百人目の就職口。
私はただ今夢の中です。
これは比喩でも妄想中な例えでもなく、
現実的に見て私は眠っているということ。
つまり、睡眠中に夢を見ている状態ということです。
なにがどうなって私が今寝ているとかは覚えていませんが、
寝ていることだけは確かです。
なにしろ今の私の状態は、現実味が全くありませんから。
昔、夢占いが流行った時に、どこかの占い師がえらそうに言っていた。
夢と言うのは、本人の希望や感情、予感を含んだ曖昧かつ抽象的な世界だと。
つまり、殆どの夢は本人の希望通りに優しい世界であるはず。
なのに、今の状態は全く私に優しくない。
私の夢なのに。
弾む息が切れる。
走り続けて苦しい。
夢なのに苦しいとはこれいかにと、誰かに問いたい気分です。
ちらりと振り返ると、目に見えるのはピカピカに光る金の盥。
金の盥が後ろから飛んでくる。
今の私の状態は、一見見間違えると、未確認飛行物体に追いかけられている、
SF映画の美女(本人希望)ようにも見えるかもしれない。
どこまでもどこまでも追ってくる。
右に曲がっても左に曲がっても、ずっと追ってくる。
追尾装置なんて着いているのでしょうか
嫌あああ。なんでええええ。
私は、絶叫しつつ逃げ惑う。
いつの間にか池の傍の崖っぷち。
逃げられないところまで追いつめられて、ごくりと唾を飲み込む。
どこからかヤトお爺ちゃんの声がした。
「嬢ちゃん、伏せじゃ」
現実ではできなかったが、ここは夢。
咄嗟に頭を抱えて地面に伏せる。セーフです。
頭上を大量の金の盥が通り過ぎて、目の前の池にドボンと落ちた。
ぶくぶくと沈んでいく盥達。
助かったと一息ついたら、池の中から女神様が現れた。
腰まで流れる金の髪に、出るとこ出ていてボンキュボンの女神様。
ギリシャ神話の女神そのものな恰好をしているのに、なぜか後ろ向き。
後ろを向いたままの女神様が、両手に金の盥と銀の盥をもって尋ねた。
「お前が落としたのはこの金の盥か、それともこちらの銀の盥か」
あ、これはかの有名な親切な池の精霊話ですね。
正直者は得をして全部の斧を手にして、
強欲なうそつきは全てを失うのです。
知っているからには、間違えませんよと言いたいですが、
正直に金の盥と答えたら、あれらが帰ってきてしまう。
帰ってきたら、またもや金の盥に追い回される。それは嫌だ。
ここは、不正直が正解でしょう。
ですが相手は女神様、そして私の役者としての才能は皆無。
となれば慣れないことはしない方がいいでしょう。
そうですね。 まずは、嘘をつくのではなく、
ぎりぎり回避できるところで返答をしたいと思います。
「いえ、私は落としてません」
正直に言っている。
勝手に盥が落ちたのだ。私は落としてない。
女神は後ろ向きのままで更に盥を高く持ち上げて再度尋ねてきた。
「お前が落としたのは金の盥か、銀の盥か、それとも鉄の盥か、鉛の盥か」
増えてます。
よく見ると両手に四つの盥。重くないのでしょうか。
私は、再度きっぱりと断る。
金の盥に覚えはあれど、他にはさっぱり覚えがない。
「いいえ。どれも落としてません。 失礼します」
これは、さっさと退場した方がいいかもしれない。
うん、逃げよう。
くるりと背を向けたら、女神が目の前に立っていた。
あれ?私360度回転しちゃったのでしょうか。
再度、背をむけたが、そこにも女神様。
「「「「お前が落としたのは金の盥、銀の盥、鉄の盥、鉛の盥、火の盥、氷の盥……」」」」
360度女神に囲まれる。
その手には、どんどん増えていく盥。
女神は後ろ向きのままだが、怒りのオーラみたいなものが見える。
私の米神にタラリと汗が落ちる。
これは早く答えろと怒っていると言う事だろうか。
そうこうしている内にさえ、盥が増え続ける。
「す、すいません。金の盥です」
女神に囲まれ泣きそうになりながら、正直に答えた。
「よろしい。正直なお前に、全ての盥をプレゼントしましょう」
目の前に山盛の盥が降ってくる。
のぉおおおお。
正直に答えても不正直でも同じではないですか。
思わず絶叫しつつ女神を見たら、女神は小さな女の子に姿が変わっていた。
「ねえ、助けてほしいの」
いや、この場合その台詞は私が言うのが正解だと思います。
女神の金髪は赤みを帯びた柔らかで豊かなピンクブロンドに。
真っ赤な大きなリボンが、後ろに括った髪の上に乗っていた。
じっと見つめてくる瞳はくりくりっとした綺麗な薄茶の瞳。
着ている服は、ベビーピンクのドレスに赤い靴。
一瞬だが、思わず見とれる。
高級なビスクドール人形のように可愛い女の子だ。
サクランボの様な赤い唇が、ゆっくりと三日月に歪む。
「ねえ、私のお願い聞いてくれるわよね」
お願い?
