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箱をあけよう  作者: ひろりん
西大陸砂の国編
228/240

リリルアーシャの砂上の楼閣

もう、なんて人なのかしら。


彼女はすでに何度目からなるグレンとの攻防に疲れて、

「はぁ」とこれ見よがしに大きなため息をついた。

だが、ため息の原因である男は、鼻歌でも口ずさみそうなくらいにご機嫌で、

何が楽しいのか彼女の顔を見ては、にこっと自然な笑顔を見せる。


「あの、グレン様、もう少し離れて下さいませ」


彼と彼女の距離はかなり近い。

というか、馬上で相乗りをしているのだから、

彼が背後から彼女をがっちり掴んでいる状態だ。


「うん? ただのグレンでいい。様なんて付けないでくれ。

 リルにはグレンと呼ばれたいんだ。

 ああリル、そんなに離れたら落ちる。

 君は馬には乗ったことがないのだろう」


確かに彼女は馬に乗ったことはない。

だからと言って、こんなにもぴったりと隙間なく抱えなくてもいいはずだ。


「で、ですから、私は歩くと」


「リルは巡礼者の恰好をしているが、砂漠を旅した経験もないだろう。

 それでどうやって歩いて砂漠を渡るんだ」


グレンは呆れたような顔で、当然の様に彼女の言い分を潰す。

リルの手が膝の上で、きゅっと締まった。


「ですが、見知らずの方にご迷惑をおかけするわけには」


遠慮がちに、且つ、できるだけ爪を立てたりしないように、

グレンの手を剥がそうと腹部に回されていたグレンの手の甲の部分に手を重ねると、

グレンの親指がさわさわと彼女の手の甲を器用に撫でた。


「もう見知らずではないだろう。

 俺たちは、こうして、一晩一緒に過ごした仲だ」


親指の動きに、彼女の背にぞわぞわとした震えが走った。

が、体の反応はともかく、今の言葉は常識的に見てかなり問題がある。


「なっ、一晩って、それは」


自分が気を失っている時の事は不可抗力だと、

言いかえすために首を捩じってグレンを見上げたら、

グレンの顔がびっくりするほど間近にあり、思わず目を見開いた彼女の唇に、

ちゅっと小さな熱が落ちる。


「うん、可愛い」


あっけに取られているリルの唇に、更なるキスの雨が、ちゅっちゅっと降る。


「や、な、ま、待って、なん、なんで、いや、ダメ、やめて」


リルは、必死でグレンのキスを押しのけようとするが、

更に、手綱を握っているはずの右手が、彼女の背中をすうっと撫でた。

電気信号が走ったみたいに、脊髄からビリビリと刺激が走り抜けた。


「きゃうぅ、それ、やめ」


リルの反応を見ながら、グレンは器用に指で彼女の指の間や手首の裏など、

何かを探すように、ゆっくりとくまなく撫で摩っていく。


「ああ、本当に可愛い。可愛いすぎだ」


「いやぁ、もう、それ、くすぐったい」


グレンの手がさわさわと動き、その指の動きがどうにもくすぐったくて、

彼女は必至で右に左にと身をよじった。

だが、先の言葉の通り、グレンの手は止まらない。


「リル、落ちたら怪我をする。動くなよ」

「なら、その手を止めてくださいませ!」


