カナンの苦悩。
ガタンと椅子を引く大きな音がして、男がゆっくりと立ち上がった。
大きな体躯が天井に向かって勢いよく伸ばされ、
両腕が空気の波を描くように円を描く。
ほぼ一日かけて蓄積された部屋の澱みが、男の手に沿ってふわりと揺れた。
カナンは、それを見て自分も自身の背筋を伸ばすべく、
ゆっくりと胸を逸らせた。
両手が何時になく強張っていることに気づく。
カナンとナヴァルは、大きな背中を丸めて顔を突き合わせ、
ああでもないこうでもないと、
この部屋で討論しつつ書類を作成し、ほぼ一日。
いつになく真面目に机に向かっていたナヴァル執政官は、
はあ~と大きな息を吐きだした後、大きく息を吸い込む。
気分を強制的に切り替える様な深呼吸を数回繰り返す。
そして何度目かで落ち着いた頃に、肩を上下に揺らしながら、
目の前のカナンに向かって苦笑した。
「やれやれ、やっと終わったね。
今回も何とかなったようで喜ばしい限りだよ。
これで明日から通常業務に戻れる。僕も、君もね」
「ああ、そうだな」
「当初の目論見と違うといろいろ文句を言う輩はいるだろうけど、
どちらにとっても損のない最善の策だと納得される様に、
僕が責任もってやっとくから、心配しなくていいよ」
「ああ、よろしく」
何時もの様に適当に相槌を打ちながら、カナンは椅子の背にもたれ掛った。
古くなった木目がぎしりと軋んだ音を鳴らす。
撓った背もたれに体を預け、天井付近に視線を向けた。
夕日の残りかすのようなうっすらとした光が壁に反射していた。
気が付かなかったが、夕の鐘はとっくに鳴り終わっていたらしい。
「それから、この懸案書は宰相閣下から審議を議会に提出するよ。
これが上手く機能するようになれば、今より迅速かつ円滑に事が進む。
単純だが、実に効果的な方法だよ。
何故今までこのようなことに誰も気が付かなかったのか。
個人個人の能力に頼りすぎていたのが原因かもしれないが、
マニュアルが出来れば、後継に引き継ぎも楽だし、
早急に人材育成が可能になり、慢性的な人手不足を補える。
それに、このマニュアルがあれば、
阿呆共が知らなかったと下らない言い訳もできないし、
僕としてもいいことずくめです。
仕事の細分化が可能になり、全ての部署で突発的事項以外の仕事は、
割り振りが楽にこなせるようになるでしょう。
我々にとっても使いやすい手駒が増えますし、不正も防げる。
ぜひこれ、施行してほしいですね。
組織の一括りの枠が強固になるとか、優秀な若手の確保とでも適当にいえば、
問題なく決議採決の運びとなるでしょうか」
上機嫌なナヴァルの様子に、カナンは小さく頷く。
ナヴァルがいうマニュアルとは、先日マールがカナンに提案した、
役所仕事を円滑に進めるためのマニュアルづくりの推奨だ。
そして、今回一緒に提出するのは、それに伴った組織の改定要項の懸案書だ。
執政官に持ち込まれている細々とした雑事は、
本来なら、下部組織で手筈出来る物が多い。
だが、下部では手を出さず全て上に窺いを立てる。
それは、決裁事項の流れが一本化している為である。
マッカラ王国の過去の為政者が優秀過ぎたのか、
執政官が働き者の仕事人間ばかりだったのか、
個人個人の能力に頼った処理の仕方がそのまま生きているのである。
だがそれでは、上が優秀ならばいいが、
優秀さがそぐわなければ、流れが留まり仕事が滞りる。
ましてや、上が長期で休むと仕事が山積みになり、
下からも上からも突き上げられるようになる。今のカナンの様にだ。
この仕事のマニュアル化が施行され、
再編成された下部組織の分散化に伴った新たな部署が出来れば、
雑事の殆どが新しい部署で早急に処理され、
役所の仕事処理のスピードは断然速くなるはず。
これが決まれば、カナンの仕事もこれ以上多くならないだろうし、
時間が出来れば研究も進むし、実験も実証もいつでも出来るようになるはず。
結果、老師様の機嫌もそうまで悪くならず、良い成果を上げることが出来るかもしれない。
早く、そうなってほしい物だ。
カナンは、仕事の疲れからぼやけ始めた視界を振り払うように目を瞑り、
ナヴァルの楽観的な推測をそのままに、瞼の上に手を翳す。
「……ああ、そうだな。 なるべく早くそうなればいい」
ナヴァルが交渉する相手は、このマッカラ王国の最高権力者達だ。
常に優越感に包まれ、人よりも上だと偉そうに息巻いているが、
困ったことがあると、すぐに老師に泣きつく老害共だ。
老人と権力者にありがちな頑なな性質が顕著で、
あちらの要望は今やれすぐやれとばかりにせっつくのに、
こちらの要望は聞く耳を持たぬとばかりに、のらりくらり。
過去の功績を盾に権力を振りかざし命令する。
時に腹立たしく、正直、面倒この上ない連中だ。
どこの国も大概にしてお役所仕事は思うようにならない物だが、
この国では、決定権を持つ大本に彼らが鎮座している限り、
速やか且つ迅速な仕事は難しい。
今回のカナンとナヴァルが出す懸案書、及び議定書は、
仕事が滞りがちな彼等の一部の決定権を、下部組織に譲渡するといった物だ。
今回は、些細な事柄ばかりではあるが、国の決定権の流れを変えるという意味では、
改革的な指向となるだろう。
カナンの言葉にナヴァルは首をヒョイとすくめて、無情な一言を放つ。
「まあ、駄目かもしれないけどね。
頭硬いからね、あの方々は。その上、都合のいい老人ボケされてるし。
老師様の様にあっさり引退決意とかしてくれればいいのに。
なんて思いたくもなるよね。
まあ、駄目なら長期戦かな~そうなったら、いつまでかかることやら」
あっさりと希望を裏切る予測までしてくれる。
カナンの肩がずしりと重くなった。
それを振り払うように、固まった肩と首を軽く回す。
廻した際に、ポキコキとあちこちの骨が鳴り、
伸ばした背中と酷使した目が極度の疲労を訴え始めた。
ほぼ毎日、絶え間なく押し付けられる仕事の処理に追い回されて、
カナンは本当に疲れていた。目の奥がちりちりと痛む。
口から吐いた息が紫に変りそうなくらい酷い疲労が体を襲っていた。
少しでも楽になるように眉間を指圧していたカナンに、
ナヴァルはその肩を軽く叩いて鼓舞した。
「僕が言うのも何だけど、まあ、ご苦労様。
毎回、遅くまでお付き合いいただいて、本当に感謝しているよ。
長期の外出からの帰着もそこそこにこれでは、
疲れを癒す暇が無いから申し訳ないと思うけど、これは君の仕事だからね。
そもそも、君が仕事を朴って出かけたりするからこうなってる。
そう考えたら、本当に仕方ないよね。
まあ、明日からはどこにもいかないで精々体を労ってくれたまえよ」
「それは、老師様の研究次第なので……」
「はぁ~、それもねえ。本当に困ったものだ。
老師様も天才なのに、どうしていつまでも幻想庭園に浸っていられるのか。
長年、律儀に付き合ってる君もそろそろ解ってきたんじゃないかい?
あの研究は実現しえない。到底不可能だ。
老師様であっても夢物語で終わるというのが大多数の評価だ。
僕もそう思う。
いい加減に、夢は夢で終わらせて、現実に戻ってほしいね。
どうやっても結果が得られないならすっぱり諦める。
それが正しい人としての生き方だと思うがね。
大体、君も真剣に身の振り方を考えてもいい頃合いだろう。
何度も言っているが、こちらの仕事に専念して欲しい。
老師様も君も、それ相応な地位と立場を与えられているのだから」
こんなことは、何も突然言われたわけではない。
ナヴァルだけでなく、沢山の人に何度も言われてきたことだ。
だが、心も体も疲れ切っている今、その言葉を正面から受けるのは辛かった。
「私は老師様の助手ですよ。助手が老師の研究に付き合うのは当然です。
私は、そうでなければならないし、そうありたいと願ってます。
老師様が研究を諦めない限り、私が諦めることはない。
ですから、そちらこそ諦めてください。
私達はどこまで言っても研究者なのです。
それに、その御大層な地位は、老師様の助手の付属でしょう。
私や老師様が望んだものではありませんよ」
嫌な話題を断ち切るように、カナンは乱暴に吐き捨てる。
カナンの細い目に剣呑な光が見え隠れする。
気弱な人間なら慌てて前言撤回をするだろう。
だが、ナヴァルはそんな視線に怯むほど惰弱な精神を持ち合わせていない。
「まあ、待ちたまえ。
なにも僕は、訳もなく理不尽を押し付けているわけではないよ。
僕は、君の、為に言っている。今なら、まだ間に合うんだ。
老師様はこのまま研究を続けてその結果が芳しくなくても、
最高の英知を誇る賢者としての名声は揺るがない。
はっきり言うと、老師様はそこに居てくれるだけで我々には価値がある。
だから、役に立とうが何を研究しようが国は関与しない。
だが、君はそうではない。君と老師様は違うんだ。
君は老師の様には決してなれはしない。
君も解っているだろう、彼は、別格なのだ。
能力も才能も才覚も経験も、君が一生かけても到達出来ない場所に彼はいる。
付属であると自身をそう称する君が、一番良くわかっているだろう」
こちらの返す言葉を奪うように、
ナヴァルの言葉のナイフがグサグサと突き刺さる。
「君は、本当は解っているはずだ。
今なら、国も、僕も、世論も、君を高く評価している。
付属としてではなくとも、という意味でだよ。
だからあえて言う。結果の出ない夢に左右されず現実をみろ。
君の能力は、正しい場所で遺憾なく発揮されるべきだ。
今のままでは、唯の一塊の助手として忙殺され、老師様亡き後は、
絵空事ばかり追い求める生産性のない研究者と呼ばれるだろう。
成果を出さない研究に確実な後援は望めない。
国も研究への援助を打ち切り、君は研究者ではいられなくなる。
余りにも惜しい選択だと思わないのか?
