暴走する噂。
メイは最後のほうでちょろっと出ます。
駆け足に近い急ぎ足で帰路を急ぐメイとヤト爺。
その姿をそれと認めたうえで、彼等の背に向かって首を傾げ、
先程のヤトと同じように眉を顰め、青空を見つめた男がいた。
「…雨と言ったか? 今から降るのか?」
書架通りのなじみの本屋の軒先で、いつものように本を乱読していた男は、
読んでいた本を閉じて、空中で雨を受ける様に片手を掲げた。
その仕草を見た彼と顔見知りの本屋の店番をしていた女性が声を上げた。
「あら嫌だ、雨が降ってるの?」
通常よりも甲高いと評判の声が、周辺の人間の耳に届いた。
その声が、男に向かって掛けられたと男本人が気が付くより前に、
周囲の人間の反応の方が早かった。
「あ? なんだ? 雨か? へえ、久しぶりだな」
「雨だと、おい、急げ、裏庭で虫干ししている本が濡れるぞ」
「店先の商品を急いで仕舞わないと。おい、誰か手を貸しておくれ」
周辺の人間が、彼女の雨の一言でがやがやと騒ぎ始め、
それなりに静かであった書架通りが、慌ただしさと共に一気に人が動き始めた。
男は、手のひらになんの滴も落ちてないことを確認した後、
声を掛けた女性に向かって言った。
「まだ降っていない。
だけど、今そこを駆けて行った爺さんと女の子が、
もうじきに酷い雨が降ると言っていたんだよ」
「お爺さんと女の子?」
女性が首を傾げると、他の店で片づけをしていた別の女性が答えた。
「ヤト爺さんでしょ。小さな女の子を連れてたわ。
さっき市場で見かけたもの」
また別の方面から、声が響く。
「ヤト爺さんって、砂漠の一族のあの爺かい?
それに、今、酷い雨って言ったかい?
砂の一族のヤト爺が酷い雨の予知って、
まさか、大神殿の巫女の予知じゃないのかい。
そうだよ。きっとそうだ。
ちょいとアンタ、急いで店じまいしないと。
あの時と同じなら、酷いことになるよ。
あの時私は15にも満たなかったけど、今でもはっきり覚えてるんだ。
あれは、酷い雨だった。本当に悪夢だよ。
あの時、巫女の予知をしっかりきいてりゃこんなことにはって、
父さんたちは物凄く後悔したのを見てたんだ。
あんた達も多少は覚えているだろう。
だったら急いで店じまいして、皆に知らせるのさ。
お客さん、悪いんだけどね、今日は早仕舞いだよ。
酷い雨が降るんだ。 さっさと家に帰った方がいい
そいで皆に知らせておくれ。
雨が襲ってくるから高い所に批難しろってね」
あちこちで似たような台詞が飛び交う。
その結果、本を読んでいた者達が一斉に本を閉じ、
ある者は購入する為主人に金を払い家路を急いだ。
ある者は本棚の元の位置に本を戻して、
本屋の主人の求めに従い、軒先に出している本を仕舞うのを手伝った。
そして、店じまいの雰囲気は一か所に留まらずあっという間に、伝染する。
年老いた爺一人でしている小さな古書店ながら、
その品揃えは断トツと評判が高いミノウスの古書店も、
同じように店じまいの用意をしていた。
彼の本屋は他の店と違って軒先に無造作に並べているわけではない。
移動できる書架ワゴンを何台かと、雨戸を用意し、窓を閉めるだけだ。
だが、年老いているせいかよろよろと脚はふらつき、手も震え、
なかなか作業が捗っていない。
「ミノウスおじさん、どうしたの?
