波乱の幕開け。
西大陸の言葉表記は、適当ですので気にしないでください。
いきなり大きな声で罵声をあげた男は、その勢いのままひらりと馬から飛び降り、
ずかずかとカナンさんの前まで来た。
男は、カナンさんより頭一つ分大きい。
そして、布で包まれた全身から解る大柄な熊のような体格。
背の高さだけならレヴィ船長とほぼ同じくらいでしょうか。
今の状態は、ずばり、頭から湯気が出ているくらいに怒っているように見える。
吐く息や鼻息は荒いし、太い眉がこれでもかときつめに上がり、
その下に位置する真っ青な瞳が怒りでぎらぎら光っている。
そして、怒りを噛みしめる様にぎりぎりと奥歯を擦り合わせている音が聞こえた。
そんな怒りで落ち着かない様子というか、憤怒大魔神な状態のまま、
大きな手を無造作に伸ばしてカナンさんの襟元を無遠慮にぐいっと掴みあげた。
のばされた腕は丸太のように太い。
これは、もしかしてカナンさんが危ない?!
あんな大きい人に思いっきり殴られたら顔が陥没しちゃいますよ。
カナンさんは、男の人と言っても中肉中背からやや細めな標準体ですよ。おそらく。
べつに体を見た訳ではありませんが、指先とか腕とか首は骨ばっていて細い。
そんなカナンさんが、あの熊男に殴られたらあの世に昇天してしまうかもしれません。
思わず、カナンさんの服の裾を掴んで、
殴られる前に後ろに引き倒そうと身構えたら、
私より、そして熊男の振りかぶる手よりももっと早い方がいました。
自称私の親分、エピさんです。
黒い嘴が高速で男に穴をあけるがごとくに狙いを定めて一点集中。
黒光りする鎌のようなとがった嘴が、一気に襲いかかりました。
そう、その様子は絵柄的に見て、キツツキが木に穴をあけるようだ。
野山のキツツキ映像を思い浮かべるとなんとなく牧歌的で心和む風景だが、
ぎらりと殺気を放つ眼光の鋭さと、とがった頑丈な黒く長い嘴の威嚇攻撃。
穴をあけられる予定の物体は木でなくて人間の頭。
それらを考慮すると、全く、全然、平和的ではない。
男は、大袈裟ともとれるぐらいにざざざっと後ろに飛び退り、
エピさんから距離を取る。
エピさんの背後から、怒りのオーラというのか、何かがゆらりと揺れていた。
熊男は、ごくりと唾を飲み込む。
グギャ~っと一際大きな鳴き声を上げて、エピさんが男に狙いを定める。
鼻息荒く両の蹄が砂を勢いよくかき、お尻をふりふりっと2、3度振った後、
ざざっと砂を跳ね飛ばすように砂地を走り一気に距離を詰める。
(xxxxグレンxxxxシネ!)
殺る気全開です。
「うおっ、ちょっと、待て、おい、やめろ。
今は、こんなこと、している、場合じゃ、ねえんだよ。
このくそエピ、こらっ、お前、カナン、笑ってないで、止めろ」
エピさんの攻撃は主に嘴攻撃だが、首を鞭のようにしならせたり、
蹄や尻尾を使ったものや、体当たりに近い神風アタックもあり、
実に多種多様な戦法だ。
男は、エピさんの攻撃から逃れる様に、前後左右上下に素早く細かく移動する。
殺気溢れる怒涛の攻撃を受け流しながらも、その顔からは余裕の色がちらほら見える。
二人(?)の流れるようなフットワークはまるで演舞を見ているようです。
エピさんと男の攻防は一進一退。
この人、かなりの身体能力です。
見た感じ、エピさんの高速嘴攻撃は今は全くかすりもしない。
全て紙一重で避けてます。
時折拳で嘴の軌道を変える様にしている姿は、
よくできたボクシング映画を見ているようです。
攻撃を避けられているエピさんは、更に攻撃の速度と難易度を上げる。
熊男は、くっとか、はっとか言いながらも何とか避け続けている。
素晴らしいです。二人(1人と一頭?)とも。
私がその攻防に手に汗をかきながらもじっと見入っている間に、