今なら、道は他に有るんだ。
霞の様な不確かな研究などすっぱり諦めて、
老師様を諌め、一緒に間違った道を正して進もう。
明晰なるカナン主席政務次官殿」
ナヴァル執政官は鉄壁の笑みをカナンに向けていた。
彼は、カナンの元に先日から押しかけていた三人の執政官の一人、ナヴァルだ。
他二人の執政官の案件はここ数日で粗方済み、最後に一番面倒な要項だけ抱えて、
ここ何日か、この部屋でカナンと共に書類を仕上げていた。
先日の昼間の様なやり取りしか知らない人物が、
今の彼を見たら別人と思うに違いない。今の彼は、実に執政官らしかった。
いや、彼を直接知る大多数の人間が知る彼の顔は、この理想的な執政官だ。
ナヴァルは、王宮付の筆頭執政官としての宰相の補佐をしてる男だ。
その優秀さは元より、王家にもつながる裕福な上流階級の家柄も相まって、
誰しもが認める男なのだ。
コネと実力を兼ね備えた使える官僚。
彼は、補佐官の中でも頭一つ飛びぬけて優秀な現宰相の右腕であり、
役職に忠実で、時と人を見定めながら、
手際よく仕事を進めていくその仕事ぶりで、数多いる執政官補佐の中でも評価が高い。
カナンとの付き合いは、実は学生時代からだから10年以上だ。
それなりに気心の知れた仕事相手である。だが、それは兎も角、
そのように理を説かれて未来を予測されても、カナンとて譲れないものはある。
それが解るからこそ今度こそ嫌な気分を隠さず、顔を顰めた。
彼が本当に欲しいのは老師様自身の政治への積極的介入。
その天才的頭脳を国のために役立てたいのだ。
彼がカナンを欲しがるのは、老師を手に入れる為の単なる布石。
なにしろ、今も彼が言ったばかりだ。
カナンは老師の付属だと。付属としての未来は明るい物ではない。
カナンは決して老師の様には成れないのだからと。
ナヴァルの言葉が、カナンの心にずしりとのしかかる。
心の奥底に眠っていた澱みが無遠慮に掘り返され、
カナンは黙ったままナヴァルを睨みつけた。
ナヴァルは、反論を返さないカナンにさらなる追い打ちを止め、
軽く肩を竦め、手際よく机の上を片付けていく。
手に持っていた巻紙の幾つかを丁寧に纏め、
とんとんと机で高さを揃え、慣れた仕草でそれらを小さな籠に入れ、
重い書類の束は何重にも括りつけ、纏めた全てを棒にひっかけ肩に担ぎ上げる。
その様子は、モッコ担ぎの労働者の様だ。
「では、老師様にはよろしくお伝えください」
それだけ言うと、動かないカナンを置いてナヴァルは踵を返した。
外は夕焼けをすでに追い落とした夕闇が覆う。
夕の鐘の合図はとっくに鳴り終えていたから、
あと数時間で空に月が輝くかもしれない。
好き勝手言うだけ言って言い捨てたナヴァルの機嫌は大変良さそうだ。
彼の今夜見る夢は心地よいに違いない。ナヴァルの足取りは随分と軽い。
カナンは感情を燻らせ、瞳を濁らせていた。
どうして誰もかれも、カナンの研究者としての将来を否定するのだ。
勝手な事ばかり言い放ち、カナンに面倒事を押し付け未来を奪う。
翻ったナヴァルの背中に、思わず嫌味を返してしまう程に、
カナンは憤っていた。
「そこまで勝手な事ばかりいうのなら、こちらも勝手にしてよいだろうか。
もし宰相閣下やお偉方が文句を言う様なら、
今度こそ私と老師様はお役御免となりたいと伝えて下さい。
どこかの誰かが、よく影日向なく言っているように、
私の様な成り上がりは、立派な国の仕事をするべきではないのでしょう。
また、いい加減お年を考えて後進に道を譲るべきと、
老師様ご自身もおっしゃっているのですから、
彼等のご要望通りに、我々をすぱっと切って下さって構いませんよ。
ああ、そうです。いっその事、他の賢者とその助手たちに、
我々の立場と仕事の移行をお願いしたらどうでしょう。
11人も賢者がいるのですから、どなたか引き受けてくださるのでは。
老師も常日頃から研究以外のことはしたくないと、
はっきりと言われていますし
それが駄目なら全てを捨てて、別の国に移住してしまおうかとも、
つい考えてしまいますよ。老師様も諸手を挙げて賛成なさるでしょう。
私達は研究さえできるのなら、どこの国でもいいのですよ。
こうも副業である仕事に忙殺されるのでは、研究もままならず、
ついうっかり考えてしまいます」
カナンは、嫌味を織り込んだ引退宣言を簡単に口にした。
どこかの一般市民が聞いたなら、そは重大な決定だと狼狽えるかもしれない。
だが、ナヴァルは足を止め、口元を歪めて冷笑しただけであった。
何度となく老師が王と宰相の前で同じことを言及したことがあるので、
またかと思ったのかもしれない。
カナンとて先程の言葉は嘘ではない。
本当にそうしたいと何度も思った。心の底から願っている、今も。
本当は、老師様が言うように、四六時中研究だけをしていたい。
老師様の元で、老師様のような研究者になる為に。
だが、そんなカナンの心の叫びは、
ナヴァルにとっては取るに足らぬ戯言なのだろう。
冷笑に相応した硬く厳しい口調で反論した。
「それを、私共がみすみす許すと思いますか?
貴方も私も、国政を預かる役職の殆どの者が解っている事です」
ナヴァルの視線も言葉使いも、より硬く厳しくなっていく。
「12賢者の内11賢者が集まったとしても、
老師様が持つこの国の抑止力には到底なりえませんよ。
それほどに賢者の中の賢者、誰もが認める天才という名に相応しい才能、
知恵の神に愛されたマサラティ老師の名は偉大なのですから。
建国の時代から掲げられた我が国の理想『世に名高い知識と学門の都であれ』
その理想と思想がほぼ現実となった姿でマッカラ王国が在るのは、
先人の教えやそれなりの歴史もあったことでしょう。
ですが今、その言葉を掲げるにあたって誰しもが思い浮かべる象徴。
それが、マサラティ老師様の存在です。
かつてのあの方が齎した数々の輝かしい逸話に素晴らしい発明の数々。
物語の中の英雄の様に、憧憬と敬愛を持って、
誰しもが老師様の存在を支持し、存在することで安堵する。
彼の存在が、どれほど人を、国を惹きつけるか解りますか?
多くの学者があの方の側で学びたいと千里を越えてこの国に来るのです。
そうやってこの国に人が集まっているのです。
学者がたどり着くであろう最高の頂にいるあのお方がここに居るからこそ、
今のこの国は賢者の国たるを得る。 私はそう思ってます。
他の賢者の方々も確かに優秀では有りましょう、ですが、
経験も考察も、小さな政一つとっても、同等の結果を出せないでしょう。
老師様は天才の中でも別格なのですから。
老師様にとっては片手間でしたことであっても、彼等にはなしえない。
それほどに、その成果は目に見えて違います。
はっきり言って雲泥の差ですよ。
それを解っていて挿げ替えるなど、時間と労力の無駄ですよ。
すこし考えれば誰しもが解ることです。
国政を預かる者の立場からしてみても、老師様の存在は最強の手札。
決して手放すはずありません。どんなに本人が嫌がろうともです。
老師や助手である貴方の負担が多いのは理解してます。
研究以外の事を副業の一環として押し付けている我々は、
貴方にとって皮肉を面と向かって零さなければならない程嫌な相手でしょう。
それについては一友人として心苦しく、且つ、申し訳ないと思ってます。
ですが、貴方も今のこの国の現状を解っているはずでは?
今のこの国が非常に危なげな情勢の中にいることを。
隣国の不穏な動向に乗っかった度重なる戦争兵器の依頼。
他国への研究者の引き抜きに誘拐騒ぎが頻繁におきている。
今は門を閉じることで大まかには制御出来ているが、
抑止力である老師様が居なくなれば、
この国は知識と賢者の国ではなくなる。
いつしか何処ぞの国の欲得に飲み込まれ、
あっという間に国の名を穢してしまうだろう。
カナン主席政務次官様、老師を伴って国を出るなどと、
間違ってもそのような考えは持たないでいただきたい。
貴方の我儘でこの国を損なう行為を認めることは出来ない。
出るなら、お一人でどうぞ。
いえ、もっとはっきり言いましょうか。
老師様と違い、凡人である貴方の代わりはどこにでもいるのですよと。
尊敬する老師様の後継である貴方に、
とかく厳しいことを口にするのは、極力控えていたのですが、
今の貴方の発言は、この国の一端を担うものとして、
自覚が足りないと言わざるを得ない。
そんな馬鹿な考えはさっさと捨て去り、
荒唐無稽な研究などあっさり見切りをつけて、
もっと地に足を着けた考えを持つよう、
貴方が老師様に促してはいかがかな。カナン主席政務次官様」
大義名分を混ぜた反撃を返すナヴァルは、
先程までの優しい顔の仮面をあっさり脱ぎ捨て、
冷たい眼差しと上品なお辞儀で締めくくり、さっさと帰って行った。
カナンの心が冷たい言葉の鎖に絡め取られて、
ずぶずぶと深い底なし沼に沈み込んでいく様な気がしていた。
主席政務次官。
それはカナンが望まぬうちに、マッカラ王国につけられた、
面倒事しか運んでこない押し付けられた役職であった。
主席政務次官の上は政務長官、つまり宰相である。
立場的には宰相付執政官のナヴァルとさほど変わらない地位であったが、
カナンは、特例としてあくまで研究者としての立ち位置が優先されると、
最初は宰相も国の王も言っていたから引き受けたのだ。
大きな権力が予測される御大層な役職だが、
要は頑固で融通の利かない老師様との顔つなぎの意味合いが強い。
国が老師様の能力を頼みやすくするための便利な役職にすぎない。
だが、その御大層な肩書を知った多くの人が口をそろえて言う。
「たかが一学者のくせに、大した出世をしたものだ。
さすが権力に媚び諂うことがお得意な成り上がり者だ」と。
事実、他の11賢者の助手連中は酒場でそういって管を巻いているらしい。
羨ましい。妬ましい。引きずり落としたい。
酒と共に吐き出される言葉は鬱陶しい限りだ。
老師様が居なければ、カナンが老師様の助手でなければ、
自分がその役職に就けたとまで言った輩もいる。
そんな奴らに、カナンは言いたかった。
代われるなら代わってくれ。と。
カナンの望みは昔から変わらず一つだけだ。
敬愛するマサラティ老師の傍で助手をし、その研究の追及を共に行い、
いつしかマサラティ老師の後継者として彼の研究を引き継ぎ、
後の世に人類の未来に繋がる大きな礎をこの手で残すことだ。
老師の研究の根本は昔から変わらず「雨」
その他の発明や発見は研究の過程で生まれた産物に過ぎないらしい。
雨がどうして降るのか、どうやって雲が浮いているのか。
雲はどこでどうやって作られるのかという疑問から始まって、
雨を降らせるにはどうしたらいいか、その水源はどこから来るのかと、
疑問は山の様にある。答は用意されている物ではない。
自由に雨を降らせる。
人の身では到底成し得ぬ神の御業と言ってしまう者も多い。
だがもし、自由に雨を降らせることが出来る様になったなら、
少雨化で悩み苦しむ多くの命を救うことになるだろう。
神の御業を解明するのは、一生かけても足りないかもしれない。
だが、それらの疑問が全て解けた時。
人類の未来が確実に良い方向に変わることだろう。
誰も傷つけず、誰もが喜ぶカナンと老師の壮大な研究。
わくわくする夢の様な未来が描かれる想像に心が弾む。
その未来に向かって、老師と一緒に一つ一つ解き明かすのが、
カナンの生涯の仕事だ。
老師様の推測に基づいて、国から出られない老師様の代わりに、
実証と検分をあちこちで行う。
老師が仮説を立てる度に、カナンは山や谷、
砂漠のオアシスにまで出向いて調べる。
水が熱せられて水蒸気となり上空に登るのではという仮説を老師が立てたが、
あれだけの水を地表から上空に運ぶことはどうあっても難しい。
