異世界に戻りました。
ぐるぐる回る視界の中で、意識を失う前に芽衣子が叫んだこと。
それは、
「海上遭難は嫌~~~~~」
だった。
あの海の上で遭難する恐怖は、被験者でないとどのくらい怖いかわかるまい。
陸の上なら、歩けばどこかに移動できる。
海でも浜とか浅瀬であれば、そこまでの恐怖は感じない。
だが、大海原の上で、頼りにならない板の上に乗り、
ゆらゆらと揺られ続けて次第に意識は消沈する。
まな板の上の鯉の気分を味わいたい方には、
代わりにどうぞと是非にお勧めしたい恐怖だ。
少しでも動くと海でおぼれ死に直結する海上遭難は、
本当------に怖かったのだ。
浮かんでいる板の上で座っているだけでは、
海が荒れたら確実に溺れることは容易に想像できる。
かといって、少しとはいえ安全圏である板の上を捨てて、
自分から海に飛び込むなんて真似は出来る訳がない。
芽衣子が泳げないわけではないが、
それはプールとか浅瀬でチャプチャプ呑気に浮かぶレベルだ。
浮き輪があれば、なお良いという程度でしかない。
異世界の大海原で、当てもなく泳いで海を渡れる鉄人的才能は持ち合わせていない。
右を向いても左を向いても岸は見えず、
見えるのは浪間に浮かぶ白い泡と暗い波のうねりのみ。
芽衣子が天才的水泳選手だとか、サバイバルに特化した能力を持っていたら、
芽衣子の選択は変わったかもしれないが、
そもそも持っていないものは仕方ないではないか。
その結果として、芽衣子はあの時、
ただ何をするでもなく海の上で彷徨っていたのだ。
ひたひたと押し寄せる恐怖に押しつぶされそうになりながらも、
やっとのことで耐えていた。
幸いにしてレヴィ船長の船に早めに拾われたからよかったが、
真夜中の海で、こんな電燈やレーダーとかもない世界で、
一般的な遭難者が当然として海の藻屑になっている可能性の方が高いことは、
誰が考えてもわかるだろう。
だから、芽衣子の叫びはこのトラウマを元に本能が齎した叫びだと言ってもいい。
もちろん、芽衣子の心の叫びであるこの言葉を聞いている者は誰一人居なかった。
だが、運命はその願を叶えてくれたようだ。
異世界についたであろうその時から、
芽衣子の意識が戻って最初に思ったことは、まず熱い。
全身が熱いのだが、特に頭のてっぺんである頭皮と右頬が熱かった。
なんとなくだが、焚火の火の傍で炙られている感じがする。
そして、口の中が苦いというか、やけにじゃりじゃりする。
唾液を総動員して口の中を綺麗にしようと無意識のうちに、
(ええ、無意識ですよ)出ていた涎がつうっと口から毀れてぼてっと落ちた。
そして、じゅう~っと音がした。
その音を解りやすく表現すると、
鉄板の上でお好み焼きの種を載せた時の音に似ていると思う。
お好み焼き、うん、あれもいいよね。
大阪風も広島風もどっちも好きだわ。
熱く熱した鉄板が、こうやってって。
ちょっと待って。 は?
じゅう~って、なんで?
