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箱をあけよう  作者: ひろりん
西大陸砂の国編
222/240

ウサギに呼ばれました。

この話からお話が動きます。

「え~と、台所とランプの火種の確認よし! 水回りの元栓の確認よし!

 老師様のローブとカナンさんとルカさんのシャツのアイロン掛けも済んだし、

 明日の食事の仕込みも、宿題も、うん、なんとか終わった」


指を折りながら、確認作業を頭に思い浮かべつつ一つ一つ頷いて、

確認漏れが無いことを確認する。


後は、私の制服にブラシをかけて本日の仕事は終了です。


壁に掛けてある私のお仕着せに、

シュッシュッっとブラシをあてて埃と共に汚れを落とす。

だが、手首や一部やスカートの微妙に黒ずんだ汚れ滲みが落ちない。

油じみでしょうか。しつこい汚れは、こんな時に困りますね。

日本にはしつこい汚れを落とす強力洗剤あったけど、こっちにはないものね。

漬け置きとかすれば、米ぬかとかお酢で取れるかな。


うーん、大分汚れが落ちにくくなってきた。

これはお休みの日には本格的に洗わないと臭くなりそうです。

明後日はお休みだから、それまでの我慢ですね。


汚れた部分に、濡れた布、石鹸を薄めた液体を含ませた布、乾いた布と、

順番に押し当てながら汚れの酷い場所を叩いていく。

何度か繰り返すと汚れが薄くなり、次第にグレーっぽくなった。

最終的に汚れが落ちなければ、竈の灰で煮込んでグレーに染め直すしかないが、

今のところは何とかなりそうだ。


うん。これで明日もなんとかなりそうだ。


メイドをしていると言っても、やっぱり汚いのは乙女としても躊躇する。

特に、私の雇用主である老師様の所には、毎日ひっきりなしに来客がある。

隅っこで目立たなく作業すると言っても、私が小汚い恰好で仕事をしていれば、

私の仕事ぶりは兎も角、雇い主である老師様の恥になる。



以前イルベリー国の王城で侍女として働いていた時に、

侍女頭のマーサさんは何度も繰り返し言っていた。

侍女の身形や行儀作法が不十分だと、雇用主である主人が恥をかくと。


恥、ひいては主人や国が馬鹿にされ、結果として主人や国が低い評価を受け、

少なくない不利益が周囲に発生する恐れもあるのだとか。


だから、単純な人にも解りやすい判断材料である身嗜み、態度、言葉使いなどは、

どこにでもいるであろう文句を言いたい人々に付け入る隙を与えない為、

十分に気をつけすぎるくらいに気を付けなければならないと、

耳にタコができそうなくらいに注意された記憶がある。


賢く優しく寛大な私の雇用主である老師様が、

私が原因で誰かに悪しざまに言われるのは嫌だし、

どこにでもいるであろう文句が言いたい人達に、

彼等の暇に飽かせて可笑しな難癖をつけられるのも困る。


そろそろ代えの服が一枚、ないし二枚程必要になってきたようです。

しかし、私の手元にある残高は0。零。何度言いなおしてもゼロなのです。

お給料日までの我慢とは解っているものの、

こういう時に自分の自由になるお金がないのは少し困る。


まずは手っ取り早く代えの服を探そうと、先程クローゼットの中を再度漁ったが、

入っていたのは,一体いつ使うのかというようなキラキラで原色系と、

スケスケひらひら薄々な用途が解らない系、

ジャラジャラと音が鳴りそうな鎖やメダルと繋ぎあわせた服?などなど。

到底私程度は一般人が着れそうもない服ばかりだ。


そもそも、このクローゼットには普通の服が少なかった。

前任者の職業は一体何だと言わんばかりのラインナップだ。

コスプレ好きなお笑い芸人を目指して奮闘中とかだろうか。

そうならばサイズが大きいとはいえ、

お仕着せや寝間着替わりになる普通の服があったのは奇跡に近いのかもしれない。


はあっと大きくため息をついた。


私の着て来た服は巫女服とベージュのトレンチコート。

巫女服は借り物なので出来ればそのままにしたい所だが、

お給料日が遠い先なら打つ手はこれしかない。

巫女服の縫い取りを解いて普通の服に作り替え。

基本着物関連は綺麗に布を縦切りにしてから縫っているので、

リメイクがしやすいのだと、以前にどこかで聞いたことがあります。


ですが、この服は何度も言うが借り物なのです。

出来れば、手を付けない方向で持っていきたいのが心情です。


早急にどこかで安くて丈夫な普通の服を調達しなくてはいけないようです。

あ、ジュノに古着屋か安い洋服屋を教えてもらおう。

お給料が出たら、そこで洗い替え用の似たような服か、

無ければ安くて丈夫な布地を買ってきて自分で縫えば、結果的に安くていいかも。

うん、そうしよう。


そういえばお給料日はいつなんだろうか。

今更の様な気もするが、聞いてませんでした。

カナンさんか老師様に明日にでも聞いてみようと思います。


ポンポンっと叩いて粗方水分が取れたので、後は部屋干しにする。

仄かに石鹸の香がふわっと香って、いい匂いです。


うん、これで本当に終わりだ。


「よ~し、今日はもう寝よう。明日は天気だ~明日は明日の風が吹く~」


どうでもいい感じでなんとなく歌ったら、ぽんっと天気予報が時報の様に鳴った。


(明日一日曇り。風微風)