彼女の背後から迫るのは、大量の盥。
これは、お願いという名の押し売りというか、
脅迫というものではないでしょうか。
断ったら盥に潰されると言う事でしょうか。
「ねえ、いいわよね。いいって言いなさいよ」
じりじりと盥が間隔を狭めてくる。
もう逃げ場はない。
しかし、私は頷かないし答えない。
だって、了承すると嫌な感じが明らかにするからだ。
少女と目を合わせたまま、じりじりと後ろに下がる。
私の態度に苛立った様子の少女は、指をくいっと曲げた。
きらっと私の背後で何かが光った。
あれはっと、目で確認する前に、
後ろから飛んできた金の盥が、ぱかーんと私の後頭部に当たった。
その衝撃で私の首がかくんと前に折れる。
目の前に星が飛ぶ。
一瞬、変な感覚が思考を過る。
あれ? これってデジャブ?
「了承ね。これで契約成立よ」
は? 契約って何?
いや、それよりも今ので了承の合図と取るのですか。
それはちょっと人道的にどうかと異議を申し立てしたいのですが。
「決まったわね。じゃあ、またね」
彼女の中で、答はすでに出ているようです。
私の夢の中なのに、気力体力ともにすでに限界です。
私は、ぱたりとうつぶせに倒れた。
***********
ぴとっと後頭部に冷たい何かが押し当てられた。
じんじんと響く痛みと熱を放っていた場所へのひやりとした冷たい刺激。
ああ、冷たくて、気持ちいい。
散逸していた意識が引き寄せられ、一つになっていく。
なにか夢を見ていたような気もするが、
どんな内容だったのかさっぱり覚えていない。
まあ、夢とはそういうものだからね。
とりあえず気にしない。
心地よさにまどろむ意識を揺蕩わせ、ゆっくりと意識が階段を上り始める。
誰かが酷く怒鳴っている声が聞こえてきた。
「老師! 大体、どうして、忙しい貴方が、
こんな馬鹿な罠を幾つも幾つも作っているのですか!」
この声は、ああ、カナンさんだ。
私の瞼はまだまだ開かない。
なんだか、糊で張り付けたようだ。
「それは研究が進まなくて暇だったからだ。決っておろう」
カナンさんに怒られているであろう相手が、ふんっと荒く鼻息をついた。
私は、見えないので声だけで様子を推測することにした。
「暇なら、他にもやることが山ほどあるでしょう。
大体、王宮の仕事はどうしたんですか。
毎日の様に侍従が書類を持ってきているはずです。
あちらは片付いたのですか?」
カナンさんが怒った後に、ばんっと何かを叩く音がする。
そしてそのすぐ後に、ばさばさばさっと鳥の羽ばたきに似た音が響いた。
「老師、これはなんですか?
