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箱をあけよう  作者: ひろりん
西大陸砂の国編
198/240

お仕事を始めましょう。

新しい登場人物が出てきます。

どれも結果としてチョイ役ですが、意外に私は気に入ってます。

「おい、書庫の棚に埃が溜まってるぞ。

 大事な本が傷んだらどうするんだ。さっさと掃除しろ」


「おい、研究室の窓と机の上を磨いておけ」


「おい、塩購入の際にこの紙に書いてある物も買ってこい。

 ああ、言っておくが余分な物は一切買ってくるな」


「おい、ランプの火屋が汚れて暗い。

 今日の夜までにすべての火屋を磨いておけ。サボるな」


「おい、このガラスの器を顔が見えるくらいに綺麗に磨いておけ。

 明日の実験に使うのだから、傷をつけるな、決して割るな」


「おい、各部屋すべての掃除を今日中にしろ。

 チリひとつ残すな」


朝からずっと老師様はこんな感じです。


言われる相手はもちろん私です。


おい、おい、おい、おい、おいって、こんなに呼びつけられたら、

私自身ですら私の名前はオイだったかしらと錯覚しそうです。


今更、私の名前はオイではなくメイですと言ったところで、

老師様はもちろん聞いてないどころか、覚える気もないのだろう。


多分、昨日私に便宜的につけた呼び名すら忘れているのかもしれない。

まあ、老師様が一体何歳か解らないが老人に限らず人と言うのは、

よく物事を忘れがちだ。 私だって自慢ではないが記憶力には全く自信が無い。

だが、一般的には特に老人に対してその頻度が高いのは自然の流れと言うものだ。


だから、たとえ忘れられたとしても特に気にしません。

いえ、どちらかと言えば忘れていただいてメイという名前で、

再度定着して頂いた方がいいのではないでしょうか。


マールってこちらでは百と言う意味かもしれないが、オを前に付けたらオマールだ。

その言葉って、何かに似ているような気がひしひしとしますよね。

エビの仲間だよねって言いきれないくらいに微妙な名前だと思うわけですよ。


「おい、聞いているのか。マール!

