芽衣子の過去。
ざざざっと、湾岸に打ち寄せる穏やかな波の音が聞こえる。
吹き抜ける風は、潮の香を含んでいて鼻につんっと香った。
駅からバスで1時間ほどの海沿いの小さな町。
その町一番の高台に芽衣子は立っていた。
大変見晴らしの良い風光明媚な景色。
この町で一番気持ち良い風が吹く場所。
その場所に立つ芽衣子の背後には、墓地があった。
この世を去る大事な人達が持つ望郷の想いから、
また、死して後も近しい人の訪問を願って、
その昔、この場所に墓地が作られたらしい。
沢山の先祖代々の墓石が、針山のように高台の地を埋めていた。
転勤先近郊であるこの町をいたく気に入った父が、
芽衣子が生まれる前に夫婦そろって移住してきたので、
芽衣子の先祖代々の墓はここにはない。
海の傍であるのに穏やかな気候、これといった災害もない平和な場所。
人間味がある優しい人達、昭和の初めから時間が止まったようなこの町。
この土地を、この場所を、両親はもとより、
この地で生まれ育った芽衣子ももちろん気に入っていた。
だから漠然とだが、いつかこの場所に、
私達も墓を建てるかもしれないとすら思っていた。
墓石の幾つかには、まだ生気にあふれた切り花が供えられている。
どこからかお線香の香が漂い、綺麗な水受けには濁りはない。
毎日のように誰かが来て、墓の向こうの相手に語り掛けている姿を見る。
雑草はさほど生えてなく、要所要所の木々は美しく剪定されていた。
気持ち良いほどに手入れの行き届いた墓地。
その清々しい空気は、気分を一新させる。
よく恐怖映画で墓地はおどろおどろしい恐怖の定番場所として描かれているが、
ここではその定番も覆る。
海から吹きこむ優しい風に、そよそよと揺れる低木。
きらきらと美しく光る海面を見下ろす風景。
町人達が共同で掃除をしている為、驚くほど手入れが行き届いた場所は、
訪れた人達に、来てよかったと心地よさを残すのだ。
芽衣子は墓地をざっと見渡したのち、視線を港の一角に移した。
下から声が聞えたからだ。
かつて本当に思い出すのが辛かった風景が、懐かしさと楽しい思い出を蘇らせる。
最後にここを訪れたのはこの土地を離れる決心をしたとき。
誰もこない大雨の日に、そこに眠る彼に別れを告げる為に立った。
あれから、6年が経過していた。
それなのに、ここから見える景色は、
芽衣子の自宅付近の駅周辺と違って驚くほど変わらない。
小ぶりの釣り船が3,4つしか繋がれていない小さな船着き場。
漁で使った網を広げてトタンに載せて干している干場。
車が一台やっと通れそうな細い海沿いの道。
年季が入った瓦を乗せた昔からの商店や定食屋。
海風にさらされ、ひび割れた土壁の家屋。
昭和の初めの頃のものかと思われる4つ端が錆びたスチール看板。
声の出所である小学生の子供たちが、
掛け声をあげながらランドセルを背負い元気よく走っていく。
その子供たちの脇を、よたよたと古ぼけた自転車を運転しながら老人が走っていく。
子供たちがすれ違う時に、老人の自転車の後部座席の籠に、
手のひらサイズの石を一人一つと入れていく。
子供たち特有のいたずらなのだろう。
重くなっていく自転車に違和感を感じた老人が振り返り気が付いたようだ。
大きく腕を振り回しながら、真っ赤な顔で子供たちに怒鳴り始めた。
自転車の主に大きな声で叱られながらも、子供たちは楽しそうに笑っていた。
懐かしい。
あの風景に、かつての私と達也を見た気がした。
私たちは幼馴染というものだったのだろう。
隣近所というわけではないが、ちょっとしたことから母親同士が仲良くなり、
母親が会う序に同じ年の自分達の子供を遊ばせようということになった。
達也は大人しく優しい頭の良い子だった。
3月生まれだった為か、体型は小さくて細く、また体が弱かった。
泣き虫で動物が好きで運動が苦手。
美人な母親に似て可愛らしい顔立ちだ。
幼いころは女の子のようだとよくからかわれていた。
反対に私は、体が丈夫で元気なだけが取り柄の普通な子だった。
私たちもあの子供たちの様に、日が落ちるまで一緒に笑って遊んだ。
そんな私達は見知った友人というよりも親友に近い関係だったと思う。
同じ幼稚園、小学校、中学校と通ったが、
同じクラスは小中通して2,3回だったか。
達也の父親が事故で死んだのは、小学校の時だったと思う。
達也の母親は働き始め、達也は鍵っ子と呼ばれるものになった。
