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箱をあけよう  作者: ひろりん
第6章:帰還編
175/240

夢の贈り物。

ジャリっと砂石を踏む音が聞えた。


芽衣子がこの高台に到着したのは太陽が中天に届くより前だった。

ここで海を見ながら懐かしい街の風景に目を奪われつつ、

過去の思い出や記憶を掘り返しては過ぎ去った光景との差異を楽しんでいた。


そして同時に、この景色の中のどこかに芽衣子の感覚の何かが引っかかる。

その感覚が告げるのだ。

ちっとも思い出せないが、私は確かに何かを忘れている。

何故そんなことを思うのか自分でもわからない。

でも、どうしても思い出さなければいけない。

芽衣子はそんな気がしてならなかった。


だから、訳の解らない感覚と理由なき感情を持て余しながら、

芽衣子は高台で立ち尽くしていたのである。


そんな芽衣子の時間はあっという間に過ぎたようだ。

気が付けば足元の影の位置は大分東に傾いていた。


芽衣子の右手首の腕時計の針は3時少し前を指している。

約束の時間は3時だ。 待ち合わせ相手は時間には正確らしい。

背後にちらりと目線を向けると、砂利を踏みつつ上ってくる人影が見えた。



芽衣子は、名残惜しいながらも海に向いていた視線と体を反転させ、

人影が重なって見える長細い階段を見下ろした。


砂利道を石と木で傾斜を埋める様につくられた簡素な階段。

そこを上ってくる4人の人間が見えた。


彼等の内3人は、当然のごとくに激しく弾んだ息をそのままに、

黙々と階段の数歩先を見つめながら重たげに足を動かしていた。


高台に位置する墓というものはどこもそうなのかもしれないが、

人が住むには不向きな程に急な坂道や階段が多い。

ここも同じく、止まってしまうともう上がれなくなりそうなほど厳しい傾斜だ。


芽衣子にとっては、今の職場である神社がやはり高台に位置するため、

この傾斜についても特に気にするほどの物ではなかったが、

一般的にはかなり厳しい運動である。

4人の内の3人は明らかに呼吸過多になりそうなほどに息が上がっていた。


はあ、はあ、ぜえ、ぜえ。


荒い呼吸音と砂利の音が段々と近づいてくる。

それらの音からも必死で足を前に進めているのはわかる。


彼等の上がってくるスピードはゆっくりなのだが、

確実に止まることなく一歩一歩進み、芽衣子のいる高台に向かっていた。


先頭を歩くのは、耳脇から首にかけて白頭髪がふさふさとしているが、

頭頂部はやけに薄い、全体的に細見の体つきの顔見知りの中年男性。

目は細く、楕円な顔、笑顔が仏に似ていることから、

顧客の幾人かは仏先生と呼んでいるらしい。


父の古くからの友人で、芽衣子も先生と呼んで親しくしていた弁護士だ。

以前に逢った時よりも髪の後退具合が促進しているように見える。

草臥れたような茶色の背広に使い込んだ黒の革靴がやけに光っていた。

背広の胸には金の弁護士バッチがきらきらと太陽の光で反射していた。


次は、芽衣子が見たことも会ったこともない男性だ。

高級そうなダブルのスーツをしっかりと着こなした壮年の男性。

がっしりとした体つきは、女性ではありえない見事なまでの逆三角形の体躯。

色黒で首が太い。どちらかというとずんぐりとした印象があることから、

背はさほど高くないのかもしれない。

眉は太く、目も大きい、角ばった顎が意志の強さを感じさせる。

全般的にごつごつした感じの男らしい顔つきだ。

彼は、大きな手で背後の女性の手を握り、もう片方の手には大きな花束を掴んでいた。

その花束の大きさからかなりの重力が予測されるが、重さを苦にした様子はない。 

むしろ足取りは軽やかで、平坦な道を歩くかのように息も切らさず階段を上っている。


男性に手を引かれ、息を切らせつつ華奢な体を支えられて上ってくるのは、

薄いラベンダー色のシフォンワンピースに、グレーのコートを着た女性。

体格から言っても、おそらく達也の母だろう。

露出している手足は細くたおやかで真っ白だ。

達也の母親の実家はどちらかといえば裕福な家に分類される。

なるほど、しっかりとお嬢様仕様だ。

小さな頭には顔の2倍の大きさの白く大きな帽子が乗り、顔を隠していた。

帽子飾りの幅広薄紫のリボンがそとそよと風で揺れていた。


そして最後尾を歩くのは、ひょろとした体躯の細い銀縁メガネの若い男性。

彼は、仏先生の後輩で同職場の若手弁護士、村井だ。

何度か芽衣子の大学に先生の代わりに来てくれて、芽衣子の友人達とも面識がある。

ふわっとした茶色の猫毛が特徴的で、年上には見えない童顔。

以前にその童顔を隠すために、必要でないメガネをかけていると聞いたことがある。

毒気のない軽い口調と爽やかの笑みの好青年だ。

芽衣子の友人からは、かなり好印象だったと記憶している。


4人の中では一番年若のはずだが、一番体力がないようだ。

彼のネクタイは奇妙に捻じれ、足はよろよろ左右にぶれ、重心の軸が定まってない。

真っ青な顔色に脂汗、足元が覚束ない様子は傍から見ても撃沈寸前だ。

脱いだ上着を小脇に抱え、シャツの袖は乱暴に捲り上げられていた。

意気揚々とした勇ましい格好だが、今の彼をみて男らしいと感じる者は少ないに違いない。

全身からにじみ出ている大粒の汗を拭き取る力もなく、

最後尾を幽霊の様になりながらもふらふらと上がってきていた。



芽衣子は予定通りの彼らの訪れにさして動じることなく、

黙ってじっとその場で待っていた。





まずは、先頭が高台に到着した。

先生の黒い皮靴のつま先が、太陽の光に鈍く反射する。



仏先生は、芽衣子の父の古くからの友人で、弁護士でもあることから、

芽衣子の家族の問題に始まって、芽衣子自身の問題まで、

それはもう親身になって相談に乗ってくれた。

郷里を1人離れた芽衣子の保護者代理を申し出てくれて、

芽衣子の大学生活を支えてくれた信頼できる人だ。


彼は、ポケットから出した水色のハンカチで額の汗をぬぐう。

ハンカチはあっという間に額の汗を吸い取り濡れて紺色に変色し攀じれた。


次々と噴き出る汗を拭きながら、彼はにこやかに芽衣子に話しかけた。


「やあ、随分と早いね。 

 芽衣子ちゃん、久しぶりだね、元気だったかい?

