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箱をあけよう  作者: ひろりん
第6章:帰還編
177/240

願花の奇跡。

一つの鍋を囲むという行為は、仲良くなるための一番の近道だと昔の人は言った。

それは多分間違ってないと思う。

同じ釜の飯を食すと一体感が生まれることを意味しているかもしれないが、

この場合は、過程にも意味があると思うのだ。

鍋作成には簡単でもある程度の手間を必要とする。

そして、それを分担することで達成感を分かち合うことが出来るのだ。

俗にいう遠足の飯盒炊爨と同じ意味合いかもしれない。


まず、父、勝也と仏先生によって、居間の机の上に電気コンロと鉄平鍋が置かれた。



そして、彼等を手伝おうと手を伸ばしかけた雅美をすばやく嶋が引き止め、

あたりさわりのない作業を雅美に振る。

箸置きや箸、御手拭を並べたり、延長コードにプラグを差し込むとかである。


実害が伴いにくい作業ばかりであるが、まあ確かに必要な作業だ。

その上、並べ方が綺麗だと褒められ、雅美は気分よく箸を並べている。

本当に嶋は雅美のことをよくわかっている。実に適切だ。



芽衣子と祥子が野菜をザクザクと切って洗ってざるに打ち上げる。

水気が切れたところで村井が次々と居間に運ぶ。

勝也が運ばれた野菜を手際よく熱した鍋に入れていく。


野菜からじわりと水気が浸み出てきて鍋の底を浸した時、

朝から作ってあった昆布だしを勝也が投入し更に煮る。


野菜が煮えたらシラタキ、キノコ、豆腐、そして主役の鴨肉を入れる。

ピンク色の鴨肉の色が、熱で段々と白くなっていく。

村井が勝也の指示で、鴨からでるアクをこまめに掬っていった。


ぐつぐつと音を立てて煮えている白菜や水菜、シラタキにネギに豆腐。

3種類のキノコに囲まれて煮えているのは鴨である

中央部分には祥子お手製の鳥つくねがぷかぷかと浮いていた。


白い湯気が鍋からふわりと立ち上がり、鴨と昆布の香りが部屋全体に広がる。

目の前には、しんなりとした野菜と白くなった鴨肉に溶けるようなネギやシラタキ。

昆布のだしと鴨肉から出た旨みが溶け合って絶妙に透き通った色合いになる。

芯までやわらかくなった野菜とつくねがほんのりとした茶色に染め上げられる。


口の中の唾液がこれでもかとばかりにあふれてくる。

今にも食べてと言わんばかりの香りに、この光景に、

そこに居るほぼ全員がごくりとつばを飲んだ。


だが、先陣を切って箸をつけようという勇者はいなかった。

全員が目の前の鍋奉行の差配をじっと待っていたのである。


意外かもしれないが、芽衣子の家の鍋奉行は昔から父、勝也である。

ちなみに、祥子はその補佐、芽衣子は下っ端使い走りが昔からの決まりである。


勝也の指示で、祥子が冷蔵庫から瓶ビールを3本持ってきた。

村井が人数分のビールグラスを用意する。

芽衣子が栓を抜き、勝也と嶋と仏先生に渡した。

祥子がコースターを全員の前に置く。


勝也の指示で男性3人がピールを全員のグラスに注いだ。

とぷとぷと音を立てて注がれる黄金色のビールが透明なグラスに満たされる。

よく冷えたビールだったので、すぐにも水滴がグラスの周りにじわりとつく。

上に溜まった白い泡が、暖かい部屋の空気に触れてぱちぱちと小さな音を立てた。



そうして用意が整ったのか、勝也が漸く口を開いた。


「うん。そろそろいいだろう。

 乾杯の音頭は仏先生にお願いできますか?」


勝也の勧めに仏先生はにっこり笑い、

自身のピールグラスを片手に持ち、すっと眼前に持ち上げた。

その仕草を合図に、全員が同じようにグラスを持ち上げる。


「それでは、不肖ながら私が音頭を取らせていただきます。

 

 皆さん、これまで本当にいろいろなことがありました。

 誰もが苦しみ、晴れない暗闇と深い悲しみに長くもがきました。

 しかし、それらはけっして無駄ではなかった。

 これは、我々が決して希望を捨てなかったからそこ得られた未来です。

 この長く険しい道のりを乗り越えたことは、

 この先、未知なる道を生きる我々の心に灯りを灯し続けてくれるでしょう。

 