どうやら明日は晴天ではなく曇天、風は歌うほどには吹かないようです。

まあ、朝に洗濯物を干せば、おそらく乾くでしょう。


さて、明日一日働いたら翌日は念願のお休みです。

お休みが近くなると、なんとなくそわそわしますね。


お休みは、ジュディス先生達とあの例のお菓子を作る予定なのです。

ノーラ先生にあんなことがあったので、ちょっと心配していたのですが、

本日、塔に帰ったら、ジュディス先生よりお菓子講座要請のメモが、

塔の門番サームさん経由で届けられていました。

ジュディス先生は大層張り切っているようで、早朝8時にはお迎えに来られるとか。


そんなに朝早くから一体何を作るつもりなのでしょうかと言いたいですが、

張り切っているのは良いことです。さて、何を作りましょうか。


あ、事前に作業の手順とか書いた紙を用意した方がいいかな。

マニュアルは大事だよね。

先生達はパイとかケーキとか大きな物を作りたいようですが、

初心者にはそれらはハードルが高いですよね。

それをあえて挑戦して、あの無残な作品群なのですから、

ここはまずは定番。ということでクッキーからですよね。


クッキーなら温度管理を間違わなければ、大概問題ないはず。

マーブル模様とかザラメとか散らしてそれなりに見栄えを良くすれば、

先生達も納得するはず。うん、そうしよう。

そうなると、明日、必要な物を紙に書きだして事前に買い出しを頼んでおこう。

時間的にもそっちの方が効率がいいはず。


時間が余れば、私もクッキーを老師様に持って帰れるかな。

老師様もカナンさん達も甘党だから喜ぶだろう。楽しみですね。


つらつらとベッドに入って明日することを考えていましたが、

不思議なことに全く眠くありません。珍しいこともあるものです。

寝つき寝起きが大変良いのが、私の数少ない特技の一つなのですが、どうしたのでしょうか。



昨日は夜更かししたし、今日は書架市場で余分に働いている。

体がいつもより重く鈍い気がするので、疲れが溜まっていることは間違いない。

それらの要因から考えても、いつもならベッドに入ったらすぐにでも眠く成る筈。

なのにどうしてでしょうか。目がぱっちり冴えてます。


不思議なことがあるものだと、自分で自分に首を傾げていたら、

天井付近の光影が目に入った。


今はまだ月が中天まで達してないようです。

時間で言ったら夜の10時くらいでしょうか。

昨夜の就寝時間と比べると雲泥の差と言うべきです。

昨夜はおそらく夜中の三時くらいまで、宿題の前で唸っていた。


だが、本日は違うのです。

今日は、老師様とカナンさんから、なんとダブル家庭教師をしていただけたのです。

これがまた、効率がいいのってなんのです。


カナンさんは長年老師様の助手をしているだけあって、

長年連れ添った夫婦の様に、ではなくてツーとカーとでもいえばいいのか、

あえて言うなら阿吽の呼吸。


老師様は必要最低限の事だけ教えるスタイルは変わらないのですが、

カナンさんは、私が東大陸の言葉において不自由と解っていての、

過不足が無い程度な絶妙なフォローを入れてくれるのです。


例えば、本日の宿題の最初の一章が、文書、手紙の書き方中級編。


「公式な文書は物事を簡潔に書くだけは不十分だ。

 それなりな体裁と言うものが大きく左右することもある」


老師様の言葉に?マークを付けて首を傾げた私に、カナンさんは続けて言った。


「公式な文書は私的な手紙と違って信用度が求められる。

 故に、定型があるということです」


定型通りの場所に記入した日時や書いた本人であるサイン。

そして、文書の頭字は読みやすくするために、字体を崩さないなどなど、

公式文書として成り立つには、それなりの形を成さないといけないと言う事らしい。


なるほど。契約書のようなものですね。

そういわれれば何となく納得できる。


ファラシア語圏では、あいさつ文の定型に加えて、

ちょっとした季節の花や季語のような物が入るらしい。


日本で言うと、新緑の折とか、残暑厳しき頃、とかそんな感じでしょうか。

季語だなんて、日本語とちょっとだけ似ていると感心しました。


だから、一般的な手紙の最初の一文は、

特に意味が無いご機嫌伺いの文章であることが多いそうです。

