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箱をあけよう  作者: ひろりん
第6章:帰還編
173/240

芽衣子の日常と戸惑い。

ざっざっざっと勢いよく竹箒が敷石の上を滑る。

それに合わせて小さな砂埃が舞い、涸れた松の葉や折れた枝、

松ぼっくりが集められる。


集まった枯葉や木の実、紙屑ごみを塵取りで拾い、

それを社務所奥のごみ焼き場に持っていく。


石や砂が混じったごみは、まずは堆積所に貯めて混ぜる。

そうすると石や砂は下の落ち、枯葉などの燃えるごみだけが残るのだ。

燃えるごみだけをスコップで掬い上げ、

ブロックで囲まれた焼却炉に放り込む。


焼却炉が半分ほど埋まったら、上着のポケットからマッチを取り出して火をつける。

それを下部にある小さな窓に入れると、焼却炉の中で火が踊り始めた。

時折、火元の小さな窓に手で仰いで風を送るとその勢いは増す。


ゴウッと音を立てて温度が上がり、焼却炉の周りの空気が熱くなる。

ブロック塀で囲まれた焼却炉のわずかな空間に暖かい空気が満ちる。


芽衣子は悴んで指先が赤くなり始めた手の平を翳した。

暖かくなっていく手のひらを何度も擦り合わせて指先の温度を上げる。


次第に冷たい指先が暖かくなり、その温まった手のひらを堪能して踵を返した。

ごみ焼き場のブロック塀から一歩外に出ると、ぴゅうっと冷たい風が襲いかかる。

上着の首元をかき寄せて暖かい空気を逃がさないように縮こまるが、

冬の北風は無慈悲だ。

あっという間にわずかの温みを奪い去っていく。


ごみ置場横にある掃除道具入れの小さなロッカーを開けて、箒と塵取りを仕舞う。

向かい風になる風を突っ切って、やや速足で社務所まで戻る。


社務所入り口に入る前に、くるりと参道付近を振り返った。

綺麗になった参道と参拝客のくる社殿までの掃除は、

最近ほぼ毎日の芽衣子の日課であった。


この神社は街中よりも高い場所にあるため、

風が強い日は掃除してもきりがないのだが、掃除は毎日欠かすことなく行う。


神様のいる場所は綺麗にするのが常識であるし、

芽衣子としても綺麗な境内は気持ちがいいものだ。

社殿や神社自体は古いものだが、大事に手入れされることで、

その重厚感や存在感は増すように思える。


一生懸命掃除をすると、時折神社自体が輝いているような錯覚を憶える。

日光の反射だと原理は解っているが、後光が差し込んでいるようだ。

そんな時、雇い主である神主は、神様が喜んでいらっしゃるんだと嬉しそうに言っている。


本当にそうなのかは、凡人である芽衣子には確かめようがないが、

掃除するだけで喜ばれるのなら、単純な作業でもやりがいがあるというものだ。

現に、綺麗に掃除されさっぱりした境内に、芽衣子は満足感を抱いていた。


芽衣子の本来の仕事は社務所での事務仕事であったが、

正月を過ぎ、成人式も終え、旧暦の正月、節分と終わった2月に入ると、

社殿を参拝に来る客も減り、芽衣子の仕事も聊か暇になる。


この神社は学業成就の神を大きく祀っているのではない為、

受験生の参拝は隣町の水天宮に行くのが殆どだ。

つまり、高台のこの神社にくる参拝客が今は大変少ない。


正月後からしていた一日3回の掃除は、2月半ばともなれば朝の一回のみで済む。

法務局や役所に提出する書類を整えたら、芽衣子の仕事は暇になる。


本来ならば、ぼうっと達磨ストープの周りでテレビを見ながら休憩しても、

咎める人はだれもいないのだが、なぜか芽衣子は気がせいて、

社務所の拭き掃除をしたり、社殿の床を磨いたりと忙しなく働いていた。


何時ものように、社務所でおやつを用意していた神主の奥さんが声を掛けてきた。


「芽衣子さん、お疲れ様。

 ねえ、そろそろ休憩しない? お汁粉を作ったの。

 濃茶を入れるから手を洗ってらっしゃいな」


にこにこと朗らかな笑顔と一緒に見せられたのは、

ホカホカと湯気を立てている暖かなお汁粉。

お椀の中の小餅が見えないくらいに小豆が盛っている。


芽衣子の目に嬉しそうな光が灯る。


「はい。有難うございます。いただきます」


持っていた雑巾を流しで洗い、手にハンドソープをつけてこする。

そして茶色の泡が白い泡になるまで手を洗った。


ポケットからハンカチを取り出して手を拭いて、

奥さんの待つ達磨ストーブ前の椅子に座った。


椅子の前には小さな木の机があり、そこには3つのお椀。


芽衣子が座ると同時に、社務所の後ろの戸が開いて、

でこぼこコンビのおじさん同僚2人が帰ってきた。


正月直後は芽衣子と一緒に掃除していた同僚であるが、

彼らの本来の仕事は掃除人ではない。

庭師、兼、ドライバー、兼、配管工である。

のっぽの方は建築士の資格も持っているらしく、拝殿の簡単な修理もしてしまう。

年齢は二人とも60近いが、本当によく働く人たちだ。


2月半ばの今は、そこそこ境内の掃除は芽衣子一人で問題ないため、

彼らの本来の仕事である庭師、及び配管工としての仕事をしていた。


小さい小太りおじさん、信夫さんは松の幹のうろに薬を塗りに行ったり、

のっぽのおじさん、武男さんは裏の水道管のパッキンを取り替えたりと忙しく働いている。


彼らも奥さんが声を掛けたのだろう。

汚れた軍手を流しの脇に置き、勢いよく水を出して、

軍手をしてたはずなのになぜか真っ黒になっていた手を綺麗に洗った。

腰に下げた手ぬぐいで手を拭いてから、

にこにこと嬉しそうに笑いながら芽衣子の隣の椅子に座った。


「やあ、これは美味しそうだ。 寒い日には本当に嬉しいね」

 