 今、こうして皆さんと祝えることはまさに感無量です。

 弁護士として、私一個人としてもすべてが報われた気がします。

 本当に有難うございます。

 これからの皆さんの未来に幸多いことを祈って、乾杯!」


全員がグラスを上に掲げて声を上げた。


「「「「「「乾杯!」」」」」」


ぐいっと煽った最初の一口が、喉をごくりと通り過ぎる。

冷たくしゅわとする喉越しが実に気持ち良かった。


ぷは~っとあちこちで声がする。


その後は、隣同士でグラスを重ねて再度小さな乾杯を繰り返す。

カチンカチンと音がなり、ビールを飲むスピードが上がる。


鍋の中では美味しそうな具材が所狭しと踊っていた。

どちらかというと、芽衣子と村井は酒よりも鍋に注意を向けていた。


我先にと鴨肉ばかり皿に盛る村井の足を仏先生が踏み、

箸が止まったことろで勝也がここぞとばかりに村井の皿に野菜をどばっと載せた。

野菜を食べている間に肉がなくなるかもしれないと焦った村井が、

かきこむように急いで皿の中の野菜を食べる。


それを見ていた芽衣子は村井のようになるまいと、野菜大目の肉些少で掬う。

キノコやシラタキ、豆腐などもバランスよく入れていく。

じっと芽衣子の手元を見ていた祥子からは、にっこりと了承の笑顔が向けられた。

村井の二の舞は避けられたようだ。

薬味を入れて、熱い具材を覚ましながら口に運ぶ。


美味しい。 そして懐かしい家の鍋の味。

湯気に隠れてじわりと涙が出て、目の前の風景が翳んだ。

口元を拭くふりをして、目じりを御手拭で拭う。

長く忘れていた家庭の味、故郷の味だ。

芽衣子は夢中で皿の中身を食べていった。


いそいそと箸で鍋を突こうとしていた雅美の手を嶋が止める。

何故邪魔をするのと口をとがらす雅美に、嶋がからかうようにその唇を指でなぞる。

雅美が真っ赤になっている間に、祥子が程よくついだ皿を雅美の前に置く。

真っ赤になった雅美は何も考えずにその皿を持ちゆっくりと食べ始める。

下を向いた雅美を余所に、祥子が親指を立てて嶋によくやったと合図を送る。

嶋も雅美に見えない様に、後ろ手に祥子に親指合図返しである。


嶋と祥子のナイスなコンビネーションである。


なぜここまでと思うかもしれないが、これが最善の策であるのだ。


最悪の場合を仮想してほしい。

箸をいそいそと突っ込む雅美の箸が、どうしてだかわからないが折れる。

慌てた雅美の手がかろうじて箸に引っかかっていた鍋の具材を宙に飛ばす。

それを取ろうとして慌てた雅美が立ち上がり序に机に脚を引っ掻け、

机ごと鍋がひっくり返るといった仮想が成り立つのだ。


ちなみにこれは過去何度も雅美がしてきたことで、決して想像の産物ではない。


芽衣子は長年の気心知れた一つの家族のような6人を見ながら、

暖かい鴨鍋を、懐かしい家庭の味を、心行くまで堪能していた。


じわりと口の中にしみこむ味が、仲の良い目の前の皆が、

心を温かくさせてくれる。


わいわいと騒がしいながらも笑顔があふれる食事は、楽しく美味しかった。


いつものように。


とその時、頭の中にふわりと何時もの白い靄が広がる。


わいわい騒がしい食事が、いつものようにってどういうことだろう。

家では一人暮らしだし、職場でも騒がしく食べるなんてしないはず。


芽衣子の箸がぴたりと止まる。


芽衣子の視界がゆらりと揺れる。


父が座っている席に、違う人間が居た?