定型文という形があって、時期に合わせてそれを前後に書くのが決まりだとか。


「文書と言うものは、書き手によって変るものだ。

 その特質すべき点をより留意して見極める必要がある」


うん老師様、難しい言葉は解らない。


「つまり、定型があるからと言って、安易に考えて読み逃してはいけない。

 文書によってはこちらの隙を狙って、絶妙な狡猾さで搦め手を用いることがある。

 つまり、こちらの意図に反した結果を文書によって、

 行使しようとする事があると言う事です」


なるほど、契約書の内容は隅々まで確認をということですね。

カナンさんが言いたいのは、新手の押し売り契約書には、

十分に気を付けようという感じでしょうか。


そんな感じで、老師様とカナンさんのダブルタッグが心地よく、

また昨日より量も少ないので、私の宿題は順調に二時間弱で終わったのです。


明日はやることが沢山有るのでさっさと寝て明日に備えなければとは思うのですが、

全然、全く、ぱっちり眠くない。困ったことです。

ここは、羊でも数えて強制的に眠りの世界に行かなくては。


羊が一匹羊が二匹羊が三匹羊が四匹…………。


羊が1205匹まで数えたけど、眠くない。

どうしてでしょう。うーん。




……羊が悪いのかもしれない。


ここは別の動物で再度挑戦してみたいと思います。

眠りを誘う動物と言えばなんでしょうか。

猫? リス? 山羊? 鶏?は無いね。目覚めの動物です。

あ、ウサギとか。うん、もふもふだし、ぴょんぴょん跳ねて可愛いし。

よし、ここはウサギで再度挑戦。


ウサギが一匹二匹。ウサギが三匹四匹……


脳裏に、縦横無尽に飛び跳ねる沢山のウサギがぴょんぴょんと跳ね回る。


ウサギの耳が左右に揺れてゆらゆら。

ウサギの尻尾がぴくぴく、もこもこ動く。

ウサギの鼻がひくひく動いて目に嬉しい。


何となく楽しくなってきていたら、一匹の白いウサギが私の足元に走ってきて、

私の足の上にちょこんと座った。

見下ろした私の視線とウサギの金の瞳が絡み合う。

ぐにゃりと一瞬で平衡感覚が揺れた。


あれ? なんか変? なんだろう。


真っ直ぐに見つめる金の瞳に誘導されるように、意識がだんだんと遠くなる。

螺旋階段を滑り落ちるように意識が急降下する。


何もかもが曖昧になり意識が混濁する。

先程感じた不安にも似た疑問が霧散する。


霧につつまれたようなあやふやな意識の中で、

はっきりと輪郭を保つのは先程の白いウサギのみ。


白いウサギは、私の数歩先で、くるりと振り返る。

金の瞳がきらきらと光っている。


あ、先程のウサギです。


真っ白な毛並の金の瞳を持つウサギが、じっとこちらを見ていた。

唐突に疑問の一つが頭に飛来する。


あれ、ウサギの目って赤じゃなかったっけ?


疑問がよぎったが、あやふやな意識に追い立てられる様に、これもまた霧散した。

そして、睡魔に取り込まれるように、いつの間にか眠ってしまいました。





*********




ウサギの歌で、う~さぎうさぎ何見て跳ねると歌う童謡があった気がする。

牧歌的というのか平和的というのか、童謡の通り、跳ねる姿が微笑ましい。

ウサギは跳ねるというのが実に良く似合う動物だと思う。


目の前の事実としても、確かに跳ねてます。

ぴょんぴょんぴょんと、垂直跳び50cmぐらい余裕で跳ねてますね。

私の身体測定の結果は27cmだった。確実に私負けてます。


くっ……でも大丈夫。……私は、気にしませんよ。

だって月でもないのですから、重力に逆らってはいけませんよね。

月に住んでいるわけではないのですから、

人間は跳ねなくても問題はない!はず!絶対そう!多分?



ウサギはぴょんぴょんと跳ねながら、私を連れて何処かへ向かっている。

ちょっとだけウサギの身体能力が羨ましくなっていた私を、

どこかに誘導していると断言できるのは、私が足を止めるとウサギも足を止め、

くるりと振り返るからだ。


そして、その場で跳ねたり足踏みして、ダンダンと床を叩いてみたりと先を急かす。

それでも立ち止まっていたら、足元まできて下から批難の視線を寄越すのです。


だが、そんな視線にも私はへこたれずに声を大にして言いたい!