ならば、空近くの標高の高いところで出来ているのではないか。
マッカラ王国から北に向かった大山脈の頂にも苦労して登頂したが、
雲はその更に上空に浮いているだけで、雲が精製されている様子はない。
砂漠の水源は何十年か一度、まるで生き物の様に移動することがある。
それらの水源が雲の基になっているのではないかと仮説が立てば、
カナンが枯れたオアシスの調査にエピを駆り、グレンや案内人を伴って赴いた。
壮大な研究には、膨大な時間と過程が必要になる。
それに対して文句など言うつもりはない。
その調査の折、どうして水源が枯れたり潤ったりするのかを正確に解れば、
進む砂漠化を留めることが出来るかもしれないと老師は言われた。
それは世界をひっくり返す喜ばしい研究となるかもしれない。
いや、絶対そうなる。グレンもヤト爺もびっくりするに違いない。
心がわくわくと踊った。いつかきっと見つけて見せる。
それを目標に、何度も何度も挑戦した。
だが、カナンが助手になってもう10年近くになる。
老師も歳を重ねているが、自分も年を取った。
ナヴァルの様に、夢が現実に出来ないなら諦めろとの声が耳に憑き始めた。
はっきりとした成果は何一つ上がっていないから、反論できないことに苛立った。
老い先が見え始めていると言う、老師の焦りが理解できるようになった。
研究以外の雑事に気を取られたくないという気持ちも。
なのに研究以外の仕事が追いかけて、追いついて、カナンを押しつぶす。
焦燥感が、じわじわとカナンを追い詰める。
手間も時間もかかるのは解っているが、
思っていた成果が出ないことに師弟共々、日々苛つきが募っていた。
雨を降らせるなんて夢見物語だと笑っている輩が多い事は知っている。
そんな研究よりもっと先立ち、役に立つものを研究しろと言う声も、
もっと国の役に立てと、研究費の無駄だと、
ナヴァルの様に老師を国の表舞台に担ぎ出したい輩もいる事も。
『老師様が作った昇降機もステラッドも、元々絵空事と笑われた産物だ。
それがこうして現実になり、目の前で動き、
人々の生活の足たるを得ているではないか。
研究者は、誰も見えない未来を紡ぎだすものだ。
老師様の発明に恩恵を得ているお前たちに、あれこれと言われる筋合いはない』
以前なら、堂々とこのように反論していた。
老師様の才能は絵空事を現実にする力を持つ。それだけの力が老師様にはある。
そして、学多くの弟子志願者の中から弟子に選ばれたカナンも、
その才能引き継ぎ、人々を助ける為の研究を進めていけば、
いつかその才能を誰もが認め、
老師の様に遺憾なく発揮できる時が来るのだと、そう信じていた。
だが、嫌々ながら政治の世界に携わるようになり、
無我夢中で仕事をこなし、国の立場や考えが解ってくるにつけ、
カナンの研究者としての形が、次第に歪んでいるのを感じていた。
今のカナンは、果たして研究者と言えるのか。
いいのか?このままで。
ナヴァルが言うように、才能の無い自分がこの研究を続けていけるだろうか。
世間の厳しい目がカナンを追いつめているようで苦しくなる。
いい加減に諦めるべきではないのかと頭の何処かで誰かが囁く。
そんな自分が嫌になり、どんどん研究者としての道を逸れている気がして、
呼吸が苦しくなり喉が詰った。
このままでいいのだろうか。
本当に、今のままでいいのだろうか。
自分は何者にも成れないままで、この生涯が終わるのだろうか。
だが、研究者として10年以上生きてきた。
あっさり捨てるのは身を削るより辛い。
どうしよう。どうしたらいいのか。どうするべきなのか。
そんな迷いが日々大きくなる。
もし、老師を失った時、カナンは老師の様に研究者であることを、
貫くことが出来るだろうか。
昔のカナンなら、自信をもって出来ると言っただろう。
だが、今は……。
カナンは、過去の自分を追想し、誰かを探すように視線を虚空に向けた。
*********
カナンは、奴隷身分であった母から産まれた。
カナンの母は、少女時分にイルベリー国から家族で移住、のち盗賊に襲われ、
家族を殺されて奴隷に落ち、商館の声掛娼婦として買われたらしい。
其れだけを聞くと、カナンが今こうして生きていることすら怪しいとさえ思える。
奴隷娼婦の生んだ男子は人買いに二束三文で売られることも少なくなかったからだ。
そして、その行先はほぼ100%割合で死亡となる世の中だった。
母にとって幸運だったのは、偶然にも砂の一族の男と関係を持ち、気に入られ、
子供、つまりカナンが産まれたことだった。
砂の一族の血を継ぐ男子、カナンが産まれたことで、
母は砂の一族の集落に身請けされ、男の妻の一人として迎えられた。
そして、更に母と子の幸運は続く。カナンが産まれた同時期、
ラドーラの領主が熱愛の末にイルベリー国から迎えた美しい妻に、
待望の子供が産まれた。それが、カナンと母の運命を変えた。
ラドーラと砂の一族が待ちに待っていた待望の跡継ぎ。
敬愛する領主に似て、元気の良い丸々とした男の子だった。
だが、領主の妻は産後の肥立ちが悪く乳の出が良くなかった。
そこで乳母として選ばれたのが、生国イルベリー国の言葉を話せ、
日々カナン一人が飲むのに余る程の乳を持つカナンの母であった。
砂の一族との繋がりがあり、尚且つ遠いイルベリー国の言葉を話す母は、
ラドーラ跡継ぎ息子の乳母となり、同時にカナンは乳兄弟として、
ラドーラ領主館に連れて行かれた。
カナンと跡取りのグレンは、領主の意向により本当の兄弟の様に育てられた。
同じものを食べ、同じことを学び、同じ様に鍛錬する。
起床から就寝まで殆ど一緒の時を過ごした。
悪戯も冒険も一緒に楽しみ、ばれて怒られる時も一緒に拳骨を受けた。
砂の一族の統領息子のレノーと三人で、
子供時代は縦横無尽に街中を駆け回ったものだ。
我々は、俗にいう幼馴染に当たる関係でもあるのだ。
だが、レノーは兎も角、カナンは二人と自分は立場が違うといつも思っていた。
グレンが守られるべき存在であり、カナンにはグレンを守るしか選択肢はない。
グレンは、カナンとは生まれ持った立場が違うのだと、
幼いころからはっきりと区別していた。
グレンやレノーとは命の重さが違うのだと。
カナンの母はカナンが物心ついた時には毎日の様に言っていたからだ。
「グレン様を命に代えても御守りするのよ。
その為に貴方はここに生きていられるのだから」と。
領主一族の家訓により、ラドーラ領主と成る世継ぎの息子は、
5歳から数年間、外国で一般市民に混じり厳しく育てられる。
彼は実母の生国であるイルベリー国に留学することになっていた。
その時に連れて行くのは護衛一人と乳母一人。
そして、グレンの要望で傍仕えが一人。
つまり、カナンと母が一緒に行くことは決定だった。
カナンは漠然と思っていた。
カナンの一生はグレンと共にあり、グレンのために生き、
グレンの為に死んでいくのだろうと。
例えグレンの役に立たなくても、母の言うように盾となって死ねばいい。
それが彼の人生だと思っていた。
カナンとグレンの未来が大きく変わることになったのは、
二人がイルベリー国に留学した時だ。
イルベリー国についてすぐ、カナンが相も変わらず迷子になり、
それを探しに走っていたグレンが彼等に出会った。
水の都、職人の都と詠われるイルベリー国は、ラドーラとあまりにも違った。
水路が縦横無尽に張り巡らされ、道なき道があちこちに存在し、
案内板が殆ど役に立たない。まあ、詳しい地図があったとしても、
カナンが迷うのはもはやお約束とも言えたのだが、
カナンは次第に知らない場所、怪しい場所へと踏み込んでいた。
気が付けば倉庫ばかりで明かりもなく、人通りのないくらい場所。
怖くなって暗闇を避けるよう走っても突き当り。
知らない異国で迷子になり途方に暮れていたカナンを、
迷子を探してほしいと一報を受けて探してくれたのが、
当時、イルベリー国のガバナー国民学校の麒麟児と名高いレヴィウスと、
その仲間たちだった。
グレンは、自国とはいえ広い入り組んだ街中で、カナンを探す彼等の手腕に、
レヴィウスのカリスマ性とその圧倒的な存在感、行動力と統率力。
その仲間たちとの確かな信頼関係、的確な実行力にも悉く魅了された。
そんなグレンは、レヴィウス達を慕って通う学校をいきなり変えた。
今までにない若君の我儘にカナンの母もお付の護衛もカナンも大変驚いたが、
ラドーラ領主からグレンの相談役に任命されていたレヴィウスの父、
ゼノの「そんなもん、どっちだっていいんじゃねーの」の一言で、
あっさりとガバナー国民学校に入学が決まった。
学年も違うし、その当時レヴィウス達は卒業が決まっていたゆえに、
学校でレヴィウス達を会いまみえることはめったになかったが、
グレンは学園に散らばるレヴィウスの影を追うことを楽しんでいた。
カナンは正直言って、人生の王道を謳歌しているような彼等が苦手だった。
だから、何故そこまでと以前に聞いたことがある。
その時、グレンは言ったのだ。
父の様になりなさいと、幼い時から周りに言われていたが、
何をどうしたら父の様に慣れるのか、さっぱり解らなかったのだと。
グレンは父親である領主のシャールとは気質が違う。
どちらかというと母親に似て、実直で素直な性格だ。
それが悪いとは言わないが、周囲の大人からしてみると、
シャールと比べて物足りなさを感じていたのだろう。
鋼のシャールは誰しもが認める辣腕な政治家であり、民の絶対的な庇護者であり、
剛腕で知られる戦士の顔を併せ持つ完璧な理想の統治者だったのだから。
グレンは常に父親の子供時代と比べられ、
いつか父の様になるだろうと未来を気楽に考えることが出来ず、
子供ながらに真剣に悩んでいた。
父親の様にと言われても、同じようになれるわけがない。
父が何を考えているのか、さっぱり解ったためしが無いからだ。
5歳にして、父の様には成れないと自分でも何かしら悟っていたようだ。
だが、どうやってもグレンは領主にならなくてはならない。
ならばどうするか。どうなれば、領主に相応しくなれるのか。
そこで現れたのが、レヴィウスだった。
グレンが脳裏に描く、人を正しく導く正しい指導者になるであろう
成長途中の理想的な模範がそこにあった。
勿論、学生達の中という狭い世界の評価であったが、
年齢も父よりも近く、彼のたどった道筋を同じ様に進むことで、
頑張れば手が届くかもと思うくらいな立ち位置に、
レヴィウスの存在があった。
「貴方の様になりたい」
身内だけを集めた帰国の宴で、グレンは、
レヴィウスを憧れの目で見つめながらそう言った。
だが、そのレヴィウスはあっさりと首を振った。
「駄目だ、グレン、俺は俺。お前はお前だ。
お前は俺の様になってはいけない」
緑の瞳に威圧されるように、グレンの決意が揺らいだ。
「だ、だけど俺のままだと、周りは納得しない。
父の様に素晴らしい為政者に成れと、常に言われてきた。
でも父と僕はまるっきり違いすぎる。到底父の様には成れない。
だけど、レヴィウスのようになれたなら周りは納得する」
グレンは悔しい時、いつも爪で手のひらを傷つける。
グレンの手のひらからポツリと血が毀れた。
「そうだな、今のお前ならそうだろう。だが、成長したお前ならどうだ」
それでも首を振るグレンに、レヴィウスは笑って言った。
「大体、理想は一つとは限らないだろう」
その意味が解らず首を傾げると、グレンに傍にいたカースが言った。
「世の中には、星の数だけの為政者や英雄がいます。
素晴らしいと歌われた歴史上の英雄や賢帝と讃えられた為政者達。
彼等は考え方ひとつ取ってみても、個々として同じではない。
それどころか、全く違うとは思いませんか?