全てにおいて能天気な私と、順序良く計画立てて行動する達也。
子供の頃は、お互いが足りないところを補うように、
達也が私に勉強を教え、私が達也に体育実技の特訓に付き合った。
達也が出来ないと泣いていたら、私が手を握って大丈夫と告げ、
うまくできるコツの様なものを教える。
それで鉄棒や跳び箱はなんとかなった。
問題の難問の多さに、私が無理だ頭がパンクすると弱音を吐くと、
達也が解りやすく教えてくれた。
それこそ、小学校低学年の易しい算数の所から懇切丁寧に説明してくれた。
それで基礎が習得できた私は、段々と赤点を取らないようになった。
算数が数学になり、体育で剣道や柔道と言った男女別の選択科目が追加された頃、
達也が急に私を避け始めた。
急に変わった達也の態度に戸惑いと怒りを持ち、
何度か問い詰めたが、勉強が忙しいんだとのらりくらりと躱された。
話がなかなか出来ないまま受験があり、達也は県内随一の進学高へ、
私は普通の公立の学校へと進学した。
達也の学校へは電車で西に一時間。
私の学校へは東へ自転車で30分。
私たちの生活はすれ違いのまま、お互いの生活基盤がずれていった。
私は新しくできた友人達との毎日が楽しくて、
達也も同じように楽しい友人関係を築き上げていると勝手に思っていた。
それが違ったと解ったのは、私が17歳、達也が16歳、高校2年生の時だ。
母から、達也が登校拒否を起こしていると聞かされた。
達也の母親が私に説得してほしいって言ってきたと。
達也とは挨拶以外の話を最近した覚えがない。
だから説得など無理だと達也の母親に言ったが、
彼女は泣きながら説き続けた。
達也の母親の話だと、達也は苛めにあっているらしい。
母親が学校から持ち帰った教科書はぼろぼろで、
制服も刃物で切られた後があった。
達也が成長期だからと理由をつけて3度買いなおした制服も、
実は全て同じように切られて継ぎ接ぎだらけだった。
苛めを懸念していた母親が教師に何とかしてほしいと頼んでも、
教師は苛めの事実はないと否定するばかり。
それどころか、達也の成績が落ちていると反対に非難されるはめになった。
母親の教師への問い合わせが仇となったのか、
ある日、達也は全身を痣傷だらけにして帰ってきた。
両腕にはタバコを押し付けられたような沢山のやけど跡。
病院に連れて行き、誰がこんなことをしたのかと母親が問い詰めた時、
もう何もしないでくれと反対に大声で達也に怒鳴られたのだと言う。
大人しく優しい性格の達也が、母親に怒鳴ったのは初めてだったらしい。
怪我が治るまで休学しますと学校に連絡した時から、
何故か達也は部屋から出てこなくなった。
学校に行かないのはわかるが、母親の言葉にすら応えなくなった。
食事は日に2度、部屋の前に置いておくだけ。
達也の母親は日中に働いていたため、達也は誰もいない昼間に活動しているらしい。
それはわかったが、母親が達也の顔を一度も見ないまま、3か月が過ぎた。
学校からこれ以上休むなら退学してもらうと通知があったという。
折角受かった有名進学校を、いじめを受けた挙句にむざむざ退学なるなど、
やりきれないと悔しそうに達也の母親は話していた。
その顔を見て、そういえば達也があの高校に受かった時、
この美しい母親は満面の笑みを浮かべて周囲に自慢していたことを思い出した。
自慢の一人息子の晴れ姿に、達也自身よりも嬉しそうに微笑んでいた。
学校を変わるにせよ戻るにせよ、どちらにしても
部屋から出てきてもらわないことにはどうしようもない。
流石に達也を精神科の医者に診せようと母親が思案していた時に、
私のことを思い出したらしい。
子供の頃に泣いて帰り閉じこもった達也が部屋から出てきたのは、
いつも私が居た時だったと。
藁をもつかむように懇願され、母の勧めもあり、
日曜日の昼に、達也に会いに行った。
家に行くと、達也の母は急な仕事があるらしく伝言だけ残していなかった。
私が来るは解っていたので鍵はいつものところにあるとだけ書いてあった。
達也が鍵っ子だったこともあり、万が一の鍵の場所は昔から知っていた。
玄関脇の傘入れになっている水瓶の底だ。
鍵を取り出し家の中に入り、靴を抜いて二階の達也の部屋に上がる。
とんとんとんとリズムよく聞える自身の足音が懐かしい。
「達ちゃん、そこに居る? 私、芽衣子だよ」
昔のように扉を軽く3回ノック。
声変わりを始めたのであろう達也のかすれた声が返ってきた。
