迫りくる足音。
今回はメイが夢を見ている同時刻の出来事です。
マッカラ王国で塔の次に背の高い建物は王城である。
いや、正確には山麓に位置しているマッカラ王国の、
もっとも高台に据えられているのが、王が住む王城である。
王城は尖塔が玉ねぎの様に丸いドーム型の天井をもつ東大陸独特の優美な建築物だ。ぼうっと光る白い壁と金の装飾は見事なまでに美しい。
だが、その大きさは、他国の王城と比べてもかなり小さい。
山城の規模としてはそこそこだが、城自体の大きさはさほど大きくない。
そして王城に一歩踏み入れたら、外見と内部の様子の大きな違いに気づくだろう。
近づいて良く見ると、無骨なまでの利便性を兼ね備えた要塞建築だと解る。
外見と中が明らかに違うこの建物は学問の都であるマッカラ王国の本質を示しているとも言われる。この国の始祖達が決めたこの国の根幹がそうさせているのかもしれない。また、国の重要機関や公共施設、マッカラ学園や王立図書館、軍警備政務調整室、国立換金所なども実に質素な建物であった。
だが、その中の一角に、他とは真逆に違う建物があった。
建物自体はマンションの様な他の建築物と変わらない縦長の造りだが
一歩中に入るとその装飾過多な内装に目を瞠る。
大きなガラス窓の内側には二重に取り付けられた色違いのガラス。
二枚重ねることで一枚の絵になる光彩を利用した繊細な作りが実に見事だ。
美々しい飾りのシャンデリアの光が様々な色ガラスを反射し煌めく。
何層にも重ねた重厚な趣のカーテンは金糸のふちどりに装われ、
美しい白い漆喰で幾重にも塗られた壁は本素材である石壁の様相を全く見せない。
廊下は総檜の一枚板を床材として使用しており、
その上には、珍しい動物の毛皮を贅沢に使った最高級の絨毯が敷かれていた。
色鮮やかな金糸にも見える細い毛並は驚くほど滑らかで豪奢な輝きを放っている。
諸外国の金持ちが喉から手を伸ばしたがるほどの一品だ。
壁一面の手刺繍タペストリーは、どこかの神話なり英雄物語を題材にしたもので、
その配置も構図も色彩も目を奪われるように素晴らしい。
そして、人一人がすっぽり隠れてしまいそうな大振りな異国の青磁の壺は、
おそらく人一人が一生働いて稼いでも手が届かない程高価な品だ。
ここには、人の手で造り出された最高級の芸術品がそこかしこに点在していた。
贅の限りを尽くした何処かの王宮の一角かと思えるこの建物は、
清貧を旨とする本来のマッカラ王国の主義とは相反する。
だが、ある一つの確固たる目的をもって、確かに国が作った建物である。
この建物の正体は迎賓館である。
諸外国の裕福な貴族や王族、特使、国賓などをこの国に迎えた時に、
客が滞在する館である。王族に招かれた場合は王宮に留まることもあるが、
必要最低限の使用人しか置いて居ない簡素な王宮よりも、
この迎賓館の方が、どちらにとってももなにかと都合がよい。
国の威信や国力を見せつける意味合いが強いこの迎賓館は、
訪れる人を、ひいては相手国を圧倒する狙いがあるのだ。
中に備え付けられている調度品や絵画、絨毯やカーテン、
ベッドの木枠一つとして安物はない。
世界に名立たる一品ばかりが集められている。
目の肥えた人が見れば、金が湯水のように使われているのが解るだろう。
そして、教育の行き届いた洗練された使用人に、
他国では見たことのない最新式の生活設備。
全ての部屋に浴室が設置され、隣国の干ばつが嘘の様に、
簡単に溢れんばかりの湯水がどの部屋にも区別なく提供される。
ゼンマイ式の柱時計が全ての部屋に設置され、
最新式のオイルタイマーを常備したオイルランプ。
これらは全てこのマッカラ王国発祥の最近の発明品だ。
この建物一つで流石マッカラ王国は豊かで素晴らしい国力を持つと、
誰しもが言わさしめるだけの要素を持つ館だった。
もちろん装飾過多な部分や便利な生活機能だけを見て、
迎賓館として相応しいとしているわけではない。
分厚い壁と扉、外壁の群青色の漆喰の内側は二重に組まれた煉瓦。
防犯防音断熱暖房効果にも優れ、部屋の中は年中快適な温度が保たれ、
二重の窓を閉めれば中の音は全く外に漏れることはない。
ここは、王宮よりも安全な場所として知れており、
各国大使や警護が必要な外国の重要人物達が宿泊する施設であった。
普段なら国賓しか使えない館だが、とある事情から隣国の重鎮の関係者が、
学園の生徒の身でありながらこの館の一室を無遠慮に使用していた。
その学生がこの部屋を使い始めて3か月。
彼の態度の余りの横暴さに、使用人は嫌がって部屋にも寄りつかない。
警備も彼自身が遠ざけ部屋に近寄らさない。
よって、彼が誰を連れ込もうが何の問題を起こそうが、
誰も解らない迎賓館の異例の現状がそこにあった。
真夜中にほど近い時間。
周囲の人間は全て寝ていると思われるこの時間に、
その部屋の主は、ある客を迎え入れた。
最初はにこやかに丁寧に挨拶から始まった会話。
だが、客の言葉を2、3聞いただけで主の様子は一変する。
真夜中にもかかわらず、自称部屋の主である横暴な学生、カイマンは声を荒げていた。
「どうして見つからないんだ! ちゃんと探したのか!」
豪奢な金の巻き髪に青の瞳をした男、見かけがキラキラ王子様な男は、
目の前の部下が持ってきたびっしりと細かい字で書かれた数枚の報告書を、
両手でぐしゃぐしゃに丸めて床に叩きつけた。
彼は目を吊り上げて目の前に居た男に向かって怒りをぶつけていた。