ふわふわ、もこもこの毛並に、ピンと伸びたピンクな内耳が見える耳。

それが首を傾げ、斜めに揺れ、尻尾がふるふると震える。

その上、お月様の様な黄金色の透き通った瞳がじっと私を見つめるのです。


か、可愛いです!


ウサギは繁殖力の強い草食動物で、あまり手がかからないらしいです。

寂しがり屋の癒しペットと言ったのは誰だったか。

その可愛さにメロメロになり、家で子供の様に飼う人も多いのだとか。


なるほど。これは納得できる可愛さです。

動物はどれも素敵で可愛いとは思いますが、これは別格の可愛さです。


動物と言えば、私にとってなじみ深い存在はエピさんです。

子分からの自慢ではないですが、我が親分エピさんは、カッコいい性格もそうですが、

実は、内側の毛並が途轍もなく素晴らしいのですよ。


外の毛は硬く長く、雨も砂も寄せ付けない程に強固な安心毛皮搭載なのですが、

外風に晒されない内側の毛は触れると柔らかくふわふわで、しっとり滑らかで、

その上質な手触りに旅の間はほぼ毎日うっとりしていました。


ですが、目の前のウサギの毛は、おそらくエピさんの中毛に負けない程の純毛。

正月になると、着物を着た友人が、ウサギの毛皮の首巻を持っていたが、

ふわふわで気持ち良い手触りでした。


目の前のウサギもおそらくふわふわ間違いないはず。

触ってみたいですね。ちょっとでいいから。


そうっと手を伸ばそうとしたら、

不意に目の前のウサギが背を逸らすようにぐぐっと伸びた。

そして、私の顔色を伺うように見上げている小さな顔が、

何でしょうかと言わんばかりに鼻をピスピスと鳴らし、首を右に傾げた。


キュ!


鳴いた! 何でしょうか、この可愛さは。

これですね。沢山の人がノックアウトされる可愛さは。

こんな可愛さでおねだりされると、思わず高いペットフードを買ってしまうとか、

ペットショップで高額おもちゃを手に取っていたとか、聞いたことがあります。

親馬鹿ならぬペット馬鹿だと思っていましたが、これは解る気がしますね。


猫や犬も好きですが、ここまでウサギが可愛い動物だとは知りませんでした。

その可愛さに感動していたら、ぴょんと後ろ足で跳ね、大きく前に跳んだ。


見事に躱された手の行き所を求めて私も前に進み、

再度手を伸ばしたが、同じようにウサギも2歩前に跳んでいく。

幾度となく挑戦したが全て惨敗した。


伸ばした手が、かすりもしなかったその素早さに、半分残念半分感動してしまう。

そしてウサギは1m程離れた場所で、先程と同じように振り返り、

円らな瞳で私をじっと見つめたまま、またもや鳴いた。


キュ、キュキュキュ(コッチダヨ)


うん?

今、なんだかウサギの鳴き声に重なるようにして声が聞こえました。

前後左右後ろまで確認しましたが誰もいません。


キュキュ(コッチキテ)