そしてそれは、何故だと思いますか?」
グレンは瞬きを繰り返しながらも考え、カースの質問におぼろげに答えた。
「それは、その国の考え方や習慣が違うからで……」
グレンの言葉は、カースに途中で遮られスパッと落とされる。
「違います。彼らが、一人として同じ人間でないからです。
彼らが、彼らなりの理想と現実を上手く重ねあわせた結果として、
後の世に賢帝やら英雄やらともてはやされているにすぎません。
もし、当の本人が目の前にいたなら、言うでしょうね。
賢帝や英雄などと称されるには、まだまだだとね。
目の前の問題に、一歩一歩進んできた結果として、彼等の評価があった。
それだけなんです」
レヴィウスが頷いて言った。
「グレン、お前自身を否定するな。
お前が誰にも成れないように、誰もお前には成れない。
だから、一歩ずつ進んでみろ。その先にお前の未来がある。
たどり着く場所が見えているなら、そこに行きつくまでにもがけばいい。
お前の未来はお前だけのものだ。
お前だけの道は、お前だけが探すことが出来る。
それを見つけるのが楽しい。 そうじゃないか?
まっすぐにお前のままで。グレン、目指してみろ」
「そうですよ、グレン。
グレンのその真っ直ぐさは、得難い資質だと思います。
貴方のままで、まっすぐに進んでいけば、それを認め、
貴方を支えたいと思う人が大勢出てくるでしょう。
私達が貴方を友人と認めたように、貴方が貴方であるかぎり、
いずれ誰しもが貴方を得難い領主として認めることでしょう」
レヴィウスとカースの言葉を聞いて、彼の仲間たちもグレンに言葉を送り、
エールを送るように肩を叩いていく。
「グレン、俺は、お前はいい為政者に成れると信じてるよ」
「お前なら信頼できる素晴らしい領主に成れるはずだ、グレン、頑張れよ」
「グレンと友達になれて、俺達は嬉しかったしさ。
多分、領主になったら、周りの人間も同じように嬉しいと思うよ」
真っ直ぐにグレンを見つめ、シャールと、いや誰とも比べるでもない、
グレンだけの評価を与え続けるレヴィウスとその仲間たち。
グレンの目から、大粒の涙がぼろぼろと毀れていた。
「有難う、レヴィウスさん、カースさん、皆」
レヴィウスは、ポンっとグレンの頭を叩いて、笑った。
「これから先、どこに居ても何があっても、
お前がお前である限り、俺達はお前の友だ。
お前の進む道は、決して一人ではない。だからへこたれるな。
どこに居ても何をしていても、お前がどう生きるのか見ていよう。
だから、まっすぐにただ進め」
その台詞に、グレンは何度も頷いていた。
「ラドーラは遠くとも、世の噂は千里を走ると言いますからね。
仮に貴方に何かあったのなら、手を差し伸べるのは吝かでは有りません。
まあ、骨は拾ってあげましょうというくらいですが。
レヴィウスと私は船乗りになる予定ですので、
貴方がどうしようもなくなった時は、船の下っ端として雇い入れますよ。
それなら安心でしょう」
にっこり笑うカースに、後ろからウゲッとか、それこそ地獄だろうとか、
絶対いやだよね~とか、失礼な声が上がったがグレンはそのまま頷いていた。
「有難う。俺は、貴方達に恥じない俺でいたい。
俺は、貴方達が認めてくれた俺のまま、まっすぐに進むよ。
もう泣き言は言わない。 だから、見ていてくれ」
その時から、グレンの目に迷いは消えた。
それから、グレンは何が自分にとって正しいか。
自分がどうあるべきかと、理想と現実について考え、学び、教えを乞い、
充実した時間を過ごした。
そんなグレンは、ラドーラに帰国の際、船の中でカナンに語った。
「カナン、俺は決めたぞ。
俺は、もっともっと学ぼうと思う。
俺は、まだまだ足りないものが多すぎる。
だから、帰ったら父の言う様に、マッカラ王国に留学して、
更に学ぼうと思う。お前はどうする?」
どうする?とカナンは初めてグレンに聞かれた。
カナンがグレンの側に居て当然だと思っていた毎日では、
決して出なかった問いだ。
グレンは、自分の未来を選び取る選択をしたと同時に、
カナンにも選択の自由を与えようとしたのだと解った。
「俺は、ラドーラの街が、人が、砂の一族が好きだ。
父も母も、港も、砂漠も好きだ。
だから、それらを守れる俺でありたいと思う。
その為に学ぶのなら、それは俺にとって必要で大事な事だ。
だから逃げないし、そう決めた。
だが、お前は違う。 カナン、お前はどうしたい?
俺は、お前の人生を縛りたくない。
お前がしたいことを素直に言ってくれないか?」
その時初めて、カナンは自分の未来が迷子になった気がした。
領主になれと言われて領主になろうとしていたグレンが、
自ら領主になりたいと道を選び取った。
だが、グレンの側仕えでいろといわれていたカナンは、
それ以外の道を探したことが無かったのだ。
カナンはその日から考え始めた。
カナンの未来を。
カナンは母親に似て線が細く、幼少時は女の子と間違われることもあったが、
もともと骨格も細く、幼馴染で砂漠の民であるレノーキスと比べたら、
力も小さく頼りない。これからどこまで成長しても、
グレンの護衛として生きていくには無理だと、子供心にして薄々悟っていた。
背は伸びるかもしれないが、護衛をするには全てが圧倒的に足りない。
そして、グレンの側仕えでいるには、致命的な欠点がカナンにはあった。
致命的な方向音痴だ。
誰に言われなくても解っていた。
自分でも認めたくなくて、いつか大人になったら治ると信じていたが、
誰に聞いても方向音痴の治し方を知っている人はいなかった。
武器を取ってグレンを守るに向かず、グレンの使者として先触れもできず、
ただ側に居るだけでは、いずれ立派な領主となるグレンの重荷になる。
ならばどうするか。
体を張れないなら頭を使えばいい。そう考えたのは単純に消去法だ。
そこまで頭がいいというわけではなかったが、選択肢はそれしかなかった。
幸いにしてカナンは勉強することが好きだった。
だから、グレンと一緒にマッカラ王国に赴いた。
ヤト爺に連れられて教師として引き合わされたのが、マサラティ老師だ。
気難しそうな偏屈爺な風貌の老師に、開口一番に言われたのがこの言葉だ。
「雨はどうして降ると思うか」
グレンが答えたのは、「雨がふると神が決めたから」砂漠の一族の教え。
カナンが答えたのは、「雨雲がそこにあったから」イルベリー国で学んだこと。
老師様は言った。
「話にならん。 もっと考えろ。 頭を使え。
世の中には見えている物よりも、見えない物の方が断然多い。
神を簡単に口に出すな。神とは、理解できない出来事に対する免罪符だ。
神を口にするのは、人間死にかけた時だけでいい。
人の世は人によって解析され、人によって世の理を解き明かされねばならない。
すべてを神の仕業で済ますは傲慢だ」
初対面の白髪の老師様は、グレンがラドーラ跡取りと知っても、
高飛車な態度のままで、上から目線を変えない。
それどころか、話にならんと言われた後は、視線さえも向けられない。
足元の蟻を視界の端に収めただけのように、二人は存在を無視された。
ヤト爺がいなければ、二人は途方に暮れていただろう。
「かかか、お主の態度は変らんのう。
その言い方では、天罰が下っても文句はいえんぞ。
じゃが、幼い子らに八つ当たりは、よい大人としてどうかと思わんかの?」
八つ当たり、そうなのかと思う間にも二人の会話は続く。
「ふん、良い大人の基準が馬鹿であるなら御免こうむる。
解りやすい立場を大事にするくだらない奴らを教師に雇え。
ワシはワシであることを変えようとは思わん。
天罰大いに結構だ。人が決めた神の定義なぞ知ったことか」
思わずぎょっとしたことを口にする。
神学者が聞いたら、耳を疑うだろう。
砂の一族とて神への教えはきちんとある。
人が生きていけるのは神の慈悲であり、神の恵みにより人は生かされる。
それが砂の一族の定義。子供にはなかなか理解が難しい定義だ。
「はっ、お主とて子供の折は無知であったろう。
無垢である相手に、無知であることを責めるは道理が立たぬよ。
まあ、坊主らが無知であり続けようとするなら、話は別じゃがの」
ヤト爺は、グレンとカナンの頭をワシワシと両手で乱暴にかき回す。
頭を鳥の巣の様にされたグレンとカナンには見えなかったが、
二人に対する愛情が解る慈愛溢れる微笑がそこに浮かんでいた。
それを見て、老師がふんっと鼻を鳴らした。
「そこの鼻たれ坊主たちは違うというのか?