 私らのほうが早く着くと思っていたが、待たせたようで済まないね。

 ああ、やっと上に着いた。 この坂は相変わらずの急勾配だ。

 昔に上った時にも思ったが、私みたいな年寄には一苦労だな」


彼は、にこにこと人の好い笑みを浮かべて、芽衣子に笑いかける。

その様子は、以前から全く変わりない。

ほっとする笑顔や穏やかな話口調に心から安堵する。


だからこそ、芽衣子も彼にいつも通りの元気のよい顔を見せる。


「先生、お久しぶりです。 はい、私は元気です。

 先生もお変わりありませんでしょうか。

 私がこの景色に無性に会いたくなって、わざと早くここにきたんです。

 約束に遅れたわけではないのですから、気にしないでください。

 ところで、ねえ先生。 少しだけここから眺めて見ませんか?

 ここに至るまでの階段や坂は確かに急ですが、

 ここからの景色を見たなら疲れも吹き飛びますよ」


そういって芽衣子は景色が見える様に、足の位置を右に少しずらした。


180度パノラマの美しい風景がそこにはあった。

美しい凪の海と、そのまま海と一体化したような青い空、

そして郷愁感あふれる古風な港。

太陽の光が白波をきらきらと反射して美しい彩りを添える。


先生と呼ばれた弁護士は汗を拭きながら、

その風景を見る為に芽衣子の隣にゆっくりと移動した。


そして、目を奪われる素晴らしい景色を前に、

すうっと大きく息を吸い込み、ため息を付くようにゆっくりと空気を吐き出した。


「ああ、本当ですね。 この景色は素晴らしい。

 風光明媚とはこのような景色のことを言うのでしょう。

 心が洗われるかのようです。

 それに、穏やかな風が海から吹いていて大変気持ち良い。

 一気に疲れが消えるような気がします」


彼の心からの讃辞に、芽衣子も微笑みながら隣で深呼吸をした。

鼻に抜ける潮の香が、頬を霞める緩やかな風が、

本当に心地よかった。


2人が高台で深呼吸をしている間に後続の3人が到着した。


女性は連れの男性に肩を支えられながら、

差し出されたペットボトルの水を飲み、

激しい呼吸を繰り返しながら、すこし咽ていた。


男性は、そんな彼女の背をゆっくりと撫でていた。


村井は呼吸を荒くして腰を抜かしたように地面に座り込んでいるが、

視線はまっすぐに先達の仏先生を捉えていた。

意識もしっかりしているし、少し休めばすぐに回復するだろう。


優しい風が吹くこの高台の空気は、熱を持った体を程よく覚ましてくれた。


しばらくして呼吸を整えたであろう女性が、男性に手を取られながらも、

行儀よく居住まいを正してから、一歩ずつ芽衣子に近づいてきた。


「あの、 め、芽衣子ちゃん、ひ、久しぶりね」


達也の母はおずおずと話しかけながら、

被っていた白い帽子を脱いでその頭を太陽の下に晒した。

艶やかな光沢を携えた美しい黒い髪と見事な美貌が現れた。

白い面長の顔は綺麗に化粧を施され、コーラルピンクの唇が瑞々しく光っていた。

長いマスカラに縁どられた目は大きな瞳を誇張していた。

波打つ黒髪を上手に編み込んだ髪形は、

大正ロマン風なポスターに描かれたモデルを彷彿させる。


芽衣子の記憶にある、最後に見た達也の母の様子とは明らかに違っていた。


子供の頃から美しい人だと思っていたけど、

このように着飾った彼女を見た憶えはない。

達也の生前だって、薄い化粧をしたところしか見たことがなかった。


それに、達也が死んでからは山姥の様に髪を振り乱し、

気が狂った様に気味悪く笑う姿が強烈で、

美しかったという事実さえもすっかり忘れていた。


芽衣子の目の前の今の彼女は、全くの別人にしかみえなかった。


戸惑いは確かにあったが、ここで会う約束をしたのだから、

間違いなく彼女は達也の母なのだろうと思って返答した。


「はい。お久しぶりです。葛西さん」


芽衣子は、体が覚えていた感覚からだが、実に丁寧なお辞儀をした。

手を前で組んだまま、頭をゆっくりと下げるそのお辞儀は実に美しい。

体の線はぶれてなく、優雅さと清廉さを兼ね備えた礼儀にかなったお辞儀である。


芽衣子自身は特に意識してなかったが、

その美しい立ち振る舞いに、ほぼ全員があっけにとられる。

どこか現実とはかけ離れた世界を見ているような錯覚さえも覚えていた。


芽衣子のお辞儀で、気安く話かけようとしていた雅美の計画は一瞬で消える。

二の句が告げられず、息をのんで言葉を詰まらした。


達也の母の名は、葛西雅美だ。

達也が死ぬ前までは、雅美おばさんと気軽に呼んでいたのだが、

関係が変わってからは、気安く呼べなくなった。


今日は、達也の母からの呼び出しなのだから、私に話したいことがあるに違いない。

昔の達也の母のままならば、罵声や侮蔑の言葉が来るのかもしれない。

そう思って覚悟していただけに、その対応は硬くなる。


そんな他人行儀な行動から私の想いを察したのか、雅美は手を挙げては降ろし、

降ろしては上げるといったぎこちない動きをロボットの様に繰り返す。


「あ、あの、その、き、今日はいいお天気ね。よ、よかったわ」


唐突に振られた天気の話題に、芽衣子は無意識に答えた。


「天気? ええ、そうですね。 快晴ですね。 降水確率0%だそうです」


あたりさわりのないお天気情報が、芽衣子の口からさらりと出た。


「そ、そう。 あ、雨が降ると足元が大変だものね。