ウサギが前方に1m程上に垂直に跳ねた。

そして私を待つように見詰め、またもや可愛らしく耳を震わせる。


うん、どう考えても話しているのは、このウサギですよね。


ウサギの声が聞こえるとは、私はウサギと心を通わせたと言う事か。

まあ、トンビの気持ちが通常使用で聞こえるのだから、

ウサギだとて当然なのかもしれない。

どうせなら意志疎通とかで私の言葉も伝わればいいのにね。


あ、序に今更だけど、やっと気が付きました。

ここは夢だから何でもアリではないですか。


夢は見たことはないとは言わないが、見ても起きたら忘れているのが殆どだ。

しかし、特にと言っていい程に夢にこだわりがあるわけではない。

警戒心が無くなっている気がしたが、相手は私の夢から発生したウサギ。

問題ないといえば問題ないような気がします。


だから、目の前のウサギに付いて行っても問題はないはず。


だって、私の夢なんだから、私の願望が現れるはず。

あ、もしかして、レヴィ船長やカースや照に会えるかも。

もう半年近く彼等に会っていない。夢でもいいから皆に会いたいです。


このウサギはレヴィ船長の所まで案内してくれるのかも。


うん、そうだよね。そうです。そうだといいな。

よし、まずはこっちと言うのだから、ひとまず付いて行こう。


私は、ウサギを追いかける様にして後を付いて行った。


真っ白な空間がピンクのマーブル空間に変わり、次第に周囲が変っていく。

気が付けば、薄いピンクとグレーのマーブル石壁で囲まれた場所に出た。

辺りには同色の石の汚れた塊がごろごろ転がっている。


きょろきょろと見渡すと、ところどころに見える大きな柱。

同じ色合いの石でできた錆びれた天井と所々崩れひび割れた床石。

建物は年季が入っているというか、今にも壊れそうな雰囲気だ。


建物と言えば人が住んでいた形跡とか用途が窺える何かが存在しているのだか、

ここには何もない。

廃墟遺跡とまでは言わないが、そう、錆びれた神殿と言った感じだ。


普通神殿とかいうと、絵が描いてあったりステンドグラスが有ったり、

キラキラの祭壇に神像が有ったりと、いろいろ所せましと何かがあり、

神様威厳重視な荘厳な造りが多いが、私が立っている場所は見事に何もない。

祭壇どころか、吹きっさらしの風通しがよさそうな場所だ。

神様はもとい、誰からも忘れられた場所という表現がぴったりくる。


そう感じたら、なんだか寒々しいというか、冷たい風がどこからともなく吹いてきた。


夢なのに、夢のはずなのに、肌寒さを感じて背中がぶるりと震えた。


前を見ても上も下も360度どこを見ても暗いグレー。

空気さえもグレーに染まっている気がした。


暗い風景の中、目に映る障害物と言うものは、ところどころに見える石の柱と、

ごろごろと転がっている大きな石群。


こんなところに私が居てどうすると言うのでしょうか。

途方に暮れて一人立ち止まってうろうろしていたら、

グレーの壁がボウッとオレンジの灯りを浮き上がらせた。


いつかどこかで聞いたことのある様な無いような懐かしい旋律が、

オレンジの光の向こうから聞こえてくる。

美しい旋律を紡ぎだす弦楽器が時折ビィーンと弾かれ、曲調に緩急をつける。

激しさを感じさせる中で静けさが際立つ想い溢れる音曲。

一際心を揺さぶる音が高く切なく耳に響く。


音の根源を知りたくて、ぐっと身を乗り出すようにして壁を見つめた。



**********





男が居た。

狼の様に目つきの鋭い青の瞳にくすんだ銀の髪が目立つ、

褐色の肌の筋骨たくましい青年だ。

額に金のサークルに拳ほどの大きな琥珀。

金糸を贅沢にあしらった極上の絹織物が全身をくまなく包む。

彼は、その豪奢な装いがとても馴染んでいた。


目の前におかれた瑞々しい果実に贅沢な料理。

彼は、葡萄を一粒毟り、無造作に口に運んで、その甘さに口元を緩めた。


男の前に座っているのは、一人の女性。


絶え間なく流れるリュートを抱えている姿が良く似合う一枚の絵の様に美しい女。

美しく悲しい調が、細く嫋やかな女の白い手によって紡がれていた。


怪しいまでに美しい月の光も相まって、奏者の美しさも際立つ。

何処か幻想的で、異国情緒あふれる光景だ。

誰しもが心引かれる音曲は、この美しい奏者から生みだされていた。


満月の光と共にある女の存在が男を楽しませる。


今宵は何とも美しい夜だ。

彼は大変上機嫌で、背もたれの大きなクッションに肩肘をついたまま、

お気に入りの美酒が入った杯を傾け、ゆったりと優雅に寛いでいた。


揺れる椰子の木の風に揺れる音が、リュートの調と重なって静かにそよぐ。

どこまでも美しく心休まる情景であった。


彼は、目の前でリュートの弦をつま弾く楽師に不意に手を伸ばす。

リュートの音がぷつりと途絶えた。