どかどかっと後続の馬が3頭続いて現れた。
そして、小さな砂煙と共に、軽やかに3人の男たちが馬から降りた。
1人は、小柄で真っ黒な日焼け顔の眉が真っ白なしわしわおじいさんです。
頭にインドカレーのCMのような鮮やかな辛子色のターバンを巻いている。
お爺さんは、口の布あてを無造作に外すと、
しわしわの顔に更に皺を作りながら、かかかっと面白そうに笑い始めた。
お爺さんが指をさした先、見ているものはもちろんエピさんと男の攻防です。
「ksur,ksur, aegrvlue uiecm heu uaeli」
お爺さんは聊か甲高いしゃがれた声で、楽しそうに笑ってました。
声だけ聴くと初代の某黄門様に似ている気がします。
言っている言葉は解らないけれど、
お爺さんも熊男と同じような恰好をした男二人も、
目の前の攻防戦を止める気が無いようです。
それどころか、お爺さんは先ほど外した口あての布を両手で広げ、
にやにや笑いながら、指を2本立てて同僚と思われる2人の男の前で何かいい、
そこに紙幣を2枚置きました。
「meuso, ie kaueyh? ksur or uaeli」
その布の上に、同行者の他の二人の男が同じように自分たちの懐から、
それぞれ2枚の紙幣を取り出し、お爺さんの持っている布の中に投げ入れます。
その二人は口宛てを外してないので顔は解らないですが、
その目つきや口調は明らかに面白がってます。
いえ、彼等の顔の造作などは今はどうでもいいのですが、
無造作に投げ入れられた6枚の紙幣。
あれ、まぎれもなく1クレス紙幣です。
以前に、商館の換金所で見たことあります。
大金がこんな砂漠の真ん中で乱れ飛んでいるようです。
思わず、目が点になりました。
3人の男たちは二人の攻防を応援するように囃し立てます。
う~ん。
見た感じは、お爺さんが賭けの胴元ってことでしょうか。
賭ける内容はどちらが勝つかでしょうか?
私が頭を腕を組んで軽く唸りながらみていたら、
いつの間にかカナンさんが私の傍にいて、爽やかに笑って教えてくれました。
「本当に、仕方ない連中ですね。
メイさん、彼等については特に気にすることはありません。
エピと彼の攻防はいつものことなのです。
どうも、お互いにそりが合わないらしく、顔を合わせるといつもこうなります。
そして、賭けが行われるのも、まあ日常化してますね」
カナンさんは、のんびりと笑いながら教えてくれました。
なるほど、慣れているからこそのこの対応なのですね。
「賭けの内容としては、グレンがいつまでもつかですね」
グレン?
あの男の人のことでしょうか。
いやそれよりも、勝ち負け勝敗の賭けではないのですか?
「いつまでって、エピさんが勝つこと前提なんですか?」
「当り前です。私のエピは百戦錬磨の強者です。
今まで過去3ケタにわたるグレンとの攻防で、
一度としてグレンがエピに勝ったことはありません」
エピ親分、凄いです。
子分は貴方を見直しました。
「ああでも、そろそろ終わりそうです。
今回は短かったですね」
カナンさんの言葉に慌てて視線をエピさん達に向けると、
丁度、斜めに抉る様に翻った嘴を男が避け切れず、
バランスを一瞬崩したところで、エピさんの見事なとび蹴りが決まりました。
3人の男たちの間でわあっと歓声が上がります。
男二人がため息をつき、胴元のお爺さんが嬉しそうに紙幣を胸元に入れました。
どうやら、お爺さんが賭けに勝ったようです。
そして、とび蹴りに負けた熊男が私の足元まで転がり、がくっと首を落としました。
顔にはくっきりと蹄の足跡。
そして、明らかに意識が落ちてます。
察するに、結構な痛手を受けている様です。
「あの、カナンさん?