「は、はい。 カイマン様、おっしゃる通りに探しました。
従業員、清掃員、生徒、生徒の家族に至るまで全てです。
退職者や離職者、退学になった学生も含め全ての名簿を当たりましたが、
王立学問所には、お申し付けのそれらしき男は居りません」
男は、床に額を押し付ける様にして土下座していた。
頭頂部には申し訳程度の金色の髪がふわふわと揺れている。
きょろ目が落ちくぼみ低い鼻が潰れたように見える。
頬骨が浮き上がり細い顔を更に細く見せていた。
土下座をしていた男の耳に、ぎりっと爪を噛む音が聞こえた。
男の背中に冷や汗がじっとりと湧いてくる。
男はちらりと目線だけを彼の主人に向ける。
彼の僅かな視線を受けて、カイマンが男をギロリと鬼気迫る様子で上から睨みつけた。
男はカイマンの怒りの篭った視線を避ける為にまた顔を慌てて床に擦りつける。
なんとか怒りを治めてもらえないかと、
背中に大量の冷や汗を掻きつつ言葉を探す。
「昔と違ってさほど大きな施設ではないから、
楽勝だと言ったのはお前であろう。生徒数にしても現存は50人もいない。
過去の名簿を調べてもざっと500人前後だと。
その中で身元不確かな者だけ抜き出せばいいのだ。
王立学問所の教頭であるお前なら簡単なことだと言ったではないか、ヤブル。
何のために大金を払ってお前にあの地位を得てやったと思ってる。
すべて、私の役に立つためではないか」
不作法な程に唾を飛ばしながらカイマンは喚き散らす。
伏したままのヤブルは全身を震わせながらも言葉を弱く吐きだした。
国立学問所の教頭としていつも偉そうにしている姿が嘘のようだ。
「は、はい。そ、それは、そうですが、
し、しかし、ほ、本当に該当者がいないのです。
お、同じ年齢かそれに近い年齢の生徒は、学問所に確かに居ますが、
どれもマッカラ国民で出自が知れた確かな者しかおりません。
学問所の従業員は退職者を再雇用した老齢の者ばかり。
め、名簿を何度探しても、該当者が、み、見つからないのです」
カイマンは、這いつくばるヤブルを怒りのままに無造作に蹴倒した。
尖ったカイマンの靴のつま先がヤブルの頭の皮膚を切り、ぴりりと痛みが走る。
「馬鹿か!奴は名前や年齢を偽って姿を変えているに決まっているだろう。
少しでも怪しいそぶりを見せた奴らをとらえて拷問し口を割らせろ!
多少死人が出ても金で解決してやる」
数本の赤い筋が額から右頬をつたう。
ヤブルは自分の血をそのままに、悲鳴を揚げたい気持ちをぐっと抑え、
頭を下げたまま必死で言い縋った。
「そ、それは出来ません。
王立学問所は王家が出資したこの国の民の為の福祉施設です。
その生徒が浚われ殺されたとなれば、国を挙げての捜索となってしまいます」
カイマンの横暴な言い様に何とか言い返したが、
それを不遜ととったカイマンに一笑に付される。
「ふん。そんなものは、ヤブル、お前が何とかしろ。
いざとなればお前が罪を自白して死ね。
俺の役に立てるのだ。 役立たずには光栄な最後だろう」
「そ、そんな」
大きな氷を抱えたような寒さと重さが、ヤブルに圧し掛かる。
カイマンの目は、今の言葉が決して冗談で言ったのではないと告げていた。
彼にとってのヤブルなどその程度だと、その目は如実に語っていた。
都合の良い言葉とエサに誘われ、金回りの良さと、
自分のプライドを満たす地位を得ることだけを目当てに、
表顔に気前のいいカイマンの手先となることを了承し、
過去に数度となく甘い汁を存分に味わったヤブルであったが、
今は過去の自分の決断を心の底から悔いていた。
ヤブルは何とかしてこの場から逃げ出せないかと、
頭を下げたまま、ずりずりと扉の方向に少しずつ下がっていく。
だがヤブルが戸口にたどり着くより前に、
カイマンの怒りと憎々しげな言動は益々激しくなる。
ヤブルの頭の中で、眩暈がするほどの騒音が耳に響く。
歯の根が逢わずカチカチとずっと歯が揺れる。
どくどく、どんどんと体の中の何かが太鼓をたたく音がする。
それは、自分自身が鳴らす心臓の音や、血液の流れであるが、
今のヤブルには、耳をふさいでしまいたいくらいに煩く痛い。
そこに、彼の退路を塞ぐかのように、ヤブルの背後から声が降ってきた。
「落ち着いてください、カイマン様」
「ひっ」
「カイマン様。 その様に声を荒げては話すものも話せませんよ。
彼は、罵倒されるのを承知でここに手ぶらで報告に来るほど、
馬鹿ではないでしょう。 ねえ、ヤブル。
貴方は、今の報告の他に、我らにとって有益な情報を、
もちろん持ってきたと私はおもうのですが」
行き成り背後から近づいてきた声に、一瞬心臓を掴まれたような気がしたが、
ヤブルはカチカチと恐怖で鳴り続ける歯をそのままに、
神の救いとばかりの優しそうな口調の後ろに佇む顔見知りの男の、
彼の立場を擁護すると思われるこの言葉に縋りついた。
「は、はい。も、もちろんです」
カイマンはちっと舌打ちをして、
踵を返して部屋の中央の赤いベルベットの椅子にどかりと腰かけた。
「言え。だが、つまらん情報なら命はないと思え」
乱暴に座られた華奢な造りの椅子の足が、ギッと軋みを上げた。
ヤブルにとってその音は断頭台の刃が落ちてくる様な錯覚を覚える。
嫌な妄想を振り払うように、ヤブルはごくりと唾を飲み込んだ。
口に出す内容如何で彼の命運が決まるのだ。
喉から声が出そうで、出ない。
それを後押ししたのは、やはり先程と同じ声。
背後にいる優しい口調の柔らかな声質の男の声。