出発する前に、全ての仕事は滞りなく片付けると約束してくれたから、
私はあんな遺跡くんだりまで赴いたのですよ」
「ふん、ワシの仕事は研究と論文と研究に基ずく実証だ。
それらは羽虫共の仕事だ。 ワシにとっては鼻紙にもならんわ」
鼻紙ということは落ちたのは紙ですね。
「書類の日付から推測するに、
私が出発した翌日からすべて残っているではないですか」
カナンさんの声が震えている。
泣いているのか怒っているのか、どちらだろうか。
「それはワシの仕事ではないと何度言えば解るのだ。
あ奴らは自分が考えることを放棄し、全てをワシに丸投げしておるのだ。
本当に、自堕落な奴らよ。 頭が腐っておるわ」
吐き捨てる様な老人の言葉に、カナンさんの深いため息が重なる。
「……老師、私もいつも言ってますが、
国の相談役としての役職を持っている貴方に、
国政が関わってくるのは当然でしょう」
「知らん。
そんなものは欲しいやつにくれてやると何度言ったら解るのだ。
ワシは長年の研究を進めなければならんのに、
時間は有限なのだぞ。下らんことに時間を無駄にするのは愚の骨頂だ」
「……貴方以外に誰がこの塔の責任者たるを得るのですか。
せめて、最低限だけでも片付けてくださいよ」
あ、怒ってないですね。これは、泣きだね。
「ふん、助手のお前がいないのにどうして片付くのだ。
研究でさえ滞っているものを。
あんなものは、永遠に放置した方がいいのだ。
そうすれば、あ奴らも諦めが付くと言うものだ。
いつも言っておるが、ワシは学者だ。
世の中の真理と神秘を追究する者だ。
政治家でも、法律家でも、便利屋でもないわい。
困った時だけ勝手に呼びつける阿呆共を、
何故ワシが真面目に相手する必要があるというのだ」
ぶつぶつと文句をいう男性相手に、
はあっとカナンさんの大きなため息が再度聞こえた。
「かっかっかっ、お前さんは相変わらず変わらんの」
ぱんぱんっと小気味よく手を叩く音がした。
「なんだ、ヤト、いたのか」
ああ、ヤトお爺ちゃんの声だ。
「ああ、いた。 随分前からここにの」
随分と仲がよさそうだ。友人関係ということだろうか。
「そうか、で、何の用だ」
「カナン坊を届けに来たのよ。
それとな、カナン坊の大事な嬢ちゃんを連れてきた」
「ヤト爺! それは」
「照れるな照れるな」
「ふん、で、それがそうなのか」
「違います。いえ、確実に違うとは言えないですが、
まだ、そうと決まったわけではなく、本人の意志も必要というか、
いえ、だからその」
カナンさんがごにょごにょと小声で何か言っているが、
声がどんどん小さくなる。
「何を言っておる。まったく聞えん。
で、ヤト、冗談はさておき、その子供はなんだ。
お前の孫か?」
誰のことを話しているのでしょうね。
「かっかっかっ、残念ながら違うのう。
嬢ちゃんがワシの孫なら、お前の仏頂面なんぞ見せに来んよ。
嬢ちゃんは新しいお前の世話係じゃ。
ほれ、ずっと募集しておった件じゃろう」
嬢ちゃん? と言うことは私のことですね。
「これが? まだ子供ではないか。
こんな子供に何が出来る。 さっさと飴でもやって追い出せ」
子供には飴、随分ないいようです。
いえ、それよりも私を一体幾つだと思っているのでしょうか。
「ほうほう、何ができるとのう。
それはお前さん自身が確めるとええ。
嬢ちゃんの真なる価値をの」
私の価値?特技ってことかな。
ああ、そういえば、就職面接会でよく聞かれたなあ。
貴方が率先して出来ることは何ですかって。
あ、就職!
思わず、私の目がぱちりと開いた。
そして、がばっと勢いよく起きた。
「おお、嬢ちゃん、気が付いたか」
目の前には、ヤトお爺ちゃんとカナンさん。
そして、全く知らないお爺さんがいた。
その姿にまずびっくりした。
私の知っているお爺ちゃんという人種は、
基本背が曲がってよぼよぼして優しい目をしているか、
どこか飄々としていて人生を達観しているような感じだった。
そう、ポルクお爺ちゃんやヤトお爺ちゃんのような感じから始まって、
私が言うのは世間一般のお爺ちゃん評価です。
でも、目の前の老人は背は高く背中も曲がっていない。
やけに凛々しくて、無駄に美々しい容姿をしている。
首や手足などの比率から線が細すぎる気もするが、
ふさふさとした真っ白な頭髪が綺麗に撫でつけられた様子は、
育ちの良さというか、気品がある感じだ。
「おい、そこの子供。
まずはその間抜けな顔と開いた口をどうにかしたらどうだ」
言われて気が付き、ぱくっと口を閉じた。
目の前の老人は、目覚めた時から思っていたが、やけに口が悪い。
そして、目つきが怖いというか、眉間の縦皺が深く刻まれていて、
随分不機嫌そのものに見える表情をしている。
気品いっぱいな美老人にこんな風に声高に睨まれ貶されたら、
気弱な人なら委縮して震えてしまいそうだ。
軽めな声質に擦れた様に聞こえる声が、やけにアンバランス。
やや高めの男性の声がカラオケでちょっと潰れたような感じだ。
そこがやたらとセクシーというかなんというか。
いやいや何を言っているのか。
「メイさん、打ったところは大丈夫ですか?
吐き気とか眩暈はありませんか?」
カナンさんが落ちた濡れ布を拾って私の後頭部にそっと当ててくれた。
「あ、はい。大丈夫です。
カナンさん、有難うございます」
この当て布はカナンさんのお蔭だったのですね。
本当にお世話になりました。 有難うございます。
「嬢ちゃん、来て早々に災難じゃったのう」
ヤトお爺ちゃんは、手の平で金の盥をくるくると回している。
なるほど、あれが原因か。
鈍く光る回る金の盥に、ふいに背筋に震えが走った。うん?何故?