 おい、解ったら返事をしろ! マール!」


……憶えていたようです。

残念です。老師様にとってはマールが覚えやすいのでしょう。

なにしろ昨日そう主張してあだ名を勝手につけられましたからね。


「はい、聞いております。老師様」


老師様にいろいろと文句を言いたい気持ちは満載にあるのですが、

西大陸の言葉でなんていうのか解らない。

こういう時は、語学力のハンデが高い壁となって立ちはだかります。

こんなことなら、捨て台詞の一つや二つや三つ、ヤトお爺ちゃんに聞いておくのだった。


しかしよく考えたら、曲がりなりにも相手は一応雇用主という立場。

初日から怒らせるわけにはいきませんよね。


あ、そう考えたら、悪鬼雑言、いや、捨て台詞を知らないと言うことは、

思いの外いいことなのかもしれない。

だって、知らないかったら口から出ないものね。うん。


そう考えて黙って納得していたら、老師様がぽつりと言った。


「まさかこれしきの仕事が出来んと泣き言は言わんだろうな」


老師様はぎろりと睨んでます。

なんだか、言葉や態度に棘がある気がします。

何でしょうね。 老師様は朝からずっと機嫌が悪いみたいです。

ものすごい低血圧だとか。 

もしそうなら低血圧老人向けの食事を考えた方がいいのかもしれません。

市場で聞いたら誰か教えてくれるだろうか。


「はい。頑張ります。老師様」


とりあえず言われたことを忘れない様に、何度も頭の中で復唱しました。

全部、今日中に終わるのだろうか。

いや、ここで弱気を見せたら即解雇かもしれません。


大丈夫ですの意味合いを兼ねて、にっこり笑いました。

秘儀マーサさん直伝の笑って誤魔化せテクニックです。


「なんじゃ、気持ち悪い。ニタニタと可笑しな顔をするな」


……基が違うと効果は全く期待できないようです。



**********




さて、その全く口の減らない老師様は、

先程、早々と出勤してきたカナンさんとヤトお爺ちゃんに襟首を掴まれ、

捕縛された猫の子のように暴れながらも、カナンさんの仕事部屋に連行されました。



あ、ちなみに実際に襟首を掴んでいたのはヤトお爺ちゃんです。

ヤトお爺ちゃんは老師様よりもずっと背が小さいのに、

老師様をひょいっと背中から抱える様にして襟首を持ち上げるんです。


砂漠でカナンさんを楽々抱え上げた時に解っていましたが、

ヤトお爺ちゃんは大変力持ちです。

ベンチプレスだと王者級かもしれません。


当初、いつもより早く出勤してきたであろうカナンさんは、

次々と増えていく私の仕事を手伝おうと手を出してくれたのですが、

老師様の投げた一言と、カナンさんのお帰りを待っていた、

沢山の人達の突然の来訪のお蔭で私の手伝いなど出来なくなってしまいました。




「カナン、悠長にマールを手伝う暇なんぞお前にあるのか。

 お前の部屋に山積している物体をみてから言え。

 もうじきお前の帰国を聞きつけた行政官の何人かが押しかけて来るはずだ」


「は?」


カナンさんが首を傾げていると、入り口のドアが勢いよくバンっと開きました。


「お早うございます。カナン先生。

 やっと、やっとお帰りになってくれたのですねぇえええ。

 本当に、ええ本当に、僕は、この日が来るのを指折り数えておりました。

 思い起こせば幾久し。滂沱の涙が流れました。

 貴方が居なくなった日から我々は日々涙にくれていました。

 すべての決済が滞り、耐えきれずに老師に詰め寄る為に押しかけては、

 知らぬ存ぜぬでのらりくらりと言い逃れられ、

 力押しで連れて行こうと仲間を募れば、怪我人が続出し、

 更に言い負かされた揚句に実験の手伝いと称して切り刻まれそうになったり、

 貴方が居なくなってからの我々は幽鬼と化しておりました。

 上には文句を言われ、下からは突きあげられ、毎日胃がきりきりと痛み、

 仕事は徹夜でやっても終わらず、毎日夜明けの太陽をみる生活。

 仲間内には過労のあまり血を吐く者も続出したのです」


突然嵐の様にやってきてカナンさんを見つけるや否や、

服を掴んで泣き始めた男の人。

細すぎる体躯に、頬のこけた真っ黒の隈を目の下に飼う男の人。

白すぎる皮膚の色、ゆらゆらと重心が定まらない様な歩き方も、

まさに幽霊と間違えるばかり。


人間だと判別出来たのは、ぼろぼろと零れ落ちる大粒の涙のお蔭です。

それに、息も絶え絶えとばかりに肩を震わせて呼吸荒く憤っている。