芽衣子の目がぱっちりと開いた。
これでも目覚めは大変良いのです。
目が開いて最初にしたことは、まず手を瞼の上に翳すこと。
なにしろ、目に入ってきた光はさんさんと照りつける強烈な太陽の光。
目を刺したと言っても過言ではないほどの強さの焼き付ける閃光。
サングラスも何もしていない芽衣子には大変厳しかった。
一瞬で目の前が真っ白になる。
その最初の一瞬で網膜が焼き切れるかと思ったくらいだ。
目に痛みを感じたがゆえに、目の奥からじわりと涙が出てくる。
手のひらの奥で、ゆっくりと瞬きながら、目の中の水分量を備蓄する。
いつもより乾いた空気に苦労しながらも、やっと目が慣れたと感じた時、
そうっと翳していた手のひらを瞼の上から離し、両手で額の上で影を作る。
現状把握の為、ゆっくりと瞼を開けて目を慣らしながら、
周囲の景色に視線を彷徨わせる。
そして、芽衣子の声があたり一面に響いた。
「ここ、どこーーーーーー?」
ひゅるりと乾燥した熱い風が芽衣子の頬を否応なく叩く。
その風に乗って乾いた砂塵が、
次いでとばかりにぽっかりと空いている芽衣子の口にひょいっと入り込んだ。
芽衣子が今現在いるところ。
右を向いても砂、左を向いても砂、一周しても砂です。
つまり、そこはまぎれもなく砂漠でした。
*********
もし、芽衣子が春海に会えたなら一番に頼むことは異世界出現場所だったのだ。
人間が住んでいる居住区の傍にしてくださいとか、
レヴィ船長の船に降ろしてくださいとか、
具体的なお願いを口にする予定だったのだ。
もし何らかの理由で駄目ならば、
せめて歩いて半日で着ける距離とかでどうかと提案したかった。
いや実は、春海に拝み倒すつもりであった。
新しい管理者に変わってしまったは至極残念だ。
サラリーマンな春海が転勤を断れるわけないものねえ。
新しい管理者な知らない子供相手に無理難題を突き付けるのは、
大人な淑女としてどうか思いちょっと躊躇った。
だって、晴嵐は力が足りなくて大人の姿が取れないって言ってた。
あの部屋も縫いぐるみに夢いっぱいな子供の部屋って感じだったし。
ここは、私が多少は大人になって妥協せねばとも思う。
マーサさんいわく、淑女は子供にやさしいものなのだ。
だけれども、そうだけれども、これはないだろう。
ここは余りにも人が居なさすぎる。
海で遭難と砂漠で遭難。
どっちが甲乙つけがたいかと問われてもわずかの差で海が勝つくらいの微妙さだ。
それにこんなに困難な場所に出るなら、
他にも、持っていきたいものとか、
春海に事前に聞きたいことや相談したいことは沢山あった。
事実、芽衣子のアパートの机の下には、持っていく予定リュックが用意してあったのだ。
中には、コンパスとか、非常食や水。懐中電灯や薬などいろいろ入れていた。
だけれどすべては無駄であったと言う事だろう。
あそこで紅白饅頭を家まで我慢できなかった自分がすべての敗因なのだ。
悔やむべきは我儘なお腹を持った私自身。
はあっと大きくため息をついた。
今の芽衣子の持ち物は、以前に持っていた者と同じようなトートバック。
中身は、お茶のペットボトル2本、かりんの飴袋とガムの瓶、
携帯電話に、手動式充電器(電気代節約に重宝)、手帳にペンに、裁縫道具、
簡単な救急セットに、財布、歯ブラシに簡単な化粧道具、
ミニタオルハンカチにティッシュ、コンビニで買ったソイバー3本、
もうじき無くなるからと買った45Lのゴミ袋10枚入りに、爪切り、耳かき、
コンビニ100円のオレオの駄菓子。
そして、お重が入った紙袋だ。
これだけはしっかり腕に抱えたままこの世界に来たようだ(私、偉い!)