父ではない誰かが、これも美味しいですよと私に皿を回してくれる。

私はにこやかに受け取って口に入れ、美味しいっと満面の笑みを返す。

差し出してくれた人が、満足そうな笑みを返してくれて嬉しくなる。


差し出された料理は平皿。 

あの料理はなんだったのだろう。


料理に舌鼓を打つ私は、いつもしているように机の端に座る人に視線を送る。

私の視線に気づいたその人が、私を見て微かに口元を上げて笑い、美味いと答える。

その意見は私と一緒だ。小さなことだがとても嬉しかった。


真っ白の靄の中のその人と目が合う。

そのことが、無条件に嬉しいと感じていた。


あれは一体どこの風景? 

いつのこと?


ぼんやりとその白い靄の誰かの輪郭を探る。


その人が口を開く。

その声がもっと聴けるかもと身を乗り出したところで、

背中をばんと叩かれた。


衝撃で喉の奥が詰る。

口の中に白菜が入ったままだったようだ。

思わず吐き出しそうになるところを、ぐっと我慢してごきゅりと飲み込んだ。


次いで咳込む芽衣子に、祥子が御手拭を渡してくれた。


「芽衣子、食が進んでないけどどうしたの?」


芽衣子は、涙目で咳込みながらも祥子に返答を返す。


「食べてるよ。大丈夫」


「全然、食べてないわよ。

 箸が止まったままぼうっとしているから、

 目を開けたまま寝てるんじゃないかと思ったわ」


悪態をつきながらも祥子の視線は心配そうに芽衣子を見ていた。

勝也も心配そうな視線をよこしてくる。


ああ、心配させてしまったようだ。

芽衣子の様子がおかしいのは、ここ最近の習性?なのに。

あの感覚をどう言っていいかわからないので必死で誤魔化した。

それに、両親に心配を掛けたくなかった。



「やだなあ、違うよ。

 久しぶりの美味しさを堪能してたの。

 独り暮らしだと鴨鍋なんてめったに食べれないもの。

 それに、さっきも言ったでしょう。

 私達、あんな大きな草餅食べたばかりなんだよ。

 それなのに、もりもり食べられる村井さんの胃が可笑しいのよ」


それに対して村井が反論する。


「甘いものは別腹なんだよ。芽衣子ちゃん」


「いや、別腹ってサイズではなかったでしょう、あの草餅」


「実は、僕の胃は牛と一緒で4つあるんだ」


「いやいや、何言っちゃてるの? それだと宇宙人だよ。牛星人」


私の軽口に、祥子と勝也はほっと安堵のため息を小さくつく。


芽衣子は頭を軽く振って心を切り替える。

心配かけてはいけない。

私の不確かな感覚を今は見せるべきではない。

折角、長年の問題が解決したのだ。



そう思って箸を手早く動かして、2杯おかわりしたところで台所に逃げた。

追加の野菜を切るためだ。


ざっくざっくと野菜の予備を切る。

残っていたキノコなどの具材をすべて籠に乗せ

野菜を取りに来た祥子にそれらを渡す。


祥子は何か言いたそうにしていたが、

真剣な顔で台所に立つ芽衣子に何も言わず出て行った。


考えちゃダメ。今は、駄目なの。

何も考えない。出てこないで。

心の中で呟きながら、何度も首を振る。


何かしていないとまたあの靄が襲ってきそうで怖かった。

だから、そのまま洗い物へと忙しく手を動かした。


居間から追加のビールを頼む勝也の声が聞こえた。


村井がビールを取りに台所にやってくる。

村井もなにか言いたそうに芽衣子の方を見たが、

芽衣子は村井にビールを押し付けて居間にすぐ追いやった。


台所からは、芽衣子が一心不乱に食器を洗う音がずっとしていた。







食べ始めてから一時間後、時刻は夜10時を回っていた。

鍋が綺麗に片付いたときには、空ビールが12本転がっていた。

本当にあれだけの量がすべてここにいる6人のお腹に収まったことは、

脅威に近いと思うしかない。


村井に至っては、まだお腹に余裕があったのか、

締めにお茶漬けを祥子にねだって更に食べていた。

本当に、あの細い体のどこにあれだけの食糧が入るのだろうかと不思議に思う。

それでいて太らないのだから、羨ましい体質だ。

本当に宇宙人なのかもしれない。


洗い物もすべて終わり、あらかた居間の机も片付いて、

台所がどこもかしこも芽衣子に磨き上げられ輝いていた。


一息つくために暖かいお茶を入れようと、腕まくりを戻しながら居間に戻る。


仏先生は、うつらうつらと船をこいでいた。

嬉しくて楽しくて、ビールを飲みすぎたのかもしれない

 