「芽衣ちゃん? 本当に?」
驚きを含んだ声には拒否の色は見えない。
「うん。 達ちゃん、久しぶりだね。
ねえ、顔が見たいの。ここを開けてくれる?」
少しの間があったが、しばらくしてかちゃりと鍵が開いた。
「いいよ。芽衣ちゃんなら入っても。
僕もずっと芽衣ちゃんの顔を見たかったんだ」
ドアノブをひねり、部屋のドアを押した。
達也の部屋に入り、一番にびっくりしたのは達也の変わりようだった。
芽衣子は記憶にある昔の達也との違いに正直慌てた。
「え? 達ちゃん? 本当に?」
応える声は記憶の中の達也の声よりも低い声。
「うん。 僕だよ。達也」
苦笑しながら目を細める表情は昔のままで、少しだけほっとした。
達也は驚くほど背が伸びていた。
以前に見かけた時は、遠目からだが芽衣子より少し高いくらいだと思っていた。
だが、今は頭一つどころか、二つ分より高い。
それに伴い、肩の広さ、手の長さ、足の長さがびっくりするほど成長していた。
顎には些少の髭が伸び、髪は自分で切っているのだろう、
長さがちぐはぐで更にぼさぼさだった。
よく眠れてないのか、目の下には真っ黒な隈。
食欲がないのか、頬はくぼみ、顎の下の成長しつつある骨を際立たせていた。
その顔色は死人の様に白く、ひょろっと長い体を幽霊であるかのように見せていた。
だが、落ちくぼんだ瞼の奥にある優しい瞳は同じだった。
「うわあ、本当にびっくりした。 達ちゃん、凄く背が伸びたね。
今何センチくらいかな。成長期だもんね、大きくなって当然だよね。
そういえば、達ちゃんのお父さんも背が高かったものね」
達也は、ベッドの上に腰かけて、隣に座る様に場所を開けた。
子供の頃からの同じ仕草。
私はすこし戸惑ったが、そのまま達也の傍に座った。
「さあ? 知らない。多分、170は超えていると思うけど図ってないから。
でも、芽衣ちゃんよりは大きくなりたいって小さいときから思っていたから、
嬉しいかな。 芽衣ちゃんは、……小さくなったね」
座ってもなお、座高は達也の方が高い。
目線の位置を合わせる為に首に無理を強いる。
「な、小さくなってないよ。 そっちが大きくなったんでしょう。
まだ、一応成長期だよ。 これからもっと、多分きっと伸びるんだから!」
ぷうっと膨れた私の頬を達也が両手で挟むようにして潰す。
空気が口から洩れてぶぅっと音を立てる。
はははっとわらう達也に、子供の頃を思い出す。
私達の関係も、今の仕草も、昔と変わらないような錯覚を起こす。
最初は何の気なしに思い出話をしていたが、達也が話題を変えてきた。
「ねえ、芽衣ちゃん、高校楽しい?」
高校の一言で思わず返事に躊躇する。
達也の母親には苛めのことを聞いていたから。
「僕に遠慮しなくていいよ。正直に答えて。
芽衣ちゃんは嘘は付けないんだから、無駄な努力はしなくていいよ」
私のことを多分一番長く知っている達也の一言で緊張が解けた。
助言通りに正直に答えることにした。
「うん。楽しいよ。もちろん勉強は中学の時と違って難しいけど。
達ちゃんが教えてくれた基礎が役にたったみたいで、
赤点はまだぎりぎり取らずに済んでるよ。本当だよ。
おかしな友達もできたし、文化祭とか体育祭とかいろいろあって毎日が凄く楽しい」
達也は、そう、と返事をしたきり黙ってしまった。
何か言いたそうで言えない。
そんな顔をしていたから、黙って達也が言い出すのを待っていた。
「僕も、芽衣ちゃんと同じ学校に行きたかったな。
そうしたら、芽衣ちゃんの楽しい生活に僕も入れたのに」
達也は、ぼそりと呟いた。
その顔が泣きそうにくしゃりと歪む。
顔を見られたくないのか、達也は前髪をくしゃりと潰し目を隠した。
「沢山奨学金がもらえる学校に行かないといけなかったから、
芽衣ちゃんと同じ学校に行けなかった。
母さんが喜ぶから有名な進学校に決めたんだ」
「うん」
「本当は芽衣ちゃんと同じ学校に行きたいってどうしても言えなかった。
僕の家は父さんいないし、僕が母さんを支えないといけないからって」
「うん」
「両親は駆け落ち結婚だったから、実家には頼りたくないって、
母さんは頑張って朝から晩まで働いている」
「うん」
「僕は男だし将来社会にでるなら有名な高校に行った方がいいって。
勉強だけは得意だったから、何とかなると思っていたんだ」
「うん」
私は、ずっと相槌を返すだけ。
「だけど、あそこは僕みたいなちょっと勉強が出来るだけの人間は沢山いたんだ。