お重が入った紙袋はともかく、
何度見ても遭難に安心できる装備ではない。
こんな砂漠地帯では、2本のお茶のボトルも、
あっという間に無くなってしまうに違いない。
今にもカエルが干からびそうなこんな場所にどうして晴嵐は降ろしたのだ。
天に向かって思いっきり晴嵐相手に文句を言いたかった。
あのきらきら部屋であったあの時に、
晴嵐が子供だと遠慮せず、きちんと希望を伝え無けるべきだった。
あの時、咄嗟に芽衣子が叫んだ言葉は海上遭難は嫌、それだけだ。
あれだけでは子供な晴嵐にきちんと伝わらなかったのだろう。
「いや、確かに海の上じゃないけどさ」
アフターケアがなってない。
新しい管理者は、やっぱり子供なのだ。
そもそも考えてみれば、春海からして、
今までに私の話と言うか頼みを聞いてくれたこと、なかった気がする。
基本言い捨てが標準装備だものね。
これはまあ、仕方ないよね。
諦めにも似た寛大さである。
その境地に素直に至ったのは、芽衣子のお腹事情が満たされつつあるからだ。
今、熱い砂の上にお重が包んであった風呂敷を敷いて座り、
頭からコートをかぶり、わずかに作った影の中で、
芽衣子はもぐもぐと口を動かしていた。
箸で一つずつ掬いながら食べているのは、
この世界までしっかり抱えてきた2段重ねの懐石弁当だ。
一段目はぎっしりと詰まったお赤飯。
二段目は、旬の食材をこれでもかとばかりに詰め込んだ和の芸術品なおかず。
お弁当を抱きしめるように胸に抱えて食べている。
芽衣子は、日持ちのしないものから、しっかり食べていく。
砂の上に置いた汁物のタッパーがみるみる暖められていく。
電子レンジよりも早いかもしれない。
お赤飯はゴマ塩が付属でついていたので、なるべく食べずに残して、
山菜や筍、卵焼きや刺身などの料理はすぐに痛むので、
さっさとお腹に入れてしまう。
異世界についてまず一番に芽衣子がしたことと言えば、
鳴り続けるお腹を黙らせることだった。
晴嵐と一緒に食べた紅白饅頭はやはり現実には反映されておらず、
芽衣子のお腹は壮絶に食べ物を求めて訴えた。
夢で食べたつもりは、食べてないのだ。
先ほどの芽衣子の叫び声よりも幾分大きな音が、ぐううううぐう~きゅるるると、
周囲に堂々と鳴り響いたのだ。
そして、芽衣子の腕には美味しいと解っているお重2段のお弁当。
となれば、まずは腹ごしらえと来るのが当然だろう。
芽衣子は、こんな状態なのに、至極幸福そうにため息を漏らした。
「旨~。日本人でよかった~」
酢の物や煮物など、余裕があれば眺めていたいほど美しい飾り切りだ。
メイがテント代わりにしている頭からかぶった春のコートの中は熱いが、
湿気はない。
空気自体がからからに乾燥しているせいか、
日差しを遮ると思ったよりも影の中は熱くない。
だから、こんな鉄板の上のミノムシ状態でも呑気に食べていられるのだ。
外気温は40度を遥かに超えているに違いない。
こんな中でのんびりご飯を食べているのは芽衣子だけだ。
口を動かしながら、満足していくお腹に助けられ少しだけ余裕が生まれる。
芽衣子はそっとコートの端を持ち上げて外を覗く。
そして、ちょっとだけ首を傾げた。
芽衣子がいる場所は宝玉の傍だって、あの時に晴嵐は言ってた気がする。
だが、芽衣子の目の前には、さらさらと動く熱い砂。
緩急が付いた丘と言う名の砂漠。
視界の右端には、わずかな瓦礫の様な岩石が転がっているのが見えているが、
人が住んでいるような住居もなければ、生活の痕跡すらない。
宝玉は人間や白い球にだけ宿る。
芽衣子の手のひらに握られていた白い球は、
今は巫女服の袷の内側のカイロポケットの中に入れている。
