メイと芽衣子。
**********
(芽衣子さん……。 ねえ、芽衣子さん)
(芽衣子さん…。……起きて、芽衣子さん)
(起き…たら、 いい……よね~、芽衣子さん)
(話を……し……、芽衣子)
誰かが呼んでいるようです。
すぐにでも目を覚まして呼んでいる誰かを確認したいところですが、
頭の中がうまくまとまらないので行動までたどり着かない。
脳味噌が寝ている間にすこし溶けたのかもしれない。
味噌汁はかつおだしが一番。
具材は豆腐にお揚げに……話がずれましたね。
えーと、それにしても芽衣子と呼ばれるのは本当に久しぶりだ。
カースやレヴィ船長達にはメイと呼ばれているけど、
親からもらった名前は芽衣子。
なんだか自分の名前が酷く懐かしい。
私と一緒に育ってきた名前なのに、芽衣子という名前を忘れそうだ。
こちらの世界では誰も呼んでないからだろう。
いや、殊更に誰もかれもに呼んでほしいとは思って居ない。
私の日常からかけ離れたこの世界での私は、芽衣子ではなくメイ。
この世界での私の場所はメイで作ってきた。
非日常を受け入れる為に、私が私のままでいられるために必要なこと。
だけど、どう取り繕ったところで私は私だ。
名前を変えてみたところで、何も変わらないということにすぐに気が付く。
別人に変身できるほど器用ではない。
気が付けば芽衣子がメイになるのは当然。
違和感などはとっくに消えていた。
だから今の私はメイだ。
芽衣子の上に上書きされたメイ。
どちらも同じ。変わらない。
名前などに意味はないと思っていた。
だけど、こうして呼びかけられて感じるこの感覚。
なんだか、日本の両親や友人達の顔が脳裏に浮かんでくる。
ああ、なつかしいなあ。
皆、私のことは芽衣子って呼んでたんだよね。
芽衣子って、読みずらいとか言いにくいとかではない一般的な名前だもの。
そうしてようやく私は意識を浮上させた。
こんなに目覚めの悪いのは人生で初めてかもしれないと苦笑しながら。
*****
「芽衣子さん、ねえ、芽衣子さん」
はい。起きましたよ。
この声は、やっぱり春海ですね。
私をこの世界で芽衣子と呼ぶのは春海だけだものね。
えーと、春海さん、お久しぶりです。
お元気でしたでしょうか?
私は、多分元気だと思います。
挨拶が終わったところで、御用は何でしょうか。
要件は手短にお願いします。
あ、でもコーヒーとお茶請けを出してくれるならば、ゆっくりでもいいですよ。
私、今、大変に眠いのですが、美味しいものは大歓迎です。
疲れている脳や体には糖分とカフェインは嬉しいセットですから。
「芽衣子さん、起きて下さい。とても大事なお話があるのです」
だから、起きてますよ。
こんなに大きな声で思考しているのに聞えないんですか。
若いのに聞えないって、若く見えて実は老人気質なんでしょうか?
耳元で怒鳴らないといけないのかしら。でも体動かないし。
というか春海って実際何歳なんだろう。
一度きちんとした耳掃除をお勧めします。
「さっぱり起きないわね。
よっぽど疲れているのね。
ねえ、これは無理ではないの?」
あれ? 今の声、誰?
女性の声だったような気がします。
もしかして春海は某声優さんのように七色の声を持つ男ですか?
「そうだね~。見てよ、彼女の目の下、真っ黒だし~女の子なのにねえ~。
こんなに酷いと取れないかもねえ~可哀想に~」
今の間延びしたのびのび太のような声の男は誰ですか?
いや、それより今さらっと気になることを言いませんでしたか?
目の下真っ黒って。 隈? 隈なの!
やっぱり駄目です。
二十歳を超えたら徹夜は健康と美容に良くないのです。
ここは、麗しのコーヒータイムを諦めて睡眠をとることにしたいと思います。
ので、要件をすっきりはっきりと一括まとめて言っちゃってください。
「芽衣子さんなら、きっと自助努力で何とかなるわよ。
皺が出来る前に! それよりどうするか決めましょうよ」
ああ!