村井は部屋の隅で足を延ばしながら、満足そうにお腹をさすっていた。


勝也は庭の鉢が気になるのか、縁側から外に出ていた。


嶋は食べすぎ、飲みすぎで気持ちの悪くなった雅美の背を撫でていた。

もう片方の手には祥子が用意した胃薬が握られていた。


その様子に、ちょっと苦笑した祥子が芽衣子に声を掛けた。


「芽衣子、後は私がするから二階の客間にお布団を4つ敷いてきて頂戴。

 客間の押入れに全部入っているから、よろしくね。

 嶋さん、悪いけど仏先生を客間に運んでくれるかしら。

 雅美は私が見ているから」


芽衣子は急いで二階に上がり布団を4客取り出して、

てきぱきと並べる。

旅館の仲居顔負けの早手際だ。


何も考える隙を作らない様に、

芽衣子は一心不乱に目の前のしなくていけないことに集中する。


仏先生を嶋が運び、お腹一杯で眠くなった村井がその横に転がった。


雅美を祥子が寝室に連れて行った。

胃薬を飲んだ雅美の顔は蒼白に近い。

だが、雅美の意識ははっきりしているのだろう。

その白い指は祥子の服をしっかり掴み、祥子の後ろを迷うことなく歩いていた。


その様子では、今晩の説教は明日に持越しだろうと推測する。


嶋は雅美のことが心配ではあったが、

あえてぐっと我慢して客間の布団に転がった。

女の友情に男が口を挟むのは、百害あって一利なしだと解っているからだ。


芽衣子が全員の布団を引き終えてとんとんと階段を下りると、

勝也が縁側から手招きをした。


外はすでに暗かったけれど、満月の光で庭先はぼんやりと明るい。

足取りも暗闇に戸惑う事なく、まっすぐに勝也の待つ温室に行った。


「芽衣子、やっと咲いたよ。

 これをお前に見せたかったんだ」


そういって勝也は体をずらして、例の鉢を芽衣子に見せた。


鉢の大きさはバケツ大くらい。

そこに植えられている植物の背の高さは芽衣子の腰よりも高い。

多分、一メートルを超えるであろう。


濃い緑の昆布の様な葉状茎。

その周りに鞭のような細長い触手状な蔦の様なものが伸びている。

葉のくぼみには、産毛のような刺が生えていた。


俗にいうサボテン科の植物だが、西部劇によく映されるサボテンとは明らかに異なる。

刺が表面全体を覆って無い所も含めて、なんというか、いかにも弱そうだ。


その葉状茎の上部に近い場所に大きな蕾が3つ。

月の光を喜ぶが如くに、ゆっくりとだが確実に、より美しく開いていく。


「……綺麗」


芽衣子が初めて見る美しい白い花が咲きはじめていた。

花の開花をその目でじっくりと観察するなんて初めてだった。

生命の神秘すら感じられるその開花に、

芽衣子が茫然と目を奪われていると勝也が話し始めた。


「月下美人だ。 美しいだろう。

 今夜一晩咲いたら、明日には萎む。

 月の光の中が一番似合う夜の花だ」


芽衣子はため息をつきながらも目が離せなかった。

蕾は下を向いていた首をまっすぐ起こし、月を手に入れるか如くに上を向く。

白い大きな花は、ボタンや芍薬に負けないくらいに大きな花弁を持っていた。


「この花は、この家からお前を見送った帰りに、

 花屋の店先でたまたま見かけて購入したんだ。

 店の人は、花を咲かせるのは本当に難しいと言っていた。

 だから、よく願掛けにも使われる貴重な植物だと。

 だが、もし咲いたなら、その時は望みは本当に叶うかもしれないと。

 

 あの時、私はお前が無事にこの家に帰ってこれる日が来ることを願った。

 6年試行錯誤して、去年の11月に初めて一つ蕾が出来たんだ。

 だが、あの時は蕾のまま枯れてしまった。 

 