この人って、例のカナンさんのお友達なんですよね」
さっき、この人、東大陸の言葉話していたし、
カナンさんの口調から、かなり親しい間柄だと解ります。
「ええ、先ほど話に上った私の友人です」
しかし、友人というからにはもう少し心配する様子をみせたらいいのに。
カナンさんは、勝負の勝利者であるエピの頭を、優しく撫でていた。
「uaeli, b nir jhfu negsjue」
西大陸の言葉で優しくエピに話しかけるカナンさん。
そして、カナンさんの手に目を細めながら嬉しそうにするエピさん。
勝利の余韻と言うものでしょうか。
実に貫録があります。
あ!
それはさておき、この倒れている熊男、
グレンさんを倒れたまま放置していいんですか。
「カナンさん、それよりもグレンさんの手当をしないと。
怪我とかしているかも」
私は倒れているグレンさんの横に膝をついて、その顔色を窺う。
意識が無いことから、もしかして頭を強く打っているかも。
そうなれば、すぐに医者に運び込まないといけないでしょう。
だけど、日に焼けた顔は顔色の判断が正直つきにくい。
顔色判断が駄目なら、外傷チェックから。
擦り傷は多少あるものの、血傷は無いようでほっとする。
医療ドラマとかだと、首筋や手首の脈をはかるのだけど、
ぱっと見た感じ、気絶しているだけで呼吸音はある。
ぜはぜはと荒い呼吸が、意識はなくとも胸を激しく上下させている。
多分何ともないのだろうけれど、意識が戻らないのがすこし気にかかる。
どうしたらいいか聞こうと思ってカナンさんを見上げると、
カナンさんは、のんびりとエピさんの背中を撫でている。
二人の世界ってやつですね。
カナンさんは、私の視線に気づいたようで、ちょっと苦笑した。
そして、エピさんの鞍に付けてあった水袋を一つとると、
私の手を取ってそれを持たせてくれた。
「メイさん、すいませんがグレンに水を飲ませてくれませんか?
私がするとまたエピが暴れますので」
それだけ言うと、カナンさんはエピさんを連れて、
未だにわいわいと雑談をしている3人組のところへ行って、
なにやら楽しそうな話に加わりました。
一人残された私はというと、
カナンさんに言われたように水をグレンさんに飲ませることにしました。
水袋を持ち上げてみて、手に力が入らないことに気が付いた。
手の甲というか、手全体が赤くなり幾つか水ぶくれができていた。
これが原因ですね。 じんじんと痛いし熱いし痺れる。
初日に砂漠を歩いたときと、そして、エピに乗っていた時に、
手が外に何度か出ていたから、太陽の光熱でやられたのでしょう。
砂漠の日差しは本当に強烈だ。
でもまあ、水ぶくれができているのですから、こんなやけどはすぐに治ります。
船の窯で沢山のパンを焼いていた時、何度も水ぶくれできました。
で、その後に油というかセランの軟膏を塗ると、大体、2,3日で治まるんですよ。
だから、今回もおそらく問題ないでしょう。
多分、町にたどり着いたら軟膏らしきものはあると思います。
カナンさんに訊ねてなんとか薬を分けてもらいましょう。
国境の町まで、2,3日で着くと思われるのでそれまでの辛抱です。
それよりも今は、痛みで手が震えるのが問題です。
ぶるぶる震える手を止める為に両脇にぐっと力を入れて、
グレンさんの口元へ大事な水を運びます。
口の外に落とさない様に慎重に慎重に作業します。
まずは、気絶しままのグレンさんの頭を膝に乗せて固定し首をやや斜めにしてから、
水袋から水をぽたぽたと少しずつ垂らし、開いた口の中に落としました。
少しずつ口内に溜まった水は、水分を求めていた無意識のグレンさんによって、
ごくりごくりと嚥下されます。
ふふふ。成功です。