背の低い信夫が、達磨ストーブに手を翳しながら、

赤いお椀の中を覗き込んだ。


「労働の後は甘いものがいいよね。何よりのご馳走だよ」


のっぽで細見の武男は、いそいそと割り箸を手に取って碗を両手で囲む。


そんな二人が手を付けるのを見て、芽衣子も一緒に手を合わせた。

そして、お椀の縁に口をつけて暖かな甘いお汁粉をすすった。


「そうですね。本当に美味しい。 あ、お餅2つも入っている」


一つだと思っていたのが2つだと予想外に嬉しい。


3人が食べ始めるまでにこにこと笑って座っていた神主の奥さんが、

ふふふと笑って腰を上げた。


「3人共よく働いてくれるから、ご褒美よ。

 おかわりもあるから、しっかり食べていいわよ」


その言葉で3人の顔が更に緩んだ。


暖かい社務所に甘いお汁粉の香りが充満して、

3人はほぼ同時に感嘆のため息をついた。


「美味しいね~」

「本当にねえ~」

「幸せです~」


3人そろって、はふはふとお餅を噛み切りながら、

実に幸せそうにお汁粉を堪能していた。


にこにこと笑う奥さんがお盆に、

濃茶とお茶請けの塩昆布を乗せて置いて行った。

甘みと共に少し塩気を口に入れるのが、たまらなく美味しかった。



だが、でこぼこコンビのおじさんたちの方が食べ終わり、

2杯目のおかわりをもらいに台所に行こうと立ち上がった時、

芽衣子が箸を片手にぼうっとしているのに気が付いた。

ちなみに、碗の中身は半分程しか減ってない。


信夫が芽衣子に声を掛ける。


「芽衣子さん? 調子でも悪いの?」


武男も芽衣子の顔を除きこむ様に腰をかがめた。


「お汁粉、大好物だろう。 おかわりしないのかい?」


二人の顔は、何時もと違う芽衣子の様子をみて心配そうに歪められる。

向けられた言葉と表情は、明らかに芽衣子を気遣っている。


芽衣子は、何かに今更ながらに気づいたかのように目をぱちぱちと瞬いた。


「へ? あ、あの、大丈夫です。体の調子は悪くないです。

 風邪もひいてないですし。 心配かけてすいません」


慌てて残っていたお汁粉を食べ始めるが、

途端に餅が喉につかえそうになり咳込む。


「ああ、無理しないでいいよ。

 芽衣子さんにも悩みとかいろいろあるだろうし、

 僕達も無遠慮に詮索するつもりはないよ。

 でも、ぼうっとしていると本当に危ないよ」


咳込む芽衣子の背を、信夫が子供の背をさする様にゆっくりと撫で、

武男が濃茶が入った湯呑を芽衣子に差し出した。


「はい。これ飲んで。 ゆっくりとね。 落ち着いて」


差し出されたお茶をぐいっと喉に流し込むと、

喉の閊えがお茶と一緒にごくりと喉を通り過ぎた。


湯呑のお茶を飲みほして、芽衣子ははあっと息を吐いた。


「有難うございます。 いろいろ心配かけてすいません」


頭を軽く下げて苦笑すると、二人のおじさんは穏やかにほほ笑んだ。


「ここ2週間ばかり、芽衣子さん一心不乱に仕事しているだろう。

 かといって、ふとしたときにぼうっとしているのをよく見かけるし。

 疲れがたまっていると思うんだよ」


