初授業はスパルタです。
「いいですか? この形容詞は直接名詞を修飾するのではなく、
形容詞を動詞の前に置いて、動詞の補語として用います」
カツカツと真っ白なチョークが先生が手に持つ黒板を文字で埋めていく。
「先生、その場合の形状形容詞の原型、比較型、
最上級の特徴について教えてください」
「そうですね。いい質問です。 その場合は、……」
生徒達の沢山の目がじっとそれを見つめながら、
更に解らないことを質問し授業を進めています。
皆さん大変真面目で、真剣に授業に取り組んでいる様子です。
生徒数は6人、先生は一人。
誰一人無駄口を叩かずよそ見などしない。
いいですね、隣りのクラスは。
真面目で教えがいのある生徒に、教える意欲に静かに燃える先生。
理想的な学問の現場です。
こんなクラスなら授業参観もどんとこいと言えるでしょう。
今のこの様子からも解る様に、私が今いる場所は王立学問所です。
老師様から学問所に通うお許しを頂けたので、
喜び勇んで、早速その日のうちにやってきました。
学問所の事務局に書類を無事提出して、ラマエメさんかジュディス先生達に会えたら、
明日からお邪魔しますとちゃんと挨拶をして、
その序に、昨日の相談の成果というか、結果を聞くつもりで教官室を覗いたのです。
突然の訪問は先方に大変失礼なことですから、
ちゃんと順序良く手筈を整えるつもりだったのです。
なのに、一体どうしてこんなことになったのでしょう。
私が抱えている小さな黒板の上を這うのは、私が書いたチョークの文字。
お世辞にも上手だと言えない筆跡です。
私の右手はチョークタコが出来そうなくらいに酷使されて、
ぶるぶると震えています。
そして、私の目の前には、目の覚めるようなザ・美女が一人。
「ね~え~マール、聞いてるの?聞いてないの?
よそ見をしていると言うことは、貴方のその耳は飾りなのかしら~
それともその耳詰まってるの?
詰まっているなら、アナを開けるわよ~ぐっさりと」
「い、いえいえいえいえ。詰ってません。詰まってませんよ全く。
もちろん、しっかりくっきり聞こえてます、先生」
聞いていますとも。ですからペン先を耳に向けるのは止めてください。
キラキラと眩しい美人な先生を前に涙目で黒板に向かう私。
震えるままに綴りを間違うと、途端に定規ハリセンやペン先が襲ってきます。
「定規が嫌いなら、鞭を振るってあげるわよ。そっちがいいの?」
「いえいえいえいえいえ、結構です。定規大好きです」
書類を持ってきた序に見学だったはずなのに、
本当にどうしてこんなことになっているのでしょう。
泣きたくなってきました。
*******
ファラシア語。
マッカラ王国を始め、西大陸で使われている言語の基本系がこの言語です。
私が書くと唯のみみずの這ったような文字にしか見えないのですが、
先生やこの国の人が書くとちゃんとした筆記体に見えるから不思議なものです。
この言語はアルファベットが32文字、それに独立型、頭字、中字、尾字とあり、
文字を用いる場所によって文字が変化するという代物だ。
まあ、英語のアルファベットだって大文字小文字とあるのだから似たようなものか。
だが、単体で書くと書けるのに、
続けて書くとどこかの芸能人のサインの様な文字に変身する。
実に不思議な文字だ。
東大陸の公用語はシアラン語。
慣れてしまった今ならわかるが、シアラン語は字体はラテン語か英語に近い感じだ。
まあ、発音、文字表記、それぞれに意味合いが全く違うので、
私の世界の言語と比べようもないのだが、文字を変換する時に聊か戸惑うのも事実。
異世界から来た私にとってはどちらも外国語。
西だろうが東だろうが、あまり変わり映えがしない出来具合だろう。
だがまあ、どちらも要は慣れの問題だと思いたい。
人間、住めば都とまではいかないが、時間をかけて地道に何とかしようと思うなら、
何とかなるはずだ。多分。
東大陸の言葉でも3か月の間で、話すくらいは何とかなったのだ。
もちろん、カースのスパルタ授業があったからこその結果だが。