顔の半分をしめている黒縁の大きなメガネの中は、涙の洪水。

正に涙で溢れんばかりになっている。


「ヤードルさん、落ち着いてください。

 老師、貴方は彼等に一体何をしたんです。

 彼、ものすごくやつれているではないですか」


必死にしがみ付いてくるヤードルさんとやらを受け止めたカナンさんは、

老師に向かって疲れた様なため息を吐いた。


「ワシは何もしとらん。

 何もせんから、そんなにもやつれておるのだ。

 それくらいお前だってわかろうに。

 お前何年ワシの助手をしておるのだ」


それに対して、まさに胸を張るごとくに堂々と宣言する老師様。

ある意味、潔いというべきだろうか。


「はあ、そうですよね。 貴方はそういう人でした。

 老師様、貴方の言葉を額面通りに受け取った私が愚かでした。

 さあ、ヤードルさん、まずは急ぎの仕事だけを片付けますので、

 選り分けるのを手伝っていただけますか?」


ヤードルは、涙にぬれた頬をぐいっと袖口で拭いて、

首が取れるのではないかと思えるくらいに激しく何度も頷いた。


「はい。はい。もちろんですとも。

 カナン先生、これで、やっと我々は地獄から解放されます」


全身から嬉しいオーラを満載に発揮し、

目を輝かせて大袈裟なくらいに喜んでいるが、

ヤードルの手はカナンの服の裾を決して離さない。

決して逃すものかとの意気込みが、その握りしめた拳から感じた。


私がいきなりのことに目を瞬いていたのに気が付いたのでしょう。

カナンさんが私の方を向いて少し眉を寄せました。


「メイさん、すいません。

 今日は貴方のお手伝いが出来なさそうです。

 老師が先程までおっしゃっていた仕事は、追々に片付ければいいですので、

 決して無理はしないでくださいね。

 あ、でも、市場への買い物へ行くのは女性一人だと不用心ですし、

 それは私が一緒に……」


「カナン先生、何をおっしゃっているのです。

 貴方に一時でも居なくなられたら、我々の風前の灯と化した命さえも消えていきます。

 今日一日、いえ、仕事がすべて終わるまでは、決して僕は放しませんよ。

 大体、私だけではないんですよ。 貴方を待っていたのは」


その言葉が終わらないうちに、再度入り口の扉が大きく開かれる。


「やあ、カナン先生、やっとお帰りになられたのたね。

 先日頼んだ区画整理の図面と図解をお願いしているのですが、

 まだ出来上がってきていないのです。

 その為、我が部署の仕事がかなり滞っておりましてね。

 こちらを先にしていただけますか?」


完全逆三角形型に見える大袈裟な肩パットの入った服を着た

三角おむすびの様な顔の男が無遠慮にどかどかと現れた。

頭上についているのは海苔ではなくちょぼちょぼな金の髪

着ている服は、贅沢レースにふちどりされた贅沢なロココな一品。


この国の服は一般的に男性はカフタン様式の体の体型が解らないもの。

男性は、丈が長かったり短かったりするのを着ていることは確かだが、

どちらもゆったりしていて、基本長袖だ。

襟ぐりや袖口に刺繍や装飾などがちょっとしたお洒落なんだと思う。

ちなみにカナンさんや老師様の服の装飾の類は、目立たない同色の刺繍だけだ。


カフタンの衣装に肩パット。

なんだかなって思うくらいに残念な仕上がりだ。

それともこれがこの国の流行なのだろうか。


いきなり入ってきた如何にも御貴族様風なおでんの田楽の様な男は、

気取ったように前髪を指で払い、小指をぴんっと立てた。


「ナヴァド様、ずるいですよ。

 順番は守ると決めたじゃないですか。

 先日何度も話し合って決めた通り、僕の案件が先です」


涙で曇ったメガネを拭きながらも、

ヤードルさんはカナンさんの服を離さない。


「ああ、そうだったね。

 でも、君の急ぎの案件が滞っているように、

 私の所も酷い物なのさ。王からも急げと厳命を頂いているだけに、

 君との約束を少しは譲歩できないかとこうして頼みに来たのさ。

 まず、君の所の急ぎだけ先にしていただいて、

 その後、速やかに私の案件に取り掛かっていただこうと参上したのさ」


田楽男はおにぎり頭を小さく左右に振りながら、

これ見よがしなシナをつくり、無駄な流し目をヤードルさんに送った。

先程の気障な仕草といい、このシナといい、こうも似合わないと可哀想になる。

似合っていないと誰も言ってくれなかったのだろうか。