が、白い球には細い赤と黒の宝玉が見えるだけ。
あとは真っ白です。
寝ている間に宝玉吸い込んだとかではないようです。
うーん。 考えるに、つまり、これはあれですね。
晴嵐が間違えたとか、方向が解らなかったとか、
手がちょっと間違った操作方法を辿ってしまったとか。
ここで声を最大にして叫びたい。
「どこに宝玉があるっていうのよ。
晴嵐の方向音痴~!」
喉が渇くので、大きな声を上げることは推奨されないが、
芽衣子にとって精一杯の抗議を空に向かって言い放った。
その時、口の端からご飯粒が飛んだ。
あっと思うが貴重なお赤飯の一粒が砂の上に落ちてじゅっと音を立て砂に塗れた。
ああ、もったいない。
貴重な一粒だったのに。
お重のおかずを空にして、お赤飯に塩を振って、
バックの中に入っていたコンビニの袋に移し替えて、
ぎゅぎゅっとおにぎりにしてバッグに戻し、空になったお重を紙袋に戻して
風呂敷を鞄に入れて、ぱんぱんと服に付いた砂を払った。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
さっそくだが、お腹がいっぱいになったなら出発しようと、
お弁当を食べながら決めていた。
コートの腕の部分を肩から顔半分に巻き付ける様にして顔面に影を作り、
皮膚が日差しに焼けない様に服から出ている腕をコートの中に隠して、
あっという間に怪しい風体な旅人出来上がりだ。
用意が出来たら、ぐっと目を前に向けて、
とりあえず足を前に一歩ずつ進めることにした。
芽衣子の目的地はとりあえず、右前方の視界の端にわずかに見えている、
岩石群や瓦礫が見える場所だ。
日の位置や影からおよその方角と時間はわかるので、
北西に向かっていることだけは確かなのだろう。
時刻はおおよそ午前10時から11時と言うところだろうか。
ここの場所の日暮れの時間は解らないが、
それまでには、なんとか目的地に到着したい。
そう思って体力のあるうちに少しでもと、必死で足を動かした。
一歩進むごとにわずかに埋まる砂地は歩きにくく、
思ったより前に進まない。
だが、弱音を吐いてもここには助けてくれる人は誰もいないのだ。
だから、必死で前だけをみて進んだ。
しかし小半時、足を動かしながらわかったことは、
砂漠の距離は目で見て計った距離では決してないと言う事。
目的地は目の前から消えるわけではないので幻影ではないとわかるのだが、
歩いても歩いても全然近くなった気がしない。
喉が大変乾くのだが、トートバックの中には、
朝買って半分飲んでいたお茶が一本、新しいのが一本あるだけだ。
目的地に水気があるとは限らないのだから節約しないと、
あっという間に干からびてしまう。
そう思って、口の中が訴える乾きを我慢した。
それにしてもこの太陽の照りって、いつまでこんな感じなんだろうか。
そう考えたら、頭の中でポンっと閃いた。
それは今の芽衣子にとって、大変役に立たないもの。
(今日一日晴れ、明日も晴れ。 雨は降らない)
天気予報だ。
そういえば、新しい神様の加護にあったような気がする。
ぎらぎらと照りつける太陽を睨みたいが、
そんなことをすれば芽衣子の網膜が焼き付いてしまう。
今の芽衣子の置かれた環境を考えると、
その天気予報は神様能力使わなくても容易に把握できるに違いない。
文句を言おうにも口の中が乾燥して、
もう唾液が干からびかけている。
吐く息さえも全く湿気が無く、喉がからからで痛い。
我慢できなくなって一口だけお茶を口にふくんでからゆっくり喉に落とす。
普通に息をするのに熱くて痛いなんて、
今までの生活圏内ではありえなかった。