皆、何でこんな早くから店じまいしてるのよ」
食事通りの中程に位置するカフェの店員で、
ミノウスの姪でもある娘が軽やかに走ってきて、
ミノウスの軒先に広げたワゴン本棚の回収を手早く手伝っていく。
「カリーナ、助かるよ。
すまないが、他のも全て奥へ急いで仕舞っておくれ。
今から雨が降るそうだ。 とても酷い雨らしい」
「は? 雨? こんなにいい天気なのに?」
「ああ、もうすぐだそうだ。
なんでも、話の出所は砂の一族の巫女らしい。
だから、皆焦って片付けているんだよ。
最近は、小雨しか降らないから忘れてたけど、
大神殿の雨よびの巫女が予知する雨は、
足元までつかるような大雨だ。
以前に降った時は、本も店もすべてが駄目になってね。
若いころはココには碌な本が無かったから諦めもついたが、
もし今、これらの本が濡れて店全てが駄目になったらなんて、
考えただけでもぞっとするよ」
ミノウスは大事な本を本棚から抜き取って、
一冊ずつ丁寧に油紙に包んで奥に仕舞い込む。
カリーナは辺りを見渡した後、ミノウスの後ろ姿に向かって頷いた。
どうやら本当に酷い雨が降るらしい。それを感じ取ったのだ。
ミノウスは、屈めた腰を叩きながら絶対に濡らしてはならない大事な本を、
選別しながら店の奥の金庫の中に積んでいく。
それは世界に数冊しかない貴重な古書で、先ほど店の客に求められて、
奥から持ってきたものだ。
急な雨の知らせで、本を眺めていた男は慌てて帰って行った。
次に来るときは買うからと言葉を残して。
次に来るとき。
彼はミノウスの店の常連だ。主に立ち読み部門での。
彼の今までにミノウスの店で購入した本は、年に数冊。
それも安い薄い本ばかりだ。
ミノウスが仕舞い込もうとしている分厚い本を買う事などはないだろう。
だが、彼の様な者は他にも大勢いる。
この国には学者が大勢いるが、国が抱えている学者は全体の十分の一にも満たない。
それ以外はほとんどが助手であったり、補助助手という名の押しかけ助手だ。
彼等は衣食住は保障されるものの、給料など心持程度。つまり、微々たるものだ。
そんな彼らにとって高価な本は欲しくても到底手が届かない。
だから、こうしてミノウスの好意に甘えて読んで帰るのだ。
汚さない、破らない、落とさない、壊さないを鉄則に、
ミノウスが彼等の立ち読みを容認している為、
この店は貧乏ではあるが将来有望であるかもしれない学者の卵が沢山訪れる。
だが、若い物は大概に礼儀や態度が鷹揚だ。
無意識に読んだところまでとページの端を折ってしまう者もいれば、
読んだら元の位置に片付けると言うことを知らない者も中にはいる。
彼等に悪気が無いのは解るが、仮にもそれらの本は商品である。
それも目が飛び出るくらいに高価な。
盗んだり持って帰ったりはしないものの、
商品として損なわれる行為がそのままだと本が傷む。
だから、彼等の帰った後はミノウスの仕事が格段と忙しくなるのである。
いつもならにこやかに笑いながら本を広げ、
中の折り目や皺を伸ばし、本棚の元の位置まで戻すミノウスも、
今回ばかりは勝手が違った。
いつも読みにくる彼等の為にも、
これら貴重な本も、この店も失うことはあってはならない。
せめて、先に貴重な本だけでも中へと焦っているが、
腰は痛み年老いた手は震え、なかなか作業が進まない。
それゆえ、店じまいの作業が遅れに遅れていた。
だから、カリーナの手伝いは渡りに船であり、天の助けでもあった。
カリーナは真剣な顔で叔父の言うように急いで店先を片付け、
雨戸を全部取り付けた。あとは、もう雨戸を引いて閉めるだけだ。
「カリーナ、有難う、本当にたすかったよ。
遅くなったが、お前の所の店長にも言っておいで。
お前の所のカフェも急がないと酷いことになるぞ」
そういってミノウスがカリーナの勤める店に視線を動かした。
カリーナの勤めるカフェは食事通りの中程に位置しており、
それなりに繁盛してる店だ。
他の飲食店と同じく、天気の良い今日みたいな日は、
店の前に幾つかテーブルと椅子が設置され、明るい空を堪能しながら、
