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箱をあけよう  作者: ひろりん
西大陸砂の国編
201/240

閑話:小さな恋の昔話。

メイは出てきません。

マサラティ老師の子供時代です。

ゆらゆらと長く伸びた草が風で揺れる。

青々とした草地を飛び越える様に、バッタに似た昆虫がピョンピョンと跳ねる。


白を混ぜ込んだような薄青色の空に浮かぶ真っ白な雲。

漂白されたような空の青は、いつもに増して高く高く感じる。


目の前には気持ち良い丘と、美しい大神殿を見下ろす景色。

真っ白な大神殿の屋根が、光に反射してきらきらと輝いていた。


ざあっと涼しげな風が、辺り一帯を走り抜けた。

緑と土の香りが一気に巻き込まれて空中に散らされる。

足早に通り過ぎる風に流されるように、空に浮かぶ雲がその形を変えた。


「ねえ、ねえ。見て、ヨシュア」


幼い口調に、柔らかい舌足らずな甘えた声質。

甘いお菓子を何段にも積み重ねたような可愛い声が聞こえてくる。

真っ赤なリボンが耳上で左右に揺れた。

大きすぎる赤いリボンに、ピンクのフリルの服を着た小さな女の子。

一般的にドレスと呼ばれるその恰好から推測するに、

彼女の家はかなりいいとこの階層だろう。


だが、汚れやすいベビーピンクのドレスに頓着することもせず、

少女は草原をごろごろと転がり、土と草の汚れがくっきりと染まっていた。


少女が興奮で頭を振るたびに、ピンクがかったブロンドの髪が、

先程見たバッタのようにピョンピョンと跳ねていた。


「ねえ、見てったら。起きてよ、ヨシュア。

 あの真っ白な雲って、美味しそうだと思わない?」


少女は一等大きな空の雲を指さして、ヨシュアと呼ばれた目の前の少年を、

キラキラした目で見つめた。

眠っていたかのように見えて、実は起きていた少年の目がゆるりと開く。


「あれは……そうだね、ふわふわしてて美味しそうだ。

 でもあの雲は、君が食べるには大きすぎないかい、アマーリエ」


ヨシュアは、大きく背を伸ばした。

ヨシュアの声は、男性にしては高めのハスキーボイス。

その落ち着いた口調から大人の男性を連想させるが、

低くない少年のような声質がガラガラとしゃがれた声にまだ残る。

明らかに変声期直前の少年の声のだ。


少女より頭二つ程背の高い薄い茶色の髪の少年。

汚れが目立たないカーキー色の半袖半ズボン。

明らかに安物と解る服を着た、どこにでもいる下町の少年の恰好だ。

半袖から見えている腕は、少年特有の細さで筋肉の厚みが全くない。



二人の子供が、丘の上の草原に転がって楽しそうに空を見上げていた。

天気の良い昼間なのに、ここには子供二人しかいなかった。


「あら、私だけが食べるなんて言ってないわ。

 貴方も、おかみさんも、先生も、ばあやも皆で食べるの。

美味しかったら、貴方の故郷に送ってあげてもいいわね。

 だから、大きければ大きい程嬉しいに決まってるじゃない」


アマーリエと呼ばれた少女は、気分を害したように頬を膨らます。

そして、大きな蜂蜜色の瞳でヨシュアの黒に近い茶の瞳を見つめた。

アマーリエの瞳に自分の顔が映っているのが嬉しくなって、

ヨシュアは自然と顔が緩んだ。


「僕の故郷? いいよそんなの。遠すぎるからね。

 それよりも、僕もあれを食べるのかい?」


「そんなの決まってるじゃない。

 ヨシュアにはとっておきの一番美味しいところを分けてあげる。

 きっと、ふわふわで、口に入ると溶けてしまう様な甘い甘い味なの。

 だからヨシュア、あれ捕まえて頂戴。

 ええっと待って、あれじゃなくて、うーんと、こっちがいいわ。

 さっきのより白くて大きそうだから」


アマーリエは、空の雲を指さしながら、真剣な顔で雲を吟味し始めた。

白い頬にうっすらと赤みが浮かび、それがたとえようもなく愛らしい。

ヨシュアがアマーリエの頬に手を伸ばそうとして、

唐突にくるりと振り向いたアマーリエの視線に固まった。


「いい? 美味しい内に捕まえてね。 あの雲は、多分とっても甘いの。

 今まで食べたことが無いくらいに甘くて、頬が蕩けそうになるはずよ。

 だから、私、ヨシュアの好きなナッツのケーキを焼くわ。

 その上に、あの雲で作った甘ーいシロップを掛けるの。

 ねえ、素敵だと思わない?」


アマーリエの声は興奮で弾み、その瞳は一転してヨシュアから離れ、

再度、美しい夢を見る様にうっとりと空を見上げていた。


ヨシュアは、伸ばしたまま固まっていた手を引っ込めて、

手を自分の頭の下敷きにして、アマーリエの視線の先の雲を同じように見上げた。


「美味しいうちに捕まえるか、君は簡単に言うね、アマーリエ。

