夜明けを待つ足音
里にもっとも近い森の中の高台に、イルベリー国の軍人達は陣を張っていた。
真っ暗な新月の夜、下からは決して見えないように木々で柵を作り、
保護色である深緑の布で作られた簡易テントがあちこちに設置されていた。
陣の中の軍人数は、ざっと見積もって30人ほどだ。
彼らは、軍の精鋭でロイド軍団長が選んだ優秀な人材である。
外から見えないように反面が炭で塗られたランプの仄かな明かりだけが頼りの暗闇の中、
かっちり軍服を着込んで警戒している姿はいかにも真面目そうだ。
陣中で一番目を引くのは、ちらほらと白いものが混ざり始めた褐色の髪、
どこから見ても同じ軍服とも思えないほど着崩した様子がややだらしない、
眉から左目にかけて大きな切り傷がある筋骨たくましい男だ。
ゼノ・ファシオン公爵、というよりゼノ総長の名前で知られている、
イルベリー国の誇る英雄閣下である。
今もそうだが、彼は普段からよく意図して傷のある左瞼を少しだけ下げている。
そうすると、眉尻が片方だけ下がり、垂れ目の優しい顔立ちに見える。
その故意に作られた表情、そして、普段からのふざけた言葉使いが、
彼がもつ独特の威圧感を若干和らげることに成功している。
そして、更に視線微妙に逸らすことで、周りを誤魔化すのが常であった。
彼のこの行為によって、彼の部下達は彼に対して遠慮なく振る舞うことができる。
軽口も叩けるし、ふざけて酒場に一緒に突入することだって出来る。
連帯感を築く関係を作り上げるのに最適なゼノ総長の仮面だ。
だが、同時に彼の部下ならばこそ知っていた。
彼の両の瞳で見据えられたら、
誰もが従わざるを得ない強い輝きを放つことを。
そして、その緑の瞳が輝いた時、
決して周囲の期待を裏切ることはなかったことを。
だから、彼の友人であるロイド軍団長も、イルベリー国王も、
長年彼に付き従ってきた部下たちも、彼がどんなに無茶を言おうとも、
ふざけた行為をしても、だらしなくても、我儘ぶりに殴りたくなっても、
彼の後ろに付き従っているのだ。
尊敬と憧憬と半分諦めを含めた信頼感ある関係は、
ゼノ総長を中心に強固な繋がりをもってイルベリー軍の柱となっていた。
その当のゼノ総長は、軍のテントの中で、
簡易机の上にでんと乗せた足をゆったりと組み、両手を首の後ろに回して、
椅子の背もたれに半分体重をかけた状態で、ぎいぎいと椅子を軽く揺らしていた。
ちなみに椅子の足は前半分は宙に浮いて、地面についているのは後ろの2本だけだ。
この旅に同行する際、印象を変える為に短く剃ってしまった顎髭を撫でながら、
ぶつぶつと何かを呪文のように呟いていた。
ゼノに憧れて入隊した数人の若い軍人達は、
何かの作戦を考えていらっしゃるのだと期待を込めた目で遠目から見ていた。
が、彼と長く行動を共にする部下たちは、それを黙ったまま笑って一蹴する。
一見呪いの呪文のようにも聞こえる呟き。
それはゼノの大きな欠点ともいえる音痴な鼻歌であった。
鼻歌ならば広範囲での威力がないのでさほど問題ないが、
いざ歌いだすと騒音という名の不協和音となって襲いかかることを、
彼の周囲の人間は苦い思い出と共に知っていた。
ゼノ自身は音痴だと思っているのかいないのか、
実に朗々と高らかに騒音をまき散らすのだから始末に悪い。
その破壊力は、並大抵の音痴では済まされない。
自らの魂魄が抜ける実体験をすることができるだろう。
彼の部下になって一番に覚えることは、戦場とは違う意味で、
本能からの危機感というものを経験することだった。
だから、彼が歌を歌いそうになると、部隊長や、軍団長、
事情を知っている部下たちは、彼の気を逸らすことに全力を傾ける。
今は隠密行動の為、歌うことはないだろうと予測しているが、
いつどこで歌いだすかわからないゼノの行動は、決して油断できない。
鼻歌を歌いだした時は、今までの経験から前兆の一つでもあったことがあるので、
今も彼らは神経をぴりぴりさせて、ゼノの一挙一動を窺っていた。
その結果、彼の直属部下たちは、
一種の危機感を伴った一本筋の通った団結した雰囲気で纏まっていた。