元の世界で春海が見つからなくて焦れていた数か月、
私が何もしなかったわけではないんです。
ほら、二度あることは三度あるって言うでしょう。
口から口に水を飲ませる行為って医療行為だと解っているけど、
ほら、アニエスさんみたいにびっくりすると思うんですよ。
だから、駅前の本屋さんでふと目に入った本。
<貴方にもできる緊急医療行為一覧完全網羅!図解でわかりやすく説明付>
あれを、何度も読み返しましたよ。
主に立ち読みですけれどね。
本屋のオジサンに白い目で見られながら、
あの本を読み終わるまで通い詰めた日々。
ちょっと、後ろめたい気はするけれど、仕方ないでしょう。
あれ、とっても高かったんです。
皆に買ってもらおうと思うなら、もうちょっと安くするべきです。
購買者の立場からいうとですけどね。
で、本題に戻りますと。
そこには書いてあったんです。
意識のない相手に水を飲ませる方法1.2.3。
もちろん、最終手段は口移しですが、他にも方法があったんです。
他にも救命作業のいろいろが、ここぞとばかりに載ってました。
これは、憶えておくといろいろ助かるかもと、図解を見ながら、
自分が出来るであろう救命行為の幾つかを目を皿のようにして覚えました。
そして、人間を相手にしていると想像して、枕相手にいろいろ練習しました。
水を飲ませる作業は、枕が濡れない様にゴミ袋をかぶせたうえで。
そして、今、その練習の成果が出たようです。
咽ない様に何度かにわたって同じことを繰り返したら、
グレンさんの意識が戻りました。
「う、ううん。 はあ、うぷっ。 も、もう水はいい。爺」
爺って、私を誰かと間違えてますね。
そして、差し込む日光から目を庇うように大きな手のひらで顔を覆い、
いきなり私の膝の上でごろごろし始めました。
「うう、くそう、どうしてあのくそエピに勝てないんだよ俺は。
畜生、俺の何が足らねえんだよ。畜生~。
なあ、爺、あの人なら、憎ったらしいくそエピに勝てるよな」
さあ、私は爺ではないのでわかりません。
それにしてもこの人図体は大きいのに、
言動はカナンさん同様にかなり子供っぽいところがあります。
そういえば、ピーナさんが、男はいつまでたっても子供なのさって、
以前にカッコよく言っていたのを思い出します。
私から見たらご主人のオトルさんは十分おじさんで大人なのですが、
子供部分が私達には見せないところであると言う事でしょうか。
そうだとしたら、レヴィ船長やカースやセランもそうなんでしょうか。
一度でもいいから見てみたいものですね。
子供の様な彼らの姿を。可愛かっただろうな。
考えていたら、くすっと心での笑いが現実に漏れていたようです。
「どうした、何を笑っている」
グレンさんは、日の光が目に入らない様に手のひらを斜めにして影を作り、
首をひねって真上の私の顔を見つめた。
そして、目と目があったその瞬間、がばっとグレンさんが飛び起きた。
「え? おま、だ、ど、な、kuarhv ksuhz, dhey, fuehj ie jed 」
いきなり西大陸の言葉に変わりました。
そして、器用にも座ったまま砂地を素早く後ずさる。
ですが、顔をみれば言いたいことはわかります。
混乱してますね。そして、言いたいのはお前は誰だと言ったところでしょうか。
続きは、解りませんね。
私が口を開く前に、カナンさんがその質問に手早く応えました。
「ああ、やっと目覚めましたか。
グレン、こちらはメイさんです。
メイさん、この男がグレンです」
あ、ご紹介ですね。
私は、背筋を伸ばして自己紹介をします。
「あ、はい。初めまして。 メイです」
座ったままですが、軽くお辞儀をしてご挨拶です。
