宵闇の乙女の願い。
この話は、前に書いた英雄が生まれた場所という話と多分に重なっています。よかったらそちらも合わせて比べてみてください。
最後に、同時刻ということで、すこしだけメイの話が出てきます。
赤く棚引く夕焼けが暗闇に少しずつ浸食される。
空の色が赤からオレンジになりそれが次第に紫や濃紺、そして漆黒に染められていく。
細長い小舟の姿をした月が明るく色づき、夜空を滑る様に天井へと移動する。
新月の夜はもうすぐだ。
彼女は、三日月型の細い月の姿を仰いで微笑んだ。
月のない闇の夜は、嫌いじゃない。
砂漠で過ごす夜は、天と地の境目が解らなくなるほどに漆黒の闇に染まる。
隣りに座る彼の顔も解らない程に深い暗い夜の闇帳。
新月の夜は、砂漠の民でも砂漠を渡らない。
餓えた砂漠の獣が獲物を求めて徘徊するからだ。
だから、砂漠にいる間は獣避けに火を囲んで、獣避けの香を焚き、
辺りを警戒しながら寝ないで過ごす。
そういった夜の時間、私は彼といろいろな話をした。
私とあったばかりの時には、言葉を何一つ知らなかった彼は、
ヤト爺の教えを元に、驚くほど速く言語を習得した。
いや、言語だけではない。
彼は、知識に飢えていたのかと思うほどいろいろなことを貪欲に学び、
半年も立たぬうちに、天才と言ってもいい程の才能の片鱗を見せていた。
私は彼の成長が羨ましくそして嬉しく、誇らしかった。
静かな世界に灯る、暖かな火に彩られた夜の時間は、
彼が私に、私が彼に、お互いの報告という名の自分の経験や学んだことを語る時間。
それは私にとってとても幸せな時間だった。
彼は私の言うこと全てを嬉しそうに聞き、私が何かを尋ねると、
微笑んでなんでも話してくれた。あの頃の私達の間に隠し事は無かった。
積み重ねられる知識はあれど、自分自身の事すら何も知らない彼は、
覚えたての雛の様に私に懐いた。
いや、私だけに懐いたと言う方が正しい。
なにしろ、私の側を離れることを極度に嫌がり、無理に引き離すと泣きわめいた。
それは親から離された子供の癇癪のようで、私の庇護欲を十分に刺激した。
彼の傍には私がいないと駄目だと、両親や友人達にも得意げに自慢した。
今思えば、あの時の自分は、なんて愚かだったのだろう。
しかし、過去を振り返ってみると、あの時は確かに私は幸せだったのだと、
言い切ることが出来る
目を瞑ると今でも色鮮やかに思い出せる。
彼も私も、幼いと言うほど子供ではなく、成人と言うほど大人ではなかった。
あのころの私達にとって、日々変わる世界は驚きと感動に満ち溢れていた。
いや、それは正確ではない。
真実を端的に言うと、彼にとってと言うべきだろう。
私はそんな彼について回る内に、今まで抱えていた常識が、
新たなる発見と共に見直され、それが驚きとして迎え入れられただけだ。
私と出会う前の彼は、獣の収容所のような環境にいた。
自分の意志を話すことはおろか、言葉を話して会話するという事すら知らなかった。
そんな彼を最初に見つけたのは私だ。
あの時あの場所で、一族がずっと探していた彼を見つけることが出来たのは、
奇跡としか言いようがない出来事だった。
*******
あの頃、私は13になったばかりだった。 西の小さな集落で、
我々がずっと探していた探し人の条件にぴったりの人物がいるとの情報が齎された。
砂の一族である彼女の父親や自分の幼馴染を含む仲間数人が、
確認の為そちらに向かうところだったのだ。
自分は13にもなったと言うのに、女だからだという理由で、
砂漠の旅に何度頼んでも同行を許されず、一人憤慨して一念発起し行動した。
つまり、父親たちの後を自分のエピに乗ってこっそり追いかけたのだ。
もちろん、優秀な砂の一族である父親や幼馴染に気づかれないはずがない。
こっぴどく怒られて、集落の3つ手前の街の宿で、
文字通り簀巻きにされて置いて行かれた。
「可愛い娘と一緒に砂漠の旅を楽しもうとか思わないわけ?」
そう娘が怒鳴ると、帰ってきた父の答えはいつもと同じ。