現に、砂漠に落ちてからそこまで時間は経っていないが、
西大陸の言葉をまるで知らなかった私が、
ここまで話せるようになった。私の頭のすかすか具合を自覚しているだけに驚愕すべき事実だと思う。夢ではないかしら。
いかにヤトお爺ちゃんの砂漠学校が、有益であったかを物語っているだろう。
使い勝手のいい言葉を優先的に教えてくれた実践語学講座だ。
ヤトお爺ちゃんは本当に教えるのが上手ないい先生でした。
このファラシア語と言うのは、基本、発声表記文字だそうです。
つまり、発した言葉のニュアンス的な発音の上下で意味合いが変わるというあれだ。
雨と飴。端と箸。みたいな感じですね。
あ、そう考えると日本語に近いのかもしれません。
日本語って、ひらがなカタカナ漢字と混ぜ混ぜに書くけど、
基本発声言語だと聞いたことがある。
例えば、『私はお芋が好きです。』と言うつもりなら、
シアラン語は私、好き、芋という単語を優先順位の高い順に並べる。
だが、ファラシア語は私、は、芋、が、好き、です。と文字を表記通りに並べるのだ。
ヤトお爺ちゃんに言葉の使い方を教えてもらった時には、
意外に解りやすいと思ったのだが、こんなところに落とし穴が。
以前、ヤトお爺ちゃんは話せるようになれば、いずれ書ける。
焦らんでもええと優しく言ってくれました。
が、話すのは簡単でも読み書きがこんなに難解とは。
ファラシア語、舐めていました。御免なさい。
やはりも案山子もない。さすが外国語なのです。
外国語を舐めてかかるとドツボに嵌ると言ったのは、
大学でギリシャ語を取っていた友人の言。
あの時、ギリシャ語を取らなくてよかったとだけ思った私。
今になってあの言葉の意味を追体験しようとは。
つまり、今、私はドツボにはまっています。
********
事務所で書類を渡して、思ったより手続きが早く終わったので、
一応挨拶をと思い、教官室に入ると先生達は誰もいませんでした。
仕方がないので、帰ろうと踵を返したら、校長室の扉がバタンと勢いよく開きました。
中から出てきたのは、これぞザ・美女と言わんばかりのきらきら美人と、
前髪で顔の上半分が隠れている男の人。
男の人は、茶髪の髪で目が隠れているせいか、表情が全く分からない。
「おや。どなたですか?」
柔らかな声に、意外に若い人なのかもしれないと思った。
女性は、キラキラ光るプラチナブロンドの長い髪に、灰色混じった青い瞳。
泣き黒子が色っぽい背の高いボンキュボンな美人です。
真っ赤な口紅が妖艶な魔女っぽく見せてます。
「ねえ、貴方なんの御用なのかしら?」
代表的美人の如何にも不審者をみる目付が、刺さるように厳しいです。
校長室から出てきたということは、校長先生でしょうか。
ここで失礼があっては、せっかく書類にサインをしてくれた老師様に、
恥をかかすことになる。
「あ、あの、今度からこちらで生徒としてお世話になるマールです。
今日は、先生達にご挨拶をと思ってこちらにお邪魔しました」
私は背筋を伸ばして、やや腰を曲げて中腰でお辞儀をする。
略式だが、東大陸では正式なお辞儀の作法だ。
「ふうん。そうなの。
それで、貴方の学力はどのくらいなのかしら?
高学級課程をすませているなら、授業は夕刻からの専門課程講座になるのよ」
美女が首を傾げたら、耳に付けた装飾過多なイヤリングがシャラと揺れました。
あのイヤリング、重くないのかしら。シャンデリアみたいです。
彼女が言った専門的な言葉は解らないのですが、
私の学力は高学級なんちゃらでは確実にないです。
「い、いえ。私はこの国に来たばかりで、西大陸の言葉は不慣れです。
一般会話なら何とかですが、読み書きに至っては全く知りません。
ですので、初級クラスに入れてもらう予定です」
美人は何度か目を瞬かせ、不思議な者を見る様に私をじろじろ見ました。
「へえ~、全くの初級ねえ~
でも~残念ねえ、今の学問所に初級クラスの生徒は一人もいないのよ。
ねえ、そうだったわね?」
え?