 空に浮かんでいる雲を捕まえるには、鳥の様に空を飛べなきゃ駄目だろう。

 でも、僕達には羽根が無いから空は飛べない。

 だから、捕まえるのは難しいと思うよ。

 でもさ、そもそも、空に浮かんでいる雲が甘いとは限らないだろう」


アマーリエは、寝ころんだままで小さな唇を拗ねたように窄めた。


「先生と同じことをヨシュアも言うのね。 先生なんか酷いのよ。

 あの雲は辛くて酸っぱくて絶対に不味いから、捕まえる必要なしだって。

 でもね、先生は捕まえたことがあるのって聞いたら、

 捕まえなくても知っているって言うの。」


「そうだろうね。

 今までに雲を捕まえたことのある人なんて、

 世界中のどこを探してもいないはずだよ」


突然、アマーリエが勢いよく上半身を起こして、

ヨシュアに覆いかぶさるように身を寄せる。


「そうよね。誰も捕まえたことないなら、どうして酸っぱいと解るのよ。

 甘いかもしれないじゃない。

 甘くて皆が欲しがるから、あんな手の届かない高いところに浮かんでいるのよ。

 絶対にそうに決まっているわ」


太陽の光が逆光になってアマーリエの顔が陰になる。

ヨシュアは目を細めながら、アマーリエの影を見つめた。


「そうだね、アマーリエの言うとおりかもしれないね」


「でしょう。 だから、ヨシュア、捕まえて頂戴。

 ヨシュアなら絶対に捕まえられるわ。

 だって、ヨシュアは天才だもの」


アマーリエの体が、ヨシュアの体に沿うようにそっと横に横たわった。

小さな白い手がヨシュアの左胸の上にそっと乗せられる。

暖かい体温が、風でやや冷たくなった肌を、

心臓をじわりじわりとと暖めていく。


「……そうだね。いつか捕まえられるかもしれない」


ヨシュアは自身の手をアマーリエの手に重ねた。


「きっとよ、ヨシュア。 貴方なら絶対に出来るわ。

 絶対に捕まえてね。 そうしたら、私はここに、貴方と一緒に居れる。

 大好きよ、ヨシュア。ずっと昔からずっと好き。   

 だから私は、ヨシュアを信じてる」


笑っていたはずのアマーリエの顔がくしゃりと歪む。

アマーリエの目じりには大きな涙がじわっと浮かび、

そのままその頬を伝って流れおちた。


ヨシュアの顔も悲しげに歪んだ。


「僕もだ。アマーリエ。

 僕もずっと君のことが大好きだ。

 だから、待っていて」


ヨシュアの答えにアマーリエが泣きながら笑う。


「うふふ、ねえ、ヨシュア。

 私、今、とても幸せ。

 幸せで幸せで、もう何も怖くない。

 貴方が約束をくれたから。

 あのね、ずっと、ずうっと、待ってるわ。

 大人になっても、お婆さんになっても、ずううううっとよ。」


アマーリエは目を瞑ったまま涙を流しながら笑う。

その声は次第に小さく消え入る様になったが、

ヨシュアにはきちんと聞こえた。


「ああ、約束だ」


胸に置かれた手は本当に暖かく、アマーリエの絶対の信頼を感じさせてくれる。

ヨシュアは、彼女が信じてくれる今なら、

どんなことでも自分は出来そうな気がした。


「そうだな、まずは分析だな。あれはどうやって作られているんだろう。

 そもそも、成分はなんだろうか。どうやって空に浮かんでいるんだ?」


ヨシュアは何かを考えはじめたようで、ぶつぶつと独り言を呟き始めた。

小さなアマーリエの瞳は固く閉じられ、

気が付けば穏やかな寝息が聞こえてきた。


「どこかに雲についての文献が無かっただろうか」


ヨシュアの頭に、数式と解析論がいくつか浮かび上がっては消える。

頭の中が高速で回転するように何かが浮かんでは消えを繰り返す。

こうした現象はヨシュアにとって閃きを得る為になじみ深い。

彼が閃きを得た時、それは世界の誰も考えたことのない何かが生まれるのだ。

高速で回転する思考は彼が彼である所以、

つまり、彼が幼いながらも天才と呼ばれる理由でもあった。


ヒュウっと一陣の冷たい風がアマーリエの頬を撫でた。

その風に呼応するように彼女の瞼がばちりと開いた。


「……雨が、雨が降るわ」


小さく呟かれた言葉に、ヨシュアが眉を顰める。


「雨? こんなにいい天気なのに?」


むくりと起き上がったアマーリエの瞳には、先ほどまでの無邪気な彼女の意識は見えない。

人形の様な硬い表情に全く動かない瞳孔。

アマーリエ本人であれば、絶対にしないその表情。


何をどう言っていいのか戸惑っているヨシュアを邪魔するように、

気配のなかった背後から大人の男性の声がかけられた。


「ヨシュア、歓談中かとは思われますが、失礼しますよ。

 アマーリエ様、言霊を受けられましたか?」


全身真っ白なローブで覆われた神官服の男だ。

背が高く、細見の体躯に似合う薄茶の長髪。