紫色のベールがすうっと持ち上がって、そこから美しい透き通るような白い肌が見える。

次いで現れたのは、左右色違いの美しい瞳。 右に金の瞳、左に青の瞳。

さらりと流れる銀の髪が月の光を硬く弾き、王冠のように煌めく。


この世の者とは思えぬ美しい顔が、ベールの向こうから現れた。

その顔は成熟した妖艶な女性の様にも、まだ清い少女のようにも見える。

冷たき水と暖かな光を同時に宿した様な不思議な女。

人外のように美しいとしか評価できぬほど造作の整った美貌だ。


「美しいな。そなたの生みだす音色も、そなた自身も、月の光の様で、

 人の身では触れることが許されない何かを思い起こさせる」


男は、無造作に散らばった女の長い銀の髪を、月の光を透かすように指で梳る。

何度も何度も、銀の髪がさらさらと男の手の平の中で流れて落ちる。


女は、男のすることを一切止めない。

それどころか、弦をつま弾きながらも、再度、曲を紡ごうとしていた。


「王よ、触れたら消えるのは今宵の夢。

 貴方が私を望むのなら、私は今宵の夢の糧となりましょう」


王と呼ばれた男は、くすくすと笑いながら、

女が顔を覆っていたベールを遂には剥ぎ取ってしまった。

ベールが無くなった途端に、再度手が止まる。


「夢は儚く美しい物だ。だが、我はこの夢を永遠に見ていたい」


女は、にこやかにほほ笑んでリュートを床に置き、

伸ばされた王の手をそっと外した。


「永遠は人の世にございませんぬ。あるのは夢の中のみ。

 私はこの世界の理を半分だけ担う物。いつか儚く消えゆく存在。

 貴方の夢の中でなら、私は貴方の永遠の夢となりましょう」


王は、外された手で女の指をなぞり、一本一本を愛しそうに撫で上げ、

反対の手でゆっくりと女の体を引き寄せた。

女はされるがままに導かれ、視線を絡めたまま王の膝上にその細き体を重ねる。


「では女神に我が命掛けて乞うことにしよう。

 この世の者とそなたが成るように。

 私の元で夢が永遠に続くようにと」


女は王の褐色の頬に自らの頬をゆっくりと押し当てて、

骨ばった男らしい王の頬を暖かい涙で濡らした。


「王よ、私と貴方では住む世界が違うのです」


王は、女の顔を見つめ、大きな手で女の涙をそっと拭って微笑んだ。


「いいや、違わぬ。この暖かな涙は世界を違えども変わらぬ。

 そなたの涙を拭う我が手も同じこと。

 そなたが何者であっても我には変わらぬ。

 住む世界が違うならば、この国に、私の傍に居ればよい。

 もうどこにも行ってはならぬ。我はそなたを二度と離さぬ」


女は王の手に、柔らかな唇を押し当てる。

女の目からは暖かい涙が止めどなく流れていた。

そして、女は微笑ながら伸びあがり、王の唇にそっと口付けを落とした。


「王よ。愛しき我が王。この世で最も勇敢で慈愛溢れる素晴らしき王よ。

 その言葉だけで私は永遠の孤独という牢獄の頸木から解き放たれましょう。

 私の半身に流れる力を持ってして貴方に報いましょう。

 

 貴方の民に餓えることないオアシスを。

 貴方の国に驕ることない困難を。

 貴方の血にこの世の最高の栄華を。

 我が頸木が続く限りの永久の契約となりましょう。

 

 例え私が貴方の側に居られなくなったとしても」


王は女の言葉に一瞬で顔を強張らせた。

そして、感情のままに女を強く抱きしめる。


「嫌だ!許さぬ!そなたは、どこにも行っては成らぬ!

 そなたが居る場所は私の側だ。

 女神の元へなど帰ってはならぬ、ベル」


ベルと呼ばれた女は、王の胸の中でくしゃりと顔を歪めた。


「それは出来ませぬ、王よ。

 世の理を歪める事は、貴方の国を貴方の民を貴方の血をいつか壊してしまう」


王は、更にきつく、息もできぬほどにベルの体を抱きしめる。


「いつかの未来など、そなたを失ってまで要らぬ。

 どうすればそなたを引き止められる。

 ここで、そなたを掻き抱けばいいのか。子を作り引き止めればいいのか。

 金の鳥かごに入れて閉じ込めてしまえばいいのか。

 私のすべてと引き換えにして女神に祈っても足らぬか。

 愛している、ベル。何者にも代えがたい程、我はお前を愛している」


ベルは細い腕をそっと伸ばして王の体を抱きしめた。


「ああ、愛しい我が王。貴方の愛はなんと甘美な束縛か。

 私の長き苦しい旅は今このためにあったのですね。

 女神よ、我が母よ、どうかどうかお許しください。

 私は我が王の側に居たい。たとえこの血が私を引き裂こうとも」


「ベル?何を言っているのだ」


王はベルの顔を覗きこんで真意を訊ねた。

ベルは、うっとりと微笑ながら言葉を続ける。

 

「もうじき来る真なる別れを受け入れてくださるのなら、

 この世に残りし半身を貴方の元に残しましょう。愛する我が王よ。

 そして、貴方に私を刻みましょう」


王は更に首を傾げる?