以前にアラビアのロレンスとかアラビアンナイトとか映画で見た時には、
砂漠ってロマンよねえと気楽に考えていた以前の自分を叱咤したい気分だ。
あれは、砂漠の素晴らしい移動手段であるラクダくんが居ての話なのだ。
ロレンスがラクダくん無しで砂漠をうろうろする話なら、
多分話は3分で終わるに違いない。
そんな話はロマンも無く映画にもならないだろう。
ああ、どこかに野良ラクダくんがいないものか。
太陽の位置が中天から斜めにずれた。
多分、もう5、6時間は歩き続けているはずだ。
芽衣子の斜め後ろについてきていた影は、今はほぼ真後ろに長く伸びている。
そろそろ、芽衣子の素敵ご飯で蓄えた体力も尽きてくる。
お茶のペットボトルの一本目はもうほとんどない。
まだかまだかと焦りながら歩いていた芽衣子の視界に、
目的地である瓦礫の塊が唐突に目の前に現れた。
遠い遠いと思って歩いているうちに、
目的地近くまでやっと来たと言う事だろう。
重い足取りのままやっと見えた希望にほっとした。
瓦礫に手を触れられるくらいの距離に近づいたとき、
太陽は斜めにオレンジの光を揺らしながら砂の中を沈みつつあった。
芽衣子の影が細く長く後ろに伸びる。
芽衣子が最後にみた自分の世界の夕日とは全く違うが、
その太陽の大きさに圧倒された。
砂の中に沈む夕日は、赤い光が砂漠を食べつくしそうなほどに、
大きく熱く揺らぎながら周りを覆っていた。
夕日といえば夕暮れである。
つまり、夜になる。
それに少し遅れて気が付いた芽衣子は、少し慌てながら瓦礫の中に一歩踏み入れる。
その瓦礫は依然は住居であったのであろう作りをしているものがちらほら。
殆どが壊れて朽ちた日干し煉瓦。
集落があった形跡はあるが、多分放棄されて年数を経過しているのだろう。
砂に浸食されたすべての痕跡が、風化の一途をたどっていた。
芽衣子は疲れた足を叱咤して、その瓦礫達を見て回る。
少しでも芽衣子が生きる足しになるものかないか、
必死で探すが砂に変わりつつあるただの跡地に何があるわけでない。
乾いた日干し煉瓦の壁に手を当てながら、必死で目を彷徨わした。
芽衣子が見つけたのは、集落の中心部にあった。
小さな小さなひび割れた噴水。
綺麗な色とりどりのタイルで作られていたあろうその噴水は、
無残に壊され、乾いた大地に横たわっていた。
ここは、枯れ落ちたオアシスの跡地だった。
「水、出ないよねえ、やっぱり」
疲れてふらふらになりながら、噴水の傍に座り込んだ。
焼けて色を無くしかけているタイルがひんやりと冷たい。
それで、気が付いた。
手のひらに感じる久しぶりな冷たさに、そっと手を触れた。
それはゴトっと動いた。
うん?
冷たいと思ったのは丸い瓦のような石版。
すすけたタイルが張り付けられているモザイク画。
これは何?
色がすすけているが誰かの肖像画のような絵。
あちこちがひび割れていて絵の良しあしすら分別出来そうもないが、
タイルの一部の青い色だけがやけにくっきりと色鮮やかに残っていた。
指でその部分を擦るとつるりとした滑らかな感触が指に伝わった。
冷たくてキモチイイ。
そういえばタイルってこんな手触りだよね。
タイルに馴染みと言えば、
小学校の卒業制作で学校で皆で絵を作ったくらいだ。
あとは、そう、銭湯の壁の絵くらいだろうか。
富士山に鷹が飛んでいる絵だったと思う。
なすびが描かれてないので、縁起物を狙ったわけではないのだろうとおもったが、
やっぱり富士のお山は銭湯には必須だろう。
そんなことをつらつら考えながら絵を見ていたら、
不意に目の前がふっと暗くなった。
えっと思うが空に夕日はすでに無く、