リルは叫びながらも、グレンの右手を必死でたたき落としていた。


「もう、やめて下さいと」

「ほら、グレンって言ってみろよ。簡単だろ」

「呼んだらやめて下さるの?」

「無理だな、諦めろよ」


何を諦めるというのか。

ばちばちと手を胸を叩くのだが、グレンの分厚い大きな体は、

リルの攻撃に全く応えた様子がない。


「若~、頑張ってくだせぇ」

「若にとうとう春が、殿~目出度いですぞ~」


誰もグレンの蛮行を止めてくれない。

それどころか応援したり、終には嬉しそうにむせび泣いている老人もいる。


リルの必死な攻防は、何一つ真剣に彼らに取られてない。

それを知ってか知らずか、グレンも調子に乗ってリルに手を伸ばす。


「おうおう、やっぱり若は殿の子よ」

「そうさのぅ、殿がレナーテ様を迎えたばかりの頃のようだ」

「懐かしいのう、嬢ちゃんの反応も、嘗てのレナーテ様を見ているようだて」


二人を取り囲むグレンの供の老人達の言葉や態度は、

懐かしさに浸っているというかなんというか。

そんな彼らの視線はなんだか生温かく、とかく恥ずかしい。


彼らの呼び方から、グレンが若と呼ばれているのは解っている。

殿というのはおそらくグレンの父であろう。では、

「レナーテ様というのは、どなた?」


つい好奇心のままに疑問を口に出す。


「俺の亡くなった母だ」


真面目な顔で返事を返したグレンに、思わず彼女の顔が固まった。


リルは両親の愛情を知らない。

だが知識から、子は親を悼むものだと解っていた。

グレンや供の人達の言葉からも、グレンの母親は大層好かれていたらしい。


紙の上の知識はこういう場合は、どういえばいいのか教えてくれない。

母親を亡くしたという彼に、なんと声をかけたらいいかわからなかった。


「あの、ごめんなさい。私、つい」


言葉に詰まった彼女に、グレンの瞳がふっと緩み、彼女の頭を優しく撫でた。


「もう、昔のことだ。リルは気にしなくていい。

 お前たちも、茶化してないで前を向け。

 今夜の野営場所を探してこい」


グレンの言葉で、供の者数人が前方に馬を走らせていく。

じゃれ合いは終わりとばかりに、グレンが真面目な顔になる。

そして、リルが馬から落ちないように優しく抱えなおした。


「気になることがあるから少し駆けさせる。

 気分が悪くなるようなら言ってくれ」


リルは大人しくうなずいて姿勢を正した。

がっしりとしたグレンの大きな手は、温かく優しい。

グレンはリルが壊れ物であるかのように、その大きな手で優しく丁寧にリルに触れる。

そんなグレンを、リルはいつの間にか目で追うようになっていた。


雛が親鳥を無条件に信じる様に、

グレンは決して彼女に無体なことを強いないと、

なぜだかリルは確信していた。


そう、なぜだろう。

あったばかりの他人だというのに。

なぜこんなにもグレンは優しく彼女に接するのか。

なぜリルがグレンを信じることが出来るのか。

さっぱり解らない。


「もうすぐ日が暮れる。そこでこれからの事を話す。

 その際にリル、君のこれからの事も決めようと思う」

 