「さあ、もう大丈夫ですよ。 ヤブル、話してください。
貴方は何を知っているのですか?」
柔らかな声の申し出と大丈夫だという言葉に、
強張っていたヤブルの声がすんなりと押し出された。
「は、はい。申し上げます。
王立学問所には確かにお探しの項目に当て嵌る男は居りません。
しかし、われらと同じようにサイラスなるものを探す者がおりました。
もしかしたら、彼女は我らよりもより有益な情報を持っているやもしれません」
カイマンは眉尻を釣り上げ、目を瞠る。
「なんだと!どこの手の者だ。
ムハンマド側の者か?それとも旧国復興擁護派の連中か?」
激高するカイマンをすっと伸びた手のひらで制し、背後の男は言葉の続きを促した。
「おや、それは面白い情報ですね。
それで? ヤブル、その者は何者です」
ヤブルの背後から呑気な優しい声はするものの、
背後からは全くと言っていい程気配を感じられない。
だが、今のヤブルにはその意味を感じ取る余裕はなかった。
不機嫌なカイマンの殺意に満ちた視線と言動が彼の心に突き刺さっていて、
今の彼には余裕と言うものが無かったからだ。
ヤブルは、まるで操られるかのように背後の男の言う用に易々と言葉を紡ぐ。
「は、はい。
その者は、生徒としてこのたび学問所に入ってきた少女です」
「少女?子供なのか?」
カイマンの吐き捨てる様な声に、ヤブルの喉が凍りそうになる。
だが、彼の味方である優しい声がそれを防いだ。
「おやおや。しかし、我らの情報網を上回るというのですから、
ただの子供ではないのでしょう。
貴方の事です。その子供の事を多少調べているのでしょう」
自分の助けともいえる優しい声を逃さないように、
ヤブルは何度も頷き記憶を乱雑に探っていく。
「は、はい。
その子供は、なんと、あのマサラティ老師の使用人なのです」
「なんだと」
「へえ、そう。 さすがはヤブルです。 実に有益な情報です。
それで? 先を続けてください」
ヤブルの声の震えが止まり、優しい声に褒められたことで、
一呼吸つけるようになり、流れる様に言葉が出てきた。
「は、はい。彼女も私と同じく件の男を探しているようでしたが、
彼女は少々特殊な人物らしく独自の手法をもってして、
件の男を探している様なのです。
いえ。もしかしてすでに見つけ出しているやもしれません」
カイマンは、言っていることの訳が分からないとばかりに眉を顰め、首を振った。
「特殊? 独自の手法とはなんだ。他国の間者なのか?
その少女とは何者なんだ。 いい加減はっきり話せ!」
カイマンの苛ついた声に被せる様に背後の男がカイマンを窘めた。
「カイマン様、最後までちゃんと彼の話を聞かせてください。
その情報が我らに役立つかもしれないのですから」
カイマンは子供の様にムッとした顔のままだが、かの者の提案に大人しく黙った。
その様子をみて、ヤブルはほんの少しだけ溜飲を下げる。
「さあ、ヤブル。
貴方がそう思った根拠はなんですか?」
「はい。その少女は、実は特殊な能力を持つそうです。
街では、稀代の占い師か天才的な先見の能力を持つと評判の娘です」
「占い師? 先見の能力? 眉唾な噂だろう。
神話でもあるまいし、そんな力は現実には聞いたことがないぞ」
ヤブルは、カイマンの驚いた顔にちょっとした優越感を憶えていた。
今まで床に伏せてぶるぶると震えていた悲壮感はいつのまにか消えてなくなり、
今は、自分だけが知っている情報を暴露するという喜びを覚えていた。
「占い師というのは不確かな物言いで周りを惑わせるだけ惑わして、
現実に全くと言って影響を及ぼさない女子供のお遊びだろう。
そんなものが宛てになどなるものか」
カイマンの無礼な言い方にむっとするも、ヤブルは胸を張って答えた。
「いいえ! 唯の占い師ではありません。砂の一族の占い師です。
私が調べたところによると、彼女の能力は非常に強く、
天を自在に動かすだけでなく他人の心を見通し思うままに動かすことも可能だとか。
現に多くの人間が彼女の助言や占いによってその効果を実感しております」
「ああ、そういえば、今の大神殿の巫女姫も過去に同じような力を発揮したとか。
同じ砂の一族の出身ならば、あり得る話でしょうね」
男のヤブルの主張を肯定する言葉と更なる有益な情報に、
カイマンはあっさりと意見を覆した。
「ほう。天を動かすなどありえんと思ったが、誠とはな。
奥神殿の巫女姫といえば、生きた伝説といわれる人物。面白い、面白いな」
カイマンの機嫌が上向きに変わりつつあるのを実感し、更にヤブルは言葉を続ける。
「はい。その通りでございます。面白うございましょう。
彼女の能力は本物らしく、先日の大雨を呼んだのも彼女だとか。
誠に得難い能力であると推測されます。
その為、近く、神殿より正式な迎えが来ると噂があります。
そんな彼女は失せ物探しが得意であるらしく、どんなものでも探せるそうです」
「へえ、そんな便利な能力者ならば、
件の男を探し出せていても不思議はありませんねえ。
それで? その子供の名と特徴、住まいは?」
背後の男の軽い口調の質問にヤブルは、胸を張って堂々と答えた。
「その子供の名はマール。黒髪黒目の17歳の少女です」
カイマンは、ゆっくりと立ち上がってヤブルで仁王立ちした。
「ほう、17。咲き始めの女と言ってもいい年齢だ。
それで、お前はもちろんその女を捕えたのであろうな。
今すぐここに引き出せ。僕自ら、力の限り詰問してくれる」
