赤い箱ではありませんでした。
そんなにすぐに帰れませんね、やっぱりなのです。
ひゅるるるる~と肌寒い風が首の後ろを通り過ぎていく。
そして、風の動きに合わせて落ちていた枯れ枝がかさかさと舞い踊る。
季節はもう4月も終わろうというのに、
この寒さはなんなのかと誰かに問いたくなる天気だ。
日差しは暖かく参道の敷石はきらきらと光っているのに、
冷たい風がその熱をすべて奪っていた。
「はあ、春って一体いつからいつまでのことなんだろうか。
というか地球温暖化って言ってるくせに、この寒さは異常だよね」
街中では春色の展示物がすでに消えかけており、
水玉や青色が主流の夏色に変わりつつある。
春の代表格である桜は気が付けばあっという間に散り、
冬眠していたカエルがどこからか出てきて、ケロケロっと鳴いていた。
去年の今頃、40%OFFの赤札でついつい買ってしまった春物のコートも、
結局一度着ることなく今年も終わりそうだった。
箪笥の肥やしにしてはいけないと、仕事場にまで持ち込んでいるが、
帰り道の寒さについぞ着れずにいる毎日だ。
そんな春麗らかな日差しを余所に、芽衣子は大きくため息をついた。
ため息をつきながらも、体は慣れた様に竹箒を緩慢に動かし、
いつものように神社の参道の掃除をしていた。
そして、力ないままに階段の傍まで掃除し終わると、
目の前に広がる町が一望できる景色を見て、またため息をついた。
「確かにあのあたりに見えたはずなのに、なんで無いんだろう」
竹箒の柄に両手を組んで乗せ、その上に顎を載せるようにして、
じっと町の風景を見つめながらぼそっと呟いた。
芽衣子の記憶では、あのあたりに確かにあった竜宮堂古書店は、
今は見る影もないというか、どこにもない。
引越ししたのかと慌てて周り近所に聞きまわったが、
可笑しなことに誰一人その存在すら知らなかった。
「あのあたりに住んでいる人に聞いても、
ここ何十年も本屋なんてあったためしはないって」
どういうことなのかさっぱりわからなかった。
芽衣子は目の前の景色を打ち消すように目を瞑り、
またもや大きなため息を吐いた。
実家から帰った芽衣子は、すぐさま異世界に帰るべく行動を起こした。
帰る新幹線の中でも、春海に会って言う事や伝えたいことなどを
箇条書きにして書き連ね、意気揚々と竜宮堂古書店に乗り込むつもりだった。
しかし、芽衣子が覚えている唯一の手がかりである竜宮堂古書店は、
この世界には存在しないとばかりにその姿を消していた。
芽衣子が方向音痴であった試しは過去に一度もないのだが、
私のことだから妙な勘違いもあり得るかと、何度も何度も石段から確認しては、
地図を照らし合わせて民家と細い路地の間を右往左往した。
だが、本屋は見つからない。
ならばと私の目で見える半径1km圏内を隙間なく探したが、
それでも見つからない。
範囲を広げて2km先までも捜索したが、どこにも無かった。
建物が無いならば、元凶である春海を探してみようと思い、
人通りの多い街中や、学校、スーパーやショッピングモールまで行き、
じいっと人の顔を見て過ごした。
余りの視線の強さに敵でも探しているのかと、
いかにもヤクザ風の怪しいおじさんに注意された。 失敗だ。
その反省を元に、駅近辺では駅前の某ファーストフード店二階に粘って探したが、
春海は見つからない。
結果としてその店のメニュー全てを制覇してしまった。
最近のマクドOOOは結構おいしい。新しい発見だ。
おかげで私のお財布はかなり薄く軽いものとなった。 くぅ、悲しい。
仕事前と後、そして休日すべてを使って探したが、
誰かが通報したのか、怪しい人認定で警察官に職務質問され、
店窓見張りは断念した。
似顔絵をかいて張り紙をしてみるかと挑戦したが、早々に諦めた。
そういえば子供の頃、お友達の絵という題材で達也の顔を書いたら、
パンダだ、熊だと評価されたことを思い出した。
達也は笑って、絵は芽衣ちゃんには向いてないねって言っていた。
ちなみに達也が書いた私の似顔絵は、金賞を取って職員室の壁に1年展示された。
自慢ではないが絵の才能は、私には欠片もないと解った時だった。
解っているが、こういう時には才能があってほしかったと思う。
異世界の手がかりは、芽衣子の記憶だけ。
他は何一つ無いのだ。
最初は楽観的に考えていた芽衣子だったが、今は本当に途方に暮れていた。
最後の頼みの綱とばかりに、最近になって芽衣子の勤め先である神社で、