 ほ、本当によかったわ。」


「そうですね」


その後、会話を繋げることが出来ず沈黙が続いた。

雅美は、何を話していいか糸口が見えなくて四苦八苦していたようだ。

だが、芽衣子から話題を降るのはなんとなく違う様な気がしたので、

黙って雅美の言葉を待っていた。



状態を察して声を出したのは、雅美の手を握っていた男性だった。

体を逸らせるようにして体を伸ばし、首をこきこくと回した。

そして、波や風の音を打ち消すような大きな声で、

誰を相手とするでもなく話し始めた。


「うーん、ここは本当に気持ちの良いところだな。

 墓地であるのが惜しいくらいの絶景だよ。

 こんな素晴らしい場所が墓地だなんて、聊か惜しい気がしますね。

 風光明媚なこの景色だけでも売れる。

 マンションにでもしたら、移住希望者が続出するでしょうに」


その会話に参加するのは先生だ。


「ははは、天にもっとも近い場所は、死者に譲るのが昔からの風習ですよ。

 生者はいずれ離れなくてはならない大地に足を付けるものです。

 嶋さん、あまり欲を掻きすぎるものではありませんよ」


仏先生の淡々とした台詞は、本当にどこかの坊主の説教のようだ。


「昔からの風習ですか?」


「ええ。 死した後に心を残すことの無いように人住まぬ場所に。

 そして、天の扉を見つけやすいようにと高い場所に墓所を作るのです。

 仏門の教えでは、生者はしっかりと足を付けて定められた人生を全うする為に、

 地面に根付くのが寛容とされています」


「地面に根付くですか」


「生者は大地の民として、地面を見つめ、地の最果てを探す人生の旅をする。

 そして、栄枯盛衰の習いに従って生を終え、死に面して初めて天を仰ぐ。

 

 昔、若いころにこの説を聞いたときは、憮然としたものでしたが、

 この年になってみて、やっとその意味がわかったような気がします」


「わかったとは?」


「地面に根付くこと。 それはすなわち自分をしることであるということです。

 自分が何のためにこの世に生を受け、何のために生き続け、

 何のために死ぬのかを探す事が最果てへの旅だと解ったのです」


二人の会話は淡々とした口調で語られているが、

いつの間にか芽衣子や雅美、そして村井もその会話に引き込まれていた。


「それはまた、随分と人生を達観された考えですね。

 その理由を差支えなければ教えていただけませんか?」


嶋の穏やかな口調に、先生は苦笑して微笑んだ。


「半世紀近く弁護士をしていて、多くの人に会いました。

 多くの人が悩みや問題を抱えて事務所の扉を叩くのです。

 かつて、それらをただの事務仕事のように片付けていた頃があったのです。

 毎日の仕事に嫌気がさしてきて、本当にこのままでいいのかと、

 人生の選択を私は間違えたのではないかと悩みました。


 そんな自分が空しく人生が単調だと感じていた時に、ある人に出会いました。

 

 私の存在が、誰かの支えになることの喜びを教えてもらいました。

 弁護士でいてよかったと初めて思ったのです。

 私の人生の選択は決して間違っていなかったと、

 弁護士という仕事に今更ながら遣り甲斐というものを知りました。


 私よりもずっと若く世慣れない彼女は、私よりもずっと真剣に人に向き合っていた。

 世間知らずと侮る程には彼女の人生は決して平坦ではなかったが、

 彼女は、どんなに苦しくてもどんなに理不尽でも、決して投げ出そうとしなかった。

 

 そんな姿をみて、私も彼女のように生きてみたいと思ったのです。

 そして、どんな時でもまっすぐに前を向く彼女の力になりたいと思ったのです。

 この老骨にさしたることが出来るとは限りませんが、

 私の人生に光を与えてくれました。 

 その時から私は変わったのです。

 

 そして、その変化は私の旅の足跡を確たる物としてくれていると、

 日々実感しています。 

 そうしたら、足元が地面に近いことが愛おしいと思えるようになりました。

 私の足向かう先が人と繋がっている大地の上にある。

 そのことが誇らしいと思いました。

 大地の民と生者を準えた古人もこのように思ったに違いありません」


「それは素敵な女性に出会われましたね。

 その彼女は貴方の奥様でしょうか?」


嶋の言葉に先生は首を振った。


「いえ、妻は10年前に先立ちました。

 彼女に会ったのは6年前です。

 

 当時、私には疎遠になった息子が1人いるだけでした。

 妻が生きていた頃よりも、独り立ちしてから後も話し合うこともなく、

 事実上の血のつながっただけの他人という希薄な関係でした。

 ですが、彼女の姿勢を見習うことで無事和解でき、

 今、一緒の家で息子の嫁と小さな孫と一緒に暮らしてます。

 紆余曲折ありますが、幸せですよ。

 

 彼女は、私にとって人生の指針をくれた人であり、恩人でもあります。

 私にとって彼女は、愛とか恋とかの次元ではない場所に居るのです。

 強いて言うならば、娘の様なものでしょうか」


一瞬、顔色を変えた嶋を前に、

朗らかな親愛の情をこめた笑顔で先生は見返した。


「申し訳ありません。下世話な勘ぐりをいたしました」


そんな先生の笑顔を合図に、嶋は深々と頭を下げた。

先生は話題を打ち切る様に、全員を見渡してにっこりと笑った。 

 