「kufb lkar, あ? 東の言葉か? アンタ、東の大陸の人間なのか?」
正確には違うけれど、私の国籍があるところはイルベリー国なんだから、
東大陸の人間で間違いない。
「はい。 イルベリー国です」
とりあえず、即答する。
「メイさん、グレンがご迷惑をおかけ致しました。
ほら、グレン。 グレンもお礼を言ったらどうだい。
君に水を飲ませてくれた恩人だよ」
私の言葉のすぐ後に、カナンさんが口を挟んだ。
グレンさんは、咄嗟に先ほどの光景を思い出したのか、明らかに狼狽えた。
肌が日に焼けて浅黒いので、赤くなっても青くなってもあまり変わらないのですが、
あっとかうっとか言いながらも、私の顔とカナンさんの顔を何度か見比べてから、
軽く舌打ちしました。
「グレンだ、世話をかけた。礼を言う」
顔をあさってに向けたままで投げ捨てるようにして出た言葉だけれど、
はっきりと聞こえた。この人、思っていたよりとても素直な人だ。
「あ、はい。どういたしまして」
とりあえず、お礼は受け取っておく。
だけれども、グレンさんは素早くその態度を更に硬化させる。
「……そうか、で、なんであんたはカナンとここにいるんだ?」
落ち着いたであろうグレンさんの顔が、すうっと表情を厳しくする。
明らかに疑いの目つきです。
普通、知らない人間が自分や友人の傍に居たら誰だってそう思いますよね。
それにしても、何故と聞かれても、
答が出会ったからとしか答えようがないのだが。
どうこたえようかと悩んでいたら、
カナンさんが、私たちの会話を遮った。
「ああ、それについては私から説明します。
メイさん、エピにも水をやっていただけますか?」
そう言われたので、埃を立てない様にゆっくりと立ち上がって、
丁寧に砂を払い、歩いてくるカナンさんから新しい水袋を受け取った。
さっき、エピさんは水を飲んでいたような気がするのですが、
まだまだ飲むのでしょうか。
すれ違う時にカナンさんが背中をぽんぽんと叩いてくれた。
なんとなく、大丈夫だと言っている気がした。
*********
(で、おい、カナン、あの女、なんなんだよ!
5日も行方不明になって俺に散々心配をかけておきながら、
女としけこむとはいい度胸だな)
グレンは、先ほどの会話で明らかにカナンがメイを庇ったのを訝しく思った。
あんな女はカナンの周りで見たことがない。
それに、明らかに西大陸の言葉に反応しないことからみても、
話せないし理解してないのが解る。
だから今、カナンに問い詰めている言語は西大陸の言葉だ。
(グレン、まずは落ち着いて聞いてください。
彼女とは、今日、西の水場の廃墟跡で出会ったのです。
少々問題がありそうですので、連れてきました)
カナンも、グレンの懸念が解っているのか答える言葉に同じ西大陸の言語だ。
普段から、聞かれては困る事柄や、二人での密談などは、
東大陸の言葉をわざと使っている二人であったが、今は逆だ。
(連れてきたって、そんな簡単にほいほい連れてくんなよ。
それに、西の水場? そんなとこであの女何してたんだ。
あそこは水が干上がっているうえに、
最近獣の出現場所にもなっている物騒なところだぞ)
(……寝ていたんですよ。おそらく獣にも襲われたのでしょう。
西の水場を再度廻った時に、明らかな恐怖心が目に浮かんでました)
カナンの言葉は、推測するまでもなく迷子で彷徨ったことを告げているのだが、
いつものことなのでグレンはそこには突っ込まない。
(獣に遭遇したのに怪我もなく無事だったのか? ただの女が?
ありえんだろう、獣避けの香の匂いもしない。
たまたま遠目で見かけただけとかじゃないのか?
もしくは、盗賊の一味とか、暗殺業とかを生業にした女なのか?