拭き掃除の後、念を込めるように毎日神頼みをしているが、
効果はあらわれていない。
神主に貰ったお守りを肌身離さずつけているし、
大願成就のお守りも一緒にセットにして服のポケットにいつも入れている。
お守りがGPS代わりと言うわけでもないだろうが、
神頼みを神様が見逃す隙はないはずだ。
そんな状態なので、芽衣子のため息は一層深くなる。
あれは全て夢で、あの世界は芽衣子の想像の産物だとしてしまうのは簡単だ。
だが、芽衣子は芽衣子自身が決めた人生の選択を諦めたくなかった。
どうしても、あの世界に、レヴィ船長がいる場所に帰りたかった。
だから、精一杯足掻いているのだが、なんともはや。
今は、ため息が芽衣子の特技になりそうなくらいため息をついている自覚はある。
その結果として、実家から帰って2か月近く経つのに、
芽衣子はいまだに今までの生活をずるずると続けていた。
最初の頃は立つ鳥跡を汚さずで芽衣子のアパートの掃除や、
永遠に誰にも見せられない物体X(青春の日記帳等)を片付けたり、
何があってもいいように、アパートの更新を月極め更新にしたり、
冷蔵庫の中や押入れを片付けたりと意欲的にいろいろしていた。
片付けている間は余計なことは考えなくて済む。
だから助かっていたのだが、
今では、必要最低限のものしかそこにはない。
片付ける物すらないのだ。
いつか異世界に飛び出すための布石であるがゆえであったが、
がらんとした空間を見るにつけ寂寥感が襲ってくる。
芽衣子がそこに居たという軌跡が消えるような気がして、
自分の部屋なのに、とても居心地が悪い。
今までは、もうじき異世界に行くのだからと前向きに考えていたが、
こうも宛てがないのでは、心がへたれてしまいそうだった。
「もう、どうしたらいいのかなあ」
異世界に繋がるものが何一つ見つからないのだ。
はあっとため息を再度つき、そしてがっくりと肩を落とした。
「芽衣子さーん、そろそろ時間ですよ。用意してくださいね~」
背後の社務所から、神主の奥さんが芽衣子を呼んだ。
はっと気が付けば、いつの間にか両手は下に落ち、
顎に食い込むように竹箒の柄の跡が赤い輪を作っていた。
痛みは余りないが、顎の関節当りがやけにかくかくする。
「うぁ、ふぁい。ひゃない、あー、あいうえおかきくけこ。
はい。 今、行きます」
芽衣子は、顎関節の動きが滑らかになったのを確認してから、
急いで竹箒を抱えて石段から離れた。
そうだった。
今日は、こんなところでのんびりと感慨にふけっている時間はなかった。
本日は、大安吉日。
地元に愛されているこの神社は結構忙しいのだ。
竹箒を用具室に放り込むようにしまう。
社務所に急いで入って、芽衣子の机の一番下の引き出しを開けて布の鞄を取り出し、
奥の6畳の和室に飛び込んだ。
そこには、神主の奥さんと今日が主役の白無垢姿の花嫁さんがいた。
そう、本日は結婚式があるのです。
大きな白い角隠しに、真っ白な白無垢。
血色の好い健康的な肌の上にうっすらと白粉がはたかれ、
それに相対するように真っ赤な口紅が小さく口を彩っていた。
「うわぁ、綺麗だね~。本当に素敵です。
世が世なら、三国一の花嫁って呼び声が聞こえてきそうですよ」
思わず口から出た私の第一声が、
下を向いて緊張していたであろう花嫁さんの顔を緩ませた。
「あ、有難うございます」
小さな声で芽衣子に礼をいう花嫁は、頬をうっすらと赤く染め実に初々しい。
日本古来の美を名実ともに備えた、楚々とした美しい花嫁さんだ。
こんなお嫁さんをもらえる男性は鼻高々に違いない。
そういえば、ミリアさんの結婚式はどうだったんだろうか。
ミリアさんの花嫁姿はすっごく綺麗だろうな。
見たかったなあ、写真とかあっちにないから、
後で見たいと言えないのが残念で仕方ない。
美しいミリアさんに、カゼズさんは二度惚れするに違いない。
姪を溺愛しているオーロフさんは、涙が止まらないかもしれないよね。
オトルさんの特別料理は美味しかったのだろうか。
逃したのは、とてもとても残念だ。
芽衣子が一生懸命に作った布のお花のコサージュ。
大体完成していたが、あの騒動で荷物に入れっぱなしになってる。
遅れて渡してもミリアさんは怒らないだろうが、
どうせなら結婚式に間に合わせたかったなあ。
芽衣子が花嫁姿からいろいろと連想していたら奥さんに叱られた。
「ほら、見とれてないで。
そろそろ、芽衣子さんも着替えてくれる?