甘い物を食べられる場所を無償で提供していた。
カリーナの勤めるカフェは学生や女性にも人気が高く、
甘味は文句なしに美味しいとあって、
店外の椅子にも数人の女性が購入した甘い飲み物を飲みながら、
無駄話に花を咲かせていた。
そこにカリーナが息せき切って店に飛び込み、店長に大きな声で聞こえる様に叫んだ。
「店長、大変、大変です。 もうじき大雨が降るんですって。
大神殿の巫女の大雨だそうです。
急いで外の家具を片付けましょう」
カリーナの言葉で、店の客も従業員も一斉に動き始める。
「大雨? 大神殿の巫女の予知か? ウソだろ。 なんてこった。
急いで外の家具を仕舞い込むぞ。 おい、何人か出てきてくれ」
店長の言葉で、厨房奥からもぞくぞくと人が出てくる。
ぞろぞろと総勢7人の従業員が総出で外に出ていた看板や椅子や机、
日避けの傘などを手際よく閉まっていく。
外に座っていた客には、店長自ら頭を下げて椅子や机を片付けさせてもらう。
そうして外に座っている客は誰もいなくなった。
「店長、鉢植えはどうしますか?」
「全部店の中に入れてくれ。
雨の規模は解らんが、昔と同じなら全部ごっそりやられる。
ああ、裏庭の雨戸を力のある奴何人かで取ってきてくれ」
隣りの宿屋の親父が、店にひょいっと顔を出した。
「おい、なんかあったのか? 随分と慌ただしいが」
店長は宿屋の親父にもカリーナが言った通りに伝える。
「今から物凄い大雨が降るそうなんだよ。
雨呼びの巫女の大雨だ。
お前の所も早く片付けないとやばいぜ」
「大神殿の大雨の予知だって?! なんてこった。
今日は月に一度の虫干しの日なんだぜ。
何だってこんな日に大雨が降るんだよ、ちきしょう」
宿屋の親父は、自分の店に帰るなり大声で怒鳴り上げた。
「おい、ちんたら掃除なんかしてる場合じゃねえ。
雨だ、大雨が降るぞ。
大神殿の巫女姫の予知だ。
酷いことになるぞ!
窓を全部閉めて雨戸を入れるぞ。
虫干ししてた物すべて中に入れろ、急げ。
おい、お前、暇なのか?暇だよな、暇なら手伝え。
後で夕食時に一杯おごってやる」
店の主人は遅めの昼食を取っていた客の襟首を掴んで手伝いを頼んだ。
そして、店の中にいた他の客も、彼と同じように主人ないし奥さんに掴まって、
強制的に手伝うことになった。
彼の大声で、飲食通りの店が一斉に店じまいを始めた。
書架通りと同じようにだ。
カリーナの店は、一番に動き始めただけあって、
他の店よりも作業は進んでいたが、少しだけ困ったこともあった。
店の中に陣取ったある常連客が、一向に帰る雰囲気を見せないのだ。
殆どの客が、その慌ただしさに気が焦ったようだ。
店長が何を言うでもなく、さっさと会計を済ませて店を出て行った。
なのに、その常連客の席だけは、動く気配がない。
店長もさすがに今日は帰ってくださいと言いにいこうと決心した時、
長話に気を取られていた女性ばかりの常連客の1人が遂に、
話の腰を折ることに成功し、席を立った。
「ねえ、その話はまた今度にしていいかしら。
ほら、周りが雨が降るっていってるでしょう。
私、子供を両親の店に預けているのよ。急いで迎えに行かないと」
薄緑のワンピースを着た普通の体型の女性が、
ライム色の飲み物をぐいっと飲み干し席を立つ。
その顔は、やっと話から逃れられるとばかりに晴れ晴れとした顔をしていた。
「あ、私ももう行くわ。
雨が降るんでしょう。急がなきゃ。
夕食の買い物をまだ済ませてないのよ」
その彼女に追随するように、オレンジ色の派手なスカーフを頭から被った女性が、
忙しく立ち上がって服の裾を伸ばした。
「あらやだ、雨って言った? 家の店の窓を開けっ放しよ。
酷い雨って言ったわよね。
急いで帰らないと、展示したばかりの新作が濡れちゃうわ」
濃紺ストライプの最新流行ワンピースを着たスタイルの良い女性が、
財布を取り出した。
そんな三人を待てと引き止める手が上がった。
「ねえ、ちょっと待って。そんなに慌てて帰らなくてもいいじゃない。
これからが面白くなるって言うのに、次だなんてつまらないわ。
それよりも、ねえ、可笑しくない?