それを見て、数人の新米兵たちはさすがゼノ総長の直属の武官だと、
勘違いの憧れを増殖させ気を新たに頑張って職務に励む。
……実に効率の良い状態だ。
仔細はどうあれ、熱心に仕事を遂行することに問題ない。
そんな部下たちの状態もさておき、ゼノは短くなった髭を撫でながら、
次々に上がる部下たちの報告書を読んでいた。
小さな字をランプの光を透かすように追っていくことに聊か疲れたのか、
最後まで読み終わると目頭を抑えて、
報告書の束を無造作に机の上に投げ、大きな欠伸をした。
鼻歌が止んだのを機に、彼の部下のエリオットが近づいてくる。
「ゼノ総長。山向うの裾野に、第一、第二部隊が到着しました」
喉の奥が見えそうな程大きな欠伸に、エリオットはすこしも表情を変えず、
彼の前に暖かい飲み物が入った大き目のカップを差し出した。
「おっ、ちょうどなんか欲しかったんだ。さすが気が利くな。
そうか、着いたか。 朝を待ってロイドにこっちに来るように言っとけ。
ああ、それから頼んでいた薬師と従軍医師は何人来てる?
出来れば数人だけでも先にこちらに来てもらいたいんだかな」
ゼノは、机の上の足をおろして普通に椅子に腰かける。
ちらりと視線を向けた先には、救出されたにも関わらず、
今にも死にそうな奴隷たちが力なく横たわっていた。
その手を握りしめて最後を看取っているイグドールの少女のそばに、
彼の部下がついていることを再度確認してから、
コリをほぐすように右肩を大きく回した。
「薬師と医師数名は、ほどなくこの陣に到着するはずです」
エリオットは、胸元から取り出した小さなメモのような紙切れを渡した。
その紙切れにざっと書かれた文字をゼノがすばやく目を通す。
「ふーん。半分は知らねえな」
エリオットは、ゼノから返された紙切れを胸元に丁寧に仕舞い込んだ。
「そうでしょうね。今回の要望に集まったのは船医です。
医師会館の返答は、町医者は全て急病患者がいて出られないとのことです。
まあ、行先がレグドールの里と聞いて二の足を踏んだのでしょう。
ですが、転じて吉と成したようです。今回集まった船医8人は、
セラン医師の呼びかけで3倍の報酬で臨時に雇い入れた強者です。
知識量、経験値などは、そこらの町医者より断然使い物になります」
よかったですねと報告するエリオットはやけに嬉しそうだ。
「船医? まあ、医者には変わりねえな。
お前がそういうのなら、使いもんになるんだろう。
3倍と吹っ掛けてきたからには、寝る暇もねえくらいしっかり働いてもらえ。
しかし、薬師は王城の死にかけメガネ爺しかいねえじゃねえか」
カップの端をかじる様にして歯を立てているゼノに、エリオットは笑顔で応えた。
「ポルク様からの伝言もありますよ。
優秀な薬師一人の方が薬の判別に混乱や偏りが出ずによかろう、とのことです
ちなみに、総長からの要請があった時は、すでに手配も終わっていたそうですよ」
その言葉に、ゼノは頭をがしがしと掻いた。
「ぐわ~、また、くそ爺の手の内かよ。
解ってんなら最初から教えとけってんだ。あの妖怪爺どもめ」
「まあ、それは今更ではないでしょうか」
「……だな。 まあいい。
それに負けないだけの成果をあげて帰りゃあ問題ねえだろ」
その言葉に、エリオットはこくりと頷く。
ゼノも大人しくカップの中身を揺らし始めた。
「それにしても、これは闇の影の仕業でしょうか。
我軍が進軍してくると解っていて、里の住民を眠らせ意識を奪うなど、
いくら洗脳されているからといって仮にも仲間に対してこんな。
聊か常軌を逸していると思いますが」
ゼノは、カップに入った熱い紅茶をふうふうと覚ましながら、
ずずずっとすする様に飲んでいた。
「そうだろ。そもそも、闇の影自体に常識を当てはめるのが間違いだと思うぞ。
あいつらは、目的のためには手段は選ばん」
子供がするようなしぐさで紅茶を飲む上司を前に、エリオットはそのまま黙る。
「祭りの中止。そして、闇の影にとってお荷物になってきたレグドールの里の解体。
闇の影の手を対外的にも汚さないで、一挙両得。
それがあいつらの書いた絵図面だろうな。
俺達の要求を行使したのが、闇の影でなくレグドールの女一人。