皺って言いましたね。
シミ、隈、皺とくればお肌の曲がり角を過ぎての急降下危険信号。
隈が出来たなら素早くミネラル保湿をしなくてはいけません。
誰だかわからないけど、教えてくれて有難う。
そうです、これは自助努力で何とかするしかないのですよ。
食物繊維たっぷりの食事に、美容パックですね。
やっぱり起きたら野菜パックをしよう。
お肌にもミネラル補給必要です。
「どうするも何も、どうにもならんだろう」
「まあ、そうね。 不文律は変えられないのよね」
「そうそう~僕達の力ではどうしようもないし~」
「芽衣子さんが寝ている間に済ませちゃおうかな。
だって、起きない芽衣子さんが悪いよね」
うーん。
4人分の声が一度にした。
どうやら、私の傍に4人いるようです。
それで、4人揃って乙女の寝顔をじっくり観察していると。
……嫌ですね。
心の底からあっちに行ってくださいと言いたい。
寝ている顔を初対面の人間に見せる趣味はありません。
制御不可能な抜け作顔をさらすのは、抵抗感ありまくりです。
それに、最後の台詞は聞き捨てならないですよ。
声から察するにあれは春海ですね。
なんてことを言うんでしょうか。
酷いですね、酷いですよ。
普通は起きるまで待ってくれるとか、優しく起こすとか方法はあるでしょう。
仮にも男性ならば、紳士って言葉をしらないんですか。
ジェントルマンになってレディに接してください。
もちろんこの場合のレディは私ですけど。
というより過去の夢での逢瀬をさかのぼってみても、
思い出せる春海からの優しさって、コーヒーとおやつくらいでしょうか。
関係としては、縁側お茶のみ友達程度だろうか。
そう考えたらやっぱりコーヒータイムは惜しい気がします。
気が変わりました。
さあ、早くここに、いますぐ私の目の前に出してください。
「彼女に黙ってことを成しては怒るのではないか?」
おお、誰だか知らないけれど、ちょっとだけ解っているよね。
そうそう、人間礼儀を失ってはいけません。
「人道的な行いとは言えないわね。
でも大丈夫。私たち人間じゃないから」
こらこら、お姉さん。
話題となる相手が人間の私なんだから、人間の道理にしたがってください。
「そうだね~気にすることはないよ~
だって、起きたら覚えてないだろうし~問題なしでしょ~」
もしもし、のび太君、問題ってそんなに怒ることなの。
聞いてないけど拒否していいかな。
「そうだね、いいか。考えても仕方ないよね。だって芽衣子さんだからね」
だっての後に、どうして私だからなのかとあえて問いたい。
ちょっと待て春海さん、うん、そこに正座してじっくりと話し合おうか。
「まあ、そうだな。それに世の理は変えられん。我々がどう足掻こうとな」
ああ、4人の内で唯一の常識人が意見を変えた。
私の味方は誰もいないのか。
「そうね。さあ、そうと決まったら始めましょうよ、春海」
いやいや、決まってないから。決まってないよね。
「せっかく4人揃って来たのにね~。
僕達に対する反応とか見てみたかったんだけどね~」
4人揃って? 反応? さてはお笑いカルテットですか?
そういえば春海さんは黙っていればそこそこ綺麗な顔してたから、
お笑いデビュー目指してもそこそこ有名になるかもよ。
うん、夢は大きくもって頑張って!
「芽衣子さんに了承って、そういえば取ったことないね。
今まで必要なかったし、無い方が都合もいいし楽だし。
でもまあ、そこは芽衣子さんなら何とかなると信頼しているからね」
ほう、信頼ですか?
なるほど。 春海も私の淑女成長ぶりを理解していたのですね。
やっぱり、黙っていても滲み出る高貴さとか気品とか。
あれだけマーサさんにしごかれたのだから、
雑巾一枚分くらいはしぼり出るのではないかと思ってました。
ふふふ、私もついに信頼を任せてもらえる様になったんですね。
淑女の道に一歩前進ですね。
そこまで言われたからには、いいです。聞きましょう。
了承するかどうかは解りませんが、どんとこいです。
淑女は心が広いものなのです。
あ、でもなぞなぞはやめてくださいね。
そちら方面の脳みその発達成長は全くと言って見込めませんから。
「でもね芽衣子さん。
全てが消えちゃうんだけど、一つだけ許してもらったんだ」
許す? 何を?