こんなにいい天気なのに、雨降るって嘘でしょう?
カリーナ、貴方どこかで担がれたんじゃない?
あの高貴な巫女姫がこの国に来るなんて聞いてないわ。
絶対騙されたのよ。 馬鹿みたい」
大きな紫のリボンのついた帽子をかぶった女性が、
座ったまま空を見上げて手に持ったグラスを揺らした。
後ろ姿はカバを思わせるくらいにむちむちしている。
「そうよねえ~
だってさっきまで、こんな快晴な日は気持ちいいって話してた位なのに。
ねえ~カリーナ~ちょっと貴方~その話どこから拾ってきたのよ~
そもそも、大神殿の巫女がこんなところに現れるわけないじゃない。
大体、最近、雨が降っても小雨程度でしょ~
それなら、濡れても大したことないわよ。
カリーナ、貴方、大袈裟すぎるんじゃないの。
店長も~少しは疑うって脳みそを持った方がいいわよ。
そうしたら~、その軽い頭も少しはましになるかもよ~」
緑のスカーフを頭全体に巻いた女性が、
座ったまま大きなお尻を椅子の上で揺らした。
椅子の足がギシッミシッと悲鳴を上げている。
随分酷使しているかもしれない。
彼女のどっしりとした貫録のあるこのお尻は、今日何度も目の端で見かけた。
いや、今日だけでなくほぼ毎日のように視界に入るのである。
つまり、この面倒な彼等はこの店の常連であった。
店先で椅子と机を片付けていたカリーナ向かって全員の視線が集まる。
カリーナは、この忙しい時になんなのよと思ってはいたが、
そこは客商売、にっこり笑って煙に撒く手法を取った。
言葉に含まれる暴言には、はっきりとした青筋が立つが、そこはぐっとこらえる。
「ご心配には及びません。騙されるだなんてとんでもない。
なんでも、砂の一族お墨付きの大神殿の巫女の予知らしいです。
書架通りはもう殆ど閉まってますよ。 物凄い豪雨がくるらしいです。
一階部分は浸水しちゃうかもって、
皆、荷物を全部高いところへ移動させているんですよ。
もうじき、王城からも警報の鐘が鳴るでしょうね。
全部の市場も早仕舞いしちゃうでしょうね」
カリーナの言葉に出てきた砂の一族、大神殿の巫女、
豪雨、浸水、警報という単語に全員が目を瞠った。
そして一瞬の後、カリーナとの会話時間すら惜しいと思った様で、
失礼さながらに全員が踵を返して早足で目的を済ませるべく店を離れていった。
別れの挨拶も、失礼なことを言った謝罪もなしにである。
全く、呆れてすぎて頭が痛くなりそうだ。
ともかく、彼らが帰った店はさくさくと閉店準備を終え、
カリーナを含めた従業員の多くが、さっさと帰宅していった。
さて、先程の言動に問題多き女性陣だが、
それぞれが各自の持つ一番素早いルートで目的地に向かった。
1人は、子供を預けている両親の店、つまり貴金属通りの鍛冶屋へ行き、
今から雨が降るのよっと大袈裟に騒ぎまくり、子供を連れて走って家に帰った。
鍛冶屋連中は雨避けのテントを屋根と煙突に張り、火事場の火を落とした。
同じ通りの他の店も慌てて雨戸の用意をし、全ての店が硬く扉を閉ざした。
1人は、食材市場に行って一階のお惣菜店で同じように並んでいた、
夕食の献立に悩む主婦C、D、Eを巻き込むようにして雨の話をする。
そして、夕食の買い物をして一目散に家へと帰った。
食材市場は、一斉に店じまいの支度をはじめ、
口の軽い主婦C、D、Eは、住宅街、職人街の各々の住居に走っていき、
雨が降ると拡声器を使ったかのように叫んでいた。
町中が一斉に窓を閉めて右に左にと走り回った。
1人は、ご主人の店の服飾店の店先の窓辺に、
外からも見える様に展示してあった異国情緒たっぷりの高価なドレスを、