お前の神に懸けて誓っても、ワシは信じんぞ」
何が基準で違うと言うのか解らないが、
厭くまで断ろうとする老師に、ヤトが一枚の紙切れを差し出した。
「くっくっくっ、お前相手に神を引き合いに出そうとは思わんよ。
何年の付き合いだと思うておるんじゃ。 ほれっ、これでどうじゃ」
小さな紙切れに書かれていた簡潔な文章を見て、老師は顔を顰めた。
「お前、これをどうやって。何年も見つからなくて探していたのに。
いや、この筆跡は、あいつの仕業か。昔と変わらず小賢しいことを」
ヤト爺は満面の笑みで答える。
「血がなせる業とでも言った方がいいかの。
あ奴はこれは単なる布石と言っておったよ。
天邪鬼は血筋じゃの。解ったら、とっくに諦めがつくじゃろうて。
あ奴曰く、ラドーラが平穏であることが、強いてはマッカラ王国にとって、
そして、あ奴にとっても重要であることらしい。
まあ、ワシらにとっては損のない話じゃ。受けぬ道理はないの。
で、どうするんじゃ。受けるのか受けぬのか。返答せい」
老師は、羽根ペンでサラサラと、机の上にあった何かの紙切れに文字を書いた。
それをヤトにそのまま返すと、ヤトは、にかっと笑いながら懐に仕舞い込んだ。
老師は、はあっと大きなため息をついてペンを机の上に無造作に転がした。
「ふん、まあいい、仕方ない。引き受けよう。
だが、こいつらがワシの授業に付いてこられなければ知らん。
無知であろうとする馬鹿は、人として存在すら認めん。
先程の様に神などと口にするようならば、叩きだす。
それでいいなら、生徒として受け入れよう」
ヤト爺は嬉しそうに手を叩いて喜んだ。
「かっかっか、そうかそうか。それは重畳、重畳。
それでええ。 もとより根性なしは一族も男としても認めんからの」
楽しそうに笑った後、二人を振り返った。
「ええか、坊主ども、この男はこう見えても無神論者ではないのじゃ。
すべてを神のせいにして、解らないことを解らないままで済ます輩を、
軽蔑しとるだけじゃ。そこをはき違えてはいかんぞ。
我等砂漠の民にもラドーラにも神は居る。我らが民の指針にもある」
ヤトの言葉に二人はほっとした顔をして頷いた。
「じゃが、学問に至っては、こやつが指針じゃ。
迷わんよう、しっかりついていくんじゃな」
とりあえず、目の前の不遜な態度な白髪の老人が彼等の先生となる。
そのことが解って二人そろって頭を下げた。
「「よろしくお願いします」」
実に素直な生徒達である。
ひねくれまくっている目の前の老人達には、聊か眩しい程だ。
素直なことは学問をするうえで美徳である。
そう思っているが、ヤト爺にしてやられた感が強い老師は、捨て台詞とばかりに、
更なる不遜な言葉を並べたてていた。
「全ての理には理由があり原因がある。
それを探求せずに屁理屈を述べるなら叩きだす。
また、ワシの仕事の邪魔をするようでも叩きだす」
どんどんと条件が増えていく。
にこにこと笑いながら、ヤト爺はカナンの肩を叩いた。
「こやつが言いたいことはの、言い訳は男らしゅうないということじゃ。
出来ない理由に情けない言い訳を持ちだした時点で叩きだすとな。
かっかっかっ、正論じゃの」
二人は、納得したとばかりに頷いた。
どうやら頭は悪くなさそうだと思った老師が、
真面目な顔で教育方針について話し始めた。
「ヤトが言うように、ワシは神を否定しているわけではない。
むしろ、神を信仰することは悪くないと思っている。
時に、信仰は人が正しく歩むべき指針となる事も解っている。
だが、盲信することは罪だ。盲信を垂れ流すのは馬鹿だ。
その盲信を他人に強要する事は阿呆のすることだ。
その違いをきちんと把握しろ。
奴らは雨が降れば神を崇め、月が隠れれば悲惨な声を出す。
狂信者どもの言うことは一切聞くな。学問の邪魔だ」
老師の言葉に、カナンは首を傾げた。
一族の、そしてラドーラの街の神殿でも、雨乞いの祈りはよく聞こえる。
彼等にとって、当り前になっている日常の風景でもある。
「神殿で雨呼びの儀式が行われていると聞いたことがあります。
それもいけないのですか?」
その質問に老師様は答えた。
「地中に水源があると解っていながら井戸を掘らず、
雨が降るのを待ち続け、ひび割れた大地の上で、
そのまま神の御心だと死んでいく民をどう思う」
「それは……」
「運河を轢けば助かるオアシスを、
空を見つめて祈ってばかりの人間がどうにかできると思うか?」
「助かる方法があるのなら、示せばいいでしょう」
グレンの言葉に、老師が鼻で笑った。
「そうだ、方法だ。その方法こそが学問から得る知恵なのだ。
知恵を持たない今のお前たちでは、死んでいくだけの民と同じだ。
水源を探す方法も、カレード建築方法も知らねば正しく示せない。
学問とは、人の世を正しく導くための世の理を解き明かすものだ。
学問に信仰は必要ない。
正しき理を示せば、殆どの事柄が解決する。
だから学べ。そして、常に最善を考えろ。
それが、ワシの生徒である最低条件だ」
解りやすい言葉に、二人はそろって頷いた。
知りたいことは沢山ある。
そして、目の前の老人は確かに多くの事を知っていた。
知識の都の天才と呼ばれた最高賢者。
グレンは、ラドーラの領主となるため、民を助ける為に、
ありとあらゆることを学ぶと決意する。
その反面、老師の言葉が、カナンの深層に一本の道を刻んだ。
もし、カナンが老師様のように全ての理を知るようになれば、
ラドーラの領主として、正しい為政者として生きていくグレンの、
大いなる助けになるのではないだろうかと。
グレンの体がカナンよりも随分と大きくなり、
もはやグレンの盾にすらなれないカナン。
グレンを守ることが出来る方法を模索し続けたカナンに、
老師が示した一本の道がピタリと重なった。
自然学、化学、生物学、機械工学、哲学、歴史学、地質学、水質学、
政治学、戦術学、ありとあらゆる分野の初期学問をみっちりと詰め込まれる。
吐きそうになるくらい毎日宿題が出た。
グレンと二人、何度も宿題で夜明けを見た。
休みとは何ぞやと言いたくなるくらい勉強に浸かった。
そのうち、カナンの心情に違いが出てきた。
老師様のいう、世の理を知る事が楽しくなってきたのだ。
世の理を知ることは際限が無く、その際限のなさにまた魅了された。
グレンの為になるという目標が、次第に自分の欲求に塗り替えられていった。
カナンの日々は楽しく、毎日の生活がどんどん変わって見えた。
老師様の仕事は多岐にわたり、書類整理などの手伝いをと、
面倒くさがりな老師様に代わり幾つかこなしていたら、
なんとなく周りから老師様の助手と認められるようになってきた。
老師様もそんなカナンを咎めるでもなく放置している。
老師様の役に立っている成長した自分が嬉しくて、
学問に、老師様仕事の手伝いに、研究の助手にと、
気が付けばありとあらゆることが出来る様になっていた。
毎日が充実していた日々は瞬く間に過ぎて行った。
18になった時、グレンはラドーラ領主から、
そろそろ帰ってこいと連絡を受け取った。
グレンは、素直に了承し、帰国の準備を始めた。
カナンは、以前ならグレンに付いていくのに何の躊躇いも持たなかったのに、
今は、この日々から、この国から、
そしてマサラティ老師の側から、離れることに酷く動揺した。
幼いころから洗脳の様に言われていた母の言葉が何度も頭に蘇る。
「若様を、お前の命に代えても御守りするんだよ。
そうでなけりゃ、私達は生きていけないんだからね」
カナンの人生はグレンと共にあり、カナンの進む道はすでに決まっていて、
そこから外れることは出来ない。そうだ、出来ないはずだ。
だが、それでもと思っている自分が、そこには確かにいた。
老師様の傍に、自分の居場所を見つけているような気がしていたのだ。
悩んでいたカナンに、領主の跡取りとして帰ることを決めたグレンが告げた。
「もういいんだ。 俺の傍にもう居なくてもいいんだ。
俺はお前を開放する、カナン。
知ってるさ、お前は学問の道に進みたいのだろう。
このまま、老師様の元で学問を続けたいのだろう。
いつも一緒に居たんだ。それくらい親友の俺が解らないと思うか?
カナン、今の俺はもう子供ではないし、
万が一危険が迫っても自分で何とかできる。
お前が無条件で俺の盾である必要はもうないんだ。
俺には、家族もいるし、砂の一族の助けも、ラドーラの民も居る。
だからカナン、俺の親友にして乳兄弟であるお前を開放する。
俺が成りたい俺になるように、お前も自由に生きてくれ」
真っ直ぐな気性のまま育ったグレンの瞳は、どんな時も変わらない。
カナンの大事な親友であり、お互い何でも知ってる乳兄弟。
大切なラドーラの若様。
そして同時に、カナンのもっとも大事な敬愛すべき幼馴染。
「カナン、お前の生きたいように生きろ」
グレンは、カナンの背を押してマッカラ王国へ残る選択肢を開いてくれた。
カナンはグレンに感謝し、目指したあの一本の道へ進もうと決心した。
いつかきっと、グレンとカナンの将来が重なる未来がある。
その時はきっと、カナンの研究ががグレンを助ける未来であってほしい。
きっとそうなる。
***********
あれから、10年が過ぎた。
カナンの現状は、あの時と変わっていない。
老師様の助手のままだ。
いや、断れないで多少無理を重ねるうちに、仕事の比重の方が増したといえる。
その結果、本来の仕事である老師様の研究の助手も、
カナンが追求したい本来の研究の進行も、全てが著しく滞っていた。
同じく助手であるルカがそれ見たことかと、時折ケケケと笑う顔が気に障る。
あいつの言う様に、情に流されず最初から断っていれば、
こんなことにはならなかったのかもしれないが、過去は変えられない。
そんなこんなで、現在、カナンはかなりの鬱憤を抱えていた。
その鬱憤の原因が、過去の自分に有ることは解っているので、
それに輪をかけて落ち込んでくる。
マサラティ老師様の一番弟子。
憧れに焦がれて、自ら望んでやっと手に入れたその場所は、
カナンの研究者としての道をどんどん狭めていく。
毎日朝から晩まで雑事と政務に追われ、溜まっていく仕事の山。
自分の研究は後回しにして急務の物から片付けることを、
目の前で要求される。
弟子についた当初は仕方ないで片付けていたこれらの要求は、
どんどんと大きくなってカナンを押しつぶしていた。
押し付けられる仕事を片付けていく毎に、