それはさておき、この貴族様の言うことは、はっきりって横入り。

本来なら断固と断っていいと思う。

だが、このヤードルさんは人がいいというのか、なんというか。


「そ、そうなんですか。

 そちらも大変なのですね。

 では、こちらの急ぎだけを選り分けてカナン先生にお願いして、

 それが終われば、貴方の番と言うことでよろしいでしょうか」


うん、ヤードルさん、いい人だ。

いい人すぎて損をする典型的な人だ。

いつか絶対に胃に穴が開くに違いない。


「おお、流石我が心の友よ。

 君は本当に素晴らしいよ。

 では、カナン先生、彼の案件の次は私の案件ということで」


いつの間にか、更に順番が早くなっている。

ナヴァドさん、変で可笑しいおにぎり田楽なのに、

実は押しが強くて意外に優秀なのかもしれない。


そこへ、更に扉が開いた。


「ちょっと待った! ナヴァドの前に、私の案件が先でしょうか。

 先日、ちゃんと約束したわよね!」


明らかに男性服と思われる長衣のカフタンを黒い帯で腰をきっちり締め、

同色ズボンを着こんだ美女が突然やってきた。

金髪碧眼の典型的なハリウッド女優のような美女だ。

その上、ボンキュボンの最初のボンは確実なくらいに実に豊満だ。

腰には無骨な偃月刀のような刀を下げ、腰帯りには短刀が差し込まれている。


彼女は肩までの緩やかな天然パーマな髪を乱暴に掻き揚げながら、

つかつかと二人に駆け寄ってきた。


「おや、ファーミーア女史、お早うございます。

 今日も貴方は太陽のごとくに美しい」


おにぎり田楽男は、眉に掛かるかかからないかの短い髪を、

先ほどと同じように指ではじいた。


あの仕草がかっこいいと思っているのだろうか。

いや、確かに美形がするとある意味似合ってカッコいいのかもしれないが、

彼がおにぎり田楽である以上、無理な相談な気がします。


「ナヴァド、お前は私を太陽の様に暑苦しい女だと言いたいわけだな。

 おのれ、そこに直れ! 

 今日こそは、その鬱陶しい前髪を切り払い禿にしてくれる!」


いきなり怒り始めた美女はすらりと腰に挟んであった短刀を抜いて怒鳴った。


「ま、待ってください。ファーミーア様。

 そんな物騒な物を振り回すなど、言語道断です」


慌てて二人の間に入り止めに入るヤードルさんの首筋に短刀の刃が当てられた。


「ヤードル。お前、言語道断だと。

 この私が、言葉に出来ぬほどに野蛮で物騒で猛々しいという意味合いか。

 お前もそこに直れ!見事に禿にして、刀の錆びにしてくれるわ。

 そして、二人して墓の下で永遠に私に詫びろ!」


うわああ。刃傷沙汰です。

それにしても美女がすごむと大変な迫力だ。

しかし、この美女はまさかの禿愛好家なのだろうか。


ヤードルさんは、その迫力に返す言葉もなく、またもや涙を浮かべて、

光る刀の刃を前にガタガタと震えていた。


「ミーア、貴方はどうしてそうなるんです。

 そのいちいち勘違いして武器を抜く癖を止めてください」


カナンさんが美女相手に、はあっと小さなため息をついた。

ミーアと呼ばれた美女は、一瞬で我に返り、

短刀を鞘に、そして腰帯にさっさと納めてにっこり微笑んだ。


「カナン、お帰りなさい。

 貴方が居なくて本当に、本当に寂しかったわ。

 ええ、もうこの胸が張り裂けそうなくらいに。

 あ、ナヴァドよりも私の案件が先だから。そこは間違えない様に!」


美女は豊満な胸を震わせながら、カナンさんの肩をポンとたたいた。

その親しげな感じから、もしかしてカナンさんの彼女さんなのかもしれない。

なんとなくわくわくするような、そんな予測を立ててみた。


そうすると、私の考えを見透かしたようにカナンさんがくるっとこちらを向いた。


「ファーミーア女史は、彼等と同じ王城の執政官の一人です。

 私とはなんの関係もありませんよ。ええ、これっぽっちもありません。

 というか、まずもってあり得ませんからね」


あら、違ったの。

カナンさんと美女さん、結構お似合いだと思うのだけど、残念です。


この三人を筆頭に、次から次へとカナンさんを尋ねて人が来られました。

カナンさんは、全員の話を簡単に聞いたのち、

この三人以外の人には明日来るようにと言い渡して、

嫌がる老師様をヤトお爺ちゃんがワシ掴みにし担ぎ上げ、

あっという間に部屋に篭ってしまいました。


「カナン、ええい、離せ! 

 お前、ヤトを味方につけるなど卑怯ではないか!