離れていくグレンの手に戸惑いと名残を感じながらも、

未来を指し示す言葉に彼女はこくりと頷いた。



*****



リリルアーシャが目覚めてすぐに、目に入ったのは知らない男の人の顔だった。

彼は、リリルアーシャが知るどの人間とも違っていた。


リリルアーシャが皇女だと名乗らないせいでもあるが、

彼は、なんとも気安く彼女に話しかけ、触れて、抱きしめる。

遠慮がないとは聞こえが悪いが、それくらい彼と私の間に壁を感じなかった。


言葉使いや態度、大勢の臣下を引き攣れていることからも解る。

彼は、身分がある人のはずだ。

なのに、リリルアーシャが知るどこの貴族とも違った。


爽やかな好青年では納まらない存在感もさることながら、

彼の顔も、言葉にも、全く嘘が感じられなかったのだ。


仮面を被った大人ばかりの中で生きてきたリリルアーシャには、

グレンの全てが、新鮮で驚きだった。


彼のことは清廉潔白というつもりはない。どちらかというと、

やんちゃな少年がそのまま大人になったような不思議な魅力のある人だ。

グレンの偽りのない笑顔は、爽やかな風を彼女の心に感じさせた。


彼は、グレンと名乗り、南の海洋都市で知られるラドーラ自治区の、

領主の息子だと言った。

目鼻立ちは整っているし、まっすぐな気性が現れた素敵な目をしていた。

彼に出会うほとんどの人間が、彼に好印象を持つことは間違いないだろう。


だが、リリルアーシャは一つだけ彼には難点があると思っている。

彼は、初めて彼女が目覚めた時から、接触過多気味な人であった。

なにしろ余りの近さに驚いて、彼の頬を思いっきり叩いて突き飛ばしたくらいだ。


命の恩人であると後に聞かされて、ごめんなさいと謝ると、

彼は怒るどころか、嬉しそうに笑った。


「元気になったってことだろ。いいことじゃないか」


そういって、彼女をぎゅっと抱きしめた。


彼女の体調を気遣ってくれた。これは、問題ない。

だが、なぜここで抱きしめるのか。

彼女は何が何だかわからない。


離宮育ちの彼女には当然だが、異性との交際経験はない。

彼女の命が助かって、本当によかったと喜んでくれるグレンの行動を、

咎めることが悪いことなのか良いことなのかすら判断できない。


頭の中で、叩き込まれた淑女の常識がぐるぐると回るが、

相手が砂漠の中で死にかけたとこを助けてもらった場合、

長年培った教えは判断材料にはならなかった。


彼の供の者達も、そんな彼の行動を笑っているだけで止めようとしない。

それどころか、嬉しそうに囃される。

彼女の戸惑いを余所に、グレンは嬉しそうに笑うだけ。


頭を悩ませている彼女からしてみれば、少しばかし悔しくて面白くない。


リリルアーシャは、自分が世間知らずだということを知っている。

だから、もしかして、彼女が知らないだけで、

グレン様の行動はラドーラ地方の挨拶のようなものなのかもしれない。


最初はそんな憶測もしたが、

供の者のにやけた顔が鑑みるに、どうも違うようだ。


リリルアーシャはグレンが、そして自分が不思議だった。


どうして彼は、こんな風に私に触れるのだろうかと。

どうして私は、彼の行為に対して嫌悪感を覚えないのかと。


全く持ってわからない。

こんなわからないことは、彼女の人生で初めてかもしれない。

侍女のムシュカが傍にいたなら、相談に乗ってもらったのに。

彼女は心の中でひそかに白旗を揚げていた。


普段から傍にいるのは侍女のムシュカだけだったので、

異性との正確な距離感を図りかねているだけかもしれないが、

元来の彼女は、警戒心や男性に対する恐怖感が強く、

知らない異性が傍に近寄ることにすら嫌悪感を抱く傾向にあった。


その過去の状況や感情を覚えているだけに、グレンに名を聞かれて、

リルと正直に幼名を名乗ってしまったことに、

伸ばされた手に、素直に抱きしめられたことに、

自分でも色々と驚きを隠せなかった。


「リル、可愛い名だ。君によく似合う」


そういって微笑んだグレンの笑顔にどきっと心臓が撥ねたのは本当の事。

それどころか、グレンに肩を抱かれて引き寄せられた時、

傍に居ろと手を握られた時、心臓は始終飛び跳ねていた。