「そうね。この一つを取り付けるのにかなり苦労したわね」
そうなんですか。
ちっともわかりませんが、とりあえずご苦労様です。
「あちらはかなりご立腹だったからね~」
あちら?
あの、さっきから私の言葉聞いてますか?聞いてませんよね。
まるっと無視ですか。
「そうだな。だが必要としているのだから力を尽くすのは当然だろう」
「方法は解っても使い手を選ぶってとこかな~今までが失敗続きだからね~」
なんのお話をしているのでしょうか。
段々彼らの世界に突入しているようです。
寂しいですね。仲間外れ感がありまくりです。
話しかけている相手は私ですよね。
話題の原点は私ですよね。
でも、ここまでの彼らの言葉を思い起こすと、
私の意志というか言葉は彼らにはまったく伝わってないようです。
どうしてだろう。
春海との夢の時間は、私の考えていることがちゃんと伝わったのに、
今は繋がらない。
安全であった糸電話の糸が切れたようで、私の言葉や意志は一方通行だ。
それは、なんとなく悲しい。
それにさっきから気づいてました。
瞼が、どうやっても上がりません。
体も全くピクリとも動きません。
これは、ザ・金縛りですか。
見えないだけで、お化けが体の上に載っているのかもしれない。
お化け系統は苦手なのでどこかに行って欲しいです。
必死で念を送れば、お化けも諦めてどこかに行ってくれるかもしれません
あとは、お化けが苦手な物ってお経かな。
あれどんなのだったでしょうか。寿限無寿限無ってお経?
なんだか違う気がする。 南無阿弥陀仏はその一言の続きが解らない。
ぐるぐると考えていたら頭が痛くなってきた。
私はこんなに悩んで金縛り解決の術をいろいろと悩んでいるのに、
私の周りの4人は訳の分からないことで話が盛り上がってます。
今だって少し興奮しながら話している。
ちょっとだけ遠い目をしたいと思うのは我儘でしょうか。
話にちっともついていけませんよ。
まあ、途中から考え事に夢中で聞いてませんでしたが。
授業の途中に意識を飛ばしている感じですね。
「本当によく寝てるわね。
それにしても、あれなに?
感心どころか驚愕で足の震えが止まらないわ。
ここまでの干渉力を私たちの世界でこともなげに使うなんて。
頭では解っていたけど、本当に本当に恐ろしいわ」
世界?鑑賞力? 何かを眺めるのでしょうか。
さっきから4人が眺めているものと言えば私の寝顔?
それを見て、感心どころか驚愕? どれだけ酷い寝顔なの私。
そのそも、大前提から違うでしょう。
鑑賞会なら、もっと美しいものを眺めましょうよ。
「ああ、到底適わないだろうな。反論する気すら起きない」
そこまで、そこまで言わなくてもいいではないの。
もしかして変な顔鑑賞会とかのキワモノ鑑賞ですか。
「抵抗したら一瞬で潰れたカエルだね~」
ほほう、私の寝顔に対する対抗馬がつぶれたカエルだと。
くう、なんだかいろいろ泣きそうです。
でも、潰れたカエルって、夏の風物詩ですよね。
コンクリート地面が熱すぎて蒸発して道端で干からびているカエル。
そういえば子供のころの自由研究で、干からびたカエルを水でふやかしたら、
生き返るかって実験した子がいたね。 あれ、どうなったんだっけ。
「おい、目は開いてないが意識は戻っているのではないか?
さっきから瞼のあたりが動いているぞ」
あの、人間はレム睡眠の時に瞼が動くんですよ。
動かない金縛りでも瞼が震えるくらいは出来るのだろう。
よし、ここは4人にお化け撲滅の為に助けてくれと念を送ってみましょう。
「ああ、ほんと~動いてるね~面白い~。 本題にさくっと入っちゃおうよ~。
ごねられても面倒だし~」
ああ、全く念力が伝わってない。
私にはテレパシー使えないようです。
「そうね。春海、芽衣子さんに告げて頂戴」
怒られるって、何を告げるの?