辺りが真っ暗な闇で覆われてつつあったことに気が付いた。
石版を鞄の中に急いでしまった。
疲れて思考回路が回らなくなった頭に、
もう夜が来るのだと忍び寄る冷気が教えてくれる。
寒さにぶるっと震えながら、どこか寝れる場所とあたりを見渡したら、
集落の右端にどっしりとした大岩があり、
3分の一だけ天井が残っていた住居があったのを思い出した。
あの中なら横になって寝れるかもしれないと思い、
よろよろと立ちあがる。
その時どこからか、ウォ~ンと甲高い獣の遠吠えのような鳴き声がした。
芽衣子の心臓がドキリとなる。
ドキドキした心臓の音が早く早くと急かす。
大岩の傍の住居まで小走りで走っていき、
岩をつたって何とか天井によじ登った。
壁の高さは3m弱。
崩れそうな煉瓦だが、岩の支えがある壁はしっかりしている様だった。
その壁に沿うようにして、天井が幅30cm程残っている。
芽衣子はその細い天井に身を伏せる様にして荷物を抱え込み、
面積を取らぬように出来るだけ小さく体をぎゅっと縮めた。
本当なら住居の中で横になって寝たいくらいに疲れているのだが、
獣がいるのなら床で寝るのは危険すぎる。
前に無人島に行ったときセランが教えてくれた。
(いいか、メイ。
獣が居ると予想されるときは、なるべく高い木によじ登れ。
獣が猿や熊なら駄目だが、野犬やイノシシなどなら、
木の上ならなんとか助かる可能性があるからな)
ここに木はないが、壁の上も高いところだ。
無人島に行ったときは、レヴィ船長やカース、セランにルディに、
沢山の頼もしい船の乗組員達が居た。
たとえ獣が出たって、皆がいれば大丈夫。
そう思って安心でき、テントの中でも熟睡出来た。
だけど、今は一人だ。
芽衣子はこくこくと眠りそうになる瞼を必死で開けて、
わずかな幅の天井に息を殺して身を固めた。
そして、どんどんと下がっていく外気温。
必死で息を殺しているのに、体からどんどんと体温が奪われる。
忍び寄る冷気が、体を寒さで震わした。
砂漠を渡る風は、昼間の暑さが信じられないほどに冷たい。
冷蔵庫の中の霜を思わせる私の口周りに出来た白い水滴。
吐く息が、少しずつ凍っているのかもしれない。
このままだと朝には凍死しているかもしれない。
神様の加護がどこまで通じるのか解らないが、獣が来ないならば、
下に降りて家の壁に寄りかかって風をよけながら寝れるのではないか。
なんとなくそんな考えがふとよぎったが、
カースの声がポンと頭に浮かんだ。
(どうして貴方は目前のことしか見えないんですか。
常に先のことを考えて、危険を回避する方法を考えなさい)
そうでした。
ここで降りて獣が来たら、私の運動神経では絶対に逃げられない。
降りては絶対に駄目です。どんなに寒くても。
目先のエサに釣られてはいけないと何度もカースに怒られたではないか。
降りてくる瞼とくじけそうになった心を叱咤し、
ぐっと歯をくいしばって冷気の襲撃に耐えた。
そうして、どのぐらい経っただろうか。
ぐぅぐるるるる。
低い脅すような唸り声がした。
はっと気がついた時、いつの間にか寝ていたようだ。
体を動かさない様に首を起こした。
そして気が付いた。
生臭い息に、ハッハッハと荒く吐く息音。
そして、先ほど耳に届いた唸り声。
私のいる壁のすぐ傍から獣の生臭い息遣いが聞こえてきた。
ウウウウグルルルと獣の唸り声が幾つも重なる。
一匹でない複数の獣の気配。
同時に聞こえてくる、獣の副音声。
(旨ソウナ肉の匂イ。 食イタイ)
(食ラウゾ、骨マデ)
(飛ビツイテ喉笛ヲ我が引キ裂ク)
(肉ダ、ソコにエサの匂イ)
背筋まで、ぞうっと震えがくる。