「可愛いからこそ、危険が伴う旅に同行させるわけにはいかない。
ルチア、いい子で聞き分けとけ。後で旨い飴買ってやるから」
暴れる私を簀巻きにしたのは、にやにや笑う兄貴分の馬鹿と石頭な父親だ。
私は半日、芋虫状態で宿屋の床を掃除するがごとくに暴れた挙句に、
様子を見に来た宿屋の女将さんに解いてもらうまで、そのままだった。
結果として、街の宿に置いて行かれたのだ。
宿の女将さんには、帰りに拾いに来るから、
それまで適当にこき使っておいてと言われたらしい。
お蔭で、芋虫状態から抜け出て、最初に渡されたのはエプロンだった。
私が置いて行かれた街は、鉱山需要で発展した街だ。
鉱石関連の技術者や掘削業者、宝飾関連の買い付け人や仲買人、
鉱山で働く大勢の作業員たちの腹を満たす食堂や酒場、
宿屋に鍛冶屋と店が立ち並び、鉱山関係者が数多く集まる街であった。
長い髪はずっと鬱陶しいと思っていたが、ここではそれが役に立った。
幼くとも女性と認識されたせいだ。
なので、仕事はそれこそ掃いて捨てるほどにあった。
彼女は、砂の一族の特徴が際だって出た外見のせいと、
普段から男兄弟に囲まれた生活の為、物怖じすることなく人と対峙し、
気の荒い作業員や、礼儀を知らないよそ者に絡まれることなく、
この食堂兼宿屋では大変重宝された。
仕事に幾分慣れてきた頃、彼女は食事の配膳をしつつ妙な話を聞いた。
彼女も見知ったこの店の常連で、鉱山の作業員4人の男達の会話だ。
「なあ、俺、可哀想で見ていられないよ」
「ああ、俺もだ」
「なんで、あんな惨いことが出来るんだろうな」
まだ昼間で給料日でもないのに、男たちは酒を煽っていた。
酒量が過ぎると言うほどではないが、それなりに飲んだようだ。
空のジョッキが2,3つとテーブルの上に転がっていた。
彼等は、何かを忘れたいように酒を必死で煽っているように見えた。
そんな酒が歪んだ酔いを4人に与えている。
彼等は、酒場のテーブルに俯せに倒れる様に顔を伏せていた。
そんな三人の顔を苦々しげに見つめながら、唯一ちびちびと飲んでいた4人目の男は、
酒の入った木のジョッキを無造作にトンとテーブルの上に置いた。
その男は眉間に沢山の皺が寄った目付鋭い男だった。
浅黒くひび割れたごつい手のひらが、テーブルの上で微妙に彷徨ったが、
その手は彼の膝の上へと移動し、そのままぐっと拳を握りしめただけだった。
4人目の男は、心の中の泥を吐き出すように呻いた。
「……俺も最初はそう思ったさ。 だけど、……仕方ねえじゃねえか」
彼の言葉に、机に突っ伏していた若者の一人が眦をあげて男を睨んだ。
見た感じ20前後の若者だ。
「何が仕方ないんだ。
採掘現場に通じる穴を大きくすると危険だからと言って、
一番落石の危険性がある場所に、あんな年端もいかない子供達を」
年若いとまではいかないが、中年に差しかかる程でもない男が、
のそっと机から顔を上げた。
「あいつら、多分、俺の娘と同じくらいなんだよな」
最後の一人、20前後のぼんやりした顔立ちの若者が、
赤ら顔をあげて泣きそうに顔を歪めた。
「昔よく遊んだ俺の従妹は奴隷に落とされ売られて死んだって聞いた。
もしかしたら、あんなところで死んだのかって、考えたら止まらなくなった。
なんとか生き残ってていたって、大きくなる前に殺されるんだろ。
奴隷だからって子供相手に酷過ぎる。
あれじゃあ、あんまりじゃないか」
4人目の男が無表情で彼等をそれぞれに見つめた後、拳を更に握り込み、
態と肩を落とした。そして、深い呼吸の後、ふうっと大きなため息をついた。
「考えるな。この鉱山で働いて金を稼ぎたいなら、
絶対に考えたらいけないことだ」
この鉱山では常に作業員を募集している。
危険手当も高く与えられた宿も清潔で、嫌な上司との接触は少ない。
給料の払いもいいし、家族に仕送りをしてもなお、
集落近辺の食堂で酒も女も買えるくらいに金は余る。
普通に考えたら、誰もが目を輝かせる高待遇だ。
なのに、募集の打ち切りもなく、止める人間は後を絶たない。
それは何故か?