今までにない心臓の壊れ具合にも、どうしようもなく首を傾げるばかりだ。


皇女として幼き頃より宮殿で過ごし、

礼節ある人々の中で育ったリリルアーシャの傍には、

間違いが起こるかもしれない年齢の異性は徹底的に排除されていた。


彼女にとって男性とは、将来彼女の夫となる王だけだ。

そう言い聞かされて育った。


美意識を云々というわけではないが、

後の夫となる王と呼ばれる男は、太りに太った醜い容姿をしていた。

その上、油っこい物ばかりと好んで食されるゆえなのか、

高価な薔薇の香油との混じりあいで、一種独特な異臭を放っていた。


王の周りの美女達は、男らしい香りだとか高貴な匂いと簡単に受け入れ、

王に嬉しそうに傾かかるが、幼き彼女には傍によることすら苦行だった。


あれが夫となるもので、彼に寄り添うのが王妃となるものの務めです。

そういわれて、我慢して息を殺した。

王の前では、いつも黙って頭を垂れていた。

肌に、背に、顔に触られても、黙って耐えていた。


あのころは、わからなかったが、

そんな彼女の態度を王は見抜いていたのかもしれない。


幼き頃には少しの訪れがあった離宮も、日々王の足が遠のいて行った。

それを幼い彼女は素直に喜んでいた。


だから、決定的にお前は俺の傍にはいらないと言われて、

衝撃はあったものの、ホッとしたことも事実であった。


もしや自分は男性という生物が嫌いなのやもしれない。

そんな風に思っていたから、異性であるグレンに嫌悪感を抱かない今の状況は、

リリルアーシャとっては混乱以外の何物でもなかった。


神殿を騙すという王の理不尽な考えに賛同できなくて、

また、老人とも言える年齢の異性の宰相様に身を差し出すことに恐怖して、

神殿が巡礼団を組んでレナーテへ向かったとき、

侍女のムシュカと共に、彼らの中に身を隠して王都を抜け出した。


「神殿での潔斎は日数がかかるのが常識です。

 だから、王の監視から数日間は逃れることができるはず。

 その間にレナーテの大神殿に保護を頼みましょう」


ムシュカは、リリルアーシャの手を引いて巡礼団の司祭様と共に、

生まれて初めて砂漠へと足を踏み出した。

巡礼団の一員も司祭様の態度やムシュカの顔で気が付いたのか、

黙って彼女たちの逃亡を手助けしてくれた。


だが、巡礼団がレナーテにたどり着くわずかなところで、

リリルアーシャが逃げ出したことに気が付いた王の追手が、

夜半に巡礼団のテントを襲った。


「姫様、どうかお逃げください。 

 私が姫様のローブを着て、レナーテの方向に走ります」


そういってリリルアーシャを逃がしてくれたのは、

同じ巡礼団の一員で、夫と両親を亡くした若い女性だった。

砂漠での野営になれなくて、砂漠の夜の寒さに震えていた彼女に、

こちらの方が火の傍に近くて暖かいからと、場所を変わってくれた優しい女性だ。


「どうか姫様、生きてください。

 生きてレナーテの大神殿へ」


彼女はリリルアーシャの来ていた真っ白いローブを頭からかぶると、

レナーテの方向に走り出した。

その彼女の背を追って、ざざざっと沢山の足音が動いた。


「いたぞ、皇女だ。追え、逃がすな。

 いいか、宰相殿より怪我をさせるなと命令を受けている。

 矢や剣は使うな。囲んで網を投げろ」


王の近衛で時折聞いた声が夜陰に響く。


「ですが隊長、皇女は思いのほか足が速いです。

 このままでは囲うのは無理かと」


「馬鹿者、傷を負わせたら俺たち全員減給だけでは済まんぞ。

 馬を仕え。右と左から、そうだ回り込め。

 皇女の行先を潰せ。網を構えて追い立てろ」


彼女が兵を引きつけてくれていううちにと、

ムシュカと二人、夜陰に紛れてそっと逃れようとして、

テントの影にいた兵に見つかった。


「おい、女、そこで何をしている。

 怪しい行動をするなら、一緒に来てもらうぞ」


ムシュカが短剣を背後で構え、リリルアーシャを背後に隠した。


「そんな、兵士様、あんまりですよ。

 こんな夜に武器を持った屈強な兵士に驚いて腰が引けるのは、

 私らか弱い女の身では当然のことではないですか」


「平民は文句を言うな。死にたいのか」