 ワシは気が向かんと言ったら気が向かんのだ」


老師様が何やら文句を言っていましたが、にこやかに笑ったカナンさんは全て一蹴。


「さあ、老師様。お仕事の時間です。

 私の尊敬する老師様なら、こんな仕事は片手間に片づけられるはずですよね」


ヤトさんの助けもあって、暴れる老師様を、

見事にお部屋に連れて行ってしまいました。


「メイさん、本日の昼食は出前を頼んでありますので、

 とりあえず簡単な掃除などをお願いします。

 後で、手が空いたところで一緒に店を回りましょう。

 何かあったらいつでもこの部屋にいらしてください」


にっこり笑って私を気遣う一言。

ああ、カナンさんは本当にいい人だ。

先程の老師様の剣幕を見ていただけに、有難味が大層増す気がした。


私は、カナンさんの背中に向かって思わず手を合わせてしまいした。

有難うございます、カナンさん。


「ええい、尊敬しておると言いながら、なんだこれは。

 この縄を解け! ワシはもう研究以外はせん!」


「相変わらず、往生際が悪いのう。かっかっかっ」


「老師様、お願いですからこちらを確認してください~

 これは先月決まった水路事業の山林伐採拡張事業の基礎工事の概算見積もりなのですが……」

 


一枚の扉の向こうからは、老師様の怒鳴り声と、ヤトお爺ちゃんの笑い声、

執政官の皆様の声が聞こえてきます。

言っていることは難しい言葉ばかり。さっぱりわかりません。

ですが、大変なお仕事をされているのでしょう。

ここはなるべく邪魔をしないようにしたいと思います。



********



さて、誰も居なくなったので気持ちを切り替えて、まずは後片付けですね。

昼食は用意があるとカナンさんが言っていたので、

とりあえず、昼食の用意は考えない形で仕事を進めようと思います。


袖が濡れないように腕まくりして、束子を掴んで食器を洗います。

ふやかしていた石鹸がいい感じに柔らかくなっていて、いい感じに泡が立つ。

モコモコ泡が、まるでマシュマロの様ですよ。


食器を片づけたら、先程頼まれたガラスの器にも石鹸の泡を入れます。

ガラスの器といっても、楕円形の比較的大きなガラスの水槽。

縦横は畳一畳程、深さは30cmくらい。

汚れてなければ巨大な金魚鉢。鯉も泳げそうな大きさだ。


楕円形のガラスの器は、水垢と言うのか水苔というのか、

ともかく全面にミルクの飲んだ後のような真っ白な汚れがびっしり。

ガラスと言うのは、基本透けている物だと思いますが、

これはすりガラスどころが、中に入れた泡の姿すら外から見えない。


バケツの水を水槽に溜めて、石鹸の泡と一緒に汚れを削いでいきます。

傷がつくといけないので、束子でなく布巾で泡をこすり付ける様に洗うが、

水垢は頑固なまでに落ちない。

いつから洗っていないのだと聞きたくなるほどの酷い汚れだ。


ここで登場するのが、棚の中にあったいつの物かわからない調味料。

匂った感じはお酢です。

この国にはお米があるのだから、匂いからしてみてもおそらくこれは米酢です。

しかし、舐めてみると異常な程酸っぱい。お酢の原液だろう。

酢の原液を水で1/3ほど薄め、それをガラスの器に入れて、

全体に万遍なく付く様にまわします。


あらかたお酢が全体にいきわたったら、今度はお酢につけた布巾で万遍なく拭きます。


しばらくしたら、水垢の塊がずるりと剥がれる様に取れました。

水垢の塊が剥がれた所は透き通る様に綺麗なガラス。


ちょっと嬉しくなりました。目に見える成果って重要ですね。

もっともっと磨いて全てをこんな風に透明にするのです。

私は、もくもくと一心不乱に酢っぱい布巾でガラスを磨きました。


小一時間過ぎたころでしょうか。

ガラス全体が光ってきてます。

そのうえ、きゅっきゅっ音がどんどん甲高くなっていく。

なんとなく、綺麗になっていく音って感じです。


壁面の底も、顔が映る様に綺麗になる。

ふぅ~っと一息ついて、ちょっとだけ満足感に浸ります。


今や新品かと思われるくらいに光輝いていると言っていいはず。

これなら、老師様も張り切って実験に使えるでしょう。

何に使うかわかりませんが、磨けと言うからには