僕は、その中で奨学金をもらう為に上位を維持しなくちゃいけなかった。
だから、毎日、毎日、遅くまで勉強して勉強して勉強して」
「うん」
「やっと奨学金を維持できる成績になったら、
反対に順位の落ちた生徒達に絡まれるようになった。
僕がいるから自分達の成績が上がらないって疎まれた。
先生に質問に行くだけで塾にも行ってない僕が、
自分達よりも良い成績が取れるのがおかしいって」
「そう」
「それからは、毎日苛められた。
教科書に落書きされたりノートを切り刻まれたりしたから、
毎日、どんな時でも鞄の中にすべていれて持ち歩いた。
そうしたら、足をかけられたり階段で背中を押されたり、
体育の授業で集団でリンチのようにボールをぶつけられた。
見てたはずの先生は、いつの間にかいなくなっていた」
「そんなことって…」
「苛められている僕には関わりたくないから誰も僕と話をしない。
学校の先生は、成績だけ見て生徒を見ない。
僕は、黙って耐えるしかなかった。
嫌だった。 もう、毎日が地獄のようだった。
それでも母が泣くのがわかっていたから、毎日学校に行ってたんだ」
「うん」
「そんな僕が目障りだったんだろう。
いじめが段々エスカレートし始めたんだ。
水を掛けられたり、帰り道に集団で襲われて、
制服をナイフで切りつけられたりした。
ほら、腕にも足にも沢山切られた跡があるんだ。
あいつら嬉しそうにカッターナイフを振り回してたから」
「そんな……」
「切られた制服を隠して、母に3度制服を買ってもらったけど、
すべて無残なものさ。
最後は仕方なくなって、内緒であちこち継ぎ接ぎで自分で縫ってたんだ。
皆に笑われた。先生ですら、笑ってみっともないというんだ。
惨めだった。 笑われて貶されてなおこの学校にしがみつく自分が嫌だった。
そうしたら、僕が隠してあった服を見つけて、母が苛めに気が付いたんだ。
学校に文句を言いに行った」
「うん」
「その後、僕は先生たちから呼び出しを受けて、反対に怒られたよ。
学校の問題を家庭で話すなってね。
奨学生なら、立場をわきまえろって脅された。
その上、担任は、苛めはされる側にも問題があるっていうんだ。
しっかりしていれば苛められないはずだって」
達也の口調は段々と興奮してきていた。
目の光が鋭くなる。
私は頷くことすら出来なくなった。
「生徒同士で考えろって、自習というなの暴力が黙認されたんだ。
今までは、授業中にだけは何も起こらなかったのに、
先生が授業放棄した教室で、堂々と殴られ蹴られた。
タバコの火を押し付けられて、見てよこの跡、凄く熱くて痛かった。
頭をけられて血沢山出て、死んでしまうかと本当に思ったよ。
そんな僕の姿を見ても、担任も、他の生徒も、保健の先生も、
誰も何も言わずに見て見ぬふりをした」
達也はつばを飛ばしながら、呪詛を繰り返すように手を狂ったように振り上げ、
空中に向かって怒って唸りを上げた。
「僕が、なぜ、あんな奴らに、こんな目にあわされなきゃいけないんだ。
僕がこんなに苦しんでいるのに、あいつらはのうのうと平気な顔をしてるんだ。
何もしなかったような顔で、僕を嘲笑いながらあの学校に今も居る。
僕が一体何をしたんだ。 悪いのは全てあいつらじゃないか。
僕は、悪くない。 僕は、何も悪くないんだ。
教師も、学校の生徒も、皆、皆、人間のクズだ。
あいつらは、全員死んじゃえばいいんだ!
もがいて苦しんで、僕の受けた何倍もの苦しみの中で死ねばいいんだ!」
達也の目が、狂気に染まっていた。
私は、初めて見た達也が抱える暗い狂気を受け止めることなどできなかった。
恐ろしかった。 本当に恐怖で震えた。
今にも目の前の達也が、憎い人を殺しに行きそうで怖かった。
「た、達ちゃん、やめて。 お願い、そんなこと言わないで。
私の知っている達ちゃんは、そんなこと言わない。
もっと優しくて、頭がよくて、泣き虫で、人の困ることはしない人だよ」
ぶつぶつと呪詛を呟き続けた達也が、狂気に染まった目で私をぎっと睨んだ。
「芽衣ちゃんまで、そんな風に言うんだ。
母さんもそういったよ。
正気に戻って。私の達也はそんな子じゃなかった。
そんな恐ろしい子は知らないってね」
達也の手が震える私の肩を掴んだ。
「た、達ちゃん?」
私の体が震えているのがわかったのだろう。
達也は恐怖におびえる私の体をかき抱いた。
「やめろ! 芽衣ちゃん、君まで僕を否定するな!