「なに、人生の大半を終えた老人の戯言かもしれませんな。

 人生を終えたその先を見据えて思考するようになっただけとも言えます。

 貴方達も私と同じ年になれば、私の言葉の意味が解るでしょう。

 ああ、約束の時間になりましたね。

 皆さん、葛西さんの墓前に移動しましょうか」 

 

先生の言葉で、会話に引き込まれていた3人がはっと現実に帰った。

村井は、地面に降ろしていた重い腰を上げて、皆を先導すべく一歩前に踏み出した。

額の大粒の汗はすでに乾いていた。


「あ、ああ、そうですね。

 それでは、皆さんこちらに。

 葛西さんのお墓はこの先にありますので」


村井は髪の毛をぐいっとかきあげて、焦茶色の瞳を墓所の奥の墓石へ向けた。

向けられる足先に迷いはない。

村井は過去にこの墓を訪れたことがあるのかもしれない。

同じような墓石が連なる細い道を迷うことなく進んでいく。


村井の先導で、すぐ後ろを仏先生、芽衣子が続き、そして雅美と嶋が続いた。


嶋と呼ばれた男性は肩をすくめて雅美と目で会話していた。

その気安げな態度に、なんとなく両者の信頼関係を知った気がした。


雅美は嶋の存在でどこか安心したのか、

ふっと笑顔を浮かべて、肩の力を抜いたようだった。

その優しい笑顔を横目に見て、芽衣子の肩からも力が抜けた。







灰色で鈍く光沢のある墓石。

刻まれているのは「葛西家代々乃墓」


この墓石の下に、達也と達也の父、誠が眠っていた。


嶋が、ジャケットの内ポケットから風呂敷に包まれた線香の束とライターを取り出した。

カチっと音がして線香の束に火がつけられ、墓石の前に供えられた。


嶋が差し出した花を雅美が二つに分けて、左右の花入れに立てた。

花は白ユリと白い菊を基調に紫の桔梗が彩りを添えている。


村井が奥に設えてある水置場から、

よたよたと重たそうに水の入った手桶を持ってきた。


先生が水を受け取って花入れに水を注ぎ、

正面の墓石に頭からゆっくりと水を掛けた。


紫の線香の煙が、ゆらゆらと漂いながら棚引いていた。

煙の先を目で追うが、空気に拡散していつの間にか見えなくなる。

鼻につんと線香の香が浸みるような気がした。


じゃらっと数珠を鳴らす音がして墓石に視線を戻す。


雅美と嶋が墓石の前で目を瞑り、手を合わせて祈る。

そして、先生の誘導で芽衣子も達也の墓石の前に座り、

同じように数珠を構え両手を合わせて目を瞑った。


芽衣子はけっして返事が返ってこないと解っていながらも、

達也に向かって、久しぶりだね、帰ってきたよと心の中で呼びかけていた。


芽衣子が立ち上がった後、仏先生、村井と続き、全員が墓に挨拶を済ませた。

そして、雅美が再び墓石の前に座り、深呼吸をし、

墓石に向かって話し始めた。


「誠さん、達也、ずっと来られなくてごめんなさい。

 お墓、もっと大変な状態なのかもしれないと覚悟していたのに、

 誰かが掃除してくれていたのね。

 随分と手入れが行き届いているわ」


彼女の言葉を後ろで聞いていた先生が口を開いた。


「ああ、祥子さんが定期的に掃除に来ているからね」


雅美は初めて聞くその情報に目を瞠った。

 

「え? 定期的? 祥子さんが? 嘘?

 だ、だって、そんなこと祥子さんは今まで一度も……」


「葛西さん、祥子さんは言わなくてもいいと言っていたが、

 貴方のご実家にはお墓の世話に祥子さんが参っていることは、

 随分前からお知らせしてましたよ。

 嶋さん、貴方は知っているのでしょう」


雅美は驚きの表情のまま、傍の男性に視線を向けた。

彼は頷いて雅美に話した。


「達也さんが無くなって貴方がこの町を離れてすぐに、

 こちらの先生からお父様に連絡がありました。

 貴方のお父様は、全てのいきさつを聞いたうえで、

 こちらのご家族には一切手出しをしないようにと言い含めて、

 永代供養碑を持たせましたが、ご丁寧な文と共に返却されました。

 彼等は貴方の傷が癒えるのを待ちたいのだと言われました。

 それを聞いて、ご両親にはお父様が直々に頭を下げられました。

 私もその場におりましたので確かなことです」


その言葉に、雅美の目から一粒の涙が毀れた。


「祥子さんが? 待つ? 私を? 

 一体、どうして?」


「雅美さんの為に、そして達也さん、誠さんの為に、

 彼等はずっとお墓に参ってくださっていたのです。

 貴方のお父様にあてた手紙に、こう書かれてました。

 いつか必ず達也さんのお母さんは立ち直ってくださるはずだと、

 それを信じて私達が待つことが、今の雅美さんに一番必要なことだからと。

 家族である自分達は、娘である芽衣子さんの意志を尊重したいと。

 だから、貴方のお父様も彼らに感謝しつつ、静観すると決められました」


雅美の口から嗚咽が漏れ始め、涙が薄紫のスカートにぽたぽたと落ちて、

丸いしみを作っていった。


「そんな、私は、何も知らなくって。 なぜ? 

 どうしてお父様は教えてくださらなかったの?