それなりの透明度が必要なのでしょうから、これは合格ラインだと思います。


最後にさっと石鹸で洗った器を壁に立てかけて水切りします。

これで仕事は一つ済みです。


気が付けば私の手の皮膚や爪が酢で柔らかくなり白っぽくなっていた。

お酢仕事頑張りましたというしるしですね。

船で沢山のお皿を洗っていた時に比べれば、

このくらいの皺はすぐに元に戻る範囲ですよ。問題なしです。

お酢は美白にいいとも言いますし、砂漠で日焼けした肌にはいいかもしれません。


さあ、次は部屋の掃除を始めましょう。

まずは、箒とハタキ、雑巾、バケツを手に部屋をざっと見渡しました。


掃除をするなら空気を入れ変える為に換気は必須。

先程、老師様が窓と机を拭く様にと言っていた気がする。

ならば、どこかに窓がある筈と見渡したら、やはり天井近くにありました。

でも、この研究室の唯一の出入口のすぐ上に続く細い階段があり、

ロフトのような中二階なスペースがある。


階段上の手摺から、中途半端に切られたような紐がゆらゆらと揺れていた。

ああ、あれはもしかしたら、昨日花瓶やら金盥やらと、

いきなり振ってきた仕掛けの元と言うものではないでしょうか。


昨日の金盥の後頭部打撃後の瘤が痛むような気がします。

今度から外から中にはいる時は頭上に要注意ですね。

気を付けましょう。


掃除をするなら上から下にが基本です。

だから、バケツと雑巾、箒を持ってロフトを上ります。

中二階は沢山の書物が満載の棚がずらりと並び、丸い木の机と椅子が一つ。


ロフト自体の構造は奥にまっすぐ長い。

きょろきょろ見渡してみて、構造的に納得しました。

このロフトがある位置は昇降機からまっすぐに部屋に続く細い道の場所。

つまり、ガラクタ道の真上になります。なるほど、だから奥に長いのか。

しかしながら横幅はあの道よりも断然広い。

あ、そうか、ガラクタが無くなれば、

このくらいあの道も広くなるのかもしれない。


備え付けの棚は天井近くまで高さがあり、

棚の上には乱雑に本が積み重ねられていた。

そして、壁には窓の閉開サドルのような取っ手を見つけた。

それをとりあえず、くるくると回して窓をゆっくりと開いた。


窓を開けるとやや冷たい風がひゅうぅっと吹き込んできた。

うん、いい風です。


窓をとりあえず開けたので、掃除を始めようと思います。


まず気になったのは部屋の隅に生き物の様に固まっている黒い物体X。

これは、まぎれもなく積み重なった埃であろう。

生きているG様ではないはずだ。

荷物を動かさない様に、本棚や積み重なった荷物に注意深くハタキを掛けます。


落とした埃を箒で掃いていきながら、気が付きました。

人が歩いていない隅の埃は、何層にも積み重なってできた頑固な汚れだった。

箒で掃くと、埃がぶわっと空中に浮かんでくる。

埃が鼻に入ったらしく、鼻がむずむずしてクシャミが止まらなくなった。


埃がこんなになるには相当年数の掃除がされていないことを示している。

これでは、箒で埃を掃くことは困難を極めるだろう。

なんとかしないとと考えて、閃きました。


倉庫の麻袋です。


私は倉庫から、干し芋が入っていた壊れた麻袋を持ってきました。

麻袋を小さくはさみで切って、バケツに付け込んで水をしっかり含ませました。


そして水を吸った麻の切れ端を真っ黒な埃の塊の場所に撒きました。

あらかた巻き終わったら、ゆっくりと箒で埃を絡め取る様に掃いていきます。


これは、王城の使われて無い部屋や物置の大掃除の際に、

ローラさんに教わった掃除方法です。

埃が舞わないように、水気を含んだ何かで埃を先に吸着させるのです。


あの時は麻袋でなく大鋸屑を使ったけど、

水を吸って重くなるものなら古い麻袋でも十分代用できるはずです。


麻は吸水性に優れた最高の繊維なのです。

濡れた麻の繊維を転がすと、麻が埃を吸い取り真っ黒に染まっていた。

この方だと、埃による呼吸器官の二次災害を十分に防げそうです。


掃いて埃ゴミをまとめたところで、次は雑巾で棚を拭きます。

棚はよく使っている場所は埃が全くなく、使わない場所は埃まみれだ。