「ふん、毎日やってくる小煩い蠅を追い払う為の策に、
とんだ邪魔が入ったものだ」
つまり、金の盥攻撃は私やカナンさんを狙ったものでなく、
別の誰かが標的と言うことですか。
つまり、犯人は貴方だということですね。
「老師、貴方は、そうやって侍従を追い返していたわけですか」
カナンさんは、じとっと老師を睨め付けた。
「あ奴ら、最近は衛視を引き連れてくるからの。
念には念を入れて策を練るのが常識だ。
盥の後は紙重、その次が固めた砂袋が飛んでぶち当たる予定だった。
ヤトに見破られて細工の紐を切られたがな」
3段階ではなく5段階なのですか。凝ってますね。
「かっかっかっ、嬢ちゃん、気にせんでええ。
なに、こやつは根は悪いやつではないからの。
おいそれと死ぬような悪戯はせんはずじゃよ」
ヤトお爺ちゃんが手首のスナップを利かせて、金の盥を老師に向かって飛ばした。
その円盤よろしく飛んできた盥は、老師の手によって見事捕縛される。
カウボーイも真っ青な見事な腕前だ。
「当り前だ、ここはワシの研究室だ。
死人なぞ出して汚すなどもってのほかだ」
なるほど、被告に殺意はなかったと。
「と言う事じゃ、嬢ちゃん。
ここはカナンとワシに免じて許してやってくれ」
もともと、突然のことに驚きすぎて怒りはありませんでした。
それに、彼は私の雇い主になる予定の人ですよね。
カナンさんの老師さんですよね。
それに、私を狙ったわけでなく、勝手に私が罠にかかったのですから
ならば、いつまでも私が怒るのは筋違いな気がします。
ですので、問題なく頷きます。
事故ですものね。
示談成立です。
「はい」
後頭部の瘤は痛いけれど、2,3日したら痛みも無くなるでしょう。
問題はありません。基本私は丈夫なのです。
それよりも、何故か目覚めてから、
金の盥に対してちょっと恐怖感を覚えたのは何故でしょう。
疑問です。
カナンさんがほっとした顔をした。
「おい、ヤト、カナン。
それよりも、本当にその子供をワシの研究室に入れるのか?」
老師が首を傾げた。
「ええ、そうですよ、老師、メイさんです。
メイさん、こちらが私の敬愛するマサラティ老師です」
カナンさんが、嬉しそうに私の紹介をしてくれた。
慌てて居住まいを正して背筋を伸ばしてゆっくりと略式のお辞儀をする。
「初めまして老師様。 私はメイです。
よろしくお願いいたします」
ヤトお爺ちゃんに教えてもらったように、丁寧に挨拶をする。
「ふん。名前なぞ覚えるつもりはないわ。
お前もすぐにやめるに決まっておる」
「老師!」
「ああ、怒鳴るな。解っておるわ。
盥を頭にぶつけたことは不可抗力だと思っているが、
ワシだとて良識を持ち得ておるわ。
とりあえずお前の顔を立てるのもあるが、詫びも兼ねて様子見はする。
しかし、呼び名がないのも不便だから、そうだな…」
老師はキョロキョロと壁を見渡してポンと手を叩いた。
「よし、お前の名前は百だ。
丁度百人目だから切がよかろう。
ああ、お前の部屋は一番奥の小部屋だ。汚いが我慢しろ。
今日はもう日が暮れるから、明日から働いてもらう」
どうやら、私の名前が決まったようです。
マールよりメイの方が短くて覚えやすい気がするのですが、
まあ、覚える気が無いと先ほど言ってましたからね。
「老師、それはあんまりでは……」
老師の言葉を止めようと口を挟むカナンさんに、ヤトお爺ちゃんが止める。
「気にするでない、カナン。愛称と思えば可愛いものじゃ。
まずは、コヤツが雇う気になったのじゃ。
それでよしとするもんじゃぞ。
嬢ちゃん、よかったな。 仕事にありつけたぞい。
あとは、お前さんの頑張り次第じゃ。しっかりの」
ヤトお爺ちゃんのエールに笑顔で答えます。
「はい。頑張ります」
とりあえず、後頭部の痛みと引き換えになんとか就職できたようです。
夢の中とはいえ、この世界にクーリングオフはありません。
力技でも有効です。
目の前の可愛さに気を取られ、気を抜いたメイの不覚ですね。