僕は僕だ。君の知らない僕でも僕だ。
そんな化け物でも見るような目で僕を見るな」
達也は、私を息もできないくらいに強く抱きしめたままベッドに倒れこんだ。
私は、多すぎる情報と変化する状況に対応できなくて、
初めて達也に感じた恐怖の感情のままに、ただ震えていた。
達也に乱暴に唇を奪われた。
キスなどしたことはなかった。
友人同士の会話や本で、好きあった男女がする行為だとしってはいたが、
こんな乱雑な行為だとは思っていなかった。
無遠慮に唇が割られ舌がぬるりと入ってきた。
口内の空気をすべて絡め取るように唾液が吸い込まれた。
息が出来なくなって、顎が上がる。
肺の中に酸素が足りなくなって、眩暈がして体から力が抜けた。
「芽衣子、芽衣子、僕の芽衣ちゃん」
達也は私の名前を呼び、縋りつくように私の体をまさぐった。
半分以上意識を失って朦朧としていたようなものだったが、
首に胸に腕に足に、汗ばんだ絡みつく手と、
生暖かい舐める舌が気持ち悪くて吐きそうだった。
高校生となれば、この行為がどういったものか私でもわかる。
下着をずらされた時、朦朧とした意識下で硬直していた体に戦慄が走った。
口から、咄嗟に制止するための声が出た。
「い、嫌だ。 達也、達ちゃん。 やめて! 嫌!
私に触らないで! 気持ち悪い!
あんたなんか、あんたなんか、達ちゃんじゃない。
あんたなんか、私は知らない」
達也の手がぴたりと止まった隙に、私は達也の下から這い出た。
そのままベッドからずり落ちる様に体を逸らす私を達也は逃がさない。
私をとどめる為に達也が足首をぎりっと強く握った。
その痛みに顔を顰めて達也の顔を見上げると、
恐ろしい般若のような怒った顔の達也の顔が私を見ていた。
「芽衣子、芽衣ちゃん。
僕は、ずっと君が好きだったんだ。
僕には君だけだったんだ。
君も、僕が好きだって子供の頃言ってくれただろう。
なのにどうして、僕から逃げるんだ!」
足を掴む手の爪が皮膚に食い込んで血が流れる。
痛みに更に顔を顰めて、達也の恐ろしい表情を直視できなくて顔を逸らした。
そして、私は恐怖と驚愕に荒れ狂う感情のまま声を放った。
「嫌い。大っ嫌い!
嫌だ。 離して! 痛い! 私に、私に触らないで!」
ふっと達也の手から力が抜けた。
その隙に私は足の自由を取り戻し、達也の部屋から逃れる様に飛び出した。
飛び出した時にちらりと見えた達也の顔は、
茫然とした表情、その中に明らかに垣間見える深い絶望の顔だった。
だが、その時の私は、そんな達也の心情を慮ることなどできなかった。
自分に起こった信じられない事実を受け入れられなくて、
あんなことをまさか達也が自分相手にしてくるなんて思っても見なくて、
だたその場から逃げることしかできなかった。
その夜はなかなか寝付けなくて、何度も寝返りを打った。
初めて見た信じられない沢山の達也の顔。
あれも夢や幻でなく本当に達也なのだろうかと何度も考える。
特に去り際に見せた達也の表情が頭に張り付いて、どうにも気になった。
あんなことをした達也は正直怖かったし、しばらく会いたくなかった。
だが、達也は本来あんな風に人を呪う人間ではなかったはずだ。
落ち着いて話が出来れば、もとの達也に戻ってくれるかもしれない。
転校とかして環境を変えれば、達也もあんな風に怒ることはないだろう。
転校を渋る達也のお母さんには、私の母と一緒に説得してもらおう。
母や達也の母と一緒に行けば、あんなことは二度と起こらないはずだ。
そこまで考えてやっと眠ることが出来た。
そして、明日、もう一度達也に会いに行って話をしようと決めた。
その晩は、しとしとと雨が降っていた。
外の音が雨音に消されて静かな夜に、雨どいを伝う雨水の音だけが聞こえる。
私も、私の家族も、眠っていた。
一本の電話が夜中に鳴った。
しばらく鳴り続けて母が電話を取った後、すぐに私を起こしに来た。
その声は、聊か震えていた。
「芽衣子、起きて! 起きなさい!