ベルは、愛しそうに王の頬や額にキスの雨を降らせながらも、

更なる言葉を続けた。


「わが身を二つに裂き、世界の理を持った半身を女神の元に、

 人の理を持った半身を貴方の元に。

 力はもはや微々たるものしか使えなくなります。

 半分となったそんな私でも貴方は必要としてくださいますか?」


王は、目を細めて微笑んだ。

ベルの赤く熟れた唇に、小鳥が啄むようなキスを何度も繰り返す。


「そなたがそなたであれば、我は女神の力などいらぬ。

 我を見くびるな。王たる我は民に王の意を示すだけぞ。

 だが身を裂くなど、それでそなたに苦しみはないのか」


ベルは苦笑した。


「痛みも苦しみも詮無いこととは申しません。

 ですが、例え喪失に苦しみ、痛みが壮絶なものであったとしても、

 貴方を愛し共に生を過ごす歓喜がそれを凌駕しましょう。


 王よ、別れた半身を眠らせる為の場所を用意してください。

 何者もたどり着けぬ深遠なる場を。我が半身の眠る永遠の檻を」


王は、ベルを抱きしめたまま頷いた。


「我しか知らぬ砂の薔薇が集う金の寝床を用意しよう。

 そこならば生ある者は誰もたどり着けぬ」

 

ベルはうっとりと微笑んで王の首に腕を回し、王の頭を掻き抱く。

王は、ベルのキスを受けながら体を倒し、

更に深く深くベルに愛を刻んでいく。



二人の影は一つになり、月の光が大きく揺れた。




*********





そこでふっと灯りが消えた。

映画ならば、只今を持ちまして上演時間は終了ですとアナウンスがはいるところだ。


私は目を何度か瞬かせ、ふうっと大きなため息をついた。


画面が美々しいというか、役者が美男美女すぎて目が眩しいというか。

夢だからでしょうか。

内容や言い回しも独特でしたが、言ってる内容は日本語の様に解った。

夢の中だから自動吹き替え機能が働いたのかも。


夢の中で映画鑑賞。 何となく得した気分です。


何と言う題名なんだろか。夢なんだからどこかで見たはずの内容のはず。

でも、覚えがないですね。……まあ、いいか、楽しかったし。


それにしても二人ともエキゾチック美男美女を体現した俳優さんだ。

アラビアンナイトの映画にぴったりなハンサムな王様の容姿に、

月の妖精のような綺麗な女性。

この二人なら、製作はハリOッドだろうか。


そんな事を思っていたら、右奥の柱の陰から、

キュっというウサギの鳴き声が聞こえた。


あ、ウサギ。そんなところにいたんですね。

ウサギが私をここへ連れてきたのは、この映画を見せる為でしょうか。

レヴィ船長に会えなかったのは残念ですが、

日々の労働で疲れている私の為に癒しをいうなら、ありがとうございます。

ハッピーエンドと言うのは、目にも心にも優しいですよね。


ウサギは、夢の中では実は映画案内人とか。

なんだ、早くに解っていれば羊じゃなくてウサギ派に鞍替えしていたのに。


あ、次はアクション映画なんかが希望です。


キュキュとウサギが鳴く。


何か訴えたい様にじっとこちらを見詰め、柱の陰で垂直に飛び跳ねている。


アクション映画はないと言う事でしょうか。

それならホラー以外ならなんでもいいですよ。


ウサギの元へゆっくりと向かうと、ウサギが隠れた先の柱の陰には、

子供がやっと通れるぐらい小さなドアがあった。

ウサギはカリカリと小さな爪でドアを引っ掻く。


開けてと言う事でしょうか。

ドアには鍵がかかっているらしく、指で撮んでドアノブを廻しても扉が開かない。


鍵がかかっているので入れないよと、ウサギを見下ろしたら、

いつの間にか手首に引っかかっていた私のトートバックが揺れた。

中には、真っ青な石が付いた鍵があった。


おお、流石夢。何時の間に!

何でもありとはこのことです。


私は鍵を鍵穴に差し込んで、ガチャリと回す。

そして、腰をかがめるようにして小さな扉をくぐった。


先は真っ暗で見えない。

私の横を真っ白なウサギが通りぬけ、数メートル先で止まる。

私は何故か戸惑うことなく、その後ろをついて行った。



見えるのは先導する真っ白なウサギだけ。

周囲が暗闇につつまれると途端に不安になって足が止まった。


この先は一体何があるのでしょうか。

海の上ではないだけましだが、私はれっきとした暗闇恐怖症の一端を保持している。

足元もおぼつかない暗闇で、見えるのは先導するウサギだけだなんて。

夢とはいえ、不安で押しつぶされそうになる。


ウサギは先に進み、同じように先で立ち止まってキュッと鳴く。


(オネガイ)


ウサギの声が聞こえたら、その向こうにぼうっと白い光が見えた。


ひっ、お化け? 


恐る恐る近づくと、一体の石像があった。

石像は小さなウサギを抱えた美しい女性の像。


あれ? この人、誰かに似ているような無いような?