あ、なんだか頭痛の次は心臓の音が煩くなってきましたよ。
「じゃあ、僕が代表で。
芽衣子さん、まずはご苦労様。そして、願玉完成おめでとう。
僕たちの世界にきた異世界人で初めての偉業達成だよ。
異世界人の中でも、底辺を走る程の人間だと最初は思っていたのに、
人間って思いもよらない所で素晴らしい特技があるんだね」
んん? おめでとう? ああ、そういえばアシカ球完成してましたね。
あれどうなったんだっけ。
でもまあ、よかった。
褒められている。いや、貶されているのか。どっちだろう。
「本当に綺麗な力強い願玉だわ。4つ柱の神様達は大層お喜びなの」
へ?
ああ、そうですか。
アシカ球が出来て何がどうなのかさっぱりわかりませんが、
いろいろと助けてくれた4つ柱の神様が喜んでくれているなら何よりです。
「これで人間と世界と神、強い懸け橋が出来る。
君には我々一同揃って感謝している」
そんな、改めて感謝なんて言われたら照れますよ。
実際は棚から牡丹餅ばかりでしたので、全員から感謝されるなんて、
ちょっとだけ後ろめたいようなないような。
橋を架けるんですか?川に?いいことですね。
縄梯子って怖いものね。 橋が出来ると助かる人達沢山いると思うよ。
4つ柱の神様の好感度がぐうっと上がるね。
でも、気持ちいいですね、感謝されるって。
私が役に立った感じがして嬉しいです。
「でも、今回は私たちも頑張ったのよ」
「そうそう~」
頑張ったって、何を?
「そうなんだよ、芽衣子さん。僕達の苦労は並大抵のものではなかったよ。
今までにないくらいに頑張ったんだよ。
大地の神様に頼んで大地の恵みを凝縮して急構築してもらったんだ。
調子に乗りすぎて国全体が温泉地になりそうだったけどね。
楽しそうでしょう。温泉、秘湯の湯って響きがいいよね。
僕達も楽しみだったんだよ。温泉マップを作って温泉ツアーしたかったよ。
でも、神様にもいろいろ事情があってね。あれだけで終わっちゃった。
僕達も面倒事には関わりたくないしね」
温泉?
ああ、そういえば臭い硫黄香で温泉鉱脈がここにあるのではと、
ゼノさんと話したような気がする。
「温泉を掘りだすために、地熱を上げてもらったの。
大地の神様は夫婦喧嘩の真っ最中だから、上がること上がること」
地面があったかいなあってそういえば思ったけど、
あれは夫婦喧嘩の鬱憤晴らしでしたか。
ぬいぐるみを殴りつける要領でしょうか。
「大量殺戮が始まりそうだから計画は断念した」
そうだね。夫婦喧嘩は間に入るとこじれるらしいですよ。
仲直りにも最適温泉ツアー計画って企画書だしたら通るかもよ。
気長に頑張って!私も行きたいし、温泉ツアー。
「芽衣子さんのお願いもあったからね~
だから、本来なら20年先だったのを前倒しでしちゃった~」
のび太はてへっと可愛らしく言い放ったが、見えない私には効果なしだ。
お願い?私なにかお願いしたでしょうか。温泉計画に加担したかしら。
うーん、夫婦喧嘩の介入は難易度高いですね。確かに面倒かもしれない。
それにしても、夫婦喧嘩は人死にを出すのですか。
恐ろしいですね神様の痴話喧嘩って。
「多くの理が運命を変えた。
使命をもった魂が輪に気が付いた」
そうですか。 つまり、えーと、仲直りしたと。
よかったですね。夫婦円満なによりです。
「今回は一石二鳥どころか、沢山の輪を回したわ」
夫婦円満の証に輪を回す? フラフープ?
懐かしいですね。 子供のころに遊んだっけ。
「だからね。僕達や4つ柱の神様から感謝をこめて、
一つだけお願いしたんだ。 何度も伝えて、やっと叶えてもらったよ」
お願い?