 私、ずっと酷いことを……」


嶋は雅美の傍に膝をついて、その背中をそっと抱きしめた。


「以前の貴方にたとえ教えたとしても、

 素直に彼らの気持ちを受け取ることが出来なかったでしょう。

 反対に、もっと頑なな態度をとって関係を悪化させたかもしれません。

 ですので、私の判断で差し止めました。申し訳ありません」


震える背中の上をゆっくりと大きく暖かな手が撫でる。

雅美の涙と嗚咽が少しずつ収まっていった。

そして、しばらくして背筋を伸ばした雅美が墓石に向き直った。


「そうね。貴方の言う通りよ。

 確かに以前の私なら、祥子さんを罵倒し、八つ当たりをしていたでしょうね。

 不幸に一人酔って、悲しみと憎しみに囚われすぎていた馬鹿な私だもの。

 ああ、私は、馬鹿ね。 本当になんて馬鹿で愚かな女なのかしら。

 6年間、私がしたいことを邪魔するお父様や貴方、

 そして祥子さんや勝也さん、芽衣子ちゃん、全てが敵だと思ってた。

 このお墓に来ることもせず、恨みつらみばかりを育ててた。

 達也が死んだことも、全て人のせいにして。

 でも、本当は私こそが全ての間違いだったのに」


雅美は背中に置かれた嶋の手をそっと拒み、

瞼に残っていた涙をぐいっとぬぐった。

そして墓石にしっかりと向き直る。


「達也、ごめんなさい。

 誠さん、ごめんなさい。

 達也が死んだのは、達也を追い詰めたのは私。

 本当は解っていたの。

 私が、認めたくなかったの。

 あの子を否定したのは私。

 あの子が死を選ばなければならないほどに追い詰めたのは私。

 元はと言えば、あの学校を勧めたのも、私。

 学校で虐めに逢っていたのも本当はもっと前から知っていたの。

 だけど、達也を転校させるなんて負けたようで悔しかった。

 あの子は私の唯一の自慢だったから。

 達也の賢さに優秀さに、優しさに甘えてあの子を追い詰めたの。

 あの子が死んだのは本当は誰のせいでもない。私の責任なのよ」


斜め後ろに居た芽衣子が咄嗟に声を上げた。


「違う。雅美おばさんのせいじゃない。

 達ちゃんは、雅美おばさんのことが好きだったの、大事だったの。

 あの学校を選んだのも、毎日働き詰のおばさんを楽にしてあげたいって、

 自分の将来を見据えた上で達ちゃんが選んだの。

 苛めだって、本当は負けたくなかったはず。

 達ちゃんが死んだのはおばさんのせいじゃない。

 そんな風に自分を責めないで! 

 達也がその言葉を聞いたら悲しむし、きっと怒ると思う」


雅美は芽衣子の声に振り向いて、首を振った。


「そうね。達也ならそうでしょうね。

 私も、今ならば解るわ」


その雅美の表情が後悔の念と悲しみに彩られ、白い顔を更に白皙に見せていた。

先生が芽衣子の肩を軽く叩いてから、芽衣子の前に出て雅美に話しかけた。


「葛西さん、今年に入って突然、貴方のお父様から連絡をいただきました。

 何故かわからないが、娘の様子が目に見えて変わったと。

 心境の変化があったらしいので、できれば力になってもらえないかと。

 貴方が私に逢いに事務所に来られてお話した後、

 ご希望通り、芽衣子さんやご家族に会っても問題ないと私は判断しました。

 なにかあったら、そこの男性、嶋さんが責任を持つとまでおっしゃった。

 だから、今、こうして芽衣子さんと墓前での再会のはこびとなりました。

 ですが雅美さん、よければ突然の心境の変化の理由を教えてくださいませんか?」

 

雅美は墓前から立ち上がり、すっと墓石の傍に立ち、

墓石に掘られた誠の名前と達也の名前を愛しそうに指でなぞった。

そしてゆっくりと話し始めた。


「夢を、不思議な夢を見たんです。

 達也が、誠さんが出てきました。

 達也が亡くなって、夢でもいいから出てきてほしいと願った時には、

 一度も見なかったのに。

 

 あの夢を見たのは、そう、お正月を幾分か過ぎたころです。

 まるで生前の生きているかのような二人が私の夢に現れて昔の様に笑ったんです。

 やっと私の夢に現れることが出来たと。

 あの人も達也も死んだ時のまま、私だけが年を取ってみすぼらしくて。

 思わず、ずるいって文句を言いました。

 

 楽しかった。 本当に。

 夢の中で、3人で沢山の話をしました。


 楽しかったこと、悲しかったこと、いろいろの思い出を話しました。

 そして、私を置いて亡くなったことを、誠さんも達也も謝ってくれました。

 それから言いました。 

 自分達の死は、誰のせいでもないのだと。

 死して後、ずっと傍で私に訴えていたのだけれど、

 私の耳には届かなかったことを悔しがっていました。


 死んでいるのに、力が無くて悔しいって言うんですよ。

 思わず笑いました。

 二人とも幽霊なのに何言ってるのって。

 そしたら、二人は私の笑顔が一番好きだったって言ったんです。

 それでやっと気が付いたんです。

 達也が死んでからずっと、私は笑っていなかったことに。


 そんな二人の前でやっと私は二人に謝ることが出来たんです。

 苦しかった気持ちを吐露して、やっと素直になれた私に、

 誠さんも達也も、にやって意地悪く笑って

 「謝罪は受け入れる。でも条件がある」って言ったんです。


 思わず目が点になりました。

 そういえば、誠さんも達也も、面白がって私に意地悪する癖があったんです。

 そんなこともずっと忘れてました。

 

 誠さんの条件は私がこの人、嶋を受け入れて再婚し幸せになること。

 達也の条件は、芽衣子ちゃんとそのご家族との和解でした。


 私は今更ながら、私がしてきた悪意に満ちた行動を振り返って、

 彼らの条件には躊躇しました。

 だって、こんな私が幸せを求めるなんて間違っている気がしたんです。


 

 でも、誠さんは、私がこの人に惹かれていることを知ってました。

 だからその手を取って幸せになれと。

 先に死んだ自分が悪いのだから、仕方ないと悔しそうにしてました。

 本当は、あいつに渡すのは心の底から悔しいんだけどねって。

 