私が驚いて顔を上げると、一緒にいた男性が頷いて答えた。
「そういえばそうでしたね。
今、この学問所のクラスは中級以上のみ。
今学期は初級クラスは、確か開けてませんでしたね」
ええ、そうなの?
美女は手に持った冊子をパラパラめくり、目を通して後、
私を見てにっこり笑った。
「あのね、クラスを開けるには最低でも3人は必要なのよ。
今の王立学問所は、生徒数に合わせて、
ぎりぎりやっていけるだけの先生の数しか雇い入れていないの。
初心者が入ってくる来学期まで待ってもらうかもしれないわね~」
なんと。
初心者クラスが無いなんて、思いもしませんでした。
確かに、私一人ならクラスを開けるのも無理かもしれない。
同好会だって3人以上いないと会として成立しないのだから、
初級クラスとなるとやはりそれなりに必要なのだろう。
ラマエメさんは、解っていて学校に誘ってくれたはずなのだけど、
やはり人がいないと駄目だと、
校長先生などの偉い人の立場から見て思うのかもしれない。
そうか、来学期っていつからなのだろう。
勢いついてやってきた手前、なんだか肩すかしをされた気分だが、
私の都合で世界は回らないことくらい、子供ではないのだから解っている。
ラマエメさんが、偉い人に怒られるのなら、
私は我儘を通すべきではないかもしれない。
素直に来学期の予定に組み込んでもらうべきだろうか。
それまでは自主学習かなあ。
来学期っていつからなのか聞こうと思ったら、
美女がポンと手を叩いた。
「でも、貴方は大変ラッキーよ~
運のいいことに、私は今学期、丁度手が空いてるの。
初心者一人なら私が面倒見てあげれると思うわよ~」
それはいい考えだと茶髪の男性が手を叩いた。
「ああ、それはいい。貴方は本当に恵まれていますね。
この申し出は大変喜ばしいことですよ。
なにしろ彼女は本当に優秀な人ですからね。よかったですね」
え?
美人先生自らですか?
「あの、それは本当にありがたいのですが、本当にいいのですか?」
初心者一人を先生が直接教えると言うことは、家庭教師スタイル。
一対一です。
美女はにっこりと笑いました。
「ええ、もちろんよ」
流石ラマエメさんの上司です。
心の広い大変素晴らしい教職者です。
迷っている羊を見捨てない先生の鏡の様な人です。
私は、ここぞとばかりにお願いしました。
「それでは、お言葉に甘えさせてください。ぜひお願いします。
私の先生になってください」
指手袋の銀の鎖がシャラリと音をたてた。
美女は、にっこり笑って私に言いました。
「いいわ。じゃあ、始めましょうか。上の空き教室に移動しましょ。
ああ、そこの黒板持って」
「え? は? あ、あの、今からですか?」
行き成りの展開にまだ頭がついていきません。
「もちろんよ。善は急げって言うでしょ。
決めたなら即断決行が私のモットーなの。
さあ、初級クラスを1週間で終わらせるわよ~
しっかりついてきなさいね~みっちりやるわよ~」
一週間? しっかり?みっちり?
「あ、あの、私は塔で使用人として働いていまして、
夕食を作る時間までに帰らないといけないのですが」
慌てながらも変えられない予定をちゃんと先生に言っておきます。
老師様の所の使用人としての仕事を、ないがしろにしてはいけないからです。
「ああ、そうなの。それは仕方ないわね~
なら、限られた時間で詰め込むしかないわね~
宿題を多めに出すから、必ずやってくるようにね~」
宿題ですね。了解です。
ラマエメさんに聞いていたからそれは納得です。
普通に学校に通っている生徒なら宿題は当然ですものね。
「はい、解りました」
美女がにやりと笑いました。
「もし、一つでも忘れたら、お仕置きが待っているからそのつもりでね~」
え?お仕置き? 今の聞き間違えでしょうか?