そこにいつもの装束を用意しているから」
そういわれて、座敷の隅に目を向けると、
平たい黒漆の長持の上にいつもの巫女装束が置いてあった。
花嫁の支度を終えてバタバタと右往左往している奥さんも、もちろん着物を着ている。
芽衣子は衝立の後ろへ入り、手早く装束を身に着ける。
芽衣子の衣装は、正月にも着た巫女さん装束だ。
この神社では、正式な巫女さんは神迎えの儀式の時くらいしか雇わない。
あとは、仮の巫女、つまり芽衣子のようなものが儀式の進行の補助をする形で手伝うのだ。
芽衣子は、手早く着替えて衝立の中に置いてある鏡台でささっとお化粧を直す。
手抜きだと思われるくらいに薄化粧だが、本日の主役は花嫁だ。
こんな芽衣子の姿にいちいち目くじら立てる者は誰もいないだろう。
鏡台の横に荷物を置いて、着ていた服を長持の上に畳んで置いて部屋を出た。
「さあ、お式に向かいましょうか」
奥さんの言葉を先触れに、芽衣子が花嫁を先導して神殿に向かった。
神前結婚式は最近ではよくあるので、芽衣子もなんとなくで慣れたものだった。
神殿の方から、笛と鈴の音を合わせた優美な雅楽の調が聞こえてくる。
ゆっくりと白打掛を引きながら進む花嫁の後ろを、
神主の奥さんが高坏を掲げ持ってついてくる。
高坏に載せてある物は、三々九度用の杯だ。
神殿の入り口を挟んだ反対側の廊下から、紋付き袴姿の花婿が進んできた。
雅楽の調べが流れる中、花嫁花婿が顔を合わせ神殿に入ると、
拝殿正面に神主が居た。
芽衣子は雅楽を流しているCDデッキのスイッチを切り、脇に控える。
新郎新婦は神主の前で頭を垂れ、神主の詔を拝謁する。
この詔って、聞けば聞くほど眠くなる。
日本語なのに、外国語のように何を話しているのか解らない気がした。
高天原なんちゃらってで始まって神様の名前の羅列かな。
あれ、呪文って感じだよね。
神様って呪文好きなんだろうかとちょっとだけ頭をひねる。
神様にしかわからない暗号とかあったらちょっと面白い。
そんなことをつらつらと考えていたら、
シャッシャッと神主さんが新郎新婦の前で榊の枝を振った。
そして、芽衣子が三々九度の杯に拝殿のお神酒を注ぎ二人に渡す。
でも、お神酒と言っているがあれは実は水。
お酒で前後不覚になってもいけないので、希望者は水に変えているのだ。
えー、お酒じゃなくて大丈夫なのと言いたいところだが、
本来は婚儀の杯は水が主流なんだそうです。
祝い事なのだからと酒が使われるようになったのは、
御貴族様の雅な趣味が混ざった結果らしい。
殆どの神社は、神水を用意するのだそうです。
水道水などは使いませんよ、もちろん。
こちらの神水は、この神社に昔から使われてきた井戸の水です。
この高台にまで届くとてつもない深い井戸。
水がこんこんと湧き出ているので、どのぐらい深いかはわからないが、
夏場でもキンキンに冷たい。
奥さん曰く、スイカを垂らしてみるとあら不思議。
30分もしないうちに冷蔵庫よりも冷えるらしい。
電気代節約な天然冷水の神水です。
おかげで夏には美味しいスイカが食べられる。 神様に感謝である。
味はまろやか天然軟水です。
うーん、だからここのお茶美味しいんだよね。
あ、お水談義をしているうちにお式が終わりました。
三々九度も無事に終わって、新郎新婦もほっとした顔をしている。
奥さんに手を引かれて、花嫁さんがお色直しに出ました。
その後、写真撮影。プロの写真家がパシャパシャと撮った後、
私は親類縁者がひっきりなしに差し出してくるデジカメを次々に構えてハイチーズです。