それを鑑みても、俺達は後始末と恨みの矛先として使われる三寸だろう」
ゼノ総長の何でもないように話される口調に、エリオットは眉を寄せながら反論する。
「その上、我々が無抵抗な住人に手を出せば、非難は我々に及ぶですか。
我々が、子供のお使いのように闇の影に使われるのはどうも我慢なりませんね」
ゼノはそれに対して肩をすくめただけだ。
「いいさ。目的は同じだ。学者達は助けた。奴隷の救出も滞りなく進んでいる。
問題の例の物だが、あれも渡したし、あいつらも何か用意しているはずだ。
何とかなるだろ。 闇の影の操り人形でもなんでも、
犠牲少なく事が成就するならいうことねえ。
だが、最後まで奴らの絵図面に乗っかる必要はねえだろ」
ゼノは、ぐいっと紅茶を飲みほしたカップを逆さに傾け無造作に水気を切る。
空になったカップをその手で受け取り、エリオットはニコリと笑った。
「なるほど。 貴方がそのつもりならば、問題ありません。
軍団長には、そのように伝えておきます」
ゼノは、言うだけ言って、さっさと踵を返す部下に、
なんだか物足りないような気分を覚えたが、その背を見送るにとどめた。
そして、周囲に気配がなくなったのを確認して、ぼそっと呟いた。
「まあ、俺にしても行き当たりばったり感のある計画だが、
なんとかなんだろ。 強運の女神も味方していることだしな」
ゼノは、視線を柵の向こうに見える遺跡に向けた。
祭りが始まってからかなりの時間が経過している。
夜明けまでそう時間はかからないだろう。
遺跡にはまだなんの変化も見られない。
レヴィウスがゼノの渡したねり火薬、そしてフィオンが多分もっている何かが使われれば、
何かしらの大きな変化があるはずだとあたりを付けていたが、何をしているのか。
予想外の出来事が起きたのかもしれん。
眉をひそめるが、空をちらっと眺めて夜明けまでのおおよその時間を図る。
予定では夜明けには、軍全体の一斉演習が始まる。
あくまで、演習だ。攻撃ではない。
闇の影の意向に従って住民の恨みつらみや、
諸外国の誹りを黙ってを受け入れるつもりはない。
医師と薬師を連れてきたのは、里の住人で助かるものは助けたいというのもあるが、
彼らに使われた薬の成分を分析するもう一つの目的もある。
今回の軍事目的の一つは、闇に新しく出回っている薬の取得、
そして被害者である生き証人を押えること。
証人として奴隷は使えないが、レグドールの里の住人は使える。
レグドールの住人自体は認めていないが、
彼らは、れっきとしたイルベリー国の自由民だからだ。
また、今回の軍事行動は、薬の関与を表向き否定した隣国への牽制も兼ねている。
同時に、闇の組織である闇の影、及び、世界に広がる闇の市場への忠告であり、
闇が表に出るつもりならそれ相応の覚悟をしろとの警告を与えることになるだろう。
他国への対面や海賊などの無法な輩に対しては、軍の演習としてある。
その為には、流血沙汰はなるべくであればない方が好ましい。
ゼノの計画では、闇の影の計画がどうあれ、
里の住人は生かさず殺さずで里を解体吸収する。
回収した住民を、すでに国内の山村に分散して受け入れる準備は出来ている。
彼らは国の監視のもとでその力を削いでいき、レグドールの里の脅威は消える。
その為の仕込みは随分前からしてきた。
ここで、それを不意にするつもりはない。
闇の影は面倒だが、地盤を切り捨てた者達の行きつく先は滅びしかない。
飛ぶ鳥はどんなに強靭でも、寄生木を失ったら死ぬしかないのだ。
いずれ、彼らの組織は他の組織に吸収されるか、
新たに地盤を得て食いつくかどちらかだろう。
どちらにしても、統制のとれた闇の市場は、表の采配で保たれる。
誰にも明かさず、秘密裏に計画を立てていた俺の前で、
国としての闇市場のもっとも望ましい形を説いた爺は、先が見えているのかもしれねえ。
本当に恐ろしいほどの千里眼な爺さんだ。
問題は例の兵器だけだ。
危険すぎる兵器は排除されねばならない。
管理出来ない強すぎる力は、百害あって一利なしだ。
これは、国としての決定事項。
どんなことをしてもその兵器は闇に葬る。