研究者としての自分が、サラサラと砂の海に流れている気がしていた。
本来なら、老師様は時期を見計らって国政から身を引くと名言していたのだ。
だが、情勢がそれを許さなかったのだ。
隣国はどんどんと過酷な状況に陥りはじめ、
長く続いた有益温和な関係は、混乱の中その全貌を変えた。
欲望に染まった輩が、我が国への過干渉を行い始めた。
また、それに追従する他の国々が、
マッカラ王国の知力を武力に変えたいと望んで手を伸ばし始めたからだ。
多くの学者崩れが他国で危険な武器を作り出していた。
マッカラ王国の立地は土地として旨みのない山間部にある小さな国だが、
そこにある知識と技術は、他国からしたら垂涎の的であったのだ。
他国は搦め手や讒言などを織り込んで、なんとかこの国の旨みを吸い取ろうと動く。
欲深い輩の手管は、絡みつく蛇のように執拗で始末に悪い。
だが、マサラティ老師がここにいれば、他国は二の足を踏まざるを得ない。
常に人の行動と思考の先を読む相手に何かしようものなら、
ことごとく完膚無きままに返り討ちになることを、
どの国も、過去に手痛い経験として味わったことがあるからだ。
老師の存在は、他国にとって、目の上の瘤以上に厄介で強固な抑止力だ。
だから、この国は老師を政治顧問から外さない。
それどころか老師が国から外へ出ることを許さない。
老師には居心地の良い研究室と潤沢な資金を与えておしこめる。
こんなのは艇のいい鳥小屋だ。
老師自身は研究が出来れば問題ないと朴っているが、
艇のいい囚人と変わりない。自由などどこにもない。
だが、老師は高齢だ。
老師が死したのちはどうなるのか。
老師とて解っていた。だから次代の育成を、
老師様と幾人かの学者が主体になってずっと進められてきた。
才能ある若手の育成は国が主体となって舵を取り、
この国は活気ある若者に溢れ成長を続けている。
嘗ての理想通りの国の形を成し始めていた。
唯一つ、本来なら次代が育った後、
国政から離れ、悠々自適に研究生活を送る筈の老師だけが、
当初の計画から大きく外され、老師の天才性ゆえに多方面から頼られ、
もう何年も、国政と研究者としての二足の草鞋を両立させてきた。
いつまで続くのか、まったく先が見えない。
老師はそれを不服として、ここ数年、仕事を放棄するようになった。
途端に廻らなくなった国政を何とかしようとあちこちから泣きつかれ、
カナンが助手として老師に助言をもらう形でなんとか補っているの現状だ。
だが、それだけでなく国は、老師のあとを継ぐ後継者として、
カナンを囲い込みにかかっている。
ナヴァルが発した言葉にもそれが見える。
カナンはため息をつかずにはいられなかった。
目の前から夕日が失われ、カナンの視界から外の光が消える。
世界は、こんなにも暗く見通しが立たない。
一体いつまでこの日々が続くのか。
目に映る虚空が見せる暗闇が、カナンを覆い隠してしまいそうだった。
********
いつまでそうしていたのか。
気が付けば、ふわっと台所から、鼻をくすぐる美味しそう匂いが漂ってきた。
以前は、顔や手を洗う用事でしか使ってなかった台所だ。
台所として機能し始めたは、何年ぶりだろうか。
どうせ使わないからと、台所の設備には手を入れず、
その結果、旧式のストーブ型コンロがあるのみの質素な造り。
彼女は、あれでよくあのような料理が作れるものだと、単純に驚く。
カナンの脳裏にメイの顔がふっと脳裏に浮かぶ。
いや、今の彼女はマールか。
暗闇の中、マールを想うとカナンの心に、ぽうっと小さな暖かい光が灯る。
コンコンと扉を二回叩く音がする。この小さなノックはマールだ。
ノックなど礼儀正しい行いをする輩は、老師を始めここには誰もいない。
だから、すぐに彼女だと解る。
「はい」
短く答えると扉が少しだけ開き、予想通りにマールが、
ひょこっと顔を覗かせるように、僅かに開いた扉の間から姿を現した。
「お疲れ様です、カナンさん。もう大分日が落ちました。
そろそろ、この部屋のランプに火を入れてもいいでしょうか」
見せるように掲げた小さなランプが、ともすれば幼く見えるマールの顔を、
影のある優しげな女性の姿に移しだし、カナンの心臓がトクッと跳ねた。
「はい。お願いします」
マールはゆっくりと部屋に入ってきた。
手に持つランプの暖かな光が部屋全体に円形に広がっていき、
マールから甘い香りがふわりと漂った。
トクントクンと心臓の音が耳に馴染み始め、
体中にじんわりと温かみが戻ってくる。
無意識に握り込んて白くなっていた手のひらが開かれ、
血が勢いよくどくどくと流れ始め、冷たかった指先が暖かくなっていく。
マールが持っているランプの火屋は、彼女の手によって美しく磨かれ、
煤の中から出現した透かし模様の花の絵殻を壁にうっすらと描いていた。
「油が少なくなっているようなので、今、足しておきますね」
マールは左手にもっていた小さな油壺から、
ランプの本体に手際よく油を注ぎこむ。
慌てることなく淡々と進める手馴れた作業に、
彼女の素性の一部を見た気がした。
礼儀はきちんとわきまえているし、教養も行き届いているが、
傅かれるを当然とした上流階級の人々が持つ独特の雰囲気はマールにはない。
労働を知らない柔らかな手ではあったから、もしかしてと思ったが、
彼女の美しい仕草や、あちこちに見える高き教養の資質は、
使用人の枠で収まる程度だ。
砂漠に一人でいたのは、何か事情がありそうなので聞いてはいないが、
故郷では貴族に仕える侍女のような仕事をしていたのかもしれない。
マールの着ている王城使用人のお仕着せもその要因の一つだが、
外国の要人の側で楚々と仕えていた使用人の姿と重なる。
おそらく、カナンとマールの間に身分の差という面倒な壁は存在しない。
そのことに、今更ながらにカナンは兎角安堵していた。
3つの壁際のランプに火を灯したら。
オレンジ色の柔らかな光がランプから円を描くように壁を照らし、
壁を反射しながら部屋が明るくなっていく。
一仕事が終わって、マールがくるりと振り返り、にこりと微笑んだ。
マールの横顔に見惚れていたカナンの胸が、ドキンと大きく鳴った。
「遅くなってすいません、カナンさん。
お腹空いたでしょう。すぐに夕食にします。
今日も老師様は研究室で取られるとのことですが、
カナンさんはどうされますか?
もし、手が離せないようでしたら、こちらにお持ちしますが」
マールの視線は、カナンの机の上に山積になったままの書類の束に降り注ぐ。
まだ仕事が終わってないと思ったのだろう。
彼女の瞳に、カナンを気遣う光が見えた。
朝方、マールが見た時には今の5倍の量があったのを覚えているのだろう。
昨夜も仕事が終わらず、夕食の後も執務室で遅くまで仕事に向き合っていた。
だから今も、仕事が終わってないと思うのは当然だ。
食事をそれぞれの部屋に運んで用意するのは、面倒なことだが、
彼女は気にすることはないだろう。
自分を始め老師も食は細い方ではない。
けれど、彼女は何を言っても嫌な顔一つせず、淡々と仕事をするのだろう。
老師様が無茶な仕事を言いつけると、
時折困った風に考え込んでいる顔を見せることはあるが、
基本いつも笑顔で、しっかりと働く。その仕事ぶりは目を瞠る程だ。
誠実な人柄を見込んで、ちょっとした好意で仕事を世話してみたものの、
感心するほど良く働く。きちんと順序立てて、
着実に仕事をこなす様は見ていて気持ちがいいくらいだ。
子供の様に可愛らしい容貌とは裏腹に、実にしっかりとした女性だ。
3000クレスからなる帰国費用を稼ごうとする目標を知ってる以上、
彼女の前途は決して明るいとは言い難いが、
彼女は常に前向きで、毎日を楽しそうに過ごしている様に見える。
か弱く不安定な立場なれど、不安な未来を改善する為に、
安易に誰かに阿ろうとする様子もない。
いつも真っ直ぐに背を伸ばし、凛とした視線で前を向いている。
マールは本当に心根が強く、人の気持ちが解る優しい女性だ。
そんな彼女に対する態度も、女性にある意味厳しいヤト爺はおろか、
最近では、人嫌いの老師様も、目に見えて変わってきていた。
現在のヤト爺は、孫娘を可愛がる唯の爺にしか見えないし、
老師自ら、家庭教師をかってでたことには本当に驚いた。
カナンも、今では、はっきりした好意をマールに抱いている。
最近では、彼女の存在が色鮮やかにカナンの日常を彩って、
日々カナンの心に暖かな痕跡を残していくのを感じていた。
心が弾むような、それは本当に心地よい感覚だ。
砂漠で出会った時、彼女は碌な食べ物を持たなかったにもかかわらず、
お腹を空かせて倒れたカナンに食糧を分け与えた。
人間、過酷な現状に身を置くと本性がはっきりと見えてくるものだ。
砂漠を全く知らない彼女には、
自分が助かる為に見捨てるという選択肢は十分にあった。
誰も見ていないのだ。見捨てても咎める者はいない。
だが、彼女は何のためらいもなく、カナンに最後の食糧を与えた。
カナンは、あの時、彼女の優しさと人間としての暖かさに、
空腹もそうだが、心が洗われ助けられた気がしたのだ。
食べ終わって彼女を見上げた時、その微笑に心を掴まれた気がしていた。
マッカラ王国に誘い、彼女との縁を保つことに成功した。
誰に対しても警戒心を見せないマールに、ヤト爺やグレンは訝しんだが、
カナンはどうあっても彼女と一緒に居たかったから、
エピを理由に彼女を保護すると宣言した。
全く東大陸の言葉が話せなかった彼女は、
言葉を覚える為にヤト爺に必死の様相で教えを乞うた。
現在、ヤト爺の特訓の成果が出たのか、流暢とまではいかないが、
何とか形になってきているように思う。
その際に気が付いた事だが、マールは学ぶことに貪欲でありながら、
学問を学ぶものとしての礼儀を怠らない。
こちらが話す解らない言葉は、きちんと聞いてくるし、言葉を遮らない。
こちらを師と仰ぎ、礼節をわきまえた実に生徒らしい態度だ。
高い教育を受けた者の作法が身についていると言えよう。
それは、カナンは元より、ヤト爺にも好意的に受け入れられ、
老師様ですら生徒として許容範囲であると言わさしめたぐらいだ。
彼女の行動、態度、全てが、カナンの好意を少しずつ育てていく。
新しい知識や言葉を教えたら、目をキラキラさせて頷き、
言葉を何度か咀嚼するように繰り返しながら覚える様は、