慌てて仕舞い、店の商品が濡れない様に従業員全員に大きな声で指示を出す。
足元に広がる絨毯を巻き上げ、マネキンを上の階へと移動させる。
雨戸をしっかり締めて窓に鍵をかける。
人の噂が広まる速度は他のどんな情報よりも早い。
それを実感できるというのは素晴らしいことかもしれない。
王城や学園にも連絡が走り、賢者の塔にも豪雨の警報の鐘が鳴り響いた。
町中が大雨に備えるべく動いていた。
僅か半刻の間に4つの市場も早仕舞いとなり、
従業員全員で店舗の荷物を2階に運んだ。
家族が心配な者は、早上がりし帰路を急いだ。
城門が全開で開けられ、跳ね橋の鎖が外された。
そして、半刻後。
予告の通りに大きな黒い雲が湧き出る様に広がり、
一瞬で青空は見えなくなった。
空は稲光と雷鳴を伴う黒雲に包まれ、大粒の雨が店の屋根や雨戸を強い力で叩きつける。
街の広場はあっという間に水嵩を増して池と見まごうばかり。
池の水をひっくり返したくらいという表現が生易しく見えるくらいの豪雨が、
広場一帯を襲った。
マッカラ王国の街は山間の街だけあって、気を付けなければ土砂災害が起こるし、
水が流れ落ち濁流となる時には、大きな二次災害が起こりかねない。
その上、町の構造上、街中の道は城門を下に見る形で緩やかな坂道。
大通りには脇道は無く、水は大通りを川となす勢いで流れて城門へと下る。
城門は水を逃がすために大きく開かれ、
濁流は邪魔する障害物全てを巻き込んで跳ね橋の脇から谷底まで落ちて行った。
こんな豪雨では床上浸水は当たり前で、一階店舗のあちこちに水が入り込み、
階上に運び忘れた全てものを押し寄せていった。
久しぶりに降る雨だが、恵みの雨とは言い難い程の破壊力。
どどう、ごうごう、どん、がらがらと物騒な騒音が雨音に負けず響いていた。
誰しもが雨の落ちる音に、流れる水の轟音に恐怖を募らせた。
およそ2刻ほど降り続いた雨が遂に止み、轟音が聞こえなくなったとき、
全員がほうっと大きな一息をついたのは当然と言えよう。
そのころにはすでに青空は無く、夕闇が広がり始めていた。
夜半を越えた頃、広場の水は少しずつではあるが引き始め、
山間の谷間を流れていた滝の様な川は水位を少しずつ下げていく。
雨の恐怖がゆっくりと薄れていった。
*******
幾人かが、家から出てきて辺りを見渡しながら、広場に自然と集まった。
全員が無事を喜び、肩を叩きあって安堵の声を上げた。
それまでじっと黙っていた誰かがポツリと口にした。
「なあ、あの雨の予告が無けりゃ、大変な事だったな」
辺りを恐る恐る伺いながら、豪雨の残した爪痕を振り返る。
「ああ、全くだ。 あれが無けりゃ死人が出ただろうで」
被害状況を話しながら雑談に入る顔は、安堵の為緩みきっていた。
「それにしても、あれほどの豪雨は近年まれに見ねえくらいだったな」
気が付けば、辺り近所のいつものメンバーが広場にたむろしていた。
「あの予知って、誰がおしえてくれたんだっけ?」
「大神殿の巫女姫なんだろ。流石だなあ」
「馬鹿、おめえ違うぜ。 確か、砂の一族の爺だろ」
「爺ってヤト爺か? ありえねえありえねえ。
だったら、ヤト爺賭け率10割確定だろうに。
俺の知るところ、大勝負が好きなあの爺の勝率は4割以下だ」
「じゃあ、どっから大神殿が出てきたんだよ。
今回雨よびの巫女の予知なんだろう」
真相を知るべく全員の意見を出し合う。
だが、噂が噂を呼んでいたため、全部微妙にずれている。
そこで、本屋の店番の女が、鼻高々に声を上げた。
「皆、よっく聞きな。 全く違うよ。
いいかい、雨を予知したのは爺さんの連れていた女の子の方だよ」