「でもね~僕達も約束だからさあ~解っているんだけど~
本当ならしちゃいけないんだけどねえ~」
してはいけないこと?
は、わかりました。 浮気ですか?
春海さん、夫婦喧嘩の原因は浮気なんですね。
テレビドラマの定番ですからね。ピンっときましたよ。
それは熱も上がるかもしれないね。
「4つ柱の神様達以外の神様も力を貸してくれたのよ」
神様は他にも居たの? う、浮気相手というものですね。
そうだよね、日本の八百万の神様は数多すぎだけど、
4つ柱の神様だけだと大変だものね。
「だから芽衣子さん、頑張って!」
はい。って咄嗟に返事しちゃったけど何を頑張るの?
「ごめんね~僕達にはどうしようもないんだ~」
ちょっとまって、何故謝るの?
浮気原因の夫婦喧嘩を治めた話のどこに謝る要素があるの。
「だが君ならば、もしかして出来るやもしれない」
話変わった? 何をするっていうの?
「そうね。 私も期待しているわ。
もう会えないかもしれないけれど」
期待?会えないって?
というか、まだ春海以外の3人は顔合わせすらしていませんが。
「僕達から君に送るのは小さな鍵。これが精一杯。
だから見つけて欲しい、芽衣子さん」
鍵? 私に送るってどこに?
見つける?落としたんですか。
誰かの指が私の額に触れた。
おそらくこの指の持ち主は春海。
触れた指から小さな音が聞こえた。
それは一度だけ鳴った、リンっという綺麗な鈴の音。
鈴の音の震動が私の頭に耳にじわっと響いていく。
暖かいような冷たいような。
痛いようなくすぐったいような。
不思議な感覚が一瞬だか広がった。
「ねえ、芽衣子さん。
本当に楽しかったよ。 いままでいろいろ有難う。
もう会えないなら、もっとたくさん夢で逢いたかったね。
あのコーヒーも美味しかったし、お菓子も絶品だった」
なんだかお別れの挨拶のようです。
しんみりしちゃうね。
お別れだなんて言わないでよ、ほら私は怒ってないから。
温泉出したくらいでは私は怒らないよ。むしろ大歓迎だよ。
夫婦喧嘩の仲裁は私には荷が重すぎるけど、
大地の神様に温泉ありがとう。いつか入りに行きたいな。
と私から感謝を言いたいぐらいなのに。
それになんだかんだ夢で言いながらも、私、春海を嫌いではないのよ。
私もあの夢でのコーヒータイムは本当に楽しかったから。
春海の忠告で助かったことがあるのも事実だし。
「そうね。あれは美味しかったわ。
芽衣子さん、御馳走様」
いえいえ、コーヒーやお菓子を出したのは春海ですし。
「ああ、もうじきだな。
我々はここまでだ。 芽衣子さん、お元気で」
もうじき?
ああ、何時ものように、私、目覚めるのね。
「そうだね~僕も名残惜しいけど契約外だからね~さようなら~」
最初から最後まで意志疎通ならずでしたが、
どこのだれだかわからない春海のご友人達、ご丁寧にどうもありがとうございます。
体が動かないのでお返事の挨拶ができませんね。
お茶もお出しできませんでしたし。
起きたら改めてご紹介を兼ねてお会いしたいですね。
目が覚めるだけなのに、かしこまっての別れの挨拶なんて微妙に照れる。
「そうそう、多分覚えていないと思うけど、
僕はまだ任期があるからあの本屋にいるよ」
本屋って、ああ、夢の中で浮いていた竜宮堂古書店ですね。
そうですね。って、いくら私の頭がざる頭でもさすがに覚えてますよ。
何回あの図書館に入ったことか。
夢で逢うときはいつもそこですし、今更ですよね。
「禁じられているから、僕からは会いにいけない。
だから、芽衣子さん。 鍵を見つけて」
晴海からの頼みごとですね。
日頃からお世話になっていますし、私に出来ることならしてみましょう。
鍵、鍵ですね。
どんな感じの鍵ですか?