 しかし、正月を超えたころに、また蕾がでてくる様子があった。

 驚いたよ。 しかも今度は3つの蕾だ。

 6年前からずっと願をかけてきた花が、お前の帰郷に合わせて咲く兆しがあった。

 天啓だと思ったんだ。

 だから、この花を絶対にお前に見せたかった」

 

月の光を浴びて咲き誇る美しい大輪の白い花。

けれども月の光に反射するその姿は、白く淡く光る花弁を震わせるように拙い。

その印象は酷く儚い妖精を思わせる。

まるで、現実離れした夢の中で浮かんでいるような、幻想的な美しい光景だった。


「有難う、お父さん」


その美しさに、触れたら壊れてしまいそうな儚さに、

芽衣子はだた目を奪われていた。


「蕾は3つだ。私と祥子が一つずつ、残る蕾はお前のだ。

 私は、願が叶った。

 お前も良ければ願をかけてみるがいい。

 本当に心の底から望むなら、願花が聞き届けてくれるかもしれない」


勝也の淡々と話す声に誘われるように、芽衣子も口を開いていた。


「願花、本当に願をかなえてくれるなら……」


私に始終付きまとうあの違和感の正体を教えてほしいっというつもりだった。

特に、あの人の姿が知りたいと。


心の中でははっきりとそう告げていたと思う。

だが、呟くような小さな芽衣子の声は遮られた。


温室の後ろの戸がそうっと開いて、いつの間にか祥子が入ってきていた。


「ああ、やっと咲いたのね。

 貴方が言っていた通り、この花って願花だったのね。

 勝也さんの願いも、私の願いも叶えてくれたわ。


 願が叶うこの日に咲くなんて、本当に軌跡の様だわ。

 なんて素敵な花なのかしら。

 美しいわ。 月の光に照らされて、まるで歌っているみたい。

 幸せを呼ぶ花ね。 本当は夢の花なのかもしれないわ。

 勝也さん、この花を咲かせてくれて有難う」


祥子は花を観賞しつつ、勝也の腕にもたれ掛った。

その背を抱くように、勝也は力強く祥子の肩を抱いた。

二人の視線はまっすぐに月下美人に注がれていた。


雅美と嶋にも負けない程のラブラブ空気を出し始めた両親から離れるべく、

芽衣子はそうっとその場所から離れようと後ずさった。

すると、まるで後ろに目があるのではないかと思われる祥子の言葉が放たれた。

 

「あ、芽衣子、携帯で写真取っておいてね。

 この花、お願い叶っちゃったからもう二度と咲かないかもしれないし」


余りの言いぐさに勝也もちょっと苦笑する。

祥子は小さく舌を出して、はにかんだ笑みを見せた。


確かにこの美しさは貴重で保存すべき映像かもしれない。

父の積年の想いが叶った瞬間でもあるのだから、

記念に写真として残しておきたいのは当然だ。


そんな両親の願いをかなえるべく、ポケットから携帯を取り出した。


その時、同じポケットに入れていた小さな箱が転げて落ちた。

雅美から預かった指輪の入った箱だ。


丸みのある四角い箱は落ちた勢いのままコロコロと床を転がっていく。

温室の出入口の小さな段差をものともせず転がり続け、

庭の中心部でぴたっと止まった。


芽衣子は慌てて祥子に携帯を投げた。


「お母さんの方が撮影上手だと思うから撮っておいて」


祥子は任されたとばかりに、勝手知ったる何とやらで、

芽衣子の携帯のカメラを暗視モードに切り替えて、

連射撮影、および、動画撮影に勤しんでいる。

フラッシュは起動させるなとか、勝也もいろいろ注文を出しているようだ。


そんな両親に微笑んでから、温室を出て箱を拾い上げるべく、

庭の中央に足を止めた。


箱は、蓋が開いて指輪が外に転がっていた。


芽衣子は箱と指輪を拾い上げた。










白い月の光に反射して深い深い緑のエメラルドが強く煌めく。


平面体がいくつも重なっている万華鏡の様な視界が芽衣子を覆う。


カシャカシャと絵柄がくるくる変わる様に、

鮮やかな緑の色彩が芽衣子の視界を埋めていく。


このきらきらと輝くエメラルドの光。

あれは、あれは、誰かの瞳の色。

誰よりも何よりも愛しい緑。


私はこのエメラルドの瞳を知っている。




どこからか、りんっと鈴が鳴る様な音がした。


これは確かな記憶。

私は確信する。

あれは誰だった? 