だが、事実を見たとばかりに本屋の女が自慢げに甲高い声で言い放った。
「へえ、ヤト爺が連れてたってことは、その子も砂の一族のかい?」
服屋の親父が、興味深げに女に尋ねる。
「いや、顔立ちは違うようだったが、そうなのかもな。
孫の様にかいがいしく買い物の手伝いをしていたから」
だが、返事が返ってきたのは市場で働く男から。
「いやいや、違うよ。孫じゃないよ。
俺、ヤト爺の孫は男ばかりだって酒場で聞いたもん」
よく酒場に顔を出している金物屋の若い男が指を立てて知った気に話す。
「ばっかだね、そんなことも知らないのかい。
あの子は、例の老師の新しい使用人だよ。
今日から働いているって聞いてるよ」
宿屋のコニスが、意気揚々と話し始めた。
「あんた達、その子の話をしたいなら、ウチの酒場へお出でな。
家の店の片付けが終わったから今から開店だよ」
常連の男がコニスの提案に乗り、隣の男の肩を叩いた。
「おお、いいね。
こんな夜はぱあっと楽しい気分になりたいもんだよ。
なあ、ちょっとだけ飲みに行かねえか?」
「ああ、いいな。
そこでさっきの話の続きを聞こうか。
おかみさんはもっといろいろ知ってそうだしね」
彼等の多くは、片付けるのに邪魔になると追い出された口だったので、
家でゆっくりできない連中は全員で酒場に飲みに行った。
全員の前に大きな酒のジョッキがどんと置かれる。
小さなグラスを各自持ち、各々がジョッキから酒を注ぐ形だ。
酒場の主人であるコニスも同じく、自分のグラスに酒を注ぎ、くいっと煽った。
「その話題の子はねえ、あんなに小さいのよっく働くんだよ。
あの子の手を見て解ったんだ。
切り傷に火傷跡があったよ。普通の働き者の手だよ。
あれは、大神殿で傅かれている巫女姫なんかじゃないね。
実際、なかなかの仕事っぷりだったよ」
ぷはっと息を旨そうに吐きながら、口をぐいっと袖口で拭く。
何処かの親父のような飲みっぷりだ。
「ああ、あの大賭けの対象者って、そんな子供なのかい。
働き者って、まじかよ。オレ失敗したなあ」」
本屋の親父も同じジョッキから酒を注ぎながら、何の気なしに愚痴をこぼす。
「私が思うにさ、あの子は将来有望さ。
小さくて可愛いのに度胸が座っていて、なかなか大したもんだったよ。
その上、大雨の予知をしたんだろ? 凄いじゃないか。大した大物だよ。
ウチの馬鹿亭主がつぎこんだ大穴が、
もしかして化けるんじゃないかと思うんだよ」
酒に弱い鎖屋の親父が、ちびちびと酒をすすりながら呟く。
「へえ、そうかあ。俺も大穴に掛けときゃよかったぜ。
でもさ、その子、もしかして神殿の巫女候補てことなんじゃねえのか。
だって、砂の一族なんだろ。
巫女になっちまったら使用人じゃあねえじゃねえか。
そうしたら、大穴にも小穴にもかすりもしねえ。
つまり、無効ってことにならねえか」
二日ないし三日に掛けた男たちがうんうんと頷いていた。
だが、コニスはふんっと鼻息荒く言い放った。
「何言ってんだい、神殿や砂の一族が力のある巫女候補を手放すはずないだろ。
雨を呼んだんじゃなくて、ただ単に当てただけじゃないのかい。
それだって十分凄いことだけどさ」
カウンターのイルミ婆さんがぼそっと話す。
イルミ婆さんの旦那は砂の一族だ。
「こんなとこにいるってことは、砂の一族の占い師か何かじゃないのかい。
大神殿の雨よびの巫女だって、元は砂の一族の占い師の血筋じゃないか」
装飾屋の親父の座るテーブルには飲むスピードが速すぎのメンバーばかりで、
もうすでにジョッキは空だ。