信夫は真剣な顔でのっぽの相方に視線を向ける。

武男はうんうんと頷きながら言葉を続けた。


「そこでだ。 そろそろここも暇になってきたし、

 僕達も先週交代で休みを取ったから、

 芽衣子さんもここらで休みを取ったらいいんじゃないかって、

 さっき話してたんだ」


休み?


芽衣子は二人の提案を聞いて、ぱちくりと目を見開いた。


「え、でも、掃除とかいろいろと……」


二人の提案に対する返事をしていたら、台所からやってきた奥さんが、

その言葉を遮った。


「あら、いいじゃない。確かに芽衣子さん、最近働きすぎだもの。

 年末からこっち随分働いてくれたから、私達は助かったけど、

 そろそろお休みとってゆっくりしたらいいわよ」


にこやかに笑う奥さんがもつお盆の上には、

ほかほかと湯気を立てているおかわりのお汁粉。


それを受け取りおじさん達は嬉しげに微笑んだ。


奥さんは、お汁粉のおかわりを3人に渡しながら、

芽衣子の顔をじっと見つめて言った。


「若いころは悩みがあるのが当然とはいえ、

 最近きちんと眠れてないんじゃない

 芽衣子さん、貴方、その隈ちっとも隠せてないわよ。

 化粧で隠せない隈をいつまでも飼っていたら体にも悪いわ」


その言葉に芽衣子は苦笑した。

確かに、最近の芽衣子の眠りは浅かく短い。


仕事を鬼のようにして、体疲れて泥のように眠っても、

1時間が2時間で目が覚めるのだ。


体は休息を必要としているのに、

瞼を閉じても眠りは再びやってこない。


仕方ないので、真夜中なのに部屋の中の掃除をしたり、

乞った料理をつくったり、昔の映画をみたりと時間を潰している。 


その結果として当然のように目の下に大きな隈を飼うようになった。


コンシーラーを重ね塗りしても隠し切れない程の隈。


何故眠れないのか、悩みがあるのかと問われても、

眠れない様な真剣な悩みなど思い当たるものはさっぱりなかった。


あえて悩みといえるのかどうかわからないが、

芽衣子がこのひと月ずっと抱えている事柄があった。


それは、違和感だ。


ある日を境に、芽衣子の日常生活のことごとくに違和感が付き纏うのだ。

違和感の後に襲ってくる寂寥感も、訳もなく物悲しさを募らせた。


だが、それが何故なのか芽衣子にはさっぱり解らなかった。


たとえば、先ほどのお汁粉を食べたときにも感じた。


目の前にいるのは2人の同僚のみなのに、

いつももっとたくさんの人達に囲まれて、

楽しくおやつを食べていたような不思議な感覚が襲った。

それと同時に、とてつもない寂しさが押し寄せてきたのだ。


その時のことを思い出しながら首を傾げるしかない自分がいた。


大勢で集まって食事って、大学の友人達との昼食ぐらいしか思いつかない。

大学に入ってからは一人暮らしだし、

コンパはバイトが忙しいと断っていたから殆どいかなかった。


だが、卒業してから友人の殆どが就職したり帰郷したりしている為、

大勢で食事の風景などかなりご無沙汰だ。


あれは楽しい時間だとは思うが、

日々の生活に影を落とすほど懐かしむことはないはずだ。

 