カイマンの顔は、にやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべる。
その笑みにヤブルは嫌な記憶を思い出し、胃液が逆流するような気がした。
彼がその笑みを浮かべるとき、娼館の年若い娼婦が、
いわれのない暴力で非道なまでに殴られ蹴られ、ナイフで薄皮をはぐように切られ、
泣き叫んでぼろぼろになったところで乱暴に犯された。
死体の様に力を失くし無力に這いつくばった所で、
更に無体を強いる様は実に残酷だ。
何度も見たその過去の映像が、ヤブルの脳裏にちらついた。
カイマンは年若い少女の様な容姿の女を、
無抵抗のままに徹底的に嬲るのを最も得意としていた。
彼の腰にいつも差してある小さな果物ナイフ。
護身用だと言っているが、護身用として使われたことは一度もない。
どんなに深く差しても死ぬことはないナイフの短さは、
細かい作業をするに向いた刃先だ。
だがカイマンは、時が立っても傷跡が残るように、肌を削ぎ切ることに使う。
痛みに悲鳴をあげて逃げ惑う少女相手に、嬉々とした顔でナイフを振るう。
その表情は恍惚としていて、正気を疑う様相だったことを思い出す。
ヤブルは、カイマンの問いに返せる自分の答えに思い当たり、
喉の奥がごくりとなった。
「い、いえ。カイマン様、申し訳ありませんが、それは無理です。
先程も言いましたように、その少女はあのマサラティ老師の使用人です。
あ奴のお気に入りだとの噂も流れてきております。
不用意に手を出せばどのようになるか。
あの老師はこの国だけでなく、諸外国にも強い影響力を持ち、彼が本気で動けば、
本国のアフマド兄上様の立場も危なくなりましょう。
また、私が彼女に話しかけようとすると必ず誰かに邪魔をされ、
街中でも一人でいることがほとんどないのです。
常に誰かが傍に居て、その上住んでいる場所は塔のマサラティの研究室。
時折、彼女の背後に砂の一族の姿も見え隠れし、私が手を出す隙がないのです」
「なるほど。貴方の力では不用意に近づけないと言いたいわけですね」
そのヤブルの返答に加え、青年の納得したような物言いに、
カイマンの機嫌がさらに急降下する。
「煩い!口答えをするな!
お前はその女を連れてこいと言ったら連れてくればいいんだ!
塔から連れてくるのが無理なら、
街に出たところでならず者共に金を渡して浚ってくればいいではないか」
「そ、それは、もちろん試しましたが失敗いたしました。
マサラティ老師の使用人を襲うこの国の住民はおりませんし、
金に困ったならず者共もあれだけ人に囲まれた女を浚うのは無理だと。
それに彼女自身警戒心が強いらしく、滅多なところに足を向けません」
ヤブルは、体を小さく縮め、頭を庇うように床に伏した。
カイマンの癇癪が爆発しそうな雰囲気を察したからだ。
「この役立たずが!そんなことはどうでもいい。
今すぐにその女を連れてこれないのなら、お前にもう用はない。
くそ愚図!鶫よりも役に立たないとはお前のことだ!くそ野郎!
死んで俺に詫びろ!この屑豚野郎!お前の様な輩を起用した恩を忘れるとは、
畜生にも劣る。 心の底から懺悔して死ね」
カイマンの語彙は余り多くない様だ。
同じ様な汚い言葉を何度もヤブルにぶつけ、更に背中を強く踏みつけた。
靴の先が顎に当たり、ヤブルはばたりと倒れ意識がぷつりと途絶えた。
カイマンは苛立ちを押えきれず、倒れたヤブルの腹を何度も蹴り上げる。
ヤブルは意識のないまま床でぐるりと一回りし、
仰向けにされるがぐったりとして動かない。
ヤブルの背後に居たはずの男の影がふっと消え、
先程までカイマンが座っていた椅子に、その男の姿が不意に現れる。
同時に部屋の奥の燭台の火が消えた。
座っている男の顔は下半分しか見えない。
暗い影が、男の顔の大部分を隠してしまっていた。
火が消え、空気が揺らいだと思えば、影の中で男の口角がくっと上がる。
「落ち着きなさい、カイマン様。
折角新調した真新しいお気に入りの靴の底が無駄に減りますよ」
「しかし、このままだとあの男について、
我等はなんの手がかりも得られないではないか」
カイマンはイライラしながら親指の爪を噛み、
八の字を描くように部屋の中をうろうろ歩き回る。
「親指の爪の形が悪くなりますよ、カイマン様。
ヤブルが件の男を見つけられないのは、想定内でしょう。
彼等には時間があり、我等は常に後手に回っている。仕方ないことです。
いずれ誰かが探りに来るのを警戒して、それなりに手筈を整えたと言う事でしょう」
カイマンは注意された親指の爪を見やってから、
しぶしぶ腕を降ろして口を尖らせる。
「そんな悠長な事を言っている場合ではないのは、
お前だって良くわかっているだろう。だから、僕が」
カイマンの声を遮るように目の前の男の人差し指が空中でぴたっと止まる。
「貴方の申し出もさりながら、
稀代の占い師とやらの例の少女は、
貴方がただ嬲るより他に使い道があるとは思いませんか」
男の口元が小さく半円を描く。
「使い道とはなんだ。 勿体付けずに話せ。
それより、手があるならさっさと手配しろ。
早くしないと気の短いアフマド兄上に難癖をつけられて、
我らとてどうなるか知れたものではないわ」
カイマンは金の髪を振り乱し、怒りの形相で唾を勢いよく飛ばす。
男は、カイマンの唾がかからない様に、
いつの間にか持っていた本を眼前に掲げて防ぎ、
如何にもめんどくさそうに答えた。
「やれやれ、貴方は少しは自分で物事を考えると言うことをしませんか?