槍先を向けて怒鳴る兵士に、ゆっくりとムシュカが近づいていく。


「いえいえ、どうか哀れな中年女にお目こぼしを。

 これは些少ですがお受け取りください、兵士様」


小さな布地でおひねりの様に包んだ何かをムシュカが差し出した。

袖の下を貰いなれているのだろう。

兵士は槍先を上にあげて、口角を歪めて手を差しだした。


「ふん、まあいい、解っているようだな。

 うん? なんだ女、何を背後に隠して」


兵が賄賂ではなくムシュカの背後を気にした時、

ムシュカは兵士の心臓にその短剣をまっすぐに突き刺した。

刺されたままの傷から真っ赤な血と熱が、潮が満ちる様に全面に広がる。

兵士は、自分の体から、ずくり、ぐりっと更に肉を捩じる音が聞こえた。


「が、あ、お、お前は」


これ以上の言葉が紡げぬように、ムシュカは兵士の胸からズッと短剣を抜いた。


「ぐぼっ、あ、あが、ぼっ」


胸からも喉からも鮮やかな血を噴き出しながら、兵士が倒れた。

砂漠に生臭い血が流れ、その温かい血が砂地に吸い込まれていく。

兵士の命は痛みを感じる前に、その命を散らした。


「行きましょう」


ムシュカに手を引かれて、巡礼団からそっと逃れる様に右の砂丘へと走った。

その時、空の三日月をずっと覆っていた黒い雲が、すうっと巡礼団の居た場所を照らした。


それと同時に、兵士に網に捕まった女が隊長の元に引き立てられて、

大きな声が上がった。


「違うぞ。これは皇女ではない。人違いだ。

 この女は身代わりだ。おのれ、貧民の分際で我らを謀るとは。殺せ!」


隊長の声と同時に、殺された女の悲鳴が響く。


「やめて、いや、ギャァー」


女の最後の悲鳴が、リリルアーシャの心にのしかかる。


「この辺り一帯を探せ、皇女はここから逃げようとしている。

 決して逃がすな。巡礼団の女が被るローブをすべて剥ぎ取れ。

 抵抗する者は殺して構わん。所詮貧民だ」


兵の下卑た声と共に、巡礼団の女性から悲鳴が上がり始める。

皇女を探す名目で、兵は理不尽な暴力と無慈悲な凌辱を彼らに向けた。

わずかな水と食料しか口にできない力ない民では抵抗できない。


「ひぃ」

「やめて、やめて」


悲鳴が聞こえる。

リリルアーシャは、耳を抑えて必死で目を閉じた。


ああ、私はまた誰かに犠牲を強いたのか。

一体いつまで、私はこんな風に、

誰かの生を踏みにじってまで生き続けなければいけないのか。


リリルアーシャは涙を堪えながら必死で逃げた。

なんとか砂丘に身を隠して、影が映らぬように砂地に身を潜めた。

嗚咽が出ぬように、必死で口元を覆って、パタパタと涙を砂地に落とした。


私達は、私は、尊い犠牲の上に生かされた。

だから、せめて泣いて弔いを。

胸の前で手を組んで、女神に向かって祈った。


だが、女神の加護は彼女達には足らなかったようだ。


夜に砂漠を渡る風は、砂地に残る足跡を、

あっという間に消してしまうのだが、

今宵に限って風の渡りが遅い。


いつもより風がないのかもしれない。

血の匂いが、二人が隠れる砂丘まで届いてこない。

そうっと顔を砂丘からのぞかせたムシュカは、目を見張った。


巡礼団のテントから続く二人分の足跡。

それらはこの砂丘までくっきりとつづいている。

このままにしておけば、兵士が足跡に気が付くのは時間の問題だ。

見つかれば、間違いなく捕まる。


ムシュカは舌うちをして、リリルアーシャに水袋を渡した。


「よいですか、姫様。

 貴方は、東に2日ほど向かった先にある村に向かって下さい。

 そこには宮殿医師をしていたシュアトの息子が、

 村で医者として居を構えていると以前に聞きました。

 彼は父親と同じく姫様をお支えしたいと願う一員です。

 彼を頼って、どうにかしてレナーテの大神殿に連絡を取って下さい」


「ムシュカ?!嫌よ!」


「私の事は心配ありません。

 レナーテ大神殿の神官長は私の身内。

 神官長は真実を見る目を持つ偉大なお方です。

 神殿と争いたくない王にとって、私は今は殺したくとも殺せない相手です。

 祭りの前に捕まっても、殺されることはありません。

 ですから私の事は考えず、今は姫様が逃げ延びる事だけお考えください」