この鉱山で働き始めてすぐに解る。
仕事内容は体力がいる仕事ばかりだが、次々にやめていく人が絶えないのは、
この鉱山の奴隷の死亡率のせいだった。
奴隷。鉱山の厳しい作業にはつきものとはいえ、大人の奴隷ならば、
さして心が痛まないとまでは言わないが、こうまで問題にしない。
問題となっているのは奴隷の年齢、
つまりこの鉱山で働く子供奴隷についてだ。
この鉱山では、3歳から10歳程度の子供奴隷を多く用いて作業をさせている。
そしてその死亡率が非常に高い。
鞭を打たれ殴られながら、太らない様にわずかな糧と水だけを与えられて、
鉱山の小さな穴を朝から晩まで這いまわる子供の奴隷に、
一体どのくらい生存する可能性があると言うのか。
殆どないと言っていいだろう。
鉱山で働く作業員たちは、必ずと言っていいほどに、
その子供たちの惨状を目のあたりにする機会を得る。
酷い時は、目の前で動かなくなった死体を片付けろと命令される。
そうすると、居た堪れなくなるのだ。
大人の奴隷ならば、まだ顔を背けるだけで済む。
奴隷に落ちたのはお前自身のせいだろうと言って逃げることもできる。
だが、子供の奴隷の場合は親に売られた場合が殆どだ。
虐げられる子供を、真正面から負の感情なしに見つめることが出来る人間は、
何かしら壊れているとしか言いようがない。
其れも、集められた子供は大きくなると使い物にならなくなるため、
大きくなる前に使い潰すと公言してはばからないのが、この鉱山主の意向だ。
ここを辞めた作業員の殆どの退職理由がそれだった。
鞭打たれぼろぼろのになりながらも働く子供の奴隷が、
何の意味もなくただ死に行く様を見ていられなくなるのだ。
「……穴の大きさは子供がやっと通れる程度なんだ。
それに、あれらの子供は奴隷だ。この為に買い入れられた鉱山の所有物だ」
淡々と語られた感情の無い男の言葉。
それに対して、若者は浴びる様に手元に持った酒のジョッキを飲み干す。
そして、感情を発憤する様に、ジョッキをテーブルに叩きつけた。
中に入っている酒が、ちゃぷんと揺れる。
「解っているさ。そんなこと。
だが、解っていても心がついて行かないんだ」
その様子をみて、4人目の男が右眉を少し動かした。
「ああ、お前、片付けを手伝ったのか」
「ああ、10日前だ。
目を開けたまま、手を空に伸ばしたまま、固まったように死んでた。
あれから毎晩、夢に見るんだ」
「そうか、俺はここに入ってきて3日目だったな。
死体を落とす穴って案外深いだろ。
乾いた頭蓋骨や骨が落とした死体の重みで割れるんだ。
俺は、あれからずっとあの音が耳から離れなくなった」
淡々と話す4人目の男に3人の男達が驚愕に染まった顔を向けた。
その目は、それでも平気なのかと告げていた。
男は苦笑した。そして、疲れたように低い声で話し始めた。
「あの鉱山の奴隷小屋には、嫌な奴が居るんだ。
子供を殺すことが生き甲斐と公言して憚らねえ、
反吐が出るほどに気持ちの悪い嫌な野郎だ。
普段は、卑屈で鉱山主に媚び諂うへらへら笑うだけの気持ち悪い奴だが、
アイツは奴隷小屋の管理をまかされている。
奴は、特に仕事が出来るわけでもねえのに、いっぱしの管理者だ。
何故だと思う?答えは奴の残虐な志向にある。
アイツは、使い物にならなくなった子供を嬉々として殺す。
怪我をしたり、仕事効率が悪かったり、仕事で失敗したり、
鉱山で使い物にならない大きくなりすぎた子供を始末する権限を、
奴は鉱山主から与えられているんだ。
俺達が片付けている多くのは、その成れの果てだ」
だからお前達のせいじゃない、気にするなと言いたいのか。