大きな黒い影が私の前に立つ。

影は逆光で顔がよく見えない。


震える指を押えて、エメラルドの指輪を月に晒すように当てる。

もっと、もっと知りたい。




りんっと音が鳴る。


声が聞こえる。


「メイ、お前が好きだ」


あの声は誰? 


エメラルドの光が、影となっている男性の瞳に変わる。

私の指が手が体が、全身が震える。





りんっと音がなる。


黒い影の大きな手が震える私の頬を包む。

かさついた硬い手のひらが優しく私の頬を撫でる。

壊れ物を触る様に、ゆっくりと丁寧に。


「メイ、お前が愛しい」


この暖かな手は誰なの? 

顔が見えない。

お願い見せて!


ムーンストーンが月の光を斜めに取り込み、エメラルドを更に輝かせる。





りんっと音が鳴る。


赤褐色に揺れる髪が、浮かび上がる様に視界に映る。

艶やかな赤褐色の髪がゆらりと揺れて、私に覆いかぶさる。

そして、私の震える唇の上に温かみを残す。


私の震えは歓喜をもって背中をふるわせた。

影は、何度も何度も角度を変えて口づけを、熱を与えてくる。


「俺の愛しいメイ。愛している」


痛いほどの切なさが急激に心を襲う。

嬉しい、嬉しい、嬉しい。

嬉しくて切なくて、頭が沸騰しそう。

 

誰なの? 

会いたい。

会いたいの。

お願いだから、貴方に会わせて!


芽衣子は締め付けられる痛みに胸を押えながら、

エメラルドの瞳を追いかける様にその影に手を伸ばした。






りんっと音が鳴る。


影は、ぎゅっと激しく芽衣子を抱きしめる。

全身の骨が軋むほどに強く強く。


「メイ、俺のメイ。 気が狂うほどにお前を愛している」


震えるほど強烈な愛の言葉。

私も狂ってしまいたいと思った。


ああ、そうよ。

泣きそうなほどに愛しい気持ちは貴方が教えてくれた。



感情のままに、心臓がばくばくと大きく音を立てる。

自身の心臓の音すら邪魔に聞こえる。


貴方は誰?

どこにいるの?

どこに行ったら貴方に会えるの?




りんっと音がなる。


影は私の背中を撫で、首筋に、襟首に口づける。

熱さを伴う小さな痛みを残していく。


「メイ、俺はここにいる、お前の傍に」


芽衣子は暖かな胸に抱きしめられたまま、

手を限界まで伸ばしてしっかりとその大きな体躯を抱きしめる。


エメラルドの瞳と赤褐色の髪は月光できらきらと輝いていた。

だが、顔は影のまま。輪郭さえも解らない。

傍にいるはずなのに、存在が遠くに感じた。


もどかしさにイラつく。


その顔を確めるべく、芽衣子は必死で顔に手を伸ばした。






りんっと音が鳴る。


影の声が耳元で囁く。

優しく触れる手が私の髪を撫で、耳を、顎をすべる様に移動する。

顎に掛かる指先がつっと私の顎を持ち上げる。


エメラルドの瞳がまっすぐに私を射抜く。


「メイ、俺はお前が欲しい。お前の人生の全てが」


愛しさと切なさで胸が、心がつぶれてしまいそうだ。

こもった熱で息すら出来ないのに、貴方の瞳から目が離せない。


私も貴方が欲しい。





不意に、月が黒い雲に邪魔されてその光を弱める。


影がすうっと引いて、その姿を消そうとする。


芽衣子は必死でその腕に追いすがった。



お願い。行かないで!


私を置いて行かないで!


貴方に会いたいの!


貴方に触れたいの!


私は貴方を愛しているの!