「嫌よ!お願いムシュカ!」


「黙って姫様、見つかってしまいます」


彼女の制止を無視して、ムシュカは砂に残った足跡を消すために、

じわじわと砂丘までの道を逆方向に向かって這いつくばるようにして進み、

巡礼団の近くまで来て、左に向かって走った。


兵の声が上がる。


「おい、左に影が逃げたぞ」

「皇女か、捕まえろ」

「やはり女だ、見つけたぞ。こっちだ。決して逃がすな」


男達の声がムシュカを追って左の砂漠へ向かう。

あの時と同じだ。


リリルアーシャの脳裏には、彼女の為に死んだ大事な家臣達の顔が、

浮かんでは消え浮かんでは消えと残像が飛び交う。

皆、皆、彼女を守る為に死んでいった。


涙でその絵が霞む中、それでもムシュカの言葉が彼女の背を押した。


「リリルアーシャ様、皇女たる貴方様は、

 彼らの純然たる想いに報いなければなりません。

 彼らは貴方にこの国の未来を託したのです。

 あのような王を、今の国を支え導くのは貴方を置いて他におりません。

 決して、決して忘れてはなりません。

 貴方は、何としてでも生きるのです。

 誰が死のうとも、何が失われようと、

 貴方は生きて、この国を救わなければなりません」


長年、呪縛のように聞き続けていた言葉が、リリルアーシャの足を動かす。

暗闇を音もなくゆっくりとその場から離れていく。


歩き続けて人の気配がなくなって、ほっと背後を振り返った。

砂丘の影からはもう野営の光は見えない。


暗闇の中、月と星の光を頼りにとぼとぼと歩いた。


巡礼団の元旅芸人だった男が、リリルアーシャに教えてくれた。

北の空に、いついかなる時も場所を違えない星があるのだと。

砂漠を旅するものは、その星をにて方角を読み旅をするのだと。


「東は、ああ、こっちね」


方角を確認した上で、ムシュカに言われた村の方面に足を向ける。


今のリリルアーシャは一人だ。

孤独にはなれていたが、砂漠を一人で進む夜はひどく寂しかった。


朝が開けて日が昇り、一日中歩いて、さらに日が暮れた。

これを二日二晩続けて、太陽が中天に差し掛かる頃、

彼女はムシュカの言っていた村に着いた。


だが、その村はすでに枯れた村であった。

自然災害が襲ったのか、家屋の殆どが半壊して酷い有様だった。

水源は枯れ、村人一人いない。


呆然と目を見張ったが、目の前の現実は変わらない。

大きな屋敷跡と見られる大きな部屋の影に、

疲れ切ったリリルアーシャは座り込む。


「お水」


持っていた水袋からは、逆さに振っても一滴の水も出なかった。

もともとレナーテまで、ぎりぎりたどり着くだけの水しか持って出なかったのだ。

ムシュカが渡してくれた水袋の水も、飲みきってしまった。


水は、もうない。


喉が乾きに痛みを覚えて、息をするのすら苦しい。

心の中の何かがポキリと折れた。


体が怠く、酷く重い。

この村に着くまでと必死で歩いてきたが、もう一歩も動けない。


疲れのままに石床に横たわり、冷たい感触にほっと息を吐いた。


「このまま死んだら、皆のところに行けるのかしら」


そんなこと冗談でも言ってはなりませんと怒鳴るムシュカの怒り顔を思い出した、

クスリと笑った。


こんな時なのに、私はまだ笑えるんだ。

少し可笑しくなってそのまま目を閉じた。


今は、休みたい。

もう何も考えたくない。 



*******



そして、目覚めたリリルアーシャを待っていたのは、グレンだった。

グレンの腕の中は、ムシュカよりも広く温かく、そして硬い。


ムシュカと間違えてすり寄って、

いつもと感触が違うことに驚いて目を覚ましたのだが、

いきなり頬を叩いた彼女を、グレンが怒ることはなかった。

それどころが、大変好意的にあれこれと彼女の世話をしてくれた。


「ほらリル、水を一口飲め。

 飲まないなら、飲ましてやろうか?」


水袋を差し出したグレンは彼女の唇に、慣れた感じでちゅっと唇を寄せた。

本当に、グレンのスキンシップ好きには呆れてしまう。


「あ、やだもう、一人で飲めるわ。結構よ」

「残念。リルにキスしたかったのに」


「すでに勝手に何度もしてるじゃないですか。