男は、3人顔を見ながら首を振った。
だが、3人は納得がいかないのか食って掛かる。
「怪我をして動けない無抵抗な子供を平気で殺すのか」
「そいつは狂っている、まるで獣だ」
「そんなことを許しているなんて、それでいいのか」
何度、同じような言葉を聞いただろうか。
以前にやめた工員たちもやめる前に同じように聞かれた。
男は、幾度となく答えた同じ台詞を目の前の3人にも答えた。
「ああ、そう言いたいのもわかるさ。
だが、ここでやっていきたいなら、あいつ等奴隷に情を寄せるな。
ここでは子供の奴隷は消耗品以下だ。
パン一つの価値よりも軽いんだ。
家畜の様に殺して間引いて、使い物になる子供だけを残す。
その上、死んだ奴隷の代わりは次々にやってくる。
生まれたばかりの赤子の男子から始まって、
3歳から5歳までのガキばかりだ」
生まれたばかりの男の赤子?
彼女は拾った言葉に、耳を欹てた。
「あいつら、親の顔も知らねえのか。 哀れなものだな」
彼女がそっと4人のテーブルに寄ったことを、彼等は気が付いていない。
「この間も、旅の女が産んだ子供が売られてきた。
身寄りのない産後間もない女は死んで、旅の仲間が子供を鉱山に売った。
おそらくもう生きてはいないだろう。 ここじゃあ良くある話さ。
せめて子供が女なら鉱山なんかに二束三文で売らなかっただろうに。
砂漠の旅に厄介者な男の赤子は必要ないからな」
「女だと売られなかったのか?」
「育てて売れば女は高く売れる。だから育てる者は多い。
だが、男はどうしようもない。だから売る
お前の従妹は女だろ。それならここにはいないさ。
おそらく売られた先は娼館だろうな。
娼館は売られた先によっちゃあ、いい暮らしが出来るって話だ。
だからそんなに気に病むな。
だからどうだと言うわけじゃないが、頭を切り替えろ。
ここでは子供の奴隷は人じゃねえ。
そう思わないとやっていけないことは確かだ」
そういって4人目の男も、残っていた酒を飲みほして、
口を拭った後、酔いつぶれた3人の首を引きずって食堂を後にした。
男の手慣れた作業に、周りの人間は誰も気にしなかった。
彼女は彼等の話を聞いて雷に打たれたような衝撃を受けた。
彼女の父親や仲間たちが探している人物に、
その奴隷たちの境遇がピタリと嵌るからだ。
彼女は、その時思ったのだ。
彼女自身の手で、早急に確めてみなければならないと。
父親や仲間を待つこともできたが、
簀巻きで自分を置いて行った幼馴染の馬鹿にした態度にムカついたのもある。
だが、何故か心が妙に騒いだのだ。
急いでいかないといけない。
そう誰かが彼女の心に命じている様に思えた。
それからすぐ、万が一のことを考えて、父と一族に鳩を飛ばした。
探し人の条件にあう子供がこの鉱山に居たと。
だが、急がないと殺されるかもしれないので、今夜侵入すると手紙に書いた。
3つ先の西の村に居る父なら、馬を駆ければ3刻ほどで来ることが出来る。
一族の者も、この近くの砂漠に居るなら、助けをよこしてくれるかもしれない。
その晩、奴隷小屋の舎監宛ての夕食宅配を彼女が引き受けた。
食事を奴隷小屋の手前の小屋に置いて、さあ、どうしようかと思った時に、
甲高い子供の悲鳴が聞こえた。
それも、死を前にした断末魔の様な声だ。
背中にぞわぞわと恐怖が忍び寄り、足に震えが走った。
だが、彼女はどうしてもそこに行かねばならないと、なぜかそう思ったのだ。
だから、恐怖に逃げようとする足を押さえつけて前に進んだ。
その声に導かれるままに、通路を進んでいくと、
気持ちの悪い笑い顔の男が嬉々として子供の背骨を折っていた。