家庭教師の名目で雇われた私の立つ瀬がないのですがねえ」
「家庭教師など便宜上の建前だろう。
それに余計な口を叩くな。 大金をお前には払っているんだぞ」
男は人差し指を立てて左右に振りながら、ちっちっちっと小さく舌打ちをする。
「間違ってますよ。 私を雇ったのは貴方ではありません。
サマルカンドに居られる貴方のお兄様、アフマド様です。
ですので、貴方にそのように言われるのは不愉快ですね」
男の口角がぐっと引き締まり、暗闇でキンっと鋭く硬い気配に変わる。
柔らかな口調とは裏腹のどこまでも冷たい空気が重く広がっていく。
カイマンはその空気に気おされて顎をぐっと後ろに引いた。
「わ、解っている。 だ、だが、お前も、
アフマド兄上に仰せつかった仕事を片付けないと危ないだろうが」
そのカイマンの台詞に、男はくっと先程よりも口角を上げて応えた。
笑っているはずだが、男の纏う空気はどんどん重く暗くなり、
何一つカイマンが一緒に笑う要素を見いだせない。
「私の仕事は、貴方が見つけてきた例の男を確実に殺すことです。
見つけることは貴方の仕事。ええ、見つけ出すそれだけのこと。
あれだけ兄王の前で大言壮語を吐いておきながら、実に情けない。
そしてなぜ、私が貴方の仕事を手伝う必要があるのですか」
男は、芝居小屋の役者のように大袈裟に両手を挙げて首を振る。
明らかに小馬鹿にした態度だが、先程から感じている重い空気が、
カイマンの感情を鈍いままにさせる。
「だ、だが、見つけられなければお前は仕事をこなせまい。
結果的には、そうだ、い、一生托生ではないか」
それでも何とか言葉をつむぐカイマンを前に、男は軽く両手を広げた。
「それは、一蓮托生ですよね。まったく、貴方ときたら……。
それは兎も角、家庭教師として先程の最後の問いに答えましょう。
答はいいえです。 我々は一蓮托生にはなりませんよ。
貴方が仕事をこなせない時は貴方の命を刈れと追加契約されてますからね」
その言葉にカイマンは目を瞠った。
「な! そんな! アフマド兄上はそこまで我を見誤っておいでなのか」
男はくくくっと面白そうに鼻を鳴らした。
「見誤るねえ。こんなこともあると予測した兄王は、
噂と違って意外に賢いと褒めるべきでしょうかねえ」
「く、くそ、なんてことだ。
我は串身中の虫のかっていたのか。
お、王族をなんと心得える。 ひ、控えろ、下様が」
カイマンは狼狽えながらも男を睨み、威嚇するように床に唾棄したが、
男の放つ殺気に歯の音がカチカチ鳴る。
「先程も口に出そうと思い止めたのですが、
本当に貴方は馬鹿ですね、獅子身中の虫ですよ。
まあ、もっとも貴方が獅子だなんて自己評価が甘すぎですがね」
男の殺気に怯えるカイマンをそのままに、男はゆったりと足を組み、
闇の中で喉を鳴らすように、くっくっくっと笑っていた。
「ど、どうし…」
「おや、どうしてとおっしゃりたい?