 達也は、芽衣子さんを本当に好きだったといいました。

 そしてそれは達也の片思いであることも。

 だから、私の恨みの矛先は全くの見当違いであると。

 達也は笑いながら説明してくれました。


 それに、いつか生まれ変わったら芽衣ちゃんの傍に行くつもりだから、

 私と和解しないと母さんには永遠に会えないよって言うんです。

 芽衣ちゃんは争いを呼ぶ平和主義者だから、

 生まれ変わってきっと傍で護るんだって。

 序に、今の喧嘩腰の危ない母さんの傍には僕も近寄らないって。

 

 酷いでしょう。 息子の癖に私より芽衣子ちゃんを取るんですよ。


 彼等は笑って、私を励ますかのようにそっと抱きしめてくれました。

 そうしたら、何故だか心が軽くなったんです。


 気が付けばなんのためらいもなくなっていて、

 私は彼らの条件を了承していました。


 誠さんは言いました。

 君の悲しみと苦しみの塊は僕があの世に持っていくよって。

 君が幸せになるのに必要ないからって。

 僕はあの世で君が来るのを待ってるから、ゆっくりおいで。

 幸せになるのを天から見守っているよって。 

  

 そして、二人は言うだけ言うと光になって消えました。

 最後に、じゃあねと笑いながら、手に何かを持たせてくれたんです。


 目が覚めた時、私の手には見覚えのない神社のお守りが握られてました。

 手を開いてそのお守りを確めていると気が付いたんです。


 誠さん、冷静で頭がよくて意地悪で繊細で優しい完璧主義者のあの人が、

 間違えたんです。本当にびっくりしました。

 生きている時には、一度だってそんなことなかったんですよ。


 そのお守り、安産祈願だったんです。

 あの夢が彼等の希望を伝えてくれたならば、縁結びになる筈でしょう。

 こんな単純な間違いなんて、私を笑わすための誠さんなりの工夫なんでしょうか。

 久しぶりにお腹を抱えて笑いました。


 その日の内に、お父様に話をしました。

 お父様は、私の落ち着いた言動にびっくりしてましたが、

 久しぶりにゆっくりと親子で話をしました。

 しばらくして父から許しが出て先生の所へ窺いました」


晴れやかに笑う雅美の瞳に陰りは全く見えなかった。

先生は微笑みながら返事をした。


「7回忌を前に、神様からの手助けという事かもしれませんね」


「7回忌、ああ、そうですわ。達也の7回忌ですよね。

 あの人達、死んだ時からちっとも年を取ってないから、

 すっかり忘れてましたわ」


雅美の顔には達也の死についての屈託はさほども見られなかった。

先生は、軽く頷きながら芽衣子の後ろに下がった。


雅美は、ゆっくりと芽衣子の前に立ち、深々と頭を下げた。


「芽衣子ちゃん。本当にごめんなさい。

 謝って済む問題ではないと解っているけど、お願い、今は謝らせて。

 怒って思いきり殴って罵倒してくれても構わないわ。

 貴方達の怒りは当然だと思う。

 私は一方的に恨んで、貴方を、貴方の家族を傷つけた。

 今は、全て私の自分勝手な八つ当たりを貴方達にぶつけていただけだって、

 悲しみを受け入れられない憤りを貴方に被せたと、ちゃんとわかっている。

 本当は、こんな自分勝手な私は幸せになる資格なんてないと思ってるわ。

 

 でも、真実を知った今だからこそ、心の底から謝りたいの。

 貴方の思いやりに、祥子さんたちの気遣いに気づけなかった私は、

 本当に愚かで馬鹿な女だった。

 本来なら、許されるなんて思ってはいけないはずなの。

 それだけのことを私はしたのだから。


 でも、叶う事なら、許してほしい。

 もう一度、祥子さんと芽衣子ちゃんと前の様に笑いあいたい。

   

 こんな馬鹿でどうしようもない私を待っていてくれて、

 ずっと信じていてくれていたなんて。

 ああ、本当になんて言ったらいいのか。

 ああ、どういったらいいのかしら。 

 私、今、胸がいっぱいで、嬉しくって。

 ああ、どうしましょう。

 こんな時なのに、情けないことに碌な言葉が出ないなんて。

 ああ、もう、もう、私ってどうしてこうなのかしら」


雅美の口が本当に悔しそうに前に突き出された。

その顔を見て、芽衣子がぷっと思わず笑った。


「雅美おばさん、そんなところ昔と変わらないのね。

 慌てると言葉が出なくなるところも、

 負けず嫌いなのもそのままだわ。

 ねえ、落ち着いて。 深呼吸しましょう。

 

