それともお主程の男が風に吹かれたか?」
「くっ、そうまで言われちゃあ引き下がれねぇ。俺も男だ」
マラドフは5枚の硬貨をヤトの手のひらに叩きつけた。
ヤトは袋の中からごわついた木片を取り出し、腰のナイフで木片に賭け金額を刻み入れる。
「これでええ。 そうさの、結果は祭りの後じゃて」
「はっ、ちょうどいい、レナーテの女神様にも真剣に祈ることにするさ」
「かかかっ、随分手軽な祈りじゃの。件の女神も困るだろうて。
お主自身、真剣に祈ってどうなるとは信じておらぬだろうに」
「まあな。賭け事なんぞは当たれば俺の幸運、外れれば女神の咎ってもんだ」
言うに事欠いて、これしきの事で、女神様を持ち出さなくてもいいだろうに。
なんの賭けかは知らないが、これから大事な話し合いをすると解っているだろうに、本当に緊張感がないアホで馬鹿な男共だと、ノルバは少しだけ頭が痛くなった。
馬鹿な頭痛を忘れる為、ノルバの背後で精力的に動いている3人に意識を向けた。
まずは、書架市場の司書長秘書のカーラーン。
彼はサーリアが育てた子飼いの部下だ。
頭の回転が速く、何事にも機転がきくことで非常に重宝している部下だ。
特に、周囲の様子や人心をよむ事に長けている。
本来なら国の礎に携わることも可能であるほどの実力を持ちながら、
サーリアの補佐を一生続けたいと明言している変わり者の秘書だ。
彼は、持参した食事を大皿にせっせと並べている。
香辛料とスパイスで煮込んだ子羊の肉をもっちりとした生地で包んだものや、
数種類の豆を甘辛く炊き込んで三角のパイ生地に包みこんで油で揚げたもの。
固く焼いたガレットの上に、乾燥野菜と一緒に油に漬け込んだ干し肉を乗せたもの。
香ばしく焼いた芋と豚肉の詰め物と味付ゆで卵を串に刺した串料理。
獣の足の肉を数種類のブレンドしたスパイスを付けてじっくり焼いた骨付き肉。
挽肉と干し豆の粉を練って薄く焼いたパテと緑と赤の野菜ソース。
干しブドウや蜂蜜を練り込んだ柔らかなナンと固い棒状の固焼きスナックパン。
そして、数種類のチーズを一口大に刻んだものに、
棗や無花果などの干した果物に、乾燥野菜を入れたヨーグルトが並べられた。
これで酒が揃えば、典型的な隣国サマーン王国の伝統料理である。
マッカラ料理はどちらかというと、フランを使った山の幸と、
ラドーラから齎される海産物系の干物が中心な料理だ。
それに海外からの留学生がもたらした他国の料理が混ざって、
無国籍料理と化した多種多様な雑多な料理がマッカラ風としてそれなりに有名だが、
今日は、伝統的なサマーン料理を用意した。
ここにいる奴らは、その料理が示す本当の意味を理解できるだろうか。
シャラリと水晶が揺れる音がして、ノルバは自分の弟子に視線を向けた。
弟子のサーリアは、研究室の机の上に優雅に足を組んで腰掛け、
シャラシャラと手の甲に付けた細い銀の装飾品を揺らしながら、
長く伸びた爪を細い金属のやすりでゆっくりと削っていた。
サーリアは、カナンとルカに指図して分厚い絨毯を部屋の中央に3枚敷かせて、
全員が座れるように色とりどりのクッションを用意させていた。
本人は全く動く様子はないが、人が動くのが当然と思っている態度だ。
まるでこの部屋の女主人、いや女王様だろう。
指先を軽く動かしつつ指示をだすサーリアに、
カナンは文句を言いながら、指示通りにゆっくりと物を動かす。
ルカは、いかにも楽しそうに嬉々として笑い、せかせかと動きまわっている。
同じ助手なのに、実に対照的な二人である。
この二人も変わらぬのう。
三人の様子を見て、そんな感想がふと頭の端によぎった。
そして、サーリアが一番変わったとノルバは結論づけた。
今のサーリアの姿は、どことなく高貴な気品があり、且つ、
優雅で洗練された作法の中に、一種独特な闇を感じさせる歪な芸術だ。
影のある妖艶な女性の雰囲気を醸し出すその仕草に、艶やかな愁いを含んだ流し目に、逃れようもない色気を撒き、相手を絡め取るように籠絡する狡猾な蛇を思わせる。
嘗ては、ルカの後ろに隠れて、恥ずかしそうに上目使いで見上げていた。
そんな初々しい子供の姿は、今の姿を見た限りでは想像できないだろう。
あの頃は、自分より一歩も二歩も先を悠々と歩くヤトに嫉妬してばかりいた。
ノルバがどうしようもない敗北感で悔し涙で枕を濡らしマッカラ王国に帰った数日後、ヤトがやせっぽちの小さな男の子と勝気な女の子を連れてきた。
何時も口喧嘩しかしないヤトが、にこにこと笑いながら子らの背中をこちらに押した。そして、子らは、バッタの様に飛び跳ね、これからお世話になりますと頭を下げた。どういうことかわからない。
訝しむノルバに向かってヤトが突然の提案をしてきた。
この子らの未来の為に、ノルバの力の及ぶ限りの知恵を付けてやってほしいと。
何故、赤の他人にノルバの血と汗と努力の結晶である知識を無償で分け与えなければならないのか。
ふざけるな。お前の頼みなど知るもんか!