遊興に遊びふけり苦労して金を積んで入ったマッカラ学園を、
あっさりと首になりそうなどこぞの馬鹿が何をいまさら」
カイマンはとっさに言葉に詰まる。事実だからだ。
「し、しかし、我は敵に態度が疑われぬよう、
態と遊興にふけった真似事をしたのだ。
それは、そもそも、お、お前が進めたのではないか」
カイマンは言い訳を必死で考えるが、すべて冷たいまでの微笑で返される。
何時もの彼等の会話と変わらない軽口なやり取り。
だが、そこには以前には確かにあったはずの情という感情が欠落していた。
「ええ、勧めましたよ。
情報収集の為に程々に遊興にふけるのもいいですよとね。
ですが、程々の意味も解らぬ上、情報一つ持ち帰れないとは」
男は、残念だとばかりに大袈裟に首を振った。
「い、意味など解っておる。
しかし、ついっというか、その、饗が乗りすぎたと言うか。
だ、だが、育ちの悪い女どもから聞きだしてやろうと、ど、努力はしたのだ」
カイマンの言い訳にもにた言い方に、男は明らかに呆れた口調を隠さない。
「努力ねえ。思いっきり羽目を外し過ぎて加減を忘れたと言うのが努力というなら、
その後処理の為の散財を貴方のお優しい兄君が許してくださると思いますか?」
カイマンの脳裏に、兄であるアフマド国王の冷たい表情が甦る。
兄は無能な部下の失態を何よりも嫌う。
カイマンはとっさにわが身を援護するように腕をわたわたと振り回す。
「あ、あれは、そう、不可抗力、不可抗力だ。
兄とてきちんと話せば解って下さるはずだ。
だが、我とて遊んでいたのではない。
学園で、下町で、街中で、機会あるごとに件の男を探したが、
誰も知らず、何も得られなかった。
大体、情報が古すぎて使いものにならなかったのだ。
あれしきの情報では、解る筈が無かろう。どうしようもなかったのだ。
我とて手を尽くした。ヤブルを送り込んで探りも入れさせた。
だが、ヤブルも見つけられないと言っていたし、全く持って手がかり一つない。
そうだ。 もしや奴はすでに死しているのやもしれんだろう」
最後はいいことを思いついたとばかりに、カイマンは目を輝かして言った。
それに対して、男は如何にも残念な人間を見た様にため息をついた。
「言い訳一つとってみても愚かの極みですね。
これが王弟とは、実に情けない。
そうそう、貴方は私を雇い入れる為の兄王から託された金を使い込みましたね。
もう貴方は表向きの家庭教師の私に支払う金も残っていないでしょう。
本国に支援要請した手紙を先週送りましたよね。
その返事はここにあります」
男は、右手の指二本で挟んだ手紙をカイマンに見せつける様に揺らした。
「なに?返事がやっと来たか。 で、アフマド兄上はなんと?」
カイマンの希望を込めた視線を、ばさりと切り取るように、
男は優雅な仕草で手紙を開いて見せた。
「役立たずをさっさと片付けろと仰せですよ。ほら」
カイマンの顔から表情がばさっと抜け落ちた。
「な?! だ、誰のことだ?ヤブルか?」
その様子に男は、更にくっと笑いを深くした。
「馬鹿を相手にするのは本当に疲れます。
金食い虫の貴方のことですよ。
金の切れ目が縁の切れ目とはよく言った物ですね。そう思いませんか?」
男はゆらりと炎が揺らぐように、椅子から音もなく立ち上がった。
あの椅子はカイマンが使用した時は、どうやってギシギシと音を立てる筈なのに。
一歩一歩とカイマンに近づく。
足音も空気の揺らぎさえも聞こえないし感じられない。
男が歩くたびに手元の燭台の明かりが一つ、また一つと消えていく。
一番遠い場所にある燭台から伸びる影が一段と伸びる。
闇が急速にカイマンに近寄ってくる。
男の背中に垂らした長い髪がさらりと揺れた。
カイマンが何時も馬鹿にしていた汚れたようなくすんだ灰色の髪。
その音だけが沈黙を破る唯一の音。
そして、手にはきらりと光る大振りなナイフ。
カイマンが持つナイフがおもちゃの様に見える、明らかに人を殺すための道具。
ナイフの描く軌道が死神の鎌の幻覚をカイマンに見せた。
「ひ、そ、そんな、待て、か、金ならやる。
本国に返れば宰相や母上が助けてくださるはずだ。 だから」
男は更にもう一通の手紙を、無言でカイマンの足元に落とした。
封の空いた手紙の差出人は彼が宰相と呼ぶ人物。
「そちらもすでに見限った様子です。
もう、貴方に払う金は砂一粒もないそうです」
カイマンは、足元に落ちた手紙を拾い上げて乱暴に読む。
「そ、そんな、は、母上は、そうだ、母上様はなんと」
男はにこやかにほほ笑んで言った。
「貴方の自慢の母上様は、貴方を産んだ覚えはないそうです。
第二王妃たる御母上が産んだのは王子であるアフマド国王のみだそうですよ。
しらじらしいですね。 娘三人、息子二人を産んでおきながら、
産んだ覚えがないとは。 しかし、それが貴方に対する答えと言えば分りますか?」
カイマンの思考がパキンと凍って割れた。
「あ、あああ、た、たす、助けて……」
もはや、誰も助けてはくれないと解っていても、助けを呼ぶ声を止められなかった。
カイマンは本能が望むまま、踵を返して戸口に走る。
だが、恐怖に震えた足はバランスを失いよろけて足を前に進ませない。
30cmほどの長さのナイフが、柔らかなクッションを貫くように、
逃げ出したカイマンの背中上部に簡単にぐさりと刺さった。
「さようなら、カイマン様。
馬鹿は馬鹿なりに一緒に過ごした日々はそれなりに楽しかったですよ。