そして、出席者へのご褒美ともいえる披露宴があります。
今回は親族と親しい人だけを招いての式とのことで、出席者は全員で30人足らず。
お披露目会場は、神社のすぐ真下にある和食のお店。
神主さんの妹さんが経営しているそのお店は、普段は旅館スタイルの定食屋。
昼定食が1500円からとちょっとお高めな限定30食の人気店です。
芽衣子も一度しかお店で食べたことないがとても美味しかった。
特に、がんもどきと里いもの煮つけは美味しさに感動して打ち震えた。
そして、こういった祭事に関しては、
料理一切を取り仕切る和懐石の割烹でもあります。
このお店はこの辺りでは知らないひとはいない老舗です。
創意工夫を凝らしたと定評がある和懐石と、完全予約制のおもてなし旅館。
雅な日本古来の日本庭園に重厚な趣のある日本家屋。
こういった祭事の時はお泊りもセットになっていて、完全に貸切状態となるが、
その至れり尽くせりのサービスには誰もが満足と答えるらしい。
だから、この神社と冠婚葬祭とセットになった旅館サービスは、
地元はもとより、県外でもかなり人気が高い。
神社も旅館も潤い、地元にも還元される本当にいい商売です。
で、なにが言いたいかというと、
こういった祭事の時には、料理のおすそ分けが必ずあるのです。
ふふふ、今日の夕食は和懐石~
季節の旬を取り入れた絶品料理。ああ、なんでしょうか楽しみです。
今の時期だと筍、山菜でしょうか。
花嫁花婿が着替えて荷物を車に詰め終わり、下の旅館に全員が移動。
拝殿の簡単な掃除をささっと済ませて全ての片付けを終えたら、
奥さんに頼まれて下のお店までお弁当を取りに行った。
急がないと旅館業務が立て込む時間になるので、巫女装束のままだ。
いつものように裏口から入り、勝手口から台所へ直接向かう。
お勝手の机の上には小さな朱塗りのお重が5つ。
鼻を近づけると、ふわっと出汁のいい匂いがした。
ああ、美味しそう。
今日はよく働いたので、すでにお腹の皮と背中の皮が引っ付きそうだ。
それを持ってきた紙袋に入れて持ち上げると、くう、結構重い。
「ああ、やっと来たのか。
遅かったな、本当に待ちくたびれたぞ。
焦って行くと怪我の元だ。くれぐれも取扱いは慎重にしろよ。
それから、そうだな。 えーと、まあいいか。
これはあんたにやるよ。 幸せのおすそ分けって奴だな。
苦労して作ったが、残りだから気にするな。
お使い賃にあんたにやろう」
ひょいっと台所から出てきた新人であろう若い料理人。
始めてみる顔だけど、職人にしては線が細い。
眉が細く目がくりっと丸いジャニーズ顔な和食料理人だ。
見た感じ、背が低いのが難点な少年だ。
でもここで働いているということは、立派に成人しているのだろう。
人は見た目では解らないからね。
その上、新人の癖にやけに偉そうだ。
両手を組んで胸を張って出す。
その様子は、子供が威張っちゃって可愛いねえって頭を撫でたくなる。
彼は、小さな包みを放り投げるように私にくれた。
「あ、はい。有難うございます」
結婚式の引き出物の残りといったら、紅白饅頭だろう。
何度も引き出物の残りをもらった経験から間違いはないだろう。
大きさも紅白饅頭用の10cm位の長方形の箱。
中身は、500m程先にある和菓子の老舗店の常用饅頭に当りだ。
あれは本当に美味しいのだ。
白い包みから透けて見える熨斗紙と水引がいかにもおめでたそうだ。
今日は疲れているので、甘いものは正直ありがたい。