暗闇に慣れてない芽衣子の目では全く見えない獣の姿。
けれど、芽衣子の乗る壁を、岩をがりがりと爪が音を立てているのがわかった。
(コノ上ダ)
(ヒキズリオロセ。エサを)
壁際を沿うように、生暖かい息が白い薄煙を夜陰に浮かび上がる。
その数の多さに、髪の先まで神経が泡立つ。
恐怖と寒さで歯が音を立てようとする。
だけれど、音を当てれば獣たちを煽ってしまう。
芽衣子の経験からすると死なない加護はあるのかもしれないが、
怪我はしっかりするのだ。
闇に光る白い牙がちらほら見える。
あんな歯に引き裂かれたら痛いでは済まない。
手足の一本や二本、無くなる可能性だってある。
つまり、獣たちが芽衣子を引き裂いてかみついた場合、
引き裂かれてぼろぼろ四肢なしゾンビになること請け合いだ。
ゾンビも嫌だが、誰が好き好んで獣のエサになりたいものか。
そもそも痛いのは嫌いなのだ。
芽衣子は必死で服の袂を噛みしめ、歯の音を消しながら震えていた。
体は極限まで疲れていたが、迫る獣が齎す恐怖が脳裏を支配する。
声を出してはダメ。
息を吐きすぎてもダメ。
音を立ててはダメ。
そんなことをすれば獣たちが襲ってくるかもしれない。
暗闇ではっきりと解らないが犬よりも大きな狼のような動物だろう。
もし彼らが一斉に襲ってきたら、
壁際に何頭もぶつかってきたら、
こんな脆い壁は壊れてしまうかもしれない。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
怖い。怖い。怖い。
ともすれば悲鳴を上げてしまいそうな喉を抑え込み、
手の震えを押える為にぎゅっと腕を掴む。
必死で恐怖に打ち勝つ為に記憶を探る。
なにか、何か強いもの。
安心できるもの、傍にいてほしい人。
レヴィ船長の暖かな腕に包まれた幸せな記憶がふっと甦る。
(メイが足りない)
そういって遺跡に向かう時、馬の上で抱きしめてくれたレヴィ船長の腕。
寄りかかった逞しい胸の鼓動はとくんとくんと暖かい音色。
幸せで嬉しかった大切な記憶。
一瞬だが、恐怖がふっと薄れる。
涙がポロリとでた。
嗚咽がのど元まで来たので、声を出さない様に口元を手のひらで覆った。
会いたい。
怖い。
会いたいよ。
恐ろしい。
レヴィ船長。 今すぐに貴方の胸に帰りたい。
芽衣子は、レヴィ船長との想い出を脳裏に張り付ける様にして、
何度も襲ってくる波のような恐怖に耐えた。
時間が過ぎるのを永劫のごとくに感じつつ長い間耐えていたが、
やっと終わりが来たようだ。
砂漠の東の空が少しずつ白くなっていくにしたがって、
獣は一匹また一匹を姿を消していった。
獣の気配は無くなったが、
芽衣子は恐ろしくてしばらくは天井から降りられなかった。
そして、日の光が広がってくるのを見て助かったと実感し、
悴む手足を動かして、ようやく天井から降りた。
地に着いた足は、がくがくと覚束ない。
全身が緊張で強張っていた為、体中が痛みを訴えた。
よろよろと歩き、住居の影に背中を預けてやっと一息ついた。
「ああ、やっと朝。
はあぁ、疲れた。
ずごく、怖かったぁ。
でも、……助かった~」
そこまで口に出して、はあと大きなため息をついた。
そして明るくなっていく空を見ながら呟いた。
「会いたいよ。
レヴィ船長、カース、セラン、照。
皆、どうしてるかなあ」
瞼が急激に落ちてくる。
襲ってくる眠気に逆らえず、芽衣子は瞼の奥に皆の姿を探すように、
すうっと眠りに落ちた。
**********
芽衣子が砂漠で大変な目にあっている頃、
レヴィウス達は、海の上、船上にいた。
彼等がいるのは彼等の船の船長室だ。