 私は最初から怒ってないし、雅美おばさんを傷つけたいとは思わないの。

 痛いことをするのは嫌。

 達ちゃんも言ってたから知っているでしょう。

 私、平和主義者なのよ。

 必要ならば、雅美おばさんの謝罪は受け入れます。

 だって、達ちゃんの望みでもあるのだから。

 私は待ってるから、ゆっくり言葉を見つければいいわ。

 折角の達ちゃんの志なんだから、心のままに。

 雅美おばさんの言葉で私に伝えてくれればいいの」


今じゃなくてもいいと言ったつもりだが、

せっかちなのも変わらないようだ。

本当に以前と変わらず、人の話をあまり聞かない所もそのままだ。

そのあからさまな混乱している様子に思わず顔が綻ぶ。


「ねえ、道隆さん、貴方、どうしましょう。

 どうしたらいい? 私」


「ほらほら、雅美さん、落ち着いて。

 芽衣子さんもそういっているでしょう。

 でも、そうですね。

 あえて雅美さんの心を代弁するならば、この場合は有難うでしょうね。

 いかがですか?」


嶋が、おろおろとする雅美の背中をゆっくりと撫でた。

雅美の気持ちを汲んで答えを用意する周到さは、

どこか誠おじさんや達也に似ていると、芽衣子はふと思った。


「そうよ。そうだわ。さすがは道隆さんだわ。」


雅美は目を輝かせて嶋の手を飛び上がらんばかりに喜んで握りしめた。

そして、勢いのままに勇んで芽衣子の手を握る。


「芽衣子ちゃん。 本当に有難う

 貴方と祥子さん達には、心から感謝するわ。

 こんな私を信じてくれて、待っていてくれて本当に有難う。

 いろいろ取り返しのつかないことばかりしてきたのに、

 酷い言葉や態度ばかりだったのに、許してくれて有難う。

 ああそうよ、これを言いたかったのよ。

 有難うって、ああ、なんていい気もちなのかしら。


 あ、ねえ、芽衣子ちゃん。

 あの、えっと、し、祥子さんも、私のことを許してくれるかしら?

 祥子さんも、勝也さんも、や、やっぱり怒っているわよね。

 もう知らないって、言われたら……」


雅美の様子は、まるで無邪気な子供の様だった。

そういえば、達也も昔、母さんはいつまでたっても子供の様だって、

どうにもならない暴走機関車だと、

ため息を付きながら首を振っていたことを思い出した。

母さんを制御できるのは父さんくらいだよって苦笑していた。

 

ころころと山の嵐の様に変わる喜怒哀楽の激しさに、子供の様な無邪気さ。

天真爛漫を絵にかいたような素直さに、傍若無人に人を振り回す天然。

思い込みが激しくて、気が強く、無鉄砲ですぐ暴走する。

なのに、どこか甘え癖が抜けない少女のような女性だ。


達也の母である雅美の本来の性格はそうだった。

そんな雅美を芽衣子の母である祥子は苦笑しつつも、

本当の妹の様に可愛がっていたのだ。


「母は、そうですね、少し怒るかもしれませんね。

 父は、母が怒ればもう気にしないと思います。

 だって、昔から、雅美おばさんが暴走したら雷みたいに怒っていたでしょう。

 でもそれは愛情の裏返しですから、甘んじて受けてくださいね。

 大丈夫、ずっと母も父も私も、ずっと待っていたんです。

 怒っていても、今更見捨てたりしませんよ。

 家族そろって気は長いんです。

 それに、達ちゃんからも和解してくださいって言われたんでしょう」


うっと言葉に詰まる雅美はまるで芽衣子よりずっと年下にも思える。

芽衣子は苦笑しながら、芽衣子の手を包んでいた雅美の手を嶋に渡した。


きょとんとする雅美に、芽衣子はにっこりと笑った。


「今の雅美おばさんには嶋さんがついているでしょう。

 これから二人で幸せになるのだから、

 お母さんの愛情ゆえの叱責くらいは耐えてください。

 それにしっかり叱られた方が雅美さんにとっても、私の両親にとっても、

 お互い気が楽になる筈です。

 ここは、一晩じっくり叱られるつもりで頑張ってください」


「ひ、一晩…。 う、うん、そうね。

 か、覚悟を決めたはずだし、達也と約束したもの。

 が、頑張るわ。 祥子さんに会ってちゃんと謝りたいの。

 前みたいに、話をしたいの。


 でも、芽衣子ちゃん、私、本当にいいのかしら。

 芽衣子ちゃんは許してくれたけれど、

 あんなことをした私が、今更幸せを求めるのは悪い気がするの」


雅美は、少し俯いて言葉を濁し始めた。

綺麗な人差し指の爪を噛んでいる。

反省している時に見せる雅美の変わらない仕草。

それをみて、芽衣子は思わず苦笑した。


「雅美おばさん、相変わらず変なところで後ろ向き思考ですよね。

 雅美さんが幸せにならないと、嶋さんは誠さんに祟られますよ。

 それでもいいんですか?

 誠おじさんは有言実行の人だったから、絶対に嶋さんは酷いことになっちゃうわ。

 一応恋敵という括りにもなるわけですし、手加減はしてくれないと思うの。


 それに、雅美おばさんはもう十分に苦しんできたわ。

 1人でずっと悲しみや憎しみを抱え込むのは、本当に辛かったでしょう。

 私は、苦しみも悲しみも雅美おばさんの人生にはもう十分だと思うの。

 神様もそう思ったから、誠おじさんと達ちゃんを、

 雅美おばさんの夢に呼んだのかもしれないでしょう。

 その苦しみを誠おじさんが持って行ってくれたなら、

 もう持たなくていいということ。

 雅美おばさんには、幸せな未来を見つけてほしいの」


俯いていたままで芽衣子の言葉を聞いていた雅美の手を嶋がぐっと握った。

いつになく熱く真剣な眼差しに雅美は目を白黒させる。


「雅美さん、君を幸せにする。

 俺は神は信じないが、誠さんと達也さんに、芽衣子さんに誓う。

 昔から誠さんには心からの敬意を抱いているが、

 それとこれとは話は別だ。

 恋敵上等だ。 祟りなんかに俺の気持ちは挫けない。

 長い間ずっと雅美さんを想ってきたんだ。

 