できれば、穏便な方法が一番簡単なんだが、その鍵を握るのは、
今現在遺跡で平気に向き合っているレヴィウス達だろう。
無事に兵器を無力化出来たら、軍が回収に赴き、
里の住人もろともに回収し里には誰一人居なくなる。
それが一番簡単で平和的、そして演習の範囲で済む最高の計画だ。
だが、それが出来なかった場合は、
ゼノの用意した最悪のシナリオが生きることになる。
生きる為にもっとも強い運を味方につけたやつが生き残る。
戦場の常識だが、果たしてレヴィウス達がその運をどこまで引き寄せるか。
地下牢での別れ際、必ず逃げ道を確保しろと言い残しておいた。
その本当の言葉の意味を、息子達は十分に理解しているはずだ。
もし、彼らが失敗した時は、洗脳され操られている住人一人残らず消すことになるだろう。
兵器を潰す為、里を、住人を、遺跡もろともに地中深くに埋める。
レヴィウス達の生存を確認してから、なんて悠長なことは言っていられない。
だからこその忠告だ。
ゼノのこの作戦は、あくまで最悪の場合の保険だ。
ゼノが率いる軍は、多くのイルベリー国民を守るための砦。
軍人とは、非情だろうが穢かろうが、
国を民を守るために存在しその為に命を捧げる。
守るべきは国であり、国民の平和と命。
大量破壊兵器が国に害を及ぼす前に、すべてを無に。
軍の最高司令官としての重責は私事に左右されていいものではない。
確かに、トアルに言ったように、軍と別行動でレヴィウス達とここに来たのは、
人であることを放棄したくないがゆえのあがきであり、賭けだ。
しかし、万が一を見据えるならば、致し方ないことだ。
地下層のいくつかに仕掛け付の爆薬を仕掛けてある。
里の両脇にそびえる岩盤や岩棚にも。
背後に控える軍隊は、生き残りを殲滅させるための部隊だ。
やるのならば、遺恨を残さぬよう徹底的にしなければいずれ身を滅ぼすことになる。
首をこきこきっと鳴らして、先ほどのくつろいだ姿勢に戻る。
「まあ、臨機応変に対応することには俺に似て天下一品だからな。
いざとなれば、何とかするだろ」
視線を、遺跡から唯一動いている人間が見える里の入り口付近に移動させる。
明かりも最小限しかつけられていない暗闇の中、大灯篭の火の光が、
そしてその辻から入り口に向かって伸びた明かりが、ぼうっと周囲から浮かび上がって見える。
その道を急ぎ足で歩いているのは、奴隷の救出活動に励んでいる年若の彼の部下達だ。
布と棒で作った担架に救出できた奴隷を乗せ、何度も陣と遺跡の間を往復している。
彼らは、里への工作などの作戦でもう3日3晩働き通しだ。
その面相には、はっきりとした隈が刻まれ、疲れはピークに達していた。
「あいつらには、後でハインツのあたりからいい酒でも取ってきてやるか」
その呟きは、また始まった寿限無の様な鼻歌でもってして続けられた。
考えを切り替えた彼の脳内には、イルベリー王城の酒蔵の様子が浮かんでいた。
そして、新たなる侍従長兼執事の強敵セザンをいかに説得するか、
そのことに意識を向けていた。
だが、その視線は息子達のいる遺跡の方に固まったように据えられていた。
*********
祭りに参加していた里の大半の住人は、大部屋にて遺跡内部で眠っていた。
その殆どの者は、お酒で潰れ気持ちよくいびきをかいて寝ていた。
時折揺れる振動や大地の揺れにも、ピクリとも目覚めない。
とてつもない深い眠りだ。
しかし、大地の揺れ幅がどんどんと大きくなる。
大地が大きく振動し、地面の上の全ての物が、生きているかのように躍動し飛び跳ねる。
遺跡の入り口付近に備え付けられた祭壇の3段目に置かれた水差が、
小刻みの振動にカタカタとロボットが移動するように端により落下した。
大きな音を立てて下段にぶつかりながら転がり、中に入っていた水が宙を舞った。
水はそのまま地面に飛び散り、小さな水たまりを作った。
祭壇の一番上に立てかけてあった3枚の鏡は、振動の波に乗るように枠ごと動きだし、
相次いで頭から落ちて割れ、鏡の欠片が甲高い音を立てて周囲に散らばった。
地面に散らばった鏡の破片が遺跡前に設置されていた松明の火を反射してきらきらと光る。