なのに心のどこかで、ずれが生じていた。

目の前の現実の光景に、甘受できない自分がいるのだ。

それがどうしてなのか、何度考えても解らなかった。


そのようにして、ほぼ毎日、

朝起きてから夜寝るまで違和感に付きまとわれ、

そして短い睡眠中にも何かに追い立てられるように、

焦りを感じて目を覚ましていた。


原因がわかれば、解決にも前向きになれようものの、

それすら解らないので、正直、ほとほと困っていた。


睡眠薬を飲んでみようかとも思ったが、

薬局で薬剤師さんに言いだすこともできず、そのままだ。


医者に掛かろうかとも思ったが、今の芽衣子には出費が痛い。


なにしろ、どこかで水没したらしく携帯が壊れ、メモリーも壊れた。

かろうじて住所録はバックアップを取っていたため問題ないが、

買い替える為の突然の出費はお財布にかなり痛手を与えた。


買ったばかりの手帳は水でふやけて使い物にならないし、

お気に入りのボールペンは紛失していた。

買ったはずのガムのビンも、のど飴も、どこに落としたのかわからない。


うっかりが多い芽衣子ではあるが、

ここまでいっぺんに物がなくなったり壊れたりは初めてだった。


その上、これは喜ぶべきなのか泣くべきなのかと考えるところだが、

下着のサイズが明らかに変わったので買い替えを急遽必要とした。


ワゴンセールの下着をあさったとはいえ、予定外の大きな出費に間違いない。

何時も憧れていた谷間が得られたのは嬉しいが。

何故、よりにもよって今と問いたかった。


正月からずっとおやつが餅関連だったのが効いたのかもしれないし、

正月明けの神頼みでお賽銭箱に100円入れたときの、

願い事の一つだったような気もする。


だが、いろいろ考えたが理由などさしたる問題ではない。



暦の上では厄年ではないが、芽衣子にとって最悪な年の始まりだった。

特に金銭面についてであるが、貧乏神がどこかで見ているのかもしれない。

そう思って部屋の4隅を綺麗に掃除したりもした。


その結果、たださえ質素な芽衣子の生活は更に倹約に努める様になった。

極貧生活というものはとかく精神を追い詰めていくものであるのだろう。


いろいろ心労が重なった結果もあり、それで眠れないのかもしれない。

出費を気にしながらも日々の生活に追われて、とりあえず毎日を過ごしていた。



目の下の隈はそういった毎日から発生し、今も飼い続けているものだ。


奥さんは芽衣子より20程離れているが、驚くほど若々しく、

そして面倒見のよい本当の姉のような女性だった。


芽衣子の顔に浮かぶ苦笑に、奥さんはかわいらしく首を傾げ、

年上の女性らしく助言を言い放った。


「貴方には休息が必要よ。

 たまには何もかも忘れて羽根を伸ばしなさい。

 田舎にも随分帰ってないんでしょう。

 10日ほど休みを上げるから、両親に顔を見せに帰ってきなさいよ。

 気分も変わるし、悩みもリセットできるかもしれないわよ」


奥さんの言葉に重なる様にしておじさん達も頷いた。


「そうだよ。役所に提出する書類は終わったって言ってただろう。

 それを出したら暇になるって言ってたじゃないか」


「七五三の行事や桃の節句がくればまた忙しくなるし、

 ここで休みを取ってゆっくりした方がいいよ」


芽衣子を気遣う3人の様子に戸惑って黙っていたら、

奥さんが腕を組んで、よしっと立ち上がった。


「私から旦那に言っておくわ。

 芽衣子さん、貴方は今日これから役所に書類を出したら、

 まっすぐお家に帰りなさい。

 そして、あしたから10日お休みよ。

 今は帰省シーズンではないから列車の切符も簡単に取れるでしょう」



勢いよく立ち上がった奥さんに、待ってくださいと声を掛けようとして、

ふとよくわからない既視感が襲った。

 