カースとレヴィウスが二人だけで話をしていた。
これからの航路の予定や、降ろす積荷のあれこれ、
もうじきつくであろうマッカラ王国にもっとも近い港ラドーラのこと。
不意に、カースが左手を持ち上げた。
その左手には、ぶるぶると震える金の腕輪があった。
「レヴィウス、あの穀潰しがなにか喚いているようです」
レヴィウスの襟の後ろから子猿がひょいっと姿を見せた。
猿の姿をしている樹来である。
「おいらメイを見つけたよし。 この国にいる近くよしないとする」
パッと見た感じでは猿はキーキーと声を上げているにすぎないだろう。
だが、レヴィウスとカースの耳には、
猿の声が先ほどのように変換して聞こえてくるのだ。
不思議な物だと思うが、メイが受け入れた存在なのだからと、
レヴィウスもカースも素直に受け入れていた。
「メイを見つけたのか! どこだ。」
喜びで目を輝かしたレヴィウスの言葉は、
カースにも嬉しい驚きを齎した。
カースが詳しい話を訊ねるべく樹来へ向けて口を開こうとしたら、
カースの肩に小さな照が現れた。
「ちょっと誰が穀潰しよ。
それより、樹来、メイの呼んでいる気配がしてるって、
たった今、私が、言うところだったのよ。
邪魔しないでよ」
きゃんきゃんと喚きだす照に、カースはイラつきながら答えた。
「耳元で騒ぐなと何度言えばわかるのです。 この阿呆精霊。
メイが呼んでいるなら、
どうして事前にメイの居る詳しい場所が解らないのですか。
あんなに大言壮語を吐いていながら、情けないことですね」
「う、煩いわね。
仕方ないじゃない。 私はセイレーンなのよ。
海の傍や水の豊富な場所なら私の力は及ぶけど、
この辺の国は乾燥しているうえに空気に湿気がまるで無いんですもの。
こんな状態だと、力を使うこともできないわ。
そもそも、メイの姿が見えないのは、
どこかで私の力が阻害されているからだって、
何度言ったらわかるのよ」
猿の樹来がやれやれと頭を振る。
「照、言い訳よろしくないよいしょ」
「煩い、樹来、そこに直れ」
「煩いのは貴方です。照」
3人がぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるのを、
レヴィウスは眉を顰めながら指をぱちんと慣らした。
ピタッと収まる騒動。
メイが居なくなって3か月はずっとこんな感じだったので、
対応は慣れたものだ。
「樹来、照、メイはこの周辺の国にいるんだな。
どこか詳しい場所はわかるか?」
レヴィウスの言葉に、カースも目を瞠る。
「そうでした。 メイは、どこにいるんです、樹来、照」
樹来は首を振る。
「詳しく解る無いよろし」
照も肩を落としながら、必死で言い訳をする。
「私も解らないけど、でもメイはこの先の国にいるわ。
多分、私の力が届かない場所のどこか」
「それがどこかと聞いているんでしょう」
カースの言葉に、照の顔がくしゃりと歪んだ。
「解らない。 だって、わたしこの周辺国に来たことないんですもの」
泣きそうな顔を見て、レヴィウスが声を上げた。
「わかった。 この先の国にいることは間違いない。
ならば、必ず探し出して見せる。
カース、樹来、照、いいな。
メイの情報は絶対に逃すなよ」
全員が決意を込めた目で見つめあった。
外の見張り台から大きな声が響いた。
「おおい。 港がみえたぞー。 陸だー」
青い空の白い雲。
マッカラ王国にもっとも近い港。ラドーラ。
砂漠の国サマーンの一番端に位置する港町。
やっとメイの情報を見つけた。
もうすぐだ。
もうすぐ、メイにあえる。
きっとメイはサマーン国近辺に居るに違いない。
レヴィウスは、ぐっと拳を握りしめた。