 私は止めてと言ってるのに」

「リルが可愛すぎるんだ。仕方ないだろ」


グレンは、初めからずっと、リリルアーシャを可愛いと触れてくる。

嫌だと何度も言ったが、キスの雨は降り続く。

その手を幾度と払い落としたが、彼はしつこい性格なのか、

繰り返し諦めずにリルに手を伸ばす。


何時しかリルも疲れてしまったのだろう。

もしくは、グレンの暖かな瞳に、その優しい手に絆されたのか。


今ではすっかり彼のすることに慣れてしまったとまでは言わないが、

それなりに許容範囲が広がったのではないかと思っている。 


だって、彼にリルと呼ばれる今の私は、皇女ではない。

皇女としては許されない無礼な態度も、ただのリルなら問題ない。かも?


そう、彼の目に映る私は、ただのリルだ。


そう思うと、長年の重い頸木から解放されたような気になる。

グレンの胸は固いが、彼の心臓の音が聞こえる位置は安心する。


砂漠に行き倒れていた理由を聞かれ、

レナーテの大神殿に行くつもりで巡礼団にいたが、

夜盗に襲われて、逃げてここに来たが、村が枯れていて途方に暮れていたと、

グレンにはそう言った。

ほんの少し違うが、大まかには違わないはずだ。


正直な彼には嘘を言いたくなかったが、詳しい事は言えない。

言えば、彼に迷惑が掛かるし、彼の前ではただのリルで居たかった。


グレンは眉を潜めただけで、リルを問い詰めたりしなかった。

その上、自分達もレナーテ大神殿に行くのだから、

一緒に行こうと馬に乗せてくれた。


グレンと一緒の馬での移動はかなり気恥ずかしいが、徒歩より数段早いし、

彼とのじゃれ合いはともかく、彼らと行動を共にするのは存外楽しい。


彼らは、十分な水や食料を積んでいた。

砂漠の知恵を、砂漠で生きる力を、十分に兼ね備えていた。

グレンとその一行は、さっそうと砂地を泳ぐように自然に馬を駆る。


彼らの黄色のターバンは、かの有名な砂の一族の証だと聞いて、

珍しい物を見たように目を見開いた。


砂漠に浮かぶ風景のような絵に驚いてグレンに尋ねたら、

グレンは機嫌よく、あれは蜃気楼だと答えてくれた。

どこかの遠い外国の絵が映ることもあるらしい。


砂漠のサソリを初めて近くで見て、赤くて綺麗とそうっと近づけば、

慌てて抱きしめられ、怒られた。

グレンに、あれは猛毒持ちだから刺されると死ぬぞと驚かされた。


リルの傍には必ずグレンが居て、なぜか至れり尽くせりの世話をしてくれる。

なんの不安もない。あの逞しい腕の中で、いつもリルは守られる。

それに、知らないことが沢山あって、毎日が楽しかった。


そして、特筆すべきは、彼らはとんでもなく強い集団だということ。


途中、人さらいを商売としている一団が襲ってきたが、

一味の方に3倍の人数が居たにも関わらず、

グレン達はあっさりと彼らを叩きのめし、無力化した。


戦うグレンは、びっくりするほど逞しくて、凛々しくて、勇ましくて、

きりっとしたその横顔に思わず見惚れてしまった。


素敵だったと褒めたら、嬉しそうにグレンが笑う。


「惚れてくれていいよ」

「馬鹿」


グレンの熱い手が彼女の頬を撫でる度に、頬に熱が集まる気がした。


ずっとこのまま、リルのままでグレンの傍に居れたら。

そんな夢のような考えが何時しか彼女の心に芽生えた。


今だけだから。お願いだから許してほしい。

そう願っていた。

だが、夢はいつかは覚めるものなのだろう。


先の事を話し合うと座った、焚火を囲んだ野営地で、

彼らが、グレンについて知らなかった事を教えてくれた。


大神殿での用事とは何なのかと聞いたリルへの答え。


「レナーテの大神殿で、若は次期領主に任命されるのさ」

「だが、一筋縄ではいかんだろう」

「ああ、なにしろ神殿の奴らは若を王にしたいらしいからな」

「若はラドーラの、ワシらのもんだというに、奴らは聞かん」


王。


リルの息が止まる。


「実はの、ラドーラの殿は、先先代の落とし種でな、

 若はまかり間違えば、王太子様ちゅうわけじゃ」

「奴らは女神の刻印を持つ正当な血筋を求めておっての、

 若にどうしても王になってほしいというてきかんのだ」


グレンが王の血筋?