鏡を失った銅鏡の外枠は、落ちた衝撃を拡散させるために円を描く様に床を転がった。
地面の震動にその走行は1m程で邪魔され突如ぱたりと倒れる。
石床でカタカタと小さな八の字を描くように回りながらも、
次第にその動きを弱めていった。
しっかりと設えられた大振りの松明から火の粉が舞い、床の鏡の破片に反射して、
赤い光をきらきらとまき散らす。
火の粉が落ちた床石に小さな亀裂が入り、そこから薄い煙のようなものが立ち上がった。
煙は火の粉をも巻き込むように広がり、じわじわと地面を這いあがる。
今日まで見ていた里の景色は目に見えて変わっていく。
地震は煙と共にじわじわと里を崩壊させていた。
遺跡の大部屋で転がるように寝ていた住人の耳にも、
その大きな音と地面の振動は届いていた
床に直接寝ていた泥酔している殆どの住人は、騒がしい音に一瞬眉をひそめるが、
眠りから覚める様子は全くない。
だが、目を覚ました男が一人いた。
薬師見習いのフェルジ。彼は、酒が苦手で小食の、気の弱い男だった。
彼だけが、いつもとほぼ変わらない様子で体を起こす。
フェルジは、きょろきょろと視線を彷徨わすが、特に慌てた様子はない。
いつもの寝起きのように、頭なんぞを呑気にかいている。
まだ夢の中にでもいるような様子のフェルジは、
地震に対する危機感を言うものが欠落しているように見えた。
ガタガタと揺れる音は次第に大きくなり、足の下で大きなうねりを誘発する。
ゴゴゴゴという今までに無いほどの大きな地鳴りが、地面を這うように響き始めた。
ここレグドールでは、最近になって随分と地震が増えたと老人たちは言っていた。
もともと地震がある土地なのだが、ここまで頻繁ではなかったと、
眉を顰めながら、ここも危険なのではないかと不安をまき散らしていた。
だが、若者の殆どは、老人の言葉に真剣に耳を貸すものはいなかった。
揺れても大きな音がしても、地盤の脆い場所に行かない限り、
特に今まで危険がなかったからだ。
それに、しばらくしたらすぐに地震は止んだから、
今回も大丈夫だろうと、呑気に構えていたのだ。
それでもと食い下がる心配性な老人達に、若者達は決め手の台詞を言い捨てる。
ここが危険だからといって、ここから出てどこに行くというのかと。
ここしか、レグドールの住人の住む場所はないではないかと。
その台詞で、煩い老人達を黙らせている光景はよくあることだった。
実際、小さな地震は日に2,3度と繰り返しあった。
それらの地震も、待っていればすぐに止まった。
だから、今回も大丈夫、すぐに止む。
そんな緩い根拠のない確信でもってして、フェルジは、
いつものように、のんびりと地震をやり過ごしていたのだ。
だが、床に手を当てて何時もと違う事に気が付いた。
地面が熱い。
真昼の太陽の下ならともかく、深夜、それも遺跡内部でこの地熱は異常だ。
何度も地面に手を触れて確める。確かに熱いのだ。
それに、どこからか異臭が漂ってきていた。
何かが腐ったものが焦げたような異臭。
この匂いはどこかで嗅いだことがある様な気がした。
しかし、思考は半場で中断される。
大地の音が、ますます大きくなる。
いつもなら、程々のところで止む筈の揺れが、一向に止む気配がない。
その間に、彼の体内に残っていたわずかな酔いも消え失せる。
フェルジは、この祭りでも酒はほんの少し、
食事もいつもより心持多いくらいの量しか食べていない。
皆で笑いあって騒ぐ祭りが楽しくて、幼馴染と一緒に騒ぎ笑い歌った。
酔いつぶれた友人たちを数人で運び、自身も最後に部屋の隅に転がった。
だから、今、ここに彼はいる。当然の道筋だ。
だから、目覚めたとき、自分が遺跡の中にいることに対して
特に違和感を感じなかったが、普段と違う環境に大きな地鳴りや異臭、
そして地面から感じる熱い熱気が、彼の気持ちを落ち着かなくさせた。
彼は、いつまでたってもやまない地鳴りに段々と不安を感じ、
隣に寝ていた友人達を起こすべく、彼らの肩や腹を強く揺り動かした。
「お、おい、ちょっと、なあ、起きろよ。
起きてくれよ。 なんか、この音、いつもより長くないか。
それに、なんだか臭くて熱いんだよ。お前ら何も感じないのか?