鳥の骨を砕くように、血しぶきをあげて簡単に体が逆に二つ折りにされる。
血に酔ったとしか思えない恍惚とした男の表情に怖気が走った。
気持ちの悪い光景だった。4人の男達が話していた内容通りだ。
悪趣味極まりない、悪鬼の乱行だった。
一人、また一人と殺されていく。
急がなければ手遅れになる。
心に誰かがそうつぶやいた気がした。
彼女は、身を守る為に持ってきた(鍛冶屋の奥に置いてあった)
常備火薬の粉を奴隷小屋のその部屋周辺に重点的に仕掛けて火をつけた。
アイツを今ここで、何とかしなくては子供たちが殺される。
だが、彼女一人で打ち向かっても、あの男に反対に殺されるのが関の山だ。
ここは、驚かせて出てきたところを頭を何かで殴って気絶させよう。
そう思って火をつけたら、粉の量が多すぎて天井が落ちた。
しまった。肝心の子供も死んでしまうと崩れた壁を覗いたら、
一人の子供が肩を押えて蹲っていた。
ひょろりとした細すぎる体躯。
だが、首や肩、膝や臑、その骨格は大きくなりかかっていた。
年の頃は予想では10歳から13歳の間。
肩の怪我以外では、病気や病弱といった気配はない。
作業員の男たちが言っていた大きくなる前に殺されると言った理由で、
ここにいたのだろうと推測した。
みすぼらしい程に汚れ固まった髪と黒いすすで洗ったような肌。
ここで見かけた子供奴隷の大半と同じ様相だった。
彼は今の天井崩落時に瓦礫で傷ついたのか、血に濡れた肩を押えていた。
血の様子や抉れた肩を見るに相当痛むはずだ。
だが、その表情には痛みを感じさせず、なぜか笑っている様に見えた。
不思議に思って、思わず声をかけた。
「大丈夫?」
彼は返事を返すことなく無感動に彼女を振り仰いだ。
だがその時、彼の瞳の色が目に見えて変わった。
どう変わったとはっきりとは言及できないが、
例えて言えば、何も移すことのなかった濁った池の水のようだった目が、
透き通った水盤が光を放った様に感じたのだ。
少年の強い瞳の光に、彼女は一瞬で気おされ、そして見惚れた。
いつかどこかで見た空のような瞳に一瞬で囚われた。
そう感じて警戒を怠った時、彼女の真上の天井が壊れた。
はっと思って上を見上げて駄目だと思った時、
彼女は少年の腕の中に庇われていた。
冷たい壁ではなく、暖かな体温を感じる。
鼻に香るのは少年の血の匂いと自分とは違う体臭。
その腕にすっぽりと囲われている自分が、途端に気恥ずかしさを覚えて、
もう大丈夫だから話してくれと身を捩って離れた時、
少年の腕の付け根に、探していた星形の痣を見つけた。
正式なる王位継承者の証。
女神の血を引く契約者。
一族が、父が、ずっと探し続けていた希望。
「見つけた。見つけたわ」
やっと見つけた。
感情を抑えきれず、つい少年に抱きついた。
手にぬるりとした血の滑る感覚が伝わる。
慌てて離れたが、肩の怪我が痛むはずなのに、
少年は私を許し笑い返してくれた。
背後で声がした。
爆発音を聞きつけた鉱山の誰かが来たのかと思って身構えたが、
見えたのは砂の一族の辛子色のターバンとその手に握られた小さな灯り。
近くに寄ってきたそれを見て、それが父だと確信する。
緊張に体を強張らせる少年に笑って大丈夫だと伝える。
そして、手を差し伸べて言った。
「一緒に行きましょう。君をずっと探していたの」
少年はにっこりと笑って私の手を取ったのだ。
あの時は了承の意味だと思っていたが、言葉が解らなかった事実を知って、
私の笑みに釣られただけだと後でわかった。
なにしろ、彼は意志を伝える言葉を満足に知らなかったからだ。
なにはともあれ、あれから彼は、私の側を決して離れようとしなかった。