 この気持ちに掛けて、俺の言葉に偽りはない。

 雅美さんを絶対に幸せにする。

 死んだあとだって、絶対に譲らない。 

 俺の人生全てをかけて雅美さんを支える。

 だから、安心してくれ」


嶋の男らしい言葉に、雅美の顔がぼんと赤く染まった。

もうっと赤いほっぺを隠しながら雅美は嶋とじゃれあっていた。

嶋は、真っ赤なリンゴの様に熟れた頬に軽い口づけを何度も落としていた。


そんな彼らに余所に、仏先生が芽衣子の傍に立った。


「芽衣子さん、いつになっても貴方には私は適いません。

 私は貴方に教えられてばかりの様な気がします」


芽衣子はその先生の言葉に思わず首をひねる。


「教える? いいえ、私の方こそ、先生にはお世話になっているばかりで。

 今日も、ここに雅美さんを連れてきて下さって、本当に有難うございます。

 雅美さんが幸せになれば、達ちゃんも誠さんも父も母も、

 やっと前に進めるでしょう。 

 それもこれも、先生が尽力なさったおかげです。

 本当に素晴らしいのは、先生です。

 以前に村井さんから、ちょっとだけ伺いました。

 達ちゃんを苛めていた6人の生徒の更生の手助けをされていると。

 先生の志しと懐の深さには頭が下がります」


仏先生は、にっこりと笑って首を振った。

 

「いいえ。私は私の指針に従ったまでのことです。

 貴方が随分と気にされていたのを知っていましたし、

 私自身も気になりましたしね。

 そもそも、新聞や雑誌媒体に書かれていた記事は大半が嘘でしたから、

 真実を知る上で彼等と向き合うことになっただけですよ。

 でも、そうですね、貴方にも知ってもらいたいと思います。

 聞いてもらえますか?」


芽衣子はこくりと頷いた。


「達也さんを苛めていた6人の生徒の内4人の怪我は、

 警察の調査で雅美さんと直接関係がないことが判明してます。

 雅美さんのご実家は静観していただけで直接に関わってはいなかったのです。

 ご実家の稼業からマスコミが面白おかしく書いただけでしょうね。

 警察も検察も、流言を信じるほど馬鹿ではありません。

 十分調べて、その結果として雅美さんが不起訴になったのです。

 

 

 彼らは達也くんにしたことと同様な事を他でもしていたようで、

 心当たりが多く恨みをかなり買っていた様でしたが、

 彼等の事故は、誰かの手が加わったものではありませんでした。

 明らかに事故だったのです。

 

 雅美さんが送ったのは恨みの手紙と電話と来訪だけでした。

 まあ、狂ったように書き殴った呪いの手紙や、電話、

 そして、物陰からの恨みの視線はちょっとした恐怖でしたでしょうが、

 その4人の事故については、雅美さんとの因果関係はありません。

 強いて言うならば、彼ら自身の因果応報というべきでしょうか。

 

 家の階段を落ちて腕を複雑骨折。 

 打ちっぱなしの野球のボールを打ち損ね、自分の目にあたって片目失明。

 雨の日にバイクが転倒して腰を強打して半身不随。

 苛めていた誰かに殴り返されて鼓膜が破れて片耳が聞こえなくなったなど、

 どう考えても雅美さんの入る隙がない事故でした。

 

 残りの2人は、雅美さんの迫力ある脅しに恐れて、

 逃げ出した先の車での接触事故です。

 雅美さんが手を下したわけじゃありませんが、彼ら2人との示談は終わってます。

 腕と脚を折っただけで、命に別状はありませんでした。


 彼等の怪我も少し不自由ながらも完治し、今は更生し立派な職業についてます。

 教師に、心理療法士に、介護士、海外ボランティアに従事している者も、

 地域活動に力を入れ青少年の育成に力を入れている父親もいます。

 

 そして、最後の一人は、なんと弁護士を目指しているそうです。

 

 彼らにとってのこの6年間は、彼らの人生を文字通りに変えたのです。

 

 二度とあの学校のような教師や生徒を出さない為に、頑張ると言ってました。

 人の害になるのではなく、人を助けられる人生を送りたいと。

 そんな彼らのこれから先の人生は、闇に囚われることはないでしょう。

 人生の暗闇を体験し、そこから這い上がってきた人間ならば、

 どんなことにあっても光を失わないでしょう」



先生の言葉に、芽衣子はそうなのかと安堵のため息を落とした。

学校や先生達については、責任ある大人なのだから自分で何とかするとしても、

学生の内に怪我を負い、未来を閉ざされてしまった彼等を哀れにも思ったからだ。

少し、自分勝手な言い分かもしれないが、

彼らの人生の破綻の原因に、達也の死が置かれるのが嫌だったとも言える。


そうして改めて聞かされた、更生し人生を歩いている彼らの話は、

芽衣子の心の重しを確かに軽くしてくれた。

そして心から先生に感謝した。


「先生。 本当に有難うございます。

 心が本当に軽くなりました」


芽衣子の言葉に仏先生は会心の笑みを見せた。


あの時絶望に染まった目の前の闇が晴れていく。

そんな晴れやかな気持ちを表現しているかのように美しい空。


達也が聞いていたならば、同じように心が軽くなっただろう。

彼は、本当に優しい人だったから。



気が付けば、太陽は斜めに傾き海に向かって今にも飛び込むかの位置にあった。

もうじき日が暮れる。 

だけど、美しい夕暮れは暖かな光と希望を運んできていた。 


雅美達は幸せへの道をたどるだろうと予測できた。

そして父も母も、雅美の幸せをいずれ祝福するだろうと思った。


目の前の二人は私達の存在をものともせずに、二人きりの世界を築いている。

話している内容は、実に砂を吐きそうだ。


「ええっと、ねえ先輩、芽衣子ちゃん。

 葛西誠さんは、本当は間違えていないかもしれませんね。

 僕の目には、あのお守がこれから先の雅美さんに、

 必要になる未来がみえそうなんですが」



いつの間にか私達の傍にそっと立っていた村井がぼそっと呟いた。

その言葉に、にやっと笑った誠おじさんの顔が浮かんだ。


「そうだね。 流石、誠おじさんだわ」


私も、村井の言葉に同意した。


いちゃつく二人を前に、穏やかな視線を向けていた芽衣子の耳に、

「芽衣ちゃん有難う、母さんよかったね」と達也の声が届いた気がした。


 



 

 

一話として読むには長いかもしれませんが、

どこで切ったらいいか解らず、こんなことに。


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