先程、ハタキで埃は落としたので、本などを適度に整理して、

雑巾で棚を簡単に水拭きした後、乾いた布巾で再度拭きます。

そうしないと本が水分を含んでしまうからです。


床掃除はとりあえず後回しにした。

床は雑巾で拭く方がよいのだが、それはまずもって時間がかかる。

モップというか、ブラシの様な物が欲しいですね。

床拭きは単純な作業だが、腰と膝がが痛いのですよ。

あとで、カナンさんの手が空いたところで、

モップの様なものがどこかにないか聞きたいと思います。


ポンポンとエプロンの裾を叩いて、周りを見渡しました。

パッと見は綺麗になっている感じがする。

四隅にも埃はないし、目につく棚埃は綺麗に払われている。

だから、今はこれでいいことにした。


今度はランプのカバーとして使われているガラスの火屋を磨きます。

煤で汚れたガラスの火屋は水や石鹸水でこすっても綺麗になるどころか、

反対に真っ黒になる。


どうしたものだと首をひねって考えていたら、ぴんっと閃きました。

ゴミ箱に走ると案の定、書き損じか何かで失敗し丸められた紙が、

いくつか転がっていました。


これです。このインクだらけの書き損じの紙が必殺アイテムです。

しかし、ごみ箱の中とはいえ、勝手に使って実は落ちただけで、

必要な書類だったと言われたら取り返しがつかない。


西大陸の文字で書かれた文章は全く読めないので、

不必要かどうかの判断が私では出来ない。

ならば、持ち主に聞いてみるのが手っ取り早いのです。



早速、数枚手に取ってカナンさんの部屋の扉をノックしました。


「はい、どうぞ」


カナンさんの言葉が聞こえたので、そうっと扉を開けて顔を覗かしました。


「あの~、老師様、お願いがあるのですが」


カナンさんの部屋にいる老師様に尋ねました。

老師様は、カナンさんと一緒に苦々しげに書類を片付けている。

ちなみに、椅子の上にしっかり縛り付けられ機嫌が大層悪そうだ。


「おい、言いつけた仕事は終わったのか」


不機嫌全開で当り散らすように老師様が怒鳴る。


「いいえ、まだです」


まだ火屋を磨いてないし、買い物にも行ってない。


「仕事も終わらせない内から要求を突き付けるは、見下げ果てた役立たずだ。

 厚顔無恥とはお前のことだ。お前なぞ、今すぐ」


ヤトお爺ちゃんは、後ろから老師様の口を押えました。

カナンさんが老師様の言葉を遮る様に言葉を繋ぎます。


「それでメイさん、お願いとは何なのでしょうか」


老師様は甲高い声で子犬が早口で鳴くみたいに何か言ってますが、

残念ながら、私には殆ど意味が解りません。

だから、理解できたのはカナンさんのゆっくりめの言葉だけ。


「あの、ごみ箱にあったこの紙下さい」


両手に持ったものを前に突き出すようにしてお願いしました。


「それを何に使うつもりだ。

 こんなものどこの研究機関オスタードに持ち込んでも大して役に立たんぞ」


老師様は顔を顰めたままで、解らない言葉を言いました。

オスタード? うん、解りませんね。

でも、何に使うと尋ねたのはわかったので答えます。


「これで磨くと綺麗になるのです。だから下さい」


老師様の眉間に皺が寄りました。


「……磨く?」

「メイさん、そんなゴミを使わずとも、入用なら新しい紙を使ってください」


カナンさんは、老師様の返事を待たずして私にさっさと綺麗な紙を持ってきた。

差し出された綺麗な紙は真っ白な便箋の様な綺麗な紙。

掃除に使うのには余りにも綺麗すぎです。

この世界では真っ白な紙が意外に高いのです。

おそらく機械化が進んでいない為、全てが手作業の為だと思う。

だから、真っ白なでこぼこしていない紙は、大変高価で貴重なのです。


こんなきれいな紙なら、手紙を書きたいときに使うといいと思います。


汚れていない新品同様の紙がもったいないと言うのもありますが、

インクの油が適度についた紙の方が火屋磨きには向いているのです。

すでにくしゃくしゃに丸められていたので、

ごわごわ加減も絶妙に手に馴染んで掃除にぴったりです。


「いえ、こちらがいいです」


私はしっかりとその紙を握りしめて要求する。