起きて確認してくれよ! これ、俺だけなのか。
それに、段々音も大きくなる気がするんだよ」
必死で揺り動かすが、友人達はむにゃむにゃと寝言を発し、
気持ちよさそうな寝息を立てるだけで、その意識は全く戻らない。
男は、更に大きな不安に襲われて声をはり上げる。
周りの人間を叩き起こすべく、必死で足や手を振り回し、
床に寝転がっている住人を強い力で殴りつけ、蹴りつける。
彼の狂ったような行状は今や鬼気迫るものになっていた。
誰かひとりでも彼の呼びかけに起きてくれたら、彼はここまでしなかっただろう。
だか、結果として彼の友人は、泥のようにただ眠っていた。
「おい、頼むよ。お願いだから、起きてくれよ。
なんか、おかしいんだよ、起きろよ畜生。
何で誰もおきてくれないんだよ。俺を一人にしないでくれよ」
誰も彼の呼びかけに応えてくれない状態に、
子供さながらに泣きべそをかいた。
そんな男の傍に、這って近づいてくる男がいた。
薄い褐色の肌に、茶色の髪を長く伸ばした顔見知りの男だ。
瞳が見えないのは長い前髪でいつも隠しているからだ。
起きているのは自分一人だけしかいないと思っていた矢先の彼の出現に、
フェルジは安堵のため息をついた。
その男は、彼の三件隣りの住人、マノワだ。
彼の父親は酒豪だったらしいが、彼は全く酒を飲めないらしいと聞いた。
食事も、野菜食のみで、人付き合いを好まない変わった男だ。
変わり者の変人で、会合にも殆ど参加しない嫌な奴と友人たちは噂をしていた。
だが、フェルジは酒が飲めないという点において、勝手に一人で共感し、
なんとなくだが、仲間意識のようなものを持っていた。
マノワは、若いころのありがちの反抗期で、親から勘当され長く里に帰ってこなかった。
どこかの国の旅商人のところで働いていたとか、船に長く乗っていたとか噂で聞いたが、
レグドールだとばれて首になったときいた。
失意と怪我を理由に帰ってきたとも聞いた。
昔からそんな奴らは沢山いるから、よくある話だと気に留めたこともなかった。
「おい、落ち着けフェルジ。
無駄だ、こいつらは起きない。
それより、お前、痛くないのか?
その腕、変な風に曲がってるぞ」
フェルジは、首を傾げながら自身の手を目線まで持ち上げた。
その手は、普段ではありえない方向に曲がっていた。
右手の中指は90度の角度をもってして上を向いている。
そして、右腕が途中から折れ曲がるように明らかに捻じれていた。
フェルジ自身も言われてはじめて気が付き驚愕する。
地面が揺れている感覚と、誰も起きてこない恐怖にパニックを起こし、
叩いている自分の手に注意がいかなかったからだが、
それ以上に、自分の本来あるべき痛みのシグナルが無いことに愕然としていた。
「ああああ、お、俺の手、なんでこんな風に。
う、嘘だ、ゆ、夢か、夢なのか、い、痛くねえもんな。
でも、夢ならなんで地面が揺れてんだ。なんで手も曲がったままなんだ。
なあ、おい、一体、どうなってんだよ」
驚愕のあまり、いつになく暴れようとするフェルジの傍で、
マノワはあくまで落ち着いた様子でフェルジの両肩に手を置いて、
まっすぐに目線を合わした。
「落ち着け、いいか、深呼吸しろ。 そうだ、ゆっくりとでいい、慌てるな。
落ち着いたか、フェルジ。 そうしたら聞け。
まず、これは現実だ、夢じゃない。
食事や酒に眠り薬が入っていたらしい。
だから、こいつらは起きない。
だが、眠り薬とお前の体の異常は別物だ。
明らかに折れているのに痛みがないのは、おそらく集会でばらまかれた薬の効果だろう。
お前は体の変調だけで、あまり心に変調がないようだが、どうしてだ。
集会に出ていた殆どの人間の心と体に変調があったはずだ。
絶えずイライラしたり、落ち着かなかったり、普段とは違う言動も見かけた」
淡々と話されるマノワの声に、フェルジは涙を流ししゃくり上げながら、
自身の曲がった腕を抱きしめた。
「集会?薬?何のことだ?