いい? 落ち着いて聞いてちょうだい。 達也くんが、死んだのよ」
目覚めの良い私の目は開いているし、当然耳も聞えているのに、
母の悲痛な顔と、その口から放たれた言葉を理解できなかった。
「え? お母さん、今、なんて言ったの?」
母は、顔を歪めながら、今度は、もっとはっきりと言葉に載せた。
「今、達也くんのお母さんから連絡があったの。
自殺ですって。 部屋で首を括ったらしいわ」
私は茫然としたまま、オウムのように言葉を返す。
「達也が? 自殺? 部屋で首を? 達也? え?」
何度も何度も、信じられないとばかりに茫然とその言葉を繰り返す私は、
どこか壊れかけていたのかもしれない。
母は、私の体をぎゅっと抱きしめてくれた。
「芽衣子、しっかりして。
貴方のせいじゃない。貴方が責任を感じることはないの」
母の言葉は私にはなんのことか解らず、
ただ茫然と達也が死んだという単語を口で繰り返すだけだった。
受け入れがたい情報に、涙も出てこなかった。
私が母のその言葉を本当の意味で理解できたのは、
2日後、達也の葬式の為に訪れた私を達也の母が殴った時だった。
「あんたのせいよ!
あんたのせいで達也は死んだのよ!
あの子はあんなに傷ついていたのに。
あの子はあんなに苦しんでいたのに。
あんたが、達也を、追い詰めたんだ!」
数珠を投げつけられ、花瓶の水を掛けられて、焼香の灰をぶつけられた。
そして、女性の身としては恐ろしいほどの力で倒され頬を何度も殴られた。
達也が死んだことを現実として未だに受け入れられてない私の心を、
達也の母は一方的な暴力と刃物のような言葉で抉っていく。
「あの子は、あんたを好きだったのに。
あんなに、あんたと仲良くしてたのに。
最後になってまであんたを信じてたのに、あんたはあの子を裏切ったんだ」
髪を振り乱し山姥の様になった達也の母の言葉が心に突き刺さり、
胸が呼吸もできないくらいに痛くなる。
殴られて腫れた頬よりも、胸の痛みがぎりぎりと締め付け苦しくなる。
「あの子は、優しい子だったのに。
賢くって大人しくって、親思いの本当にいい子だったのに。
あの子には選べる未来が沢山あったのに。
あんたが、あの子の未来を奪ったんだ」
近所の人達が狂ったように手を上げる達也の母を羽交い絞めにして、
その暴行を止めた。
だが、彼女の狂気の歯車は止まらず、私を睨む目には憎しみが満ちていた。
「許さない。 絶対に絶対に許さない!
あの子を追い詰めた学校の生徒も、先生も、学校そのものも。
絶対に地獄に追い落としてやる。
だけど、もっと許せないのはあんたよ。
あの子が死んだのはあんたのせいなのに。
あの子には未来が無いのに、どうしてあんたに未来があるの。
あの子は大人になれないのに、どうしてあんたが大人になれるの。
あの子は死んだのに、どうしてあの子を裏切ったあんたが生きているの」
その時になって、初めて私は私のしたことの本当の罪を知った。
達也は本当に死んでしまったのだと。
達也の母の言うとおり、私のせいで達也が亡くなったのだと。
私が、あの時、心無い一言を投げつけた為、達也は死を選んだのだと。
別れ際に見た絶望に染まった達也の顔が脳裏に張り付いて離れない。
もう取り返しがつかない。
達也は死んでしまった。
目の前が真っ暗になる瞬間だった。
そして、同時にようやく理解したのだ。
優しかった私の親友、達也はこの世のどこにもいないのだと。
その時初めて涙が滂沱のごとくに流れて止まらなくなった。
灰で真っ黒になった頬の上に涙がとめどなく流れていく。
そんな私の背中に、母がそっと暖かな手で撫でていてくれた。
その日から、毎日のように達也の母からの嫌がらせが続いた。
電話も手紙も張り紙も、なんども止めてくれと母が頼んでもダメだった。
ケタケタと笑いながら家の前で狂ったように叫ぶ達也の母は、
私を呪って口汚く罵った。
「あんたには大人になる資格がない。
達也を殺したあんたの未来は、私が全部奪ってやる。
そうだよ。 あの世で達也が待っているんだ。
芽衣ちゃんをちゃんとあの子のところまで送ってあげないとね」
にやりと笑うその狂気の凄まじさに、地獄の窯を垣間見た気がした。
誰しもが真の恐怖を覚えたに違いない。
私の身を心配した両親に外出を止められ、
家から出ることが出来ずに学校を休む日が続いた。
私は自分の部屋で、白い壁を見つめながらじっと考え続けた。
あの時、私は達也に対して本当はどうすればよかったのかと。
達也を救えたかもしれない方法を、何度も何度も沢山沢山考えた。
達也は帰ってこない。