「そ、それは、一体何ですか?」
美女の目がギラリと光りました。
そして、口角が明らかに三日月型に上がりました。
「うふふふ~。お仕置きはお仕置きよ~
黙ってお嫁に行けると思わない様なお仕置きかもね~
XXXXして、xxxxして、YYYYするかもね~」
美女の目付が怖いです。
先程までの優しそうな微笑が、今は肉食獣の獲物を見つけた時の笑みに見えます。
赤い唇をなめた仕草は、虎が舌なめずりしているような錯覚を覚えます。
言っている言葉が解りませんが、心の底から身の危険を感じます。
「あ、あの、来学期まで待とうかなぁなんて」
背中には汗がたらたら。もちろん冷や汗です。
「もちろん、思わないわよねえ~
今更、断るなんて真似をしたら、貴方の保証人としてサインした雇用主にも、
それ相応の迷惑がかかるってその小さな脳みそでも解るわよね~
逃げ場なんて、どこにもないのよ。うふふふ。
さあ、覚悟を決めてついてらっしゃい。楽しい楽しい授業の始まりよ!」
茶髪の男性が、いつの間にか持っていた白いハンカチを私に向けて振りました。
「しっかり頑張ってね」
そ、そのハンカチの意味はなんですか?
嫌な予感しかしませんが。
私は美女に引きずられるように連れて行かれ、教室に連行されました。
市場に売られる子牛の気持ちが解る気がしました。
そして今に至ります。
隣りのクラスの授業内容は、教養課程の中級だそうです。
俗にいう中学生の学習内容と言うものですね。
私の中学生時代の授業態度って、こんな感じだったかな。
なんだか、のんびりだらりと授業を聞いていた気がする。
先生にあてられても、解りませんと答えるのが精々で、
自分から質問なんかした記憶が全くない。
そんな風に、隣から聞こえてくる声にちょっと耳を傾けただけで、
目の前の美女先生に脅され、耳に穴をあけられそうになりました。
先生が持っていたペン先が本当に、耳に向かってくるのです。
この先生に冗談は通じないのかもしれません。
明らかに冗談で朴っておいたら私の耳は大穴が空いていると確信します。
慌てて耳を押えて防御しましたが、力では確実に押し負けます。
簡単に防御していた手を外されました。
美女なのに力も強いなんて、どこのスーパーウーマンでしょうか。
「い~い? これは基礎中の基礎なのよ。
こんなことは、この国の子供ならだれでも知っていることよ~
難しくないんだから、よそ見せずに真面目に書きなさい」
ぺしっと定規で額を叩かれました。
ちょっと隣の授業の様子をチラ見していただけなのに。
ちょっと痛かったので、額を押えて視線を叩いた相手に視線を向けると、
叩いた本人である迫力ある美人は、
手に持った長い定規で自分の肩をとんとんと叩きながら、顎をしゃくりました。
「あ~あ~、反省の色もなしでその態度なの~
へえ~ふうん~
この私に、お遊びで時間を無駄にさせるなんて、いい度胸してるじゃない」
実年齢は解りませんが、美人が威圧すると非常に怖い。
先生は、いつか立派なチンピラになれるに違いない。
「す、すいません」
私は、貸し出された小さな黒板の上にゆっくりと見本通りの字を描いた。
いや、描いたはずだった。
「馬っ鹿ね~。馬鹿馬鹿~
これだと頭字になるでしょう。さっきも言ったでしょ。
入れ込む場所で字体が変わるのよ。
まずは独立型を覚えるのよ。それが基本系だから」
先生は色つきのチョークで私の黒板の文字を直していた。
先生の字と私の書いた文字、違いがさっぱり解らない。
難解なアルファベットの羅列に、なんだか頭がちんぷんかんぷんです。
「ここから終わりまであと20ずつ書いてみて~
間違えたら二倍に増えるから」
二倍って、そんな殺生な。
「勉強はね、基本、単純作業の繰り返しなのよ~
ファラシア語をきちんと学ぶなら、基礎はしっかりやっておくのが最良なのよ。
ということで、あ、また、間違えた。もう一度最初からね。