ですが、仕事は仕事なのです」
そして、ぐりっとナイフを抉る様に動かした。
「貴方の言葉を借りるなら、最後に懺悔し死んで詫びたら、
もしかしてなにかが許されるかもしれませんね。
誰にとは限定して言えないところが、あなたの所業の残念なところですが」
カイマンは声を上げることもなく、
上斜めから心臓を貫かれあっけなく絶命した。
彼が人生の最後に見たのは、
つい先日まで彼の家庭教師であり相談役であった見慣れた男の微笑。
砂が混じったような茶色の瞳に、埃をかぶったような汚れた灰色の髪。
昨日まで、仕方ないお坊ちゃんですねえと言いながらも、
お茶を入れたりカイマンの世話をしていた時と同じ微笑だった。
カイマンの瞳から一粒の涙が毀れた。
そして、涙の理由も解らぬままに、カイマンはこの世を去った。
男は、いかにも簡単にその背中からナイフを引き抜いた。
普通なら、刺した背中から血が噴き出る筈であるが、
間に挟んだクッションが血をじわじわと吸い取っているようだ。
彼はそれなりにその道の専門家というべきなのだろう。
男は血の付いたナイフを持ったまま、
仰向けに倒れたままの気を失っているヤブルに近づき、その首を無造作に掻ききった。
先程と違い、血は噴水の様に出るが、男は血の雨を被らぬよう軽やかにその身を翻す。
「ぐ、ごぼっごぼっごぼ。ぐはっぐっ」
血が喉に溢れ込み喉が詰まる。一瞬で覚醒したヤブルだが、
苦しみから喉を掻き毟るだけで声も挙げられない。
助けを求める指先はぬるりと自らの血で滑るばかりだ。
ヤブルが目を見開いてみた最後の光景は、
僅か一本となった燭台の蝋燭が齎すわずかな明かりと口だけが見える死神の微笑。
そして、どこまでも続く暗闇。
「貴方にはカイマンを殺した罪を背負って死んでもらいます。
よかったですね。死んで役に立つとはこのことです。
光栄な最後だろうと貴方のご主人は言いましたね。その通りです。
貴方はマッカラ学園一のバカでカスな問題児を、片付けた救世主になれますよ」
ヤブルの目は虚ろになり、虫の息の今、もはや舌の上に血の味しか残らない。
喉に当てた手に感じるはずの暖かな自分の血が冷たさを最後に伝える。
ああ、死ぬのだ。それがヤブルが感じた最後の感覚だった。
そして、物言わぬ死体となったヤブルの手に、
壁に掛かった飾りの短剣に血をべっとりと浸し握らせ、
机の上に置いてあったカイマンの果物ナイフにも血をべったりと付けて、
カイマンに握らした。
仲間割れを起こし、お互いに致命傷を相手に負わせた挙句に、やむなく死亡。
この状況をみたら、そう判断するはずだ。
男はカイマン自慢のシルクの服の裾で、
自身の大振りなナイフの血を拭って懐の皮鞘に仕舞った。
「さて、私は予定を変えて一番効率の良い方法を取ることに致しましょう。
我々にとって納期は絶対。幸いにして手土産は決まりましたし、
余りもたもたすると私が困りますからね」
そういって男はすっと窓辺に近づき影に消えた。
窓辺にかかったカーテンの裾の飾り房が揺れた。
窓の外は、繋がれた犬さえも声を上げぬ暗闇。
外から聞こえてくるのは空を渡る風の音のみ。
迎賓館の門の前には、夜番をする警備の男達が小さな欠伸をかみ殺している。
彼等は2刻ごとに交代し不審者は決して通さない。
迎賓館の警備は厳重なまでに安全を保たれているはずだ。
窓の外は変わらない、いつもの日常。
だが、正反対に部屋の中は非日常で満ちていた。
僅かに残った一本の蝋燭の光が、部屋の色彩を僅かに判別させる。
豪奢な5000クレスは下らないとされる絨毯は、
その柔らかな金の毛並を赤黒く染めていた。
じわじわと部屋の空気が血の匂いに汚染され拡散する。
翌朝、迎賓館の女中が朝の支度にいやいや来て、
盛大な悲鳴を上げるまで、二人の死体は発見されなかった。
発見された時、血が凝固し真っ黒に染まった絨毯の上に二体の死体が転がっていた。
血の気を失った二人の死体は固まった血の中で、
真っ白な蝋人形のような肌を晒していた
*******
時を同じくして同時刻。
行き成りの大雨の影響で生じた鉄砲水の来襲が、
通常のマッカラ王国への道を塞いだため、レヴィウス達一行は、
迂回するように砂漠への道を取り、真っ直ぐにマッカラ王国に向かっていた。
折しもからからに乾燥し、砂嵐も見まごうばかりの砂漠の道。
案内人が居なければ、確実に迷うと言われた酷な砂漠を彼等は着実に進んだ。
道が復興するまで2週間以上かかると言われ、やむなく砂漠越えのルートに迂回したのだ。
それは奇しくもメイが通っていった道と同じ道。
案内人の黄色のスカーフで顔を巻いた砂の一族の若い男が、
先に見える小さな点にも見える標識を嬉しそうに指さした。
「レヴィウスさん、カースさん。見えますか? あれが国境です。
あれを越えたら旅程は、パシャル岩山地帯、そしてその後ザクルールの森に入ります。
その森の向こうがマッカラ王国です。
海と違って慣れない砂漠の旅の強行は疲れたでしょう。
2、3日は疲れを取る為に、国境の街で宿を取ります。
遅いですが、泊めてくれる気のいい宿屋を知ってますから安心していいですよ」
案内人の男と同じように布で目の部分以外の顔を覆っていたレヴィウス達は、
何時ものように目で会話する。
レヴィウスの視線の意図を理解しカースは頷いた。
「いえ、我々は大丈夫です。
前にも言ったように我らは先を急ぎます。