それで、隣りのジョッキから素早く酒を注いで、怒られる前にコニスの話題に乗った。
「それならその子は占い師なのか?」
食材市場で働く男が、装飾屋のジョッキを奪い取って一気にその酒を煽った。
そこで一瞬だが、男たちの間で喧嘩が起こりそうな雰囲気が流れた。
だが、いつの間にかコニスの旦那が、
そっと全員の机の上に新しいジョッキを置いて空のジョッキを下げて行った。
相変わらず存在感の薄い男だと一瞬思うが、
酔っ払いにその一瞬を覚えていられるはずもない。
彼等は、酒があるのなら問題ないと気を取り直して、
元の話題に戻ることにした。
「で、どこまで話したんだっけ?」
「えーと、そうそう、あの子が巫女じゃなくて、
えーと、占い師かもしれねえってことだろ」
コニスの隣にいた本屋の女主人が、酒のつまみをぱくぱくとカウンターで食べながら、
昔を思い出すように呟いた。
「私が知ってる砂の一族の占いは半刻も早く天気をあてたなんてなかったから、
もしかしてその子は、もっと強い占い師なのかもしれないね」
賢者の塔でいつもは警備の仕事についているショーが話に加わった。
が、すでに酒にかなり飲まれている。
正気の部分が残っているかどうか疑問である。
「占い師かあ~ まじないとかもするのかな?」
ショーの横で同じように潰れかけている若い男は、
同じく賢者の塔の警備員をしていたサームである。
二人してこの店で長い時間飲んでいたようである。
おそらく雨が降る前からここにいて、店じまいの手伝いに駆り出されたのだろう。
その顔がかなり赤い。
この中で一番の古株のイルミ婆さんが、
昔を懐かしむみたいにカウンター席で一人話し始めた。
ちなみに、目の前にはすでに五本の空のジョッキが倒れている。
「するだろうね。
ヤト爺の妹は、あの大神殿の雨よびの巫女だよ。
あの方も大神殿に入る前は呪いを頻繁にしたもんだよ。
的中率もよくてさあ。特に、恋愛関係や失せ物探しはぴか一だったね」
イルミ婆さんは砂の一族と縁故関係がある人間だ。
現に彼女の息子は全て砂の一族でこの国には年に数回しか返ってこない。
金物屋の若い男が思い出したように手の平を叩いた。
「あ、そういえば。
ヤト爺、40も年下の新しい奥さんもらったって自慢してた」
その台詞に全員が目を剥いた。
「それだよ、それ。 多分、あの子、そういう子なんだよ」
イルミ婆さんが、いかにもとばかりに追い打ちをかける。
彼女は6つ目のジョッキを空にしていた。
「俺、明日、早速頼みに行こうかな、気になる子がいるんだよ」
「おい、誰だよそれ、ウチの妹じゃあねえよな」
「俺んとこの娘に色目を付ける気か、こらああ、表に出ろ!」
ざわざわと各自酔いながら勝手な妄想を作り上げる。
まったく、酔っ払いとは勝手な者である。
気が付けば、メイは稀代の占い師、
それも恋愛関連や失せ物探しに特化した占い師に仕立て上げられていた。
全く、暴走する噂と言うものは止める人間が居なければどこまでも暴走する。
そして、この町には良識ある人間の良識具合がとても低い。
酔っ払いの記憶を元に広まる噂。 本当に恐ろしい物である。
********
その頃のメイは、洗濯物も無事に取り込めて夕食も無事に作り、
一日の業務を無事終えた事にほくそ笑んでいた。
明るい気分の鼻歌すら出ていた。
今日は一日よく働いた。
これならば、何とかなりそうだと少しだけほっとしていた。
お風呂替わりのシャワーも浴びて、さあ寝るか意気揚々に部屋の扉を開けた。
「随分、遅かったのね」
誰もいないはずのメイの使用人部屋に、女の子が居た。
メイは、反射的に扉をパタリと閉めてしまった。