芽衣子は巫女装束の袂にその包みをいそいそと入れ、
重い紙袋を抱えたままよたよたと階段を上り、
奥さんに料理のお重を無事渡しました。
奥さんは、手際よく紙袋にそれぞれ分けて、
引き攣った腕をもんでいた芽衣子に紙袋を一つ。
力仕事を終えた武男さんと信夫さんも嬉しそうに紙袋を受け取っていた。
「はい。芽衣子さん、今日は本当にお疲れ様。
これは夕食に食べて頂戴ね」
ずしっと重い紙袋をほくほくとした顔で受け取って、
今日来た巫女装束を着替えて帰ろうとしたら、奥さんが途端に困った顔をした。
「あのね、芽衣子さんが脱いだ服って長持の上に置きっぱなしだったでしょう。
花嫁さんの荷物とどうやら混じっちゃったみたいなのよ。
鏡台の傍にあった荷物はここにあるんだけど、
どこを探しても芽衣子さんの着てた服ないのよ。
あちらのご家族には連絡したから、多分2,3日うちには帰ってくると思うけど、
今日はそのまま帰ってくれる?
何だったらタクシー使ってもいいから。
あ、序に装束は近いうちに駅前のクリーニング店に出しておいてね」
ああ、花嫁さんの衣装やお着換えでばたばたしてたから。
まあ、しかたないかあ。
うーん、時刻は今6時前。
日が長くなってきたので、まだ外は明るい。
おそらく駅前は沢山の帰宅者で溢れている時間だ。
タクシーを呼んだとして、ここに来るのは1時間を過ぎるかもしれない。
だが、私のお腹の音は段々と大きくなってきている。
それに、電車で2駅の距離にタクシーなんてもったいない気がした。
そういえばロッカーに、一度も来ていない春物のコートがあったはずだ。
あれはひざ丈まであるトレンチタイプなので、
しっかり着込めばそこまで目立たないだろう。
「あ、大丈夫です。
予備のコートを置いてあるのであれを羽織れば、
問題なく電車で帰れます」
「そう? 芽衣子さんがそういうならいいけど。
気を付けて帰ってね」
武男さんと信夫さんが車に乗せようかと言ってくれたけど、
彼等の家は私とは正反対の上に、少し遠方だ。
それに、今日は一日結婚式のお支度で大変だった。
芽衣子ですらここまで疲れているのだから、花嫁花婿の送迎から始まって
力仕事を含む雑用をこなしていた彼等はもっと疲れているだろう。
そんな彼らの至極の夕食タイムを邪魔するのは気が引けた。
紙袋と布のトートバックを手に持ち、ベージュのコートを羽織り社務所を出た。
参道の向こうに見える太陽は、
ゆっくりとその姿を住宅地の影に鎮めようとしていた。
「わあ、綺麗~」
斜めに過るオレンジの光が、階段の石段を橙色に染める。
空の色が、赤からオレンジ、ピンクに薄紫、グレーに濃紺と、
次々に重なるグラデーションは、黒い住宅地の影を影絵のように際立たせた。
何度も見た風景だが、自然が齎す荘厳な雰囲気に飲まれたように、
芽衣子はぼうっとそこに立ち尽くしていた。
ぐぅ~きゅるるるるぅ~。
芽衣子のお腹の訴えが芽衣子の耳に届いたとき、太陽はその顔を地平線に隠していた。
薄闇がゆっくりと空を濃紺に染め、空に金星が光っていた。
そんな風景にちっともロマンチックに浸れない芽衣子のお腹は今、
最大限に文句を言っていた。
「うう、お腹すきすぎて気分悪いかも。
今日忙しくて、お昼おにぎり一つだったから。
家に着くまで、お腹の音我慢できるかな。
電車でこんな大きな音なったら、顔をハンカチで隠して帰らないといけないよ。
でも、ごちそうを前にしてコンビニで何か事前に食べるのもねえ。
かといって、ここで重箱広げるのは嫌だし。