思わず手を伸ばしてしまいそうになるくらい、輝いて見えた。
今も、一生懸命に言葉を選んでゆっくりと話す彼女の姿が本当に可愛い。
砂漠での旅を思い出す。
辺り一面の砂漠に囲まれて、星も見えない暗闇ばかりの夜に、
唯一の灯である小さな焚火を頼りに、小さな膝を抱えて、
ヤト爺の教えを熱心に聞いていた彼女の姿を思い出した。
たどたどしい言葉使いなれど、何度も何度も繰り返し、
必死で覚えた言葉を紡ぐ彼女が微笑ましく、
ヤト爺や自分が、良くできたと褒めた時の彼女の嬉しそうな顔に、
心のどこかでマールを疑っていた心は消えた。
彼女と出会い、共に砂漠で過ごした記憶を思い起こすと、
美しい鈴の音がリリンと心の中で鳴るような気がする。
彼女と目を合わせ、声を交わし、彼女がカナンに微笑むと、
水が乾いた心に浸み込むように心が潤う。
カナンの心臓が歓喜の音色を奏でた。
子供のころ、キラキラした木漏れ日の美しい光の球を手で掴もうとした、
あの時の感覚に似て、くすぐったく心地よい感覚。
その感覚が甦ると、乾いた心が満たされていくのを感じていた。
だからこそ、心が枯れていくような焦燥感に追いかけられている今、
気が付けば、助けを求めるようにカナンはマールの手を掴んでいた。
「カナンさん?……どうしたのですか?」
首を傾げながらも、マールはカナンの手を振りほどかない。
突然の事に困惑を感じているのは、その表情を見れば解るが、
無遠慮に伸ばしたカナンの手を拒絶することも、叩き落とすこともなかった。
そんな彼女の優しさに感謝しつつも、思考が動かない。
当然繰り出されたマールの問いに喉が詰り、答が返せなかった。
感情だけを並べ連ねるならば、彼女に居てほしい。どこにもいかないでほしい。
自分のそばでこの乾いた心を癒してほしい。それが本音だ。
どうしたのかと問われる答えを思いつくにあたって、
一瞬でカナンの息が詰まる。
自分の本音は、子供の欲求と大差ないのではないか。
年上のいい年をした大の男が、年下の女性に対して、
果たしてそれは、口にしていい言葉なのだろうか。
今の自分の想いを知ったら、彼女は呆れるのではないだろうか。
駄々を捏ねる子供の様な要求を聞いて、彼女はどう思うのだろう。
呆れられ、子ども扱いされるの嫌だ。
マールには、男として尊敬の目で見られたい。
情けなさ倍増で、頼りない男だと軽蔑されたくない。
ささやかな矜持と、男としての見栄が、カナンの言葉を濁した。
そして、つい何の気なしに話題をずらしてしまった。
「ああ、ええっと、い、いい匂いですね。
今日は何の料理なのですか?」
彼女は、ぱあっと可憐な花が開くように眩しい笑みを浮かべた。
可愛い。傷だらけの心に穏やかな光が降り注ぐ。
「実は、食材市場でお買い得商品を前に悩んでいたら、
美味しいカスパのレシピを教わったんです。
その通りに作って、先程味見してみたら、本当に美味しかったのです。
それに、昨日売り切れていた美味しいと評判のチズのパンが有ったのです」
カスパとは、肉と干し果物とナッツを合わせて味をつけ、
フランの粉で伸ばして作った生地で包み油で揚げたマッカラ王国の郷土料理だ。
中の具材は料理人が違えば、組み合わせに万と種類がある。
ある意味この国では主婦の腕に掛かっているとも言える料理だ。
チズは木になる赤い実で、乾燥させてパンに練り込んで焼いたパンが美味しいと、
食材市場で聞いてきたようだ。
楽しみだろうと言わんばかりにキラキラした目で、
市場で仕入れてきた目新しい料理を語るマールは、
何度見ても本当に可愛い。
「そうですか、それは楽しみですね。
食事は私も研究室でいただきます。
貴方の愛のこもった料理を、貴方と一緒に食べたいですから」
何のひねりもないが、君と一緒に居たいと正直に口にすると、
ぱあっと光が広がる様な笑顔でマールは笑ってくれた。
そんな彼女の明るい表情に、ほっこりと心が温かくなった。
「食事は一人で食べるより、誰かと一緒に食べた方が美味しいですものね。
今日は、本当に美味しくできたので、楽しみにしていてください。
今すぐに用意しますね」
マールは、カナンの言葉を曲解したようだった。
東大陸の言葉を使い慣れてない彼女なら、
確かにそう取っても仕方ないとは思うが、
もう少しカナンの好意に気が付いてくれてもいいのにと、少し拗ねた。
掴んでいた手から力が抜ける。
手を離すと、目の前でマールが踊るように体を翻した。
その途端に、例え様のない寂しさがカナンの心を締め、
思わず彼女の足を止めるべく、また声を掛けてしまった。
「あ、あの、確かに食事は大勢の方が美味しいですが、
僕としては、貴方が居ればそれだけで、いや、あの、その、
貴方が隣りにずっと側に居てくれたなら、僕はより一層美味しいかと……」
「あ、はい。大丈夫ですよ。
本日はルカさんは、外出先で食べられるそうです。
いつも騒がしいルカさんが居ないと寂しいですものね。
老師様もそう思われた様で、
私も一緒に食事をとお誘いくださったのです。
カナンさんの隣りに座ってとの心遣いは嬉しいですが、
基本私は給仕をしながら食事となりますので、
ずっと座っているわけにはいかないのです。すいません。
私の事は兎も角、カナンさんは酷くお疲れのようですので、
美味しい物をしっかり食べて、自宅に帰ってぐっすり寝てください。
そうすれば、疲れなんか吹き飛びますよ」
彼女の気遣いが嬉しくて、頬が緩んだ。
「解りました。貴方が言うなら、そうしましょう。
マールさんは本当に、優しく素敵な女性ですね」
カナンの好意が伝わるように、熱い目でじっと見つめたが、
マールの返事は明後日の方向に跳んだ。
「有難うございます。褒めてもらえて嬉しいです。
でも、優しいというなら、カナンさんや老師様の方がもっと優しいです。
特に老師様は、カナンさんがおっしゃったように、優しく素敵な方ですね。
昨夜も、大量の宿題で困っていた私を、嫌な顔一つしないで、
夜遅くまで、根気よく懇切丁寧に教えてくれました」
彼女の明るい返事に言いかけた言葉を飲み込んだ。
そして、彼女の関心が老師様に向かっていることに、ムッとする。
カナンがこの世で最も尊敬する老師様であるが、
マールが堂々と老師を褒め称えるのは、正直面白くない。
というか、砂漠からの付き合いがある自分よりも、
出会って数日の老師様への好意の方が高いのではないかと、
ふと邪推してまた剥れた。
それと同時に、彼女の関心を何とか老師よりカナンに向けるべく、
必死で頭を巡らし言葉を探した。
「ええっと、それはそうと、学校の方はどうでしたか?
宿題を提出してきたのですよね。サーリアに苛められたのではないですか?
今日も宿題が多いのでしょう。僕の仕事はきりが付いてますので、
よろしければ、本日は僕が教えましょう。
何時までだって、問題ないですよ。夜明けまでだってお付き合いします」
おそらく、彼女は今日も大量の宿題を出されているはず。
昨夜も、あの宿題の量を聞いて顔が引き攣った。
初心者相手にこの所業。サーリアは鬼畜だ、鬼だ、鬼婆だと心の底で罵った。
あのサーリアに、手加減という良心は存在しないと自分は知っている。
宿題の多さに四苦八苦するなら、今度は自分が喜んで助けよう。
昨夜、老師と一緒に宿題に向かい合っただけで、
彼女はあんなにも老師を褒め称えたのだ。
それならば、今晩は自分が成り代わればいい。
宿題を一緒に解きながら、彼女とより親密な会話も出来るかもしれない。
それは大変いい。むしろ、堂々と彼女と一緒に時を過ごせる。
老師様に早めに就寝を促せば、もっと確実に彼女を独占できる。
我ながらいい考えだと話を振ったのに、帰ってきた答えは予想外だった。
「心配してくれて有難うございます。カナンさん。
今日の宿題は昨日の半分なのです。 だから大丈夫ですよ。
昨日で、大分コツの様な物も掴めてきた気がしますし、
解らないことがあれば聞いてよいと、老師様もおっしゃってくれたので、
昨夜よりも早く終われると思います。
カナンさんこそお疲れなのですから、お仕事にきりが付くなら、
今日は早く帰って寝てください」
半分?増えたのではなく減った?
断られたことは正直ショックだが、もっと大きな衝撃がカナンを襲った。
あのサーリアが宿題を半分にした?
人の嫌がること的確に見抜き、じわじわと傷口を広げるように、
人の心の傷を嬉々として嬲るあのサーリアが!
自分に厳しく人にはその10倍厳しい、
優秀さが斜めに飛び出して尖って突き刺すあのサーリアが!
「……馬鹿な、あり得ない」
カナンが呟いた言葉は聞き取れなかったようで、マールは首を傾げていた。
いつも正直なマールの言葉が嘘だとは思わないが、
カナンは目が飛び出るほど驚いていた。
「あ、あの、カナンさん、今、なんて?
よく聞こえなかったのですが」
疑うことを知らない様な無垢な瞳で見上げられて、
カナンはサーリアを罵る言葉をぐっと飲み込んだ。
「い、いや、なんでもないです。気にしないでください。
へ、へえ、そう、お、可笑しなことがあるものだな」
明日は、未曾有の大嵐がくるかもしれない。
「あの、念のために聞きますが、あのサーリアが担任ですよね」
他人の空似とか、同姓同名とか、マールが名前を聞き間違えたとか。
「はい。長い髪の美しい方で、書架市場の司書長を兼任なさっているとか。
先生は本当に多忙な方なのに、ちゃんと私の宿題の採点をしてくれてました。
美人で賢くて仕事も出来る素敵な人ですね。サーリア先生は。
本日、宿題の提出に書架市場までお伺したら、
棚卸で人が足りなくて夜も満足に眠れないとおっしゃっていたので、
今日は、授業の代わりに数時間、棚卸のお手伝いをしたのです。
そうしたら、疲れたでしょうって、宿題を半分にしてくれました。
厳しいし言葉がすこし怖いけど、本当は優しい先生です」
誰だそれは!サーリアの奴、頭がとうとう湧いたか。
いや、ちょっと待て!棚卸の手伝いだと!
棚卸の手伝い?書架市場の?
まさか、あの地獄の返却籠担ぎか!
サーリアが書架市場を知らない一般人に振る仕事と言えば、それしかない。
カナンも一度と言わず何度か、サーリアの上司に無理矢理駆り出され、
死ぬ思いをしたあの棚卸作業のことか?
カナンの脳裏に過去に筋肉痛でギシギシと痛む体で、
ベッドの中を何日か転がった記憶が甦る。
「あの棚卸の手伝いを?か弱い貴方をこき使ったのですか?