後悔しても時間は巻き戻らない。
解っていても、考えることをやめられなかった。
別れ際にみた達也の絶望した最後の表情が脳裏に張り付いて、
何度も夢で再現する日々が続いた。
ある日、警察が来た。
達也の母が、警察に逮捕されたのだ。
達也の母は、達也の日記から学校の苛めていた生徒を突き止めて、
やくざな連中に頼んで暴行を加えさせたらしい。
死にはしなかったが、かなりの痛手を受けたようだった。
1人は片目が見えなくなり、2人は腕の骨が複雑骨折し、1人は背中が折れ、
1人は耳が聞こえなくなり、1人は足が曲がったまま。
私の家に来た刑事さんが教えてくれた。
彼等はこれから先、健常者としての生活は送れないだろうとも。
苛めていた生徒は6人。自身がした暴力の何倍もの暴力を受けたらしい。
当初は全てが事故として処理されていたが、訴えがあって再調査になって、
彼等の事故が明らかに不自然だと思われたらしい。
警察に事件の真相がわかったのは、事件からかなり日数が過ぎてからのこと。
私達は知らなかったが、達也の母の実家はその筋では有名な家だったらしく、
度々暴力行為で世間を騒がせていたらしい。
駆け落ちしてまで一緒になった夫に死なれ、最愛の息子を殺されて、
達也の母は実家を頼ったらしい。
その結果、達也の母の復讐計画は恐ろしいほどの成果を出した。
担任の先生や校長に嫌がらせという名の暴力が立て続けに起こった。
担任の教師は学校を止めたのに、毎日のように憶えのない借金の取り立てをされて、
家族共々夜逃げしたらしい。
更に虐めをしていたと思われる生徒に降りかかる次々の不運な事故。
校長や他教職員の家族にまで恐ろしい被害が及びそうになって、
やっと学校が重い腰を上げた。
苛めの事実を隠したままであったが、脅しを受けていることを警察に訴えたのだ。
学校側の責任を追及されることを最後まで恐れていたが、
自身の保身の為に警察に真実を話した。
その事件にマスコミは飛びつき、連日のように、
この小さな町中に知らない人間がうろついては達也のこと、学校のこと、
いじめのこと、そして、私のことを詮索して記事にした。
だが、達也の母は、練達の弁護士により、
裁判では証拠不十分として起訴猶予となった。
6人の生徒の傷害事件は結局は全て事故として処理された。
達也の高校の教師陣は校長を始め保険医までが辞職し、
理事も一新され、すべてが無かったことにされた。
そしてほとぼりが冷めぬ間に、またもや達也の母が、
私の家に嫌がらせを始めた。
私の父は裁判所に行き、達也の母の行為の数々と事の経緯を話して、
マスコミに、達也の母とその周辺に、私達家族への接近禁止命令が出された。
そして、父は秘密裏に家を購入して住み慣れた町を去った。
前々から買おうとは思っていたと父は言ってくれたが、
全ては私を守るためだったと解っていた。
接近禁止命令が出ているが、達也の母は諦めなかった。
警察の目があるので、あからさまに襲ってくることはなかったが、
影から睨みつける目を常に感じていた。
私は、事情を知っている友人や学校の先生たちに支えられ、
なんとか無事に高校を卒業できたが、
私が県外の大学に進学することを止める者は誰もいなかった。
むしろ、そのほうがいいと勧められた。
父の仕事先も、新しく越した先の近所のみなさんも理解深く、
私達の事情を組んでくれて協力してくれた。
父と母は、達也の母の行動を恐れて、万が一を考え、
県外に出た私との連絡を一切取らないように決めた。
手紙も電話も、一切の情報を特定の人を介してのみ行われた。
父の友人が出張に出るときに頼んで手紙と荷物が届く。
そして、手紙の最後に添えられる言葉は必ずいつも同じ。
私達は元気だから心配しないように。
優しい両親に、わざわざ私に手紙と荷物を届けてくれる父の友人に、
泣きながら感謝した。
そして、同時に理解していた。
達也の母は、いまだに私を探しているのだろうと。
送金すると履歴が残るからと、
父の友人で弁護士をしている人が届けてくれる現金と大学の学費。
私の家は決して裕福ではないのに、精一杯のお金を持たせてくれた。
父の友人達もできることがあれば何でもするからと、いろいろ世話してくれた。
学費の値段が上がったり、アパートの更新のたびに値段が上がった時、
両親にも父の友人にも言えなくて、バイトを幾つも重ねて生活した。
私の生活はいろいろ大変だったが特に問題も起こらず、
友人にも恵まれて、勉強も問題なく4年間の大学生活は充実し楽しかった。