落し物ならば落とした場所を順序立てて考えると出てくるかもしれませんよ。
突然に、私の目の前から4人の気配が消えた。
耳を澄ましてみても、誰かがそばにいる音はしない。
私、再度一人ぼっちだ。
……。
い、何時もの言い捨てですね。
もう、もう気にしないですよ。
私は大人の淑女になると決めましたからね。
ちょっとだけ寂しくなって鼻をすする。
そうしたら、ぼわんと大きな何かに背中からぶつかった。
背中に感じたやわらかく暖かいお布団のような何かが、
全身を包み込んだ。
……この暖かさは、何とも言えませんね。
ふわふわ、ふんわり。
じわじわ、じんわり。
とろとろ、とろりん。
本当に気持ちいいです。
温泉に全身で浸かっているようです。
正に至福。人生の幸せここにありですね。
これで温泉卵と温泉まんじゅうがあれば最高なんですが。
あ、なんだか体の重みが取れてきたようですね。
首の筋のこわばりもほぐれていきます。
それに、体の細胞が若返ったような気がします。
温泉効果ですね。
ここから出たら、弾けるお肌つやつや効果あり。
素晴らしい謳い文句だ。後がとても楽しみだ。
だけど、体の全てから力が抜ける。
その代わりに瞼の重力がなくなった。
さっき、私はまだ眠いと思っていたんだっけ?
だけど、私の体は睡眠十分だって言っている気がする。
さっきまで暖かかったはずの温泉いや、お布団かな、が冷たくなっていく。
寒いような気がする。
そういえば、季節は冬です、よね?
ここは起きて暖かい味噌汁でも暖めようかしら。
確か昨日の朝、作って冷蔵庫に入れておいたはず?
昨日?
何かが頭の奥でひっかかる。
*********
目をいつものようにぱちりと開く。
いつもながら目覚めは抜群に良い。
芽衣子が目覚めて一番に見たものは、いつもと変わらない芽衣子のアパート。
1LDKの独身者用のアパートだ。
日当たりもよく築5年なのにバストイレ完備に、比較的安い家賃の優良物件。
芽衣子は部屋の中央に置いてある炬燵に足の先から肩まで嵌っている。
一人用炬燵にしてはやや大き目な遠赤外線使用の役立ち炬燵だ。
「お早うございます。朝の6時。ニュ-スの時間です。
今日は本当に晴れやかな天気ですね。
一月の冷え込みが気になるところですが、日中は晴れやかな天気が望めそうです。
それでは、本日のラインナップを……」
ぷちっとついたのは部屋のテレビのスイッチ。
目覚まし機能だ。
聞えてきたのは、いつもの6時のニュースと綺麗なアナウンサーの声。
耳に馴染んでいるはずのニュースのテーマソング。
馴染んでいるはず?
おかしな感覚が付き纏う。
何時もと同じ。
何一つ変わらない。
芽衣子は炬燵から起き上がり、うんっと伸びをした。
窓から漏れる光は、晴れやかな朝の太陽。
冬の朝の空気は冷たい。
肺に入ってくる空気が背中をぶるりと震わせた。
そして、キッチンに立っていつものように薬缶をコンロの上におき、
簡単に火をつけた。
水の量は薬缶の半分。
何時もと同じですぐに沸く。
火が湧くまでの間に、顔を洗って、洗面台に向かって気が付いた。
セーターにデニムジーンズのまま就寝したようだ。
つまり、お風呂に入ってない。
でもなぜか不快感をない。
寒いからだろうか。
運よく寝汗は掻かなかったようだ。
洗面台の前で蛇口をひねる。
冷たい水が勢いよく飛び出してくるのを、手のひらですくう。
手のひらの温度が急激に下がってジンジンとした痛みを残す。
寒いのを我慢してばしゃばしゃと顔を洗う。
傍にかけてあったタオルで顔を拭いて鏡を見る。
髪の毛をブラシで梳いていく。軌跡のように寝癖が少ない。
これならば、先を濡らすだけですむだろうとほっとする。
鏡の中の自分の顔。
何時もの自分の顔だ。何一つ変わってない。
そう思うのにどうしてだか違和感が消えなかった。