そう憤慨して怒鳴り散らした。
だが、よく聞いてみれば、男の子はサマーン王国国王の遺児。
そして、女の子はノルバの弟の血を引く唯一の孫娘だった。
つまり、ノルバにとっては姪と言うわけである。
直系の長の血を繋ぐ役目を弟に押し付けた感が否めないだけに、
姪をないがしろにしていいのかと問われ、返す言葉に詰まった。
だが、先王の遺児か、なかなかそれは面白いかもしれない。
そう考えていたら、ヤトの言葉が刺さった。
「お前が育てた後継者が王となるのじゃ。
お主の高すぎる自尊心を満たすにはぴったりだろうよ」
忌々しい程に人の心を見透かす癖は変わらない。
だが、すぐに了承の返事をするのは腹立たしい。
チッと舌打ちして、言葉を濁した。
「ああ、それとのぅ。 あ奴の事を嗅ぎまわっている輩がごろごろおる。
先王の遺児が生きていたという情報が、北の砂の一族を通して伝わってしもうたでなぁ」
「はぁ? なんだそれは! 弟が情報を漏洩したのか。それをお前が見過ごしたのか」
思わずぎょっとして、ヤトを睨み付けた。
だが、ヤトはいつもの様に飄々と笑って応えるだけ。
「北の一族は王の帰還を心待ちにしてるでなぁ。
北から嫁いできた女どもの嬉しい内緒の話が飛び火した様じゃ。
善意の口の軽さは止めようがないわ」
そういわれて、弟である長の4番目と6番目の妻は、北の一族の出身だったと思い出した。
里の者は北と南の血の交流という意味合いもあって、一定数が婚姻を結ぶ。
長ともなれば、積極的に進められた北の娘を娶るのも当然であった。
そんなノルバよりも二回りほど若いあの娘らは、一概に善良で腰も体も丈夫でしっかりした子を沢山産めるが、頭も口も確かに軽かった。
サマーン王の遺児。
もう生きてはいないだろうと絶望の淵に探索を諦めていた気配が濃厚だったゆえに、その朗報は瞬く間に伝えられたのだろう。
それが、どういう結果を齎すか考えもせず。
北の一族の半数はサマーン王国の内部にて職を得ている。
砂漠で暮らすのではなく、街中の暮らしにて生計を立てているものが多い。
彼らにとって、サマーン王の遺児が見つかったという情報は黄金の塊に等しい朗報だ。
だが、王を失い、権力が二分し、国が荒れた中でのこの情報は、敵も味方も限りなく湧き出すことは間違いない。
「砂の一族出身の私が育てる年頃の子どもとなれば、おおよそ検討が付く者もいよう。どうするのだ。この国ではおそらく守りきれんぞ」
私のその言葉に、ヤトはカラカラと笑って言った。
「なに、方法は多々あろう。それとも、ワシのとっときの策が必要かのぅ」
悔しいことこの上ないが、ヤトは確かに優秀すぎる策士だ。
騙したなと吠える者に向かって、馬鹿よアホよ残念よのぅと、高らかに笑う姿を覚えている。
あの時のドヤ顔を思い出しムカついて、ついヤトの言葉を遮った。
「いらぬわ。お前の愚策などなくとも、このノルバがなんとかしてみせるわ」
なんとかと言ったが、実際はどうする?