奥さんの姿に、誰か見知った女性の影がふっと重なったような気がしたのだ。

その影が誰かは解らないが、心が懐かしいと勝手に訴えてくる。


芽衣子の記憶の中の友人一人ひとりに当てはめるが、

誰もその影に当てはまらない。


そこでまた違和感が生じて、ごくりと息を飲んだ。


はっと気が付けば、奥さんから芽衣子の手に一つの茶封筒が渡された。


「あの、これは?」


封筒を手に訊ねると、奥さんは晴れやかな笑顔で答えた。


「芽衣子さんの実家にお土産でも買って帰りなさい。

 これはお土産代。 帰省の足しにして頂戴」


そんなっと声を上げようとすると、

おじさん達から肩を叩かれた。


「もらっておきなさい。年長者のいうことは聞くものだ。

 それに僕達からのカンパも入っているから、

 奥さんに遠慮することはないよ」


彼らの笑顔が、気遣いが、じーんと心に沁みた。


奥さんが、ああそうだとポケットからお護りを一つ取り出した。

そして、封筒を握りしめている芽衣子の手の上にポンと乗せた。


「これは、うちの旦那からよ。

 ぼうっとしていて事故に合わないように、

 芽衣子さんに渡してくれって言われてたの」


その言葉で神主である芽衣子の雇い主の気遣いを知った。


なんていい人達なんだろうと、心の底から思った。

世知辛いと言われているご時世で、

こんなにも良い職場に恵まれたことを感謝したかった。


手のひらに乗せられたお守りは、肌守り。

一般的に言う身代わりお守りである。


災悪や事故を防ぎ、病魔を遠ざけると言われているものである。

この神社の一番の売れ筋で、古くからあるお守りである。

芽衣子も年末年始にこれでもかとばかりに売った記憶がある。


お守りと封筒を握りしめて、ゆっくりと頭を下げた。


「はい。それでは、明日からお休みをいただきます。

 本当に有難うございます」


芽衣子の了承に、3人がほっとした顔で頷いた。


信夫が何かを思い出したように唐突に質問をしてきた。


「そういえば、芽衣子さんの田舎って、海のそばだったっけ?」


突然の質問にそのまま考えることもせずに答えた。


「あ、はい。海のそばと言っても、内海なので波も高くないですし、

 大きな漁港とかもそんなにありませんが、穏やかな気候の街です」


脳裏に懐かしい田舎の海が浮かんだ。

長らくあの海を見ていない。


潮の香をもう忘れてしまっただろうかと郷愁の念に駆られた。

 