あ、そういえば、紅白饅頭貰ってた」
袂に入れたままだった箱の包みを取り出した。
豪華な和紙に包まれた小さな箱。
手に持った感じでは紙箱ではなく、きちんとした木箱なのだろう。
下の割烹旅館では、おもてなしお土産サービスとか言うのを最近始めたらしく、
手間暇かけた素敵お土産お菓子を小奇麗な箱や包みに入れて出していると聞いた。
芽衣子の手の上に乗る箱も、これでもかとばかりにきらきらと光る和紙で覆ってある。
宝石箱を包むような包装を開けると、これまたキラキラな水引。
箱の色は綺麗な水色でした。
最近の紅白饅頭の箱は意外に季節を取り入れたものなのかしら。
水玉とかではないのは、やっぱり慶事のお土産だからかな。
黒漆の裏打ちに水色の塗り箱。
うん? 随分豪華すぎませんか?
今までの紅白饅頭は精々桐の箱でしたが。
もしかして……。
そう思って、くるりと箱の後ろを見る。
裏には何も書いてありません。
気のせいですね。
主催者の意向というやつかもしれません。
それに、赤い箱ではないですし。
私だって、学習しているのですよ。
前みたいに問答無用で飛ばされるのは極力避けたいと思ってましたから。
だから、あれから怪しい箱を見つけると裏を必ず見るようにしているんです。
新幹線の中で考えていた春海への要望書の筆頭は、
海で遭難はやめてくださいと言うものだった。
出来れば足に地がつくところがいいですと言おうと決めていた。
あの遭難事件は意外にトラウマっぽいものになっているんですよ。
まあ、それはさておき、この箱の裏には何も書かれていません。
ちょっとがっかり、同時にちょっと安心です。
今飛ばされて海で遭難すると、この巫女服クリーニングに持っていけないですからね。
やはり、この箱は紅白饅頭ですね。
箱には、熨斗紙と金銀の水引がかけられている。
その水引にくくりつけるように、小さな封筒がついていた。
メッセージカードと言うものですね。
私達の結婚式に来てくれて有難うとかいう、花嫁さんのメッセージだろう。
芽衣子は結婚式に参加したというわけではないので、
そのメッセージを読むのはどうかなと思って、さっさと水引の紐を解いた。
お腹の音が後押ししたのはもちろんだ。
「いただきま~す」
そして、ぱかっと開けたらぼふっと真っ白な煙が芽衣子の眼前で弾けた。
突然の煙に思わず目を瞑りかけた芽衣子の目に咄嗟に入ったのは、
ひらひらと煙に舞う熨斗紙が剥がれた箱の表面。
(注意!開けると帰ってこれません。
幸せになりたい方は決して開けないでください)
水色の塗箱にくっきりと黒い字が。
綺麗な毛筆ですね。じゃない。
嘘!
玉手箱!
水色箱もあったのですね。
赤い箱ばかりと注意していたので、盲点です。
ああ、そういえば注意書き。
以前に裏に書くなって苦言を言ったから表に書いたのですね。
って、熨斗紙で包んでいたら見えないでしょう!
ていうか、どうして?
この箱くれたあの男の人、春海じゃあなかったよ。
何で!?
いや、それより私の紅白饅頭はどこに行ったの?
煙を追い払うべく片手を大きく払うと、足元がぐらりと揺れた。
え? と思った矢先に、芽衣子の周りがぐにゃりと歪む。
その途端に芽衣子の体が天地さかさまになるかのようにぐるりと回る。
目がちかちかして、あれ?と思ったのを最後に、
芽衣子の意識がぷつりと途絶えた。
紅白饅頭って、美味しいものはとっても美味しいですよね。
和菓子は日本文化の要ですと声を大にして言いたい。