エメラルドの瞳がきらりと大きく光った。


月が再度雲から出てきて、一層強くエメラルドの光を艶めかした。






りんっと一層高らかな音が耳元で鳴った。





その途端、パキンっと大きなガラスの割れる音がした。

次いで、芽衣子の周囲に覆われた万華鏡の様な視界が、がらがらと崩れる。

芽衣子の足元が揺れた。

いや、芽衣子自身が揺れているのかもしれない。

激しい眩暈のような衝撃にたたらを踏む。


視界がぶれ気持ち悪くなるが、絶対に捕まえた手は離さない。


逃さない様に捕まえていた影が、次第にくっきりとした残像に変わる。


暗闇の中に佇む姿は記憶の再生。


「メイ」


そこには、私を呼ぶ私の愛しい彼の姿があった。


芽衣子の目から大粒の涙が零れ落ちていた。


私を呼ぶ彼の姿がはっきりくっきりと記憶に蘇る。


抜けるような青い空と青い海が世界一似合う彼。


誰よりも愛しいあの人を、私はどうして忘れられたのだろう。



「メイ、愛している」


月の光の中、想いを告げてくれた彼を思い出す。


苦しそうに切なそうに私を求めてくれたのが天にも昇るくらい嬉しかった。


いつの間にか、私の心に居た彼。

私の心はいつだって彼だけを求めていた。


彼の傍に居たいと決めたのは私。

なのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。


求めると伸ばされる大きな暖かな手に大きな体。



「メイ、約束だ」


ああ、そうだ。 必ず帰ると約束した。

彼の傍でその温もりの中で、必ず伝えると約束したでしょう。




芽衣子の目から涙がとめどなく流れていた。


熱情のままに抱きしめられた時に聞こえた力強い胸の音。


何も考えられなくなるほどの狂おしい口づけ。


熱くて熱くて、幸せで苦しい想いをしたの。


与えてくれたのは、彼。


ああ、思い出せた。

全て本当のこと。

欲しかったのは、求めていたのは消されたはずの彼の記憶。


愛しい彼。

私が会いたいのは貴方。


「レヴィ船長」


口に出して残像に震えながら笑いかける。


残像は手を伸ばす。


「メイ、帰ってこい」


芽衣子は泣きながら頷いていた。


「はい」


レヴィ船長のエメラルドの瞳は芽衣子を狂おしい程に求めていた。

そのことが残像であれ芽衣子の歓喜を齎した。


「メイ、お前に会いたい」


思い出せた喜びの中、芽衣子も答える。


「私も、私も会いたいです。レヴィ船長」


レヴィ船長の両手が私に向かって大きく広げられた。

緑の瞳の中に狂おしい程に私を求めている渇望が見えて、

ぞくぞくとした歓喜の想いが満ち心が震える。

 

その腕の中に走り寄ろうと一歩を踏み出した。


その時、芽衣子の暖かい涙がエメラルドの指輪の上にぽとりと落ちた。

涙の熱が膜を作り指輪の表面に広がり、ふいにレヴィ船長の姿が消えた。


あっと手を伸ばしたが、芽衣子の手は空を切るばかりだ。

空虚な寂しさが一気に襲ってくる。


行き場を失った手を彷徨わせていると、その先には温室があった。

そして、真っ白な大輪の月下美人の花からきらっと何か光ったような気がした。

花の蜜とかであろうか。


花弁は月の光を浴びてきらきらと光る。

その真っ白で美しい月下美人の花が、風もないのにゆらっと揺れた。


そして、私の願いを叶えたとばかりに、ゆっくりと頭を垂れ萎んで枯れた。


温室の中から祥子の雄叫びが聞こえた。


「ああああ~もう枯れちゃった~もったいない~」


という大きな声が聞こえた。







なんとなくだが、願花が私の願いを聞き届けてくれた気がした。

芽衣子は枯れた月下美人に向かってお礼を言った。


「有難う、願花。 

 私、やっと思い出せた。 もう絶対に忘れない」


そして、手の中のエメラルドを指にはめ、ぎゅっと胸に抱きしめる。

レヴィ船長に会いたかった。

会って、あの夜のように抱きしめてもらいたかった。


月下美人は枯れたけど、

私の指のエメラルドはきらきらと輝いていた。

レヴィ船長の瞳のように。







やっと芽衣子が思い出しました。

イライラしながら待っていた人も多かったと思います。

私もそうでした。

叫びながら、まだか、まだなのか芽衣子と言いながら書いてました。

ここまでこれてほっとしてます。

いや、まだほっとするには早いですね。

一層気合いを入れます。おう!


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