武男がぐいっとお汁粉を飲み干して、にこやかに笑った。


「そう、いいね。 今が旬の魚を食べて英気を養っておいでよ。

 故郷の水は何よりも離れ難しってね。

 元気な顔で帰ってきてくれることを期待しているよ」


その言葉を聞いて、心が決まった。

久しぶりに故郷に帰ろうと。


その晩、久しぶりに故郷の親に電話をした。




*******





新幹線のホームから在来線に乗り換える。

そして、流れる景色を見ながら見知った風景はないだろうかと、

じっと外を見つめていた。


車窓から遠くに海が見えた。


ああ、もうじきだ。


朝いちばんの電車と新幹線を乗り継いで、

故郷の地に降り立ったのは、午後3時過ぎていた。


ホームに降り立って、改札を抜けるとびっくりした。

駅が、ショッピングモールと合体したようで、とかく人が多い。


それに、記憶の中の故郷の駅の風景は一欠けらもない。


もう6年近く帰っていない故郷だ。

変わるのは仕方ないと解っていたが、

まるで竜宮城から帰ってきた浦島太郎の気分だ。


あまりの変わり様に思わず駅名を確認するため改札を出て、再度引き返す。

改札の上に掲げられた駅名を見て、間違ってなかったと確認していたら、

肩にポンと誰かの手が乗った。


「芽衣子、お帰りなさい。

 どうしたの?そんな鳩が豆鉄砲くらったような顔して」


にこにことした顔で声を掛けてくれたのは母だ。

タクシーを拾うからと言っておいたのに、迎えに来てくれたようだ。

母の存在にやっと故郷に帰ってきた気がして、心底ほっとした。


「ねえ、お母さん。 駅の周りが随分華やかになったね」


お土産が入った紙袋を持ってくれた母にそう声を掛けると、

母は振り向きもしないで答えた。


「ああそう? 私たちは毎日見ているから解らないのよね。

 でも再開発とかでビルは建ってるし、大きなショッピングモールもできた。

 便利になったし、町全体が明るくなったわね」


駅の西口から降りて、ロータリー向かうと、父が車で待っていてくれた。

白い軽自動車も、以前に乗っていた車とは違う。


トランクくを開けて荷物を後ろに載せて乗り込むと、

父がミラーの位置を治しながら、


「おかえり」と声を掛けてくれた。


「うん。有難う迎えに来てくれて」


そういうと、父は笑いながら車を発進させた。


運転席の父と助手席に座る母。


フロントガラスや、ミラーに映る顔は、記憶の物とは変わっていた。


父も母も、皺が増えた。髪の毛に白いものもかなり混じっている。

後ろから、ふとしたところで見える手や首、目じりの皺は記憶にはなかったものだ。

そして、なんだかその背中が小さくなったような気がした。


家に無事ついて、居間の座布団に座ると、自分が疲れていたことに気づく。

はあっと大きくため息をつくと、母が緑茶の入った湯呑を机の上に置いた。


暖かい緑茶をこくりと飲むと、喉からお腹に染み渡り心地よさが体に広がった。

お茶を飲みながら、家をゆっくりと見渡した。


芽衣子が高校生のときに父が購入した一軒家だ。

芽衣子がここで過ごした期間はわずかであるが、それなりに馴染みはあった。

だが、今の家の中の様相は芽衣子の知るものは何一つなかった。


居間から見える小さな庭ですら例外ではない。

小さかった金木犀の木が今では塀を超えるくらいに背を伸ばしていた。


部屋の間取りは変わらないとは思うが、

記憶の中の家とは随分違う。


だがそれも当然だろうと思い苦笑する。

あれから6年以上たつのだから。


遠い目をして庭木や部屋を見ていた芽衣子に、

母が声を掛けてきた。


「ねえ、芽衣子。聞いていいかしら。

 ここに帰ってこようと思ったのは、もういいからよね。

 貴方、達也君のことはもう吹っ切れたのよね」


その言葉で、はっと意識が記憶を呼び戻す。


昔の痛い記憶。

両親も知っている、私の深い苦しみの伴う過去の記憶。


あの事件のすぐ後に、両親は以前から考えていたという一軒家を購入して引っ越した。

同じ県内ではあるが、以前住んでいたところから車で一時間ばかりかかる場所だ。


駅に近く、さほど田舎ではなく、便利もいい。

前の住居は賃貸だったけど、こちらは持ち家だ。

前々から打診されていたと引越しの手続きをしてくれた。


明らかに私を気遣ってのことだとは解っていたが、

両親の好意に甘えて家族そろって引っ越した。


だが、住む場所を変えても痛みと苦しみは続いた。

それどころか、達也の母親は脅迫まがいの行為を何度も仕出かした。

警察のお世話になったこともあったくらいだ。


私がここにいる限り両親は周りから白い目で見られる。

私たちに非はないのだから問題ないと言っていても、

世間一般の周囲の目は冷たいものだ。


結果、私は逃げる様に県外の大学へと進学を決めた。

就職も迷ったが、こちらに帰ってくる選択肢はなかった。


両親はそんな私の事情を組んでくれて、何も言わなかった。


だが、時間が解決してくれたという事だろう。

私がいない内に金木犀があれほど大きくなったように、

私の心も癒されたのかもしれない。 


不思議なことに、あれだけ痛かった彼に対する記憶が、

今は波が凪いだときのように穏やかであることに気が付いた。


だから、母の問いに黙って頷いた。


「そう。 あのね、先日、達也くんのお母さんが連絡してきたの。

 それで、貴方はいつ帰るのかって気にしてらしたから、

 昨夜、貴方から電話もらった後で連絡したの。

 あちらもあれから随分落ち着いてね。

 貴方と話したいって言ってたのよ」


その言葉で、昔の遺恨が引きずり出されるが、

すでに過去の物としてふっきっているのか、

気が付けば何の躊躇もなく頷いていた。


「うん。 そうだね。

 達也のお墓詣りにも行きたいと思っていたの。

 明日、そこで会えるか連絡してみるよ」


母の躊躇うような顔に、にっこりと笑って答えていた。

昔のことを思えば、そんなことは考えられないはずだが、

心にしこりはなかった。


そんな自分が不思議だった。

 







 

 

 




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