そのうち薬缶が大きな音を立てて呼び立てる。
棚からコーヒーを取り出して、甑にフィルターを付ける。
マグカップを用意してお湯で暖めてから甑の下に置く。
これは先日、年の瀬安売りで奮発した浪川ブレンドコーヒーの粉。
深炒で大層美味しく健康にもいいらしい。
芽衣子のお気に入りの一品だ。
とぽとぽとお湯を乗せていく。
馨しい香りが広がる。
鼻に抜けるコーヒーの爽やかな香りを胸いっぱいに吸い込む。
コーヒーが落ちるまでの間に、簡単に昨日の残りで朝食の用意をする。
冷蔵庫から味噌汁の残りを取り出してレンジにかける。
炊飯ジャーの中をかぱっと開けて顔を顰めた。
ご飯がない。
昨晩、寝落ちしてしまったので炊き忘れたようだ。
これは、本日の弁当は駅で買うしかなさそうだとため息をつく。
弁当はともかく、朝食には仕方がないので、棚からバケットパンを取り出す。
二日前のだからちょっと硬いが、味に問題はないはず。
賞味期限も本日までだ。
バターを付けてオーブントースターへ。
味噌汁が温まるまで、いつものようにコーヒーを啜る。
熱いので息を掛けて冷ましながら。
こくりと飲んで、びっくりした。
美味しい。
確か昨日もおとといも飲んだはずなのに、とてつもなく旨い。
なにが違うのかと首をひねる。
更に、懐かしいと舌が告げる。
何故懐かしいなどと思うのか。
年の瀬から毎日飲んでいたはずだ。
感覚が事実と一致しない。
どうして?
首をひねりながらもコーヒーを飲んでいたら、レンジがチンっと鳴った。
味噌汁を取り出し、トースターの中のパンを取り出す。
そして炬燵に持って行って、更にびっくりする
炬燵のふたというか板がない。
起きたときには気が付かなかったが、確かに板が消えている。
炬燵板はどこにと狭い部屋を見渡したがどこにも見えない。
仕方ないのでキッチンで立ったまま食べる。
さくっと口にパンが入って、なんだ硬くないじゃないかと思った。
そこで、またもや疑問がわく。
このパンは確かに硬い、はず?
なのに、私の顎が訴えてきた間隔は、硬くないというもの。
一口一口噛みながらも、私の顎がもっと硬いものを知っているとばかりに、
硬くないと主張する。
さっきから、違和感が立て続けに襲っている。
考えてみたが芽衣子の頭にはその原因も理由も浮かばない。
食べ終えて洗い物を終えてテレビをみると、テレビの時報は7時。
何時もより時間が過ぎるのか早い。
もう家を出ないと職場に遅れてしまう。
電車とバスの時間を乗り過ごすと大変だ。
あわてて服を着替えて、いつものように布のトートバッグを取って、
中を確めると、財布がふやけてる。
昨日は雨なんか降らなかったはずだ。
どうして濡れているのかと考えて、確かお茶が入っていたことを思い出した。
お茶が毀れて濡れたのかもしれない。
現に手帳もよれよれになっている。
憶えていないだけで、炬燵で寝てしまう前にこぼしたのかもしれない。
慌てて財布の中身を確認したら中の札はよれよれになっているけど、
無事のようだ。これだけあれば今日一日問題ないと財布を仕舞う。
携帯は、電源が入らない。
ああ、防水ではないからしかたないかと諦めて、
今日の帰りにでも駅近くの携帯ショップに行こうと決めた。
テレビの自動オフ機能が働いて、テレビの画面が暗くなる。
出勤の時間だ。
何時もの靴を履いて、玄関脇に置いた鍵と定期入れを鞄につっこんで、
慌ただしく玄関から飛び出した。
そう、いつもと変わらない日常だ。
空を見上げて、雲の流れるのをバスに揺られながら見つめる。
綺麗な青空だ。
快晴に近い。
なのに、どうしてだか芽衣子の心は晴れなかった。
その理由は芽衣子本人も解らなかった。
芽衣子は元の世界に戻ってきてます。
序に記憶も綺麗に消えてます。
これが力関係の違う世界の理というものですね。
詳しいことはまたのお話で。