雛が親から離されるのを嫌がるかのように、私を居を別にすることを拒み続けた。
私は当時、そんな彼と約束したのだ。
彼の望むままにずっと一緒にいると。
死が世界を分かつまでは、決して彼の側を離れたりしないと。
彼に名前を付けたのは、私。
空の様な彼の瞳を見て、サイラス(砂の空)と名付けた。
彼、サイラスは王位継承者としての教育を受けないといけない。
結果として、彼女はサイラスと共に教育を受け、
最高の師から学問や世間の常識、歴史や認識を教わり、
身を守る為に武術を習得し、サイラスが帝王学を叩きこまれる傍らで、
情報収集能力を叩きこまれ、一緒に成長し、学ぶ楽しさを知った。
サイラスは賢く聡く、乾いた大地に水が吸収されるがごとくに、
ありとあらゆる知識、経験を習得し、武術体術共に優れ、
木に実がなる様に見違えるごとく立派に成長した。
だが、異なる性別の男女が、いつまでも一緒に居ることは出来はしない。
特に、砂の一族では、女性は16を境に家に入り嫁に行くのが仕来り。
現に彼女の相手として、彼女をよく知る幼馴染が手を上げ了承されていた。
だが、そのころには彼女はサイラスの傍でその一生を捧げる決心をしていた。
いずれ、サイラスは王位を継いでこの国の王になる。
彼はさぞかし立派な王になるに違いない。
その才能は開花され、立派な王としての威厳すら垣間見えてきた。
その傍らで、彼の一番の幼馴染兼親友として、
約束通りずっと傍に居るつもりだった。
だから、縁談を断った。
その時、サイラスと共に彼女が居る為の条件として長が提示してきたのが、
彼の身代わりとしての人生。
彼が万が一、敵に狙われた時の最初の障害になれとのことだった。
もちろん、彼女は躊躇うことなく了承する。
彼が好いた長い髪をバッサリ切って女性を捨てた。
彼の代わりに死ねるのならそれでいいとすら思っていた。
彼が王位を得て幸せになるための人生を歩めるようになるなら、
彼女の一生が路傍の石で終わっても何の後悔もなかった。
前王が彼の妻に送ったらしい王位継承者に代々伝わる秘宝。
それがあれば彼の王位継承に王手がかかる。
それを知って、砂漠に何度も探しに自分のエピに乗って出かけた。
未だそれは見つからないが、最後まであきらめるつもりはない。
彼女は、サイラスが王位を得て幸せになる為に、
王となり手にするはずだったものを全て取り返す為に、
何でもするつもりだ。
彼女は、古ぼけた木の机に肩肘を突きながら、机の上に土の欠片を並べる。
何処かの遺跡の発掘品だろうか。
タイルが剥がれたような細密画の一部や、壁画の壁の一部のようにも見える。
それでいて未だ艶やかに発色する小さな欠片が、
いくつも机の上に転がっていた。
彼女は、それをなんのためらいもなく木槌で叩いて潰す。
そして、月のわずかな光の下で水を掛ける。
当然のごとくに土の欠片は水に溶けて泥となった。
タイルの色は土に流れる様に消えた。
土の中には、何もなかった。
「これも違うか」
表向きの仕事の傍ら、彼女は砂漠である物を探していた。
これはもう何年も続けてきたことだ。
そして、何度も落胆のため息を落とした。
サイラスは気にしなくていい。自分が王になることは決まっている。
その為の手は打ってきているし、問題があっても自力で排除する。
だから無理をするなと言ってくれるが、それがあれば誰も彼を先王の子と疑わない。
父親である先王が、まだ見ぬ子と妻のために託したそれは王位継承者が持つ秘宝。
それがどういったものなのかもはっきりわからないが、
其れと解らぬように細工して、別れ際に確かに託したと、
弟にあてた最後の手紙には書いてあったのだ。