だが、楽しい、嬉しいと感じた時にいつもふと脳裏に浮かぶ。
達也が生きていたならどうだっただろうか。
達也がここにいたなら私と同じく楽しかっただろうか。
考えてもどうしようもないと解っていても、考えてしまうのだ。
達也の死の一因は確かに私だったけれど、
私が選択を間違えなければ達也は今も生きていただろうかと考える。
そんな私は、達也の母と同じく、達也を失ったあの時あの場所から、
本当は一歩も進んでない気がしていた。
時折、深い屈託を見せる私を心配して、
悩みカウンセラーや宗教などを進めてくれる人もいた。
それらの集会に行ったり、カウンセラーの助言を聞いては見たが、どれも違う。
彼等は私が求めている答えを持っていないと解った。
心の上滑りを撫でる気休めの言葉が必要な時期はとっくに過ぎていた。
私は、私の心の中で答えを見つけなければならない。
そうしなければ、私は一歩も前に進めない。
だから、毎日、自分の心に問いかけていた。
大人とされる未来の自分。大学卒業はもうすぐそこだ。
だけれど、本当に許されていいのだろうか。
達也を置いたまま、私は前に進む。
それは私にそれは許されていいのだろうか。
何度も何度も考えて考えて、答えを探して探して、
そして、大学卒業前にやっと答えを自分の中で見つけた。
それは、何気ない生物研究学科に進む友人の一言。
「人の皮膚や細胞って生まれ変わるのよ。生きている間に何度も。
ほら、爪や髪の毛って切ってもまたのびるでしょう。
だから、仏教の教えにある魂も死んだら巡るって考えは悪くないと思うんだ」
魂が巡る。
その言葉に、ようやく答えを見つけた気がした。
もう達也は戻ってこない。
でも、もし達也が生まれ変わって巡って私の所に現れたなら、
私はもう二度と間違わない。
達也でない、他の誰かでも、私はもう二度と逃げたりしない。
誰かが手を伸ばしたならば、私は躊躇わずにその手を取ろう。
それが、いつか魂が巡った達也かもしれない。
私の贖罪というには軽すぎるかもしれないが、いつか誰かの助けになりたい。
そう決めた。
私は、やっと達也への想いに終止符を付けることが出来た。
自分の為の未来を見据える為に、正面をむこうと決めたのだ。
就職を考えたとき、家に戻るかどうか悩んだが、
父の友人からそれはやめた方がいいと勧められた。
まだ、達也の母は諦めてないようだからと。
その一言で、私は暗く沈んだままの達也の母の魂を感じた。
達也の母は、まだ達也の死んだ苦しみの中に閉じ込められたままなのだと。
達也の死を、また受け入れられていないのだとわかった。
達也の為に達也の母に逢いに行こうと思ったこともある。
だけど、彼女自身が達也の死を受け入れられてないのなら、
私に逢うことは地獄の再現に他ならない。
だから、時間を置くことにした。
私はアパートからさほど遠くない場所での就職先を探し、
あの神社の事務員の採用をやっと手に入れた。
そして先日、両親に電話したのは本当に6年ぶりになる。
電話口で話した母は、戸惑いと疑問を持ちつつも嬉しさで泣いていた。
6年の別離の間に私の心の整理がついていたのもあるが、
ここに帰ってこようと決めたら、もう怖くなかった。
達也の母にあうことも。
達也の墓を見つけることも。
達也の死を見つめることも。
そして今、達也の眠る墓地で達也の母に逢う為にここにいる。
6年前、あれだけ怯えていた私の心から恐れが消えていた。
達也の死についての悲しみが消えた訳じゃない。
だが、前を向いて歩くと決めた時から覚悟は出来ていた。
達也の母を待つ。
弁護士の父の友人が連れてきてくれるらしいのだが、
達也の母の感情を受け止める覚悟は出来ていた。
達也の墓を前に不思議と心が凪いでいた。
穏やかな波の音を携える海の様に。
海の色の反射が深縁の美しい色の光の絨毯に見えた。
白く泡立つ波は絨毯の模様だ。
きらきらと輝く波が暖かい何かを心に運んでいた。
心がじわじわと温かくなっていく。
誰かに包まれているような、誰かに護られているような不思議な安心感を覚えて、
心がいつになく落ち着いていた。
私は、大丈夫だ。 そう思った。
だが同時に、とてつもない喪失感に襲われる。
何故だかわからないが、私は、何かを手から落とした気がした。
手のひらをぎゅっと握りしめる。
落とした? 何を? いや、違う。 落としたのではない。
そう、大事な何かを忘れているような気がした。
これは、確信にも近い閃き。
何かを、私は忘れている?
それは一体何?
私は、待ち合わせの時間かくるまでじっと海を見ていた。