グレンが王になる?

それなら、私は、王妃となるべく育った私の居る場所は、

あの王のそばではなく、グレンの傍?


それならば、ああ、もしそうなれば、私はずっと彼と一緒に居れる?

心に、ほわっと小さな灯が点った。


グレンはリルの硬直をどう取ったのか、震えるリルを抱きしめて言った。


「馬鹿言うな。俺は所詮傍系だ。王には成らんし成れん。

 俺が成るのはラドーラの領主だ。

 王は、他に3人も候補がいるんだ。なりたい奴が成ればいいだろ。

 リル、俺には王だのなんだのは関係ないからな」


小さな灯が、ふっと消えた。

絶望がじわじわと彼女に迫ってきていた。


固まったリルの誤解を解こうとしているのか、

リルの旋毛にちゅっちゅとグレンが唇を落とす。

だが、リルの心はそれどころではない。


グレンは神殿が押す王の最有力候補だそうで、

邪魔したい二人の王達に命を常に狙われているらしい。


「なあに、心配はいらん。

 ワシらが付いている限り、若にも嬢ちゃんにも、指一本触れさせんよ」


自信満々で告げるそんな言葉にも、リルの震えは止まらない。


「レナーテの祭りが終わったら、一緒にラドーラに帰ろう、リル。

 父に君を紹介したい」


その言葉にさらにリリルアーシャの心が凍る。

帰る? どこに?


ムシュカの声が耳に残っている。


(皇女として生きて国を救ってください)


グレンが領主となれば、リルは傍に居られない。

だって、リルは皇女で、この国を救わなけれなならないから。

その為に、彼女の臣下は死んでいったのだから。


ファイルーシャの主が王と認められれば、リルは宰相の慰み者だ。

好戦的なサマルカンドの主が王と認められれば、

戦を咎めるリルは邪魔な存在だ。

その存在すら危ういと言われている三人目の王子は、リルを必要とするだろうか。


新しき王は、グレンではない。


今のリルは、グレンと一緒にいる幸せを知ってしまった。

嘗ては受け入れた、グレン以外の王の傍で皇女として生きる道が、

今は、酷く恐ろしくて怖い。


嫌だと、想像するだけで心が泣き叫ぶ。


私は、私は、どうすればいい。

女神様、ムシュカ、私はどうすればいいのですか。


怖い。このままどこかへ逃げてしまいたい。でもどこへ?


「レナーテで俺たちは大神殿に滞在する。

 奴らは当然俺を殺そうと狙ってくる。馬鹿だからな。

 そういったわけで、俺の傍は危ない。

 だから、祭りが終わるまでリルは巫女姫に預けようと思うが、いいだろうか」


「巫女姫?」


「ああ、砂の一族の雨呼びの巫女姫だ。

 大神殿の奥宮に居る。

 あ、姫っていっても、もう婆さんだからな」


グレンの決定に、逃げ道がふさがれたのを感じ、黙って頷いた。

元々のリルの、いえ、リリルアーシャの目的地はそこだったのだから。


私は、決して逃げられない。私の運命から。

残酷な夢を見せた幸福の扉は、砂上の楼閣。


グレンはリルの髪を指に巻きつけ、

くるくると遊んでから指の腹で髪を撫でている。

視線が合えば、グレンの嬉しそうな笑顔。


甘いグレンの瞳も、その言葉も、その行動も、リルを慰めはしたが、

確実に襲ってくる絶望の予測に翻弄され、リルの心は打ちのめされていた。

 

がらがらと回る運命の輪。

砂上の楼閣のなかで子ネズミにように回り続けるのだ。


リリルアーシャは決して逃れられない。

輪は永遠に彼女を逃がさない。

迫りくる未来に、ただ震えていた。












 

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