基本系と言葉の変化形の形を覚えるまで、書いて書いて書きまくるのよ。
毎日書いていくと夢にまで出てくるようになるから、
夢でもしっかり練習しなさいね~」
先生のおほほほほという高笑いが耳に痛い。
もう何度このミミズを描いたでしょうか。
チョークで手が真っ白になってます。
終わりのない作業に、なんだか、延々に続くテトリス地獄を思い出しました。
目を瞑ってもファラシア語のアルファベットが上から降ってくる。
バックコーラスは先生の高笑い。
「あ、この本、渡しておくわね~
初級編の20ページまで、明日までに読める様になっておくこと。
これが宿題よ~出来なかったらお仕置きコース1だからね~」
悪夢より辛いかもしれません。
二時間後、私は満身創痍ともいえんばかりにファラシア語を頭に詰め込まれ、
よたよたと食材市場に向かいました。
先生はまたね~と嬉しそうに手を振ってくれましたが、
手が震えて振りかえす元気もありませんでした。
真の勉強って、体力気力も削る酷な道だったのね。
敷石の白い色がなんだか黄色に見えてきそうな気がしました。
私、明日から、生きていけるでしょうか。
この世界の学校ってこんなに大変だったのですね。
道行くマッカラ学園の制服を着た学生さんが、随分立派に見えてきました。
ちょっとだけ、世間の風が身に沁みます。
*********
そんなメイの状況を知ってか知らずか。
二階の校長室で美女な先生と茶髪の男性が小声で楽しそうに話していた。
男性は校長の椅子に堂々と座っている。
美女は正面に対峙するような形で立っていた。
「どうでしたか?」
彼の明らかに主語が抜けた問いに、彼女はふふふっと微笑んだ。
「そうね。使い勝手は悪くなさそうよ」
茶髪の男性が、机の引き出しを開けて一枚の紙を取り出した。
「それは重畳です。それで、彼にどう伝えますか?
雇用主辺りから早々に伝わると思われますが。
学校サイドには私から通達いたします」
彼は、さらさらとその紙に何かを書きつけ、彼女にもサインを求める。
それを受け取った彼女も、ざっと書類を見たうえで、一番下にサインをした。
「そうね、彼に手紙を書くから届けて頂戴。
そして、くれぐれも私の邪魔はしないようにと言伝をお願い」
彼は、机の引き出しから便箋セットを取り出して、皮のファイルで挟み、
彼女の前にすっと差し出した。
それを当然の様に受け取って、彼女は机の上に座り、サラサラと何やら文章を書く。
羽根ペンなので、時折インク壺につけながら書くのだが、
彼女の文字は、水が流れる様に細く流暢だ。
そして、文章の最後に印の様にペン先で軽く抉る。
彼女を見知った人間なら必ず彼女の手だと解る筆跡だ。
インクを乾かすための当て布をあてず、彼女は手紙を風で乾かすように、
パタパタと手紙を揺らす。
そして、あらかた乾いたのを見計らって、目の前の彼に渡した。
「承りました」
彼は、当然の様にその手紙を受け取って丁寧に三折りにし、
蝋で封をしてからベルを鳴らした。
********
明日の朝食の材料と夕食の材料。
そんなに買ってないのに、重いです。
今日は手を酷使しましたからね。その反動が来ているのでしょう。
明日からは肩掛けバックを持ってくることにします。
しかし、ずしりと重いこの籠。
これを歩いて塔まで帰るのは大変腕が痺れます。
ステラッドで帰ろうかなと、ふらふらと夕食の入った籠を抱え、
食材市場を出たところで、意外にもノーラ先生とジュディス先生に会いました。
本日ラマエメさんは夕刻からの出勤だそうです。
ですのでまだお手製のお菓子を渡してないと言うことですが、
なんだか二人とも煮え切らない感じで、なんだか言い淀んでいる。
そもそも平日のこんな時間に何故二人そろってこんな場所に来ているのでしょうか。
と思って首を傾げていると、ノーラ先生がごくりと唾を飲み込み、
意を決したように口を開きました。