獣とやり合った血の匂いもしないし、とてもそうは思えんが)
グレンの声が一段と小さくなって、カナンに問う。
(違うでしょうね。あの体つきでは、護身体術すらしたことないでしょう。
それに、明らかに富裕層な身のこなしに、柔らかな体、人を疑わない純真さ。
訛から、彼女の言うように、イルベリー国出身なのは間違いないようです。
おそらく、イルベリー国で浚われて売られ奴隷に落とされた娘が、
何かの理由で逃げだしたといった身の上ではないかと推測しました)
淡々と語るカナンの糸目の上の眉は中央に寄ってわずかな皺を額に付ける。
(しかし、ここはタジファールの砂漠だぞ。
それも西の砂漠は獣が多く出現し、今は人も通らない場所だ。
何も知らない女が一人渡っていけるほどこの砂漠は甘くない)
カナンの声も次第に小さくなる。
(2週間程前に、南の砂漠で商隊が襲われたのを知っていますよね)
(あ、ああ、先ほど部下からもその調査に軍が入ると聞いたが、
それがどうかしたのか)
軍が調査に入るといったグレンの言葉に、カナンの糸目は更に細くなる。
(おそらく、襲われた商隊は異国人を専門に扱う奴隷商人でしょう。
傷のない変わった毛色の奴隷は大切に保護されて高く売り払われます。
特に年端の行かない未婚の少女なら尚更でしょう。
もしかしたら、貴族の出、そして変わった顔立ちをしていることから、
好事家が食指を動かすことは容易く推測できます。
賊に襲われて商人たちが皆殺しになる際に、
その混乱に応じて逃げ出したのでしょう。
応対する会話から解る理解力や判断力はなかなかのものです。
水と食料を持っていたことからも、
自分で逃げ出す算段を以前から用意していたのでしょう。
ある程度準備があり、砂漠でも方角を間違えず歩けるのなら
何日間か彷徨っていけない距離ではありません)
(南の砂漠からだと徒歩で10日以上かかるぞ。
女の足ならそれ以上だ。
それに、貴族の出でありながら奴隷に落ちたのなら、
何か後ろ暗いことがあって、それがばれる前に逃げ出そうとしたのでは?
そういえば、イルベリー国で大きな裁判があって沢山の人間が流出したと聞いたが、
あの関係者で国を追われた犯罪者なのではないのか)
(商隊が襲われた日から換算して日数的には辻褄があいます。
それに、あの子はおそらく犯罪者ではありません。
暗い犯罪には決して加担していないでしょう。
イルベリー国に帰るつもりだとはっきりと私に言いました。
家族が待っているのだとも言ってました。
犯罪者なら国には帰れないでしょうし、快く迎えてくれる人もいないでしょう。
あの国は、徹底してますからね。
おそらく、何かに巻き込まれて騙されて売られたというのが正解ではないかと。
それに、私のエピが彼女に甚く懐いているのです。判断には十分でしょう)
カナンが顎でくいっと指し示す場所に、メイとエピがいた。
グレンにとっては天敵ともいえるあの獰猛なエピが、
メイには大人しく撫でられ、長い首を甘える様にメイの頭の上に置き、
喉を鳴らしている様子に驚きを隠せない。
(しかし、10日も彷徨ったにしては肌に焼けた様子が無いが)
(年頃の女性ですからね。強烈な日差しには十分に気を付けていたのでしょう。
それに元が色白なのでしょう。 色白な人間は一般的には赤くなるだけで、
肌の色はさほど焼けないそうですよ。
ですが、手には熱傷による酷い水ぶくれができていました。
痛みもあるでしょうに、そのことについては何一つ言いません。
それどころか、エピに蹴られていつものように、
だらしなく伸びている貴方を心配して、手当をと言っていました。
優しい子です。 人格的にも問題ないでしょう。
それに彼女と話していると、心が落ち着くというか、
なんだか不思議に心地よいのです。
私は、彼女を私の傍で保護しようかと思っています)
カナンはメイとエピを見ながら、柔らかく微笑えんだ。
ふわりと優しい空気が流れる。
明らかにカナンはメイに気を許していることが、傍目から見てもわかった。
エピに負けないくらいに警戒心と猜疑心が強いカナンが、
こうまで心を開くとはと、グレンはそのことにも驚愕する。
そんなカナンの様子を見て、グレンは頭に閃いたことをとっさに口にする。
(保護って、マッカラ王国に連れ帰る気か?