細面のその顔は造作が美しく品があり、聖母の様な優しげな顔をしている。

知に優れ、一見穏やかで、神官になるべくして生まれた男とまで言われた人である。


彼のその顔に騙されて多くの貴族や金持ちが我先にと競って神殿の寄進を行う。

彼が説法を行う月に一度の下弦の月の日は、行列が出来るほどである。


だが、彼の裏の顔はなかなか苛烈であり、無能低俗な忌避すべき輩には、

氷の侮蔑に満ちた視線と毒吐きともとれる口の悪さが浴びせられる。

そして、意外かもしれないが、彼は喧嘩慣れしており、

たまに神殿で暴れる無法人達をものともしない強さを持つ。


彼は、大神殿の次期神官長と噂されるほど有能だ。

当然のごとくに多くの人間が彼に群がるが、

彼は笑顔でバッサリ毒を吐き相手を黙らせた挙句に、

興味のない人間には一瞥もくれない性格をしている。


そんな彼が心から優しく振る舞うのは、

目の前の彼の庇護すべき少女、アマーリエが関わった時のみだ。


アマーリエの声を硬く硬質にした声が、はっきりと言葉を紡いだ。


「……雨がくる。 もうじき、大きな雨が」


アマーリエの瞳が空に向けられる。

白い雲が浮かぶ変哲もない平和そのものの空。


「では、大神殿へまいりましょう」


男は細く見えるその体躯からは考えられるほど簡単にアマーリエを抱き上げた。

ヨシュアを見おろしながら、彼はアマーリエの代わりに別れを告げた。


「ヨシュア、アマーリエ様はこのまま大神殿に入られます。

 もう、貴方とこのようにしてお会いすることは叶わないでしょう。

 貴方にとっては悲しいことかもしれませんが、

 彼女の能力は多くの人々を救う為、なくてはならぬ力なのです。

 彼女も了承しています。 ですから、解ってあげてください」


見上げた先にあるアマーリエの顔には何の感情も見つけられない。

今までに何度もその目で見た。

託宣を受けた巫女の顔だ。

アマーリエであって、アマーリエでない存在。


今のヨシュアでは決して手の届かない、

いや、手を伸ばしてはいけない存在だ。


「……ああ、解っている。

 彼女に伝えてくれ。僕は絶対に約束を守ると」


男はヨシュアに向かって微笑、軽く会釈して踵を返した。

その足の向かう先には、大神殿の高位神官のみが使う馬車があった。


馬車に二人が乗り込んですぐに馬車が走り出した。

走っていく馬車を目で追いかけていたら、

大神殿の真上の空、雲の形と色が変わりかけていた。


風向きが逆に吹き始め、暖かな南風は一転して西風に変わる。

目に見えた黒い雲は東にゆっくりと移動していた。

移動しながら、その規模をどんどんと大きくしていくように見えた。


「雨呼びの巫女か、そんなものに縋らなくてもいいようにしてやる。

 待っていろ、アマーリエ、いつか必ず僕が見つける」 



呟き続けるヨシュアを邪魔するように、冷たい風が頬を髪を強く吹き上げる。

先程まであったアマーリエの温みが手から消えていく。


先程の無邪気なアマーリエの寝顔と泣き笑いの愛しい顔を思い出して、

記憶のなかで額にそっと口付けた。


「約束するよ。僕のお姫様。

 君が信じていてくれる限り僕は何でも出来る」


ヨシュアは、甘く蕩ける様な瞳で記憶の中のアマーリエを反芻した後、

厳しい瞳で空を見上げ手を上に伸ばした。


「いつか絶対に捕まえる」


伸ばした手の先には、先ほどアマーリエが指さした雲よりも、

少し小さ目な雲が取り残された羽陽に浮かんでいた。

雲は、ぷかりぷかりと空の上で緩やかに、ただ浮かんでいた。

それが、彼自身の様にも思えて少しだけ泣きたくなった。



**********


ヨシュア・アルデマンド・マサラティ

後にマッカラ国の宰相に養子に迎えられマサラティの名を受け継ぐ。

稀代の天才にして神をも驚かす研究者として世界に知られるようになる。

彼の考案したゼンマイ仕掛けの数々の作品や、水圧を利用したポンプ、

からくり時計や自動昇降機などなどは、世界中からも高い評価をうけている。

マッカラ王国賢者の塔の代表者であり、王国の最高政治顧問でもある、

王国の頭脳と呼ばれる重鎮である。


アマーリエ・シューブル・デルフォイ

12歳で大神殿の雨よびの巫女として迎えられ、稀代の巫女姫の名声を知らしめた。

齢14で民を救う為、干ばつに苦しむ隣国の王の側室として迎えられ、

後に次代の王を産み落とす。

夫である王が死去後、20にして神殿に戻り、神殿の神官や巫女の育成に力を入れ、

大神殿の慈愛にして神に愛されし巫女として大神殿の奥殿で力を発揮する。



彼等の約束はいまだ果たされていない。




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