「あのう、あのう~そのう~ねえ」
「どうしたのですか?」
昨日はあれだけ意気揚々としていたのに、二人共なんだか様子がおかしいです。
顔を覗きこんだ途端に、ノーラ先生が私の胸に飛び込んできました。
いえ、飛び込むという表現では物足りないと言いますか、
はっきり言えばお相撲さんの押し出しに近い威力と迫力があります。
「ぐほっ」
「マール~ど、どうしよう~どうしたらいいのお~」
私は一瞬ですが呼吸困難の末、お星さまが見えそうでした。
なにしろ、鳩尾ストライクでしたから。
どうしたらいいと言いたいのはこっちですよ。
私は体力気力共に一斉にごっそり削がれている状態ですので、
お手柔らかにお願いしたいのですが。
「こ、これえ、駄目かもしれないのお」
ノーラ先生は泣きながら、小さな箱を私の手の上に乗せました。
木目細工の綺麗な小箱です。
何が駄目だと言うのでしょう。
私が首を傾げると、ジュディス先生がため息とともに、
横から手を伸ばしてきてその箱を開けました。
「これのことよ」
中にあるのは、真っ黒焦げ焦げな何かな物体。
鼻にぷぅ~んと匂ってくるのは、確かな焦げ具合の消し炭の様な物体X。
私は首を傾げました。
「これは、何ですか?」
ノーラ先生の目からぶわっと涙が溢れてきました。
「マールが昨日言った甘いものだよう。
クッキーを焼いたのだけどう、何度焼いてもこんな風に成っちゃうのお」
クッキー。これが。
私の目には、タコ焼きになりそこねた炭の一部にしか見えない。
ジュディスさんも、そうっとオレンジ色の箱を籠から取り出して見せた。
中には、ぶつぶつと浮かんだ黒い斑点が果実の皮を巻き込んで、
溶けているのか固まっているのか解らない、
見たことのない物体が出来上がっていた。
私が言う前に、ジュディスさんがぼそりと呟いた。
「……パイよ。いいの。言わないで。
マールの言いたいことは解っているわ。
でも、これでも一番よくできたのを持ってきたのよ」
パイ。これが。
一体どうやったらこんな風な物体が作れるのだろうか。
ジュディスさんのパイを見たら、
ノーラさんのタコ焼きクッキーが可愛らしく見えてきそうだ。
ジュディスさんは、ため息をつきながら、布袋に入った小さな箱を取り出した。
「で、こちらは既製品なのよ。 これならばばれないと思わない?
考えてみれば、料理の才能が壊滅的な私達が、
手作りお菓子を作ると決めたのが無謀だったわ」
今、壊滅的な才能の私達と言いましたね。
お二人とも、料理の才能が皆無と言うことでしょうか。
そういって見せてくれたのは、素朴な感じのナッツと干し葡萄が入ったクッキー。
そして、ピカピカと輝くばかりに美しいキルシュパイです。
素朴でありながらテクニックを感じさせるクッキーとパイです。
匂いと言い見た目と言い、流石売り物。
子供の頭程ある大きなカントリー風な手作りクッキーに、
今にも涎が出そうなほど美味しそうなパイは、
さくさく感とキルシュとナッツがいい感じで配置されている。
既製品のクッキーをノーラ先生の手造りとしてラマエメさんに、
ジュディス先生はキルシュパイを意中の男性に差し出そうと考えているのですね。
ちょっとそれはどうかと思います。
私は、ため息をついて二人をしっかり見据えました。
「ノーラ先生。これをラマエメさんに自分の手作りだと渡して、
後で絶対に後悔しないと言えますか?」
ノーラ先生の涙が更に溢れた。
「ううっ、無理い~」
「ジュディス先生、幼馴染の男性にこのパイを自分の手作りだと渡して、
嘘だとばれないなんて本気で考えていませんよね」
ジュディス先生は、ぐっと息を詰まらせた。
「ジュディス先生。
誠意を見せないといけない相手にウソをつくことは、
のちのち拗れることは火を見るより明らかですよ」
「で、でも、この自作を渡すわけにはいかないでしょう」
ジュディス先生はきちんと解ってない様だ。