やはり、サーリアは鬼畜な鬼婆です。
恐ろしい陰険陰湿蛇魔人です。
人として間違って生まれた悪魔です。
いえ、それよりもマールさん、
悪魔なサーリアの手伝いなどする必要はありません。
あれは、あの仕事は、か弱い女性がするには酷な仕事でしょう。
無茶です。無謀です。はっきり言って働き過ぎです。
本当に体を壊してしまいますよ。
普通、仕事の傍らで学業もというだけで十分厳しいのですよ。
それなのに、更に書架市場で棚卸の手伝いなど。
その上、宿題を半分とはいえ出すなんて、冗談にしても酷過ぎます。
そうだ、今夜は夕食の片付けは僕がします。
今夜は遅くまで宿題をしないで、マールこそ早く就寝してください。
明日、僕からサーリアにちゃんと言っておきますから」
ガシっとマールの肩を掴んで瞳を覗き込むようにして言う。
サーリアの所業に憤って、思いっきりサーリアを貶める台詞を毒づいた。
サーリアに面と向かって告げたら、
カナンの明日は永遠に来ないかもしれないが、
今はそこまで考える余裕が無かった。
マールを、悪魔の手から自分が守りたい。
「有難うございます。カナンさんは本当に優しいですね。
気を使ってくださって本当に有難うございます。
でも、大丈夫ですよ。私、丈夫なのが唯一の取り得なのです。
それに、無理をしているのはカナンさんの方ですよ。
本当に、毎日毎日お仕事が大変そうで、体が心配です。
目の下の隈が凄いです。満足に睡眠もとれていないのでは。
カナンさんこそ、今日は無理せずしっかりお休みを取ってください。
私の事は気にしないでください。
こちらのお仕事は楽しいですし、学校も行かせてもらって、
本当に感謝しているんです。
定員割れで初級クラスが開いていなくて、個人レッスンをお願いし、
忙しいサーリア先生のお手を煩わせてしまいましたし、
こんなことで、すこしでも先生のお手伝いが出来るなら、
私は嬉しいです。
棚卸作業のお手伝いも大変な作業ですが、
私一人では有りませんし、問題ありません。
それに、たとえ大変でも、いろいろ知らない事をするのも楽しいです。
それを、忙しいから宿題をさぼり、仕事も怠けるなど、罰が当たります」
マールがカナンを労る言葉は嬉しいが、今の彼女の言葉が引っかかった。
「楽しいですか? あんな過酷な作業が?」
彼女はしっかりと頷くと答えた。
「はい」
彼女の瞳に嘘や謙遜は見えない。
「本当ならしなくても良い、いや、したくないことを押し付けられて、
それが、どうして楽しいと思えるのですか?」
今の自分の様に、上から押さえつけられて鬱々としても可笑しくないだろう。
もう嫌だと投げ出しても当り前だ。
そう思って問うと、マールは笑って答えた。
「後に、必要になるかもしれないと思うと、楽しくなるんです」
意味が解らない。彼女の言葉を間違ったのだろうか。
「ええっと、それはどういう意味なのかな?」
東大陸の言葉ではなく、西大陸の言葉で聞くべきだろうか。
そう戸惑っていたら、マールは言葉を言い直した。
「以前、私が無駄だと思ったことや、嫌々ながらも培ってきたことが、
何かしらで今の私の役に立っていることがあるって解ったことがあるんです。
あれは、未来の私に必要な事だったんだって。
辛い出来事も、哀しい事件も、怒りや憎しみ、理不尽だと憤る気持ちも、
未来の私に、いつか必要だから起こったことだったんだって。
すべてこの世は繋がっているのかもしれない。
世の中には無駄な事は何一つ無いのかもしれないって、
なんとなくですが、そう思ったんです。
そして、それならば、今の自分が大変だと思っていることが、
将来の私が必要とする物や考えを作るのかもしれない。
そう思ったら、いつか成れる自分を想像して、楽しくなってくるのです。
苦しい作業も大変な労力も、素敵な淑女になるための布石。
だから、どんなことも楽しいです」
カナンにとっては、何の根拠もない無茶な理論。
だが、マールの言葉が、カナンの曇った空に一筋の光を通した気がした。
だが、すべて晴れるにはまだ足りない。
「ですが、本来の仕事を邪魔されているようで、嫌になりませんか?
ここで体を壊して目的を遂げられなかったらと不安になったり、
いつまでかかるか解らない目標の遠さに、焦る気持ちは無いのですか?
手が届かない高い目標を変えて、楽になろうとは思わないのですか?」
カナンの言葉に、マールははっきりと首を振った。
「未来への不安も、焦る気持ちも、いつも心のどこかにあります。
多分、どこまで行っても、いつまでたってもそれは無くならない。
でも、不安に負けて目の前の障害を避けて通ったなら、
私はこの先ずっと避けていくようになる。
それは私が嫌なんです。
逃げ道を作るのは簡単です。
誰かに頼って楽になる道を選ぶのも簡単。
目標や目的をすり替えて心を誤魔化して、他で幸せを探すのも多分簡単。
でもそれでは、私が望む私でいられない。
私は、過去に道を誤って逃げました。
理由をつけて、正当化して、問題から避けてしまった。
その結果、私は、酷く後悔しました。
もう二度とやり直しが効かないと解っていても、
過去の自分の選択を悔いました。
周囲にも沢山迷惑を掛け、大事な存在を失い、
何一つ嬉しいことなど無かった。
もうあんな想いはしたくないし、誰にもさせたくない。
だから、私は逃げません。そう決めたんです。
伸ばされた手を離さないでいる私でいたい。
いろんなことを覚えて、少しでも強く賢くなって、
零れ落ちる未来を、少しでも手放さずに済むようになりたい。
国に、イルベリー国に帰るのは決して諦めません。
約束したんです。必ず帰ると。
だから、どちらも諦めません。
目的も、過程も、全て、私は諦めないと決めたんです」
カナンの黒く分厚い澱んだ心の雲が晴れていく。
真っ白な光が、次々と混迷したカナンの闇を突き刺し薙ぎ払う。
「そうですか。マールさんは強いのですね」
自然と浮かんでくる憧憬にも尊敬にも似た気分で見つめると、
マールは首を振った。
「いいえ。私は強くありません。弱いです。
弱いからこそ、迷って間違うこともあることを知ってます。
私は弱い。だからこそ、誰に何を言われても譲れません。
私は弱いです。
だからこそ、誰よりも何よりも、自分に欲張りでいようと思っているのです。
それに、経験もつめて強く賢くなれるって都合がいいというか、
淑女に近づくというか、ええっと、そう、一石二鳥だと思うんです」
その言葉に、思わず笑いが漏れる。
「ふふふ、欲張りですか。
確かに、貴方はいい意味で欲張りなのかもしれません」
今の自分があれだけの仕事をしているのは、未来の自分に必要だから。
過去も、現在も、未来も、全てが繋がっているとマールは言った。
もしそうなら、今の仕事の何かしらが、
カナンの行き詰っている研究の助けになるのやもしれない。
「僕は、老師様と違って、身体的に秀でているわけでも、優秀でもなく、
特別な能力があるわけでもない、普通のどこにでもいる人間です。
そんな僕でも、欲張りになっていいのでしょうか」
カナンの問いに、マールはきょんと目を瞬いた。
「ええっと、それを言われると私も、いえ、私こそ取り得が無いのですが。
カナンさんの様に賢くもないですし、美人でも、お金持ちでもなく、
私が持っているのは、私だけです。
ですが、そんな私でも、絶対に出来ることがあるんです。
何があっても諦めないでいることです。
ですから私は、何があっても、
たとえどんなに時間がかかろうとも、帰るのを決して諦めません。
二度と、あんな後悔をしたくないんです」
マールの強い言葉が、カナンの心と体を癒していく。
研究を進めると言っても、正直打つ手が無くて困っているのも事実。
ならば、全てが研究の糧と考え、それなりに仕事をこなしていけばいい。
それが、いつかの自分に必要なら受け入れ、彼女の様に楽しめばいい。
例え自分の様な凡人でも、彼女の様に諦めないことは出来る。
諦めさえしなければ、いつしかどこかに手が届くかもしれない。
例え届かなくとも、後悔する人生だけは送りたくない。
マールの言葉が、すとんと自分の心に落ちた。
体が、心が、軽くなっていく。
焦っていた心が、淀みが澄んでいく。
もっと傍に居たい。彼女の傍に。
彼女が傍に居れば、自分も望む自分になれるかもしれない。
いや、絶対にそうなれるだろう。
苦しみも悲しみも乗り越えて尚、真っ直ぐに前を向いている彼女は、
本当に素晴らしい女性だ。人が人に惹かれるというのは、
本当はこういう事なのかもしれないと納得した。
それが男女間であるなら、求める関係は言わずと知れた物。
自分は、彼女の側に相応しい男になりたい。彼女を手に入れたい。
「後悔しない生き方か、素敵な考えですね、本当に。
ああ、引き止めてしまってすいません。
貴方が余りに素敵なので、つい見惚れていました。
ですが、ここで更に引き止めたら、食事が遅くなり、
流石に老師様が空腹で怒りはじめますね。
食事の支度を手伝いましょう。一人でするより二人の方が早いです。
ああ、片付けも一緒に。これも断らないでくださいね。
そうしたら、私も早く帰れますし、貴方も早く宿題に取り掛かれる。
これも一石二鳥です。そう思いませんか?」
マールの手に持った油壺をさっと浚うように手に持ち、
台所へ向かう為、マールの手をぎゅっと握って戸口に向う。
「あ、え? ええっと、そうですね。
それでは、お手伝いをお願いします」
マールは、突然のカナンの行動に目をぱちぱちとさせながらも了承する。
彼女の手は、カナンよりも小さく柔らかく暖かかった。
「マールさん、棚卸はいつまでですか?
もしよろしければ、老師様に貴方の仕事の融通を利かせるよう頼みますし、
明日は、私も仕事が済み次第そちらに向かいます。
棚卸作業は久しぶりですが、私も以前に経験がありますので、
何とか使えると思いますよ」
正直、サーリアの下であの棚卸作業をするのは嫌だが、
マールと一緒ならそれは至福の時となるかもしれない。
マールはカナンの突然の申し出に首を傾げながら答えた。
「あと2日程のお手伝いだそうです。
老師様にもお話しして、2日ならと許可を頂きました。
こちらの仕事をおろそかにしないとの約束で、
今日の様に午後の数時間出かけるお許しもいただきました。
だから、あの、大丈夫ですよ。
カナンさんは、仕事が大変なのですから無理はなさらないでください」
カナンの体を気遣う優しい断り文句に笑って首を振る。
「私も大丈夫です。 仕事は本日で粗方終わりましたから。
それに、私にとってこれも、
貴方と一緒に経験を積む出来事かもしれないのですから、
そう無下に断らないでください」
一緒に居たい。君と。
困ったような君の顔も可愛い。
「……はい。解りました。
では、カナンさんのお仕事の都合がつきましたらと言うことで、
よろしいでしょうか」
手を離してほしそうにしているが、台所に着くまではと、
気が付かないふりをする。
「はい。出来れば一緒に出勤したいです。
こんな風に貴方と手を繋いでいけば、
私も迷うことなく書架市場にたどり着くでしょう。
これも一石二鳥だと思いませんか?
私も、明日は午前中にしっかり仕事を終わらせることにします。
ああ、楽しみですね」
頬が、口角が自然に緩む。
どんなことも楽しめるマールと一緒に行動できるなら、
きっと、どこに行っても楽しい。
今は短い距離でしか手を繋げないけれど、
いつかずっと、マールと手を繋いで未来を歩いていけたらいい。
いや、彼女の言ったではないか、未来に貪欲になる事はいいことだと。
カナンだって、研究も仕事も彼女も諦めない。
誰に何を言われても、諦めず歩いて行けば、
きっと後悔しない人生が送れるだろう。
全てをいつかこの手に。
マールのようにカナンも欲張りになろう。
素晴らしい未来を手に入れる。
都合のいい未来を想像して、楽しみで顔が緩むのが止められない。
老師様に気持ち悪い、馬鹿になったかとか罵詈雑言言われても、
今のカナンには馬耳東風。全てがそよ風の囁きにも等しい。
カナンの苦悩はこうして晴れた。