今晩の休息に宿を得るのは賛成しますが、明日朝いちばんで出立します。
そのように手配をお願いいたします」
カースの固い口調に、砂の一族の男、ローグは解りやすいため息をつきながらも、
心では感嘆の口笛を鳴らしていた。
「おいおい、砂の一族の俺だって砂漠の旅に慣れるまでは何年もかかったんだ。
無理して強がらなくてもいいぜ。砂漠の旅は成れない人間にはかなり厳しい。
船乗りって言うのは、海ではめっぽう強いが、
丘の上は打ち上げられた魚のように弱いっていうからな」
レヴィウスは、髪に付いていた砂を落とすため、ぶるりと軽く頭を振り、
緑の瞳でローグの視線を跳ね返す。
「いや、大丈夫だ。問題ない。先を急いでくれ」
カースがレヴィウスの言葉を補足するように、言葉を続けた。
「強がっているわけでは有りませんよ。
船乗りとは、本来、世界を自由に泳ぐ者です。
我々が生きていた場所は、何も海の上だけではありません。
ありとあらゆる国に行き、これまで数多くの困難を乗り越えてきました。
砂漠の旅もこれが初めてではありませんので、お気づかいならさず」
だが、カースの意気込みにも似た謙遜混じりの言葉に、
ローグが残念そうに首を振った。
「いや残念だけど、明日朝の出立は無理だ。
明日、この国境で入国手続きをするからな。
順番待ちの札の手配はしているが、手続きに2日。
どんなに早くとも明日一日はかかる。
ラドーラ領主様のお墨付きがあっても、それ以上早くならない。
諦めて明日は一日休息を取ってくれ」
ローグのはっきりとした口調にその言葉が誇張ではないと解る。
レヴィウスは真っ直ぐにその瞳を見返して後、頷いた。
「わかった」
「それは、仕方ないですね」
カースのため息と返答にローグは苦笑を持って答えた。
「それにな、俺達がよくても、馬を休めないとこの先きつい。山道だからな。
馬の休養も兼ねてるんだ。理解してくれると助かる。
心配しなくても手続きが完了したら、まっすぐマッカラ王国へ向かう。
この国境からの道は今のペースでいけるなら5日、いや4日で着くはずだ。
普通なら20日以上かかるコースなんだがな」
話しながらも、馬は速度を一定に前へ進む。
国境の街を示す標識が、視界に少しずつ大きくなっていく。
彼等を乗せた馬は、砂漠の中で舞い上がる砂の風を吸い続けたせいで、
全身が砂に塗れ、毛並はずっしりと重い。
強行軍で旅を続けた最大の功労者である馬たちは、
砂避けを付けても尚、鼻も口元も砂塗れだ。
口の脇からも泡を出しつつ苦しそうに呼吸する。
ぶるるっと時折鼻を揺らしながら、入り込んだ砂を散らす様は疲労の色が濃い。
早足でずっと歩き続けている馬の疲労具合は人の数倍にも及ぶだろうとみられた。
それを見て、カースもレヴィウスも黙ったまま馬の首を撫でて労った。
「あと4日か」
「待機日数を含めたら5日ですね。
迂回したせいで当初よりも随分日数が押してます。
ですが、あの場所で道の復旧をじりじりと待っているよりはましです」
二人の言葉に、ローグがにっこり笑った。
「まあ、そういうことなんで、慌てないで過ごしましょう。
そうそう、レヴィウスさん達は人探ししてるんだよね。
この国境の街には、物知りな婆さんが居るんですよ。
俺達砂の一族の副統領の奥さんなんすけどね。
よかったら明日にでも紹介するよ。どうだい?」
ローグの言葉に、レヴィウスの服のポケットで眠っていたはずの猿が、
レヴィウスの服の襟を軽く引っ張った。
「キ、キキッ」(いくあるするないよ)
猿の声がレヴィウスに届く。行けと言う事だとレヴィウスは理解した。
レヴィウスはカースに視線を向けると、
カースも手首の腕輪に触れて、何やら照と会話している様だった。
それを待ってから、カースがレヴィウスを見つめ頷いた。
「では、よろしく頼む」
「その方にぜひ会わせてください。
今は何よりも情報が欲しいのです」
二人の返事に、ローグはほっとした表情を見せる。
「ああ、いいよ。お安い御用さ。
とりあえず今晩は、宿屋に泊まるからそのつもりでいてくれよ」
カースは頷いて、先程話題に上った物知りな婆さんについて尋ねた。
「それで、その女性はどういう女性なんです?
砂の一族の情報屋でしょうか」
カースの問いに、ローグは勢いよく首を振った。
「とんでもない。そんな商売なんかさせたら爺さんに俺達が殺されちまう。
間違っても本人の前で言わないでくれよ」
風がビュッっと砂を巻き上げる。
ローグは砂交じりの風など気にすることなく馬上で腕を組んだ。
「婆さんは、まあ、爺さん曰く運命の星を導く稀有な女性らしい。
本人はのほほんとしているだが、その伝手というか、人望というか、
それがびっくりするほど的確なんだ」
砂の風を避けるように、レヴィウス達は目を細めスカーフを深くして口元を覆う。
「まあ、会ってみれば俺の言うことが解るよ。
別に変な意味じゃないが、婆さん自身は気のいい普通の人さ。
あんなくそ爺の嫁に何でなったか解らないくらいにいい人だぜ。
一族の下っ端な俺がいつ家を訪れても暖かく迎えてくれる。
あの婆さんは本当によくできた人だ」
運命の星を導くらしい物知り婆さん。
その星の中にメイの行方が知れるだろうか。
一縷の望みを持ちながらも、一行は国境の街をめざし、
乾いた砂の海の起伏を馬で一歩ずつ進んでいった。
メイの行動範囲が狭いのは無一文だからです。
警戒心か強いわけではありません。