いつかおこる未来の騒動を防ぐ意味でも、正統なる王位継承者である証は、
喉から手が出るほどに欲しかった。彼のために、そして、彼女自身の為に、
彼女はどうしてもそれを見つけたかった。
彼女はくしゃりと髪をかきあげ、額を押えた。
手に巻いた包帯がはらりと解けた。
僅かに届く弱い月の光の下で、包帯の下の腕が露わになる。
包帯の跡がくっきり残る腕には、白い斑紋が浮かんでいた。
彼女は左指をそっとそお斑紋に滑らせる。
押えても傷をつけても感覚が届かない。
砂漠にすむものなら誰でも知っている。砂漠病だ。
斑紋は、腕や脚などの部位から始まって、心臓の上で終わる。
命の期限は最大で3年。
彼女も、今まで多くの砂漠病患者を見送ってきた砂の一族だ。
砂漠病のその症状も、最後にどうなるかも、
万が一にも助かる可能性はないことくらい知っている。
喉元に手を滑らせ首の後ろから背に手を伸ばした。
そこにも斑紋はあった。
背中はもう白い斑紋がまだらに花を咲かせていた。
「あと一年ってとこかな~
まったく、女神様も粋なはからいをするもんだね。
長年の願が叶ったところで、跡形もなく綺麗さっぱり砂漠病だなんてね。
未練無くあの世に旅立てていっそ縁起がいいっていうのかね~」
彼女が砂漠病にかかったことは、サイラスはもちろん知らない。
知っているのは偶然に気づかれたマサラティ老師と、
その場に居合わせた砂の一族の世話役ヤト爺だけ。
老人二人は、顔を見合わせて言った。
「後悔しない様に生きろ。それがお前の生きた証になる」
「砂漠病は砂の一族の宿命よ。
お前の分まであ奴が生きる。あ奴はお前を終生忘れん。
そう思えば食いは残らんだろうて」
彼女の人生の師二人からの言葉は、
彼女の人生最後の火を灯せと言っているように聞こえた。
あと少しだけ、あと少しだけ時間がある。
白い斑紋が心臓の上を彩るとき、命は潰える。
「女神様、僕の王に貴方の祝福を。貴方の呪いをすべて僕に。」
彼女は斑紋の捧げられた手を細い月に向かって伸ばしていた。
月に浮かぶのは、彼女が最も愛するサイラスの笑顔。
サイラスが何よりも誰よりも大事だ。昔も今も。
彼が傷つくなら、代わりに身を差し出すことすら厭わない。
サイラスを守りたい。誰からもどんな災難からも。
彼以外の誰かをを犠牲にすることすら躊躇しない。
罰を与えるであろう神すら恐れない。
水が高いところから低いところに落ちる様に、
彼女の想いは自然と大きく育ち、彼が与えてくれる無条件の信頼に応えるべく、
その牙を研ぐ。
冷たく鏡の様に透き通る水盤の様に、彼女の心は和いでいた。
この感情をなんと呼んだらいい。
愛? 恋? 執着? 恋情? そんなありきたりの言葉では現せない。
彼女の突き刺すような冷たい瞳が、哀しく厳しい決意を見せていた。
宵闇の浮かぶ月の船は、滑るように空を渡る。
********
その同時刻、メイは老師様の研究室で老師様相手に宿題の山を片付けていた。
「いいか、発声語であると言うことは、
口に出して覚えると解り安いということだ。
だから、語尾を伸ばす単語の時は最後を伸ばし、
頭に強弱をつける様に発音する時は、はねを短くする」
ほうほう。
老師様の説明は大変解りやすいですね。
流石老師様です。
「ここで丸める発音をするが、特徴的なのは鼻に抜ける様な摩擦音を出すことだ。
だから、ここで濁点がつく」
う、難しい単語は解らないです。
「ふむ、解らんか」
ええ、その通りです。
「それなら、一緒に声に出してみろ。それが一番覚えやすい」
私は下を丸めながら、鼻にかかるように、「へ」というと、
老師様が首を振る。