女嫌いの老師の雷が落ちるぞ。
それがわかっていて尚そうするってことは、お前、まさか、
あの女を嫁さんにするつもりなのか。
待て、早まるな。 よく考えろ。
歳の差結婚は爺によると波乱の幕開けだそうだぞ)
カナンは、いきなりの早合点をし始めたグレンの頭を、
両手でがしっと掴んで引きずりおろすように目線を合わせる。
(私は、貴方と同じ年、28ですが、それが何か。
彼女は外見から推測するに16,7でしょう。
いえ、口調や態度からだと、もう少し上かもしれません。
ですから、10やそこらの違いでは歳の差とは言いませんよ。
12回離婚と結婚を繰り返している浮気魔爺に説教されたくないですね。
それに嫁などと、とりあえず今は思っていませんよ。
彼女はイルベリー国に帰る為に旅費を稼ぐつもりだそうです。
私は、彼女がそれを諦めない限りは、一応応援するつもりです。
まあ、諦めたらどうなるかわかりませんがね)
カナンは糸目の目を薄く開いてにやりと笑った。
琥珀に近いオレンジ色の瞳が、鋭い光を放っていた。
グレンはその目の輝きを見て、一瞬ぶるっと背を震わせた。
カナンの気迫に押されるようにグレンは黙ってしまったが、
まだ何か言いたそうな顔をしている。
だが、カナンは肩をひょいとすくめただけでその話題は打ち切った。
そして、再度難しい顔をして話を続ける。
(最近、例の連中がかなり頻繁に動いてます。
マッカラ王国ではまだ目立った行動はありませんが、
国境付近で聞いた話だと、近く不穏な騒動が起こるかもしれないそうです。
もしかしたら、南の砂漠で出現した盗賊は奴らの仲間かもしれません。
だからこそ、この国の軍がこうも早く調査に出てくるのやも。
そのあたり、あなたの伝手で調べていただけますか)
万が一、盗賊が軍に掴まった時、もしくは商人の生き残りが居て、
軍に生きている奴隷の回収を依頼した場合、
姿が見えないメイに、奴らの一味かと疑いがかかるかもしれない。
あの連中の殆どが、元は食うに食えない貧乏な移民だという話だ。
そんな連中が何故あれほどの活動資金を持っているのかと、
多くの者が疑問に思っている。
盗賊や奴隷商人、武器商人、ある程度の金を持つ領主ですら疑われ、
更には、奴らにどこかの国の不穏な目論見の後押しがあるかもしれないと、
今、この国や近辺の国々は移民や外国人に神経を高ぶらせている。
その結果として、外国の生徒や教師を数多く抱えているマッカラ王国は、
近隣諸侯から数多くの非難や疑いをかけられている状態だ。
知の賢者を支える王国として名高いマッカラ王国がだ。
それだけに、今、この辺りの国の情勢は危うい。
軍も国も人もすべてが狂った様な猜疑心に満ちている。
そんな中にメイを放り出したら、一日としてその命は持たないだろう。
カナンの言葉に、グレンは真剣な顔で頷いた。
そして、出された答は冷静な判断力を伴った為政者の言葉。
(わかった。 お前たちには爺を護衛に付ける。
ここで、二手に分かれよう。
俺は早速俺の屋敷に帰って情報を集める。
お前は、マッカラ王国に早く戻れ。
今までのお前の言葉は全て憶測だ。確証はない。
だから、裏付けは俺が取る。 それでいいな。
まだ何があるかわからんのだから、あの女には絶対に気を許すな。)
彼の友人であるグレンは、すでに為政者としての片鱗を見せていた。
そして、彼が常に憧れていたあの人にとても良く似てきた。
そのことが誇らしいような悲しいような複雑な気持ちを抱く。
幼馴染として共に生きてきた年月と、別々の道をたどって変わっていく未来が、
カナンの心にちぐはぐな感情を齎すのだ。
グレンの威厳を垣間見せる助言に、カナンも真剣に答える。
自分の身を心配していくれる友の心がわかったからだ。
そして、再会してから一度も口にしていなかった言葉を伝えた。
(ああ、わかった。十分に注意する。
グレン、苦労を掛けるがよろしく頼む。
それから、探してくれたこと、心から感謝している)
カナンの言葉にグレンは一瞬驚き、そして次いで最高に嬉しい笑顔を見せた。
(いいさ。 考えてみれば、いつものことだ。
まあ、今度から気を付けてくれればいいんだけどな。いや、無理か)
グレンの機嫌の直った声を聞いた後、カナンは視線をメイとエピに向ける。
いち早く国外に、マッカラ王国にメイを連れて逃げてしまわなければ。
この国にいては、グレンはともかく、自分では守りきれない。
カナンは、仲良く戯れるエピとメイを見ながら、
真剣にこれからの予定について考えていた。