石像はボンキュボンで、鼻が高くてくっきりはっきり美人。

美術教本とかでどっかで見たのだろうか。

ギリシャ石像の女神も真っ青な出来栄えです。


ウサギはその石像の足元を小さな手で引っ掻くように伸ばした。


キュキュ(タスケテ)

ウサギの声が二重音声で聞える。


えーと、石像を助けろと。

……この石像は石ですよね。

つまり、生きてないから助けるもなにもないのでは。


キュキュキュ(タスケテ、オネガイ)


いくら夢とはいえ、私にはどうしようもないのでは。

そう思って眉を下げていたら、ウサギが私の足元に来た。


見上げたウサギの瞳は青かった。


あれ? 青? コンタクト? ウサギが? 何時の間に?


(オネガイ)


青い瞳のウサギがキュっと甲高く鳴いた。

更に後ろからも、キュっと同じような声が聞こえた。


振り返れば、後ろでぴょんぴょんと跳ねている金の瞳のウサギ。

あれ? 別人?じゃなくて別ウサギ?

なるほど二匹いたのですね。納得です。


(オネガイ)


キュッキュッキュと鳴き声が何もない空間に木霊する。


((オネガイ、オネガイ、オネガイ))


うん、ウサギは二匹いて、大層困っているというのは解った。

しかし、石像を助けるって一体全体どうやってなのだろうか。

さっぱりわからない。何かの拍子に石になっちゃったとかなのだろうか。


石になるのは、ギリシャ神話のゴルゴンの呪いだったっけ?

蛇女神のゴルゴンを倒したら解放されるだっけ?


……倒すって、どうやって? 

ジャンケンして勝ったら呪い解きますとかはないだろうか。

世の中は平和主義が一番ですよと説いても、おそらく同意してくれないだろう。


……えーとですね、ウサギ達、私の出来る範囲に絞って、

お願い事項の変更は可能でしょうか。


(オネガイ)

(オネガイ)


金の目と青い目が、下から懇願する様に見上げてくる。

うっ、可愛いウサギのお願い攻撃ダブル。


(オネガイ、モドリタイ)

(オネガイ、カエリタイ)


ええっと、何処かに戻りたいと。

無料映画も見させてもらいましたし、それならば出来るかも。

ここは夢だし、大盤振る舞いで引き受けちゃってもいいのかな。


((オネガイ、オネガイ、オネガイ))


私にできることなら聞きましょう。

もちろんですとも。どんと来いですよ。



ウサギのお願いは、戻りたいとか帰りたいとかですよね。

迷子でしょうか。道に迷って家に帰れなくなったとか?

動物は帰巣本能があるって聞いたことがあるのですが、ウサギにはないのでしょうか。


この国は私は不慣れですが、行先を教えてくれれば、

なんとか人に聞いて家までお連れしたいと思います。


で、行先はどちらでしょうか。


(トキガクル)

(トキガサル)


トキガサル?トキガクル? それってどこですか?

都市の名前とかでしょうか。建物の名前って訳ではないよね。

出来ればきちんと番地まではっきりと教えてください。


困って首を更に傾げていたら、すうっと景色の色が消えていく。

周りの風景も暗闇から白く白くなっていき、

ウサギの輪郭が白に溶けるようにぼやける。


(カエリタイ)

(モドリタイ)


ウサギの声がどんどんと聞こえなくなっていく。


((オネガイ、オネガイ、オネガイ))



すうっと意識が上へ上へと引き上げられる。

これは、私が起きる前兆です。


(オネガイ、神様の守護者)

(オネガイ、神様の加護者)


は?

今、なんて言いましたか?


((オネガイ、タスケテ))


ちょっと待って。ウサギ消えないで!

いや私、まだ起きないで! 夢から覚めないで!


い、今、ウサギが私の夢にあるまじき台詞を言いましたよね。

一気に不吉な予感が襲ってきているのですが。


私の伸ばした手が、すうっと幽霊の様に輪郭が崩れていく。


ああ、覚める、消える、起きちゃう。

なんてことですか!


この夢って、ただの夢じゃなかったんですか?

神様関連? 

それならそうと、ウサギも最初からきちんと言ってくれれば、

心構えと言うか心積りと言うか、なんというか。



********




耳の奥で、のんびりとしたトンビの声が聞こえてきた。


ピーヒョロロロロー(朝だよ~)



……どうして、神様関連って自己紹介から始めないのでしょうか。

公式文書ほどではないにせよ、言いたい事だけ言って、

言い捨てが定型って、ありなのでしょうか。


何となく泣きたくなりました。




 

メイは相変わらずうっかりさんです。

仕方ないですよね。

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