「舌をやや後ろに持っていき口を半開きにする。
音としては、そうだな、いびきに近い言葉だ」
「へ」
美味く言えたようで、老師様が頷いた。
そして、その言葉が使われる単語を一つずつ書いていく。
老師様が紙に書き、私が黒板に書き散らす。
言葉だけを取ってみたら同じなのだが、
発音を丸めたり伸ばしたりするだけで濁点がついたり、後ろの跳ねが伸びたりする。
しかし、老師様の教師手腕は素晴らしいです。
サーリアさんに、教わりながらも理解不能だったところが、
みるみる解るようになっていくのです。
宿題を初めて2時間。
月も高くに登ったであろう深夜まで勉強は及びましたが、
その成果は目を瞠る物があります。
自分で言っててなんですが、おそらく明日は意気揚々と問題なく、
宿題を提出できるに違いないのです。
で、どうして老師様が私の宿題のお手伝い、もとい先生になってくれたかというと、
時は二時間前に遡ります。
私は夕食の片付け後、お風呂上りで宿題を片付けるべく、
手早く就寝の挨拶をして、私はさっさと部屋に向かったのですが、
老師様がわざわざ私の部屋を訪れてくださったのです。
トントンとノックされて答えると、老師様が顔を覗かして言われました。
「マール、宿題が出たのだろう。
ここは灯りが暗いから勉学には不向きだ。
研究室の机を空けたから使うと言い」
ああ、確かに。
ランプが二つ左右についているほかは何もないですからね。
「はい。それは助かります。有難うございます」
老師様に言われるままに、宿題を抱えて研究室に赴きました。
「担当の教員は誰だ?」
私は首を振りました。
「すいません。 担当教員の名前を聞くのを忘れました。
でも、髪の長い美人で、大変お仕置きが好きな方のようです。
あと、ジャラジャラとアクセサリーを沢山つけていらっしゃいました」
老師様がはあっとため息をつきました。
「サーリアか」
そんな名前なのでしょうか。
「あれは、良くも悪くも他人にとかく厳しい。
自分のレベルが高すぎるので、他人にも同じレベルも求める傾向にある。
教師に最も向かない人間だ」
ほう、そうなのですか。
「マール。感心している場合ではない。
つまり、お前がサーリアが満足するレベルにならなければ鞭が飛ぶ」
無知? 無恥? 鞭? えええええ!
「そうすると、こちらの仕事にも支障がでるな。
仕方ない。ワシが教えてやろう」
そういって、宿題のプリントと本を手に取り、
一つ一つ丁寧に教えてくださったのです。
なんて優しい方なのでしょう。
そうして、自分では寝る時間があるかなと思っていたのに、
僅か二時間で宿題が終わりました。
それも自分一人では成しえない程の会心の出来です。
「本当に有難うございます。老師様。
老師様の説明は大変解りやすかったです。
だから、宿題もこんなに早く片付いて、本当に嬉しいです」
宿題を鞄に詰めて、老師様にお礼を言うと、
老師様はさっさと背を向けてお部屋に帰ってしまわれました。
「いや、いい。 さっさと寝ろ。 明日は寝坊するな」
老師様の耳の上がうっすら赤くなっていました。
照れていますね。本当に老師様は、優しくて素晴らしい方です。
雇用主がこんな人で本当に良かった。
明日は、老師様の先日のご希望通りにフレンチトーストもどきや、
パンプディング、シナモンロールを作ることにします。
パン生地は今朝から寝かせてますので万全です。
それに、休憩用に美味しいお菓子もつくろうかな。
セザンさんのお得意のはちみつ入りクッキーを作ろうかな。
明日もいい天気でありますように。
ベッドに入り、ほくほくと眠りにつきました。
さて、彼女が誰か解るでしょうか。