嘘をつくのは、両者の信頼を損ねること。つまり、最初からのしくじりだ。
最初が駄目なら、きちんと始まる筈がない。
「ジュディス先生は兎も角、
ノーラ先生はラマエメさんの生徒だったんですよね」
「そうよ。小さなころからずっとね」
「それなら、ラマエメさんがノーラ先生の料理の腕前がどのくらいか、
知っているのではないでしょうか。
そこで、こんな完成度の高いクッキーを持っていくと、
明らかに他人が作った物だとバレバレです。
ジュディス先生の場合も、同じことです」
「「あ!」」
明らかに解らなかったと言うことですね。
しかし、男は胃袋を掴め作戦はしょっぱなから躓きました。
まさかの壊滅的腕前とは、思いもしませんでした。
これは、計画変更も必要かもしれません。
大学の恋の伝道師と銘打っていた先輩の語録帳。
強制的に受付を任された手前、とりあえず一通り目を通したが、
私のつたない脳みそがどこまで覚えているだろうか。
自分自身に反映させるつもりが全くなかったので、
きちんと覚えているかどうかわからない。
きっちり覚えているのは、成功率に関わらず助言具合で報酬が変わることぐらい。
A定食、B定食、日替わり定食、カレー、天丼、ラーメン、うどん、おにぎりと、
下がっていくぐらいだったか。
さて、どうしたものだと考えていたら、
ノーラ先生とジュディス先生がお互いに顔を見合わせた後、
ごくりと唾を飲み込んで私の前に立った。
「マール、今度のお休みに私達にお菓子の造り方を教えてくれないかしら。
もちろん、お礼はするわ」
お礼ですか?
「学校に通うのよねえ。宿題の解らないとこもちゃんと教えるしい。」
「もし何だったら、私達で個人レッスンを受け持ってもいいわ。
初級クラスは今期開いてないから、ラマエメ先生が受け持つって言ってたし」
え?
「私、もう授業受けてきましたよ。 すっごい美人の先生に」
二人は首を傾げました。
「誰え?」「美人って、そんな先生はいないけど」
あんな迫力美人を知らないなんて、どういったことでしょう。
「あちらが校長室から出てきた時に、ちょうど居合わせまして、
いつの間にかそのような運びになったのです。
えーと、金髪の長い髪に背が高くて目じりに黒子がある」
二人の顔から一斉に赤みが引いて、一気に真っ青になりました。
「ま、マールう、その先生から名前を聞いたあ?」
あ、そういえば、名前を聞いていませんでした。
「宿題を忘れてきたら、お、お仕置きよ~なんて言う人じゃないわよね?」
そういえば、そんなこと言ってましたね。
大変だ、急いで帰って宿題に手を付けるべく時間を作らなければ。
「そうです。言ってました」
二人がそろって声を上げました。
「「どうして、あの人が学問所にいるのよ~」」
あの美女先生は何時も学校にいない先生なのでしょうか。
明日あった時に名前を聞いておこうと思います。
あ、ルカさんも非常勤講師だって言ってたから、
ルカさんに聞けば解るかな。
青くなった二人は、何やら急いで学問所に帰りました。
世界が終わるだの、破滅の足音がとか訳の分からないことを呟いていましたが、
大丈夫でしょうか。
とりあえず、二人に二日後の週末にクッキーを一緒に作ろうと約束をしました。
しかし、あの壊滅的才能を前に、どうやって教えたらいいのでしょう。
私もまずはマニュアルを作るところから始めないといけないでしょうか。
あ、それなら、宿題が役に発ちそうです。
宿題の書き取りをしっかりやって、
何とかマニュアル造りをしてみたいと思います。
やることが少しずつ増えていきますが、乗りかかった船は簡単に降りません。人として、精一杯協力すべきでしょう。
まずは、……お仕置きを受けたくないので、
早く帰って宿題を頑張りましょう。
私は重たい籠を腕に抱え、腕とお腹に力を入れて、
ステラッドの踏み台を駆けあがりました。
さて、この美女が誰か、もちろんわかりますよね。