そう言い切った脳裏に、ある一つの策を思いついた。
「子供は堂々と育てる。だが、ちょっとした目くらましをかける。
そうすれば、追手が探ってきても別人という報告しかなされぬだろう」
口に出してみたら、それが奇策にしてもっともよい作戦だと思い始めた。
彼らが立派に育てば、目の前のヤトも、ノルバの事を認めるに違いない。
ヤトはノルバの言う目くらましの策の内容に気が付いたようで、眉を潜める。
「それは、浅知恵というべきじゃないかの。
後々に困った事になりはせぬか?」
これを女の浅知恵だと、ヤトの訝しむ顔をフンっと鼻で笑った。
「女だ男だと細かい事ばかり気にする奴は、所詮小物よ。
人間の本質と言うものを理解すれば、問題にならぬよ」
鼻の下を擦るヤト。これは、困った時にしか出ない子供の頃からの癖。
人生で初めてヤトを見下ろせた気がした。
「まぁ、それも面白そうじゃから、様子をみようかの。
優秀じゃと評判らしいノルバのお手並み拝見じゃの」
楽しそうに笑うヤトの言葉に苦々しい気分が生まれて、自尊心を酷く煽った。
「ああ、見ているがいい。私の人生をかけて、あの二人を最高傑作に仕上げて見せるわ。
その時のヤトの吠え面が今から楽しみだよ」
そういって、子供を引き取って英才教育を施して、今に至る。
目の前にいるのは、確かにノルバの最高傑作。
どうしてこうなったと頭を抱えたことも少なくないが、手塩にかけて育てた我が弟子どもだ。
サーリアに至っては、我が子だと言ってもいいくらい身の内にいれて育てた。
ここまで変わった原因の一端は自分にあると解っているだけに、少々苦々しい。
だが、どこでどうなろうが、過去も未来も、口出しするつもりは毛頭なかった。
サーリアの傍に、食事の盛り付けが終わった秘書のカーラーンがそっと後ろに立つ。
カナンにちょっかいをかけながらもルカは一番大きな皿を抱える。
いつもの見慣れた光景だ。これが平時なら、まるで家族の団欒だとも思う。
もしかして、これが平穏というものであろうか。
その一瞬、全ての音が遠ざかり、愚鈍な思考に囚われた。
一瞬だが、閃きに似た何かが寂寥感を呼び起こす。
彼らはもう自分の手を必要とする子供ではないのだと。
と、同時に彼らの将来について、漠然とした不安が湧いた。
私の自尊心の為に歪に育てられたこの二人が、
この先真っ直ぐに光の道を歩いて行けるのだろうかと。
ぶるりと背筋が震えた気がして不安材料を一つ一つ消していく。
人も道も用意した。
ずっと昔から決めていたことだ。その為の事前準備を怠った覚えはない。
目立たぬように群に混ざり、書類を幾度も差し替え、手を変え品を変え、
敵に気付かれぬように、用心深く手堅く秘密裏に伝手を集め、
ゆっくりと泥の中の縄を引き上げる様に、寸分の狂いもない絵を描いた。
そうして、もはや20年だ。
手塩にかけて育てた王となる男は、我らが意図を組み、十分な知識を貯め込んだ。
力を十全に尽くせるように信頼できる手足をつくり、何一つ過不足無く、
小さな穴もらさぬ構えを整え、周囲も後顧の憂いすら断ち切る勢いだ。
後は天命のみぞ知るとも言える状態だ。何の心配もない。
私の悲願は果たされるはず。
ようやく、ようやく、その時が来るのだ。
待ちに待った時だ。そのことを喜びこそすれ憂いはないはず。そのはずだ。
だが、いざ事を前にすると、本当にこれでいいのかとノルバの頭の片隅で何かが囁いた。
果たして死に向かうのは、誰だと。
この中の誰かの命が失われるかもしれない。
ルチアが持ってきた報告書。
あの事実が本当であれば、ルチアの命は間違いなく消える。
ルチアが失われれば、サイラスは生きていけぬだろう。
サイラスが寄せるルチアへの依存を消さず、ワザと大きくしたのはノルバだ。
そうせねばならないほど、あの頃のサイラスは生に執着させるのが難しかったのだ。だが、今回はそれが裏目にでたやもしれないと、気が付いていた。
長く生きてきたノルバ自身の死は恐れぬが、
ノルバや彼の人の決断ゆえに、あたら若い命が失われるやもしれないことに、
今更ながらに酷く罪悪感を覚えた。
その罪悪感がノルバに囁く。
このまま事を起こさなければ、どうなる?
この平穏はずっと続くのではないか。
サマーン王国の諸事情など忘れて、ここで今まで通り、皆で和気あいあい生きていく未来も今なら選べるのではないか?
そんなノルバの迷いを感じたのか、ヤトがくるりと何の前触れもなく振り返った。
その目は、顔は笑っているのに氷点下を感じさせる程厳しい。
「どうした、婆よ」
ノルバの喉奥がごくりと唾を飲み込み、ぎゅっと耳奥で音を立てた。
本当に、この男は昔からそういった勘が異常に鋭い。
何を今さら。戻る道はどこにも無いであろうに。
ヤトの目はそう告げていた。
ノルバは、薄い唇をキュッと噛みしめ目を閉じ、痛みを伴う感情を押しつぶす。
ノルバとて砂の一族。
彼の人の墓石に、一度決めたことは死んでも破らない誓を立てている。
もう戻りはしない。いや、出来ない。
過去に用いた策は愚策であったのだろうか、結果は開けてみるまで解らない。
そうして猫のような大きな目を、すうっと開いた。
「なんでもない」
心の中の扉をバタンと閉めた。