カナンさんと老師様に懇願するようにしっかり視線で訴えます。


「……勝手にしろ。

 おい、午後からは市場に買い物に行け。いいな」


老師様はふんっと言いながらも、許可をしてくれました。


「メイさん、貴方は本当に……。

 いえ、なんでもありません。 

 何を書くのかは知りませんが、その紙が使えないようなら、

 いつでも声を掛けてください。 新しい紙ならいつでもここにありますから。 

 ああ、そうそう、市場に出る前には必ず声を掛けてください。

 知らない土地で迷子になるといけないので案内をしますから」


うん? 何か言いかけたような気がしましたが、聞えませんでした。

ですが、新しい紙が欲しいなら言えと言われた気がした。

そうですね。手紙を書く時には、カナンさんにお願いしましょう。


でも、カナンさんに案内を頼むと余計に迷子になるのではないでしょうか。


「カナン坊、お前さんはよそ見しとる暇なんぞありゃせんワイ。

 市場案内はワシに任せとくがええ。 ええか、嬢ちゃん。

 あとで、ワシと一緒にデエトと洒落込もうかのう」


あ、ヤトお爺ちゃんなら絶対に安心です。

なにしろ右も左も同じ砂漠で迷子にならない人ですからね。


「はい。ヤトさん。 有難うございます。よろしくお願いします」


ぺこりと頭を軽く下げたら、ヤトお爺ちゃんがニコヤカに笑ってました。


「……仕事が終わってなかったら今晩は簡単に寝れると思うな。

 お前のその足りない脳みそにしっかりと刻んでおけ」


老師様は、相変わらずケンもホロロで、鳴きっぱなしホトトギスです。


老師様がきゃんきゃんと鳴いても、

私には殆ど意味が解らないので暖簾に腕押しもいいところです。

なんとなく怒られていて嫌われている気はするのですが、

これは、おそらく老師様の八つ当たりなのでしょうと推測を立てました。


はやく仕事が終わって、その縄が今夜中に外れるといいですね。


カナンさんと老師様達もお仕事を頑張ってます。

私もしっかり頑張らなければいけません。


しかし、この紙を必要とする理由がなんとなくですが、伝わってない気がします。

このくしゃくしゃの紙が必要理由を説明できないのが問題だが、

磨いて結果が出れば老師様も何も言わないでしょう。


煤に塗れたガラス磨きは新聞紙のようなものと相場が決まっているのですよ。

ええ、けっして貧乏性から言ったのではないのです。


捨てる物を再利用。これこそエコな淑女の考えだ。

決してエコ=貧乏ではない。



勝ち取った屑紙を更に丸めて水で濡らして火屋の煤を削ぎ取る様に、

紙を動かしていきました。

煤が水で緩んで取れたら、乾いた紙屑で更に磨きます。



微妙に黒ずんだ火屋に実は綺麗なお花の模様が描いてあったと解ったのは、

磨いた後だ。やはり、綺麗になるのは気分がいい。


お昼までにすべての火屋を磨いてしまいましょう。


一つ一つ丁寧に火屋を磨きます。

厳しい老師様の要求をすべてかなえると、

私の知らないうちに下剋上を成し遂げているかもしれません。


ココでのお仕事をしてお給料もらって淑女教育自主練です。

淑女の道のりも一歩からです。

そう考えたら、掃除する手も軽やかになってきた。


きゅっきゅっと火屋が磨かれ顔が火屋のカーブに歪んで映る。

はあぁっと息を吹きかけてから、乾いた布巾で更に磨く。


これならば、老師様やカナンさんがお仕事する時に、

火屋に煤が付いて暗くて見えないと言う事も無いでしょう。


カナンさんと老師様の驚く顔が目に浮かびます。







********



机を拭いたり、せっせと掃除をして回る私の後ろの机の上で、

誰も触らないし風が揺らしてもいないのに机の上の写真立がぱたりと倒れた。


その写真に映っていたのは、ひょろりとしたもやしのような少年と、

ストロベリーブロンドの人形の様な女の子。


古い古いその写真の中で、彼等は天真爛漫な笑顔で微笑んでいた。


 

メイが知る掃除法の半分はマーサさんから、

もう半分は元の世界の貧乏知恵袋的豆知識からきています。

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