体に変調って、ああ、そういえば、こいつらもやけに好戦的で、
いつもよりやけに切れやすくなってた。
ちょっとしたことで子供を殴ったりして、睨まれるから黙っていたけど」
眠り続ける友人たちに視線を落とす。
マノワは、何も言わない。
フェルジは、恐る恐る自分の折れた指を本来の方向に戻そうと、
ゆっくりと左手に力を入れた。
ボキっと木の枝が折れるような音がした。
その音で、目じりにとどまっていた涙を押し出すように涙が湧いてくる。
「止せ、フェルジ。 下手なことをすると、お前一生手が使えなくなるぞ。
俺が整復してやる。 かしてみろ。
それより、お前に痛みがないのはわかるが、頭がぼうっとするとかはないのか?
考え事がまとまらないとか、イライラするとか」
マノワに腕を取られ捻じれていた腕が元の向きに戻り、
その部分に落ちていた箸のようなものが添え木で当てられる。
てきぱきと手当をするマノワの様子に感心し、フェルジの涙もいつの間にか止まっていた。
「あ、ああ、集会に行った後、確かに頭がかすんでぼうっとすることがあったよ、
だけど、ほら俺が常用しているクコルの実と根を使ったお茶。
あれを飲んだら、そのぼうっとするのは治ったんだ。
だから、会合から帰ったらいつも飲んでた」
「クコルの実?」
続いて関節が外れてふらんと垂れ下がっていた中指が、ゴキという音を伴って、
元の位置に戻される。
マノワの問いにフェルジは、目じりに涙をためながらこくこくと頷く。
クコルと言えば、地下の暖かい泥水のそばに生えている蔦のような植物だ。
地下の岩盤に切れ目のある場所から異臭と共に発生し群生している植物。
その実も茎も根も、恐ろしいほど苦く不味い。
食糧自給率の低いこの里の人間ですら手を出さない植物だ。
また、その群生地にも問題がある。
足を取られる厄介な泥地は、常に異臭が漂い、里の人間は誰一人近づかない。
例外は、薬師見習いのフェルジと薬師だったその祖父くらいだろう。
「俺は、ラッチャの所みたいに、余所の国の高い薬を買う金なんてない。
なのに俺は昔からすぐ腹を壊すし、無理をするとすぐに寝込む。
俺の爺さんが死ぬまで飲んでたクコルの草茶が常用なんだ。
確かにクコルは葉も根も、実すら酷く苦くて普通に食えないが、
乾燥させて少量を茶に混ぜれば、なんとか飲める。
爺さん曰く、クコルは毒抜き作用があるそうだ。
俺の体は、爺さんと一緒で、薬師の持病っていうのかな、毒がたまっているらしい。
だから、必要なんだそうだ。
害がないのは薬師だった爺さんで実証済みだし、
だから、毎食後に、乾燥させて煎じたものを飲んでた」
「クコルの実……、そんな作用があるなんて」
マノワは難しい顔で何やら考え込んでいた。
フェルジは、次にいうべき言葉が思いつかず、じっと黙っていた。
沈黙がやや居心地悪い気がして、フェルジが声を掛けようとしたら、また地鳴りが大きくなった。
天井から砂交じりの小石が彼らの上にパラパラと落ちてきた。
それを避けるように動く手を頭上にかざしたら、その手をマノワに掴まれた。
マノワはフェルジをまっすぐに見据えて真剣な顔で言葉を発した。
「フェルジ、もしかしたら皆を救えるかもしれないぞ。
お前が必要だ。 俺と一緒に来てくれるか」
マノワの言葉にフェルジは、何も考えないまま反射的に頷いた。
そして、踵を返すマノワの後姿を追って遺跡の外にでた。
マノワを信用したというわけではない。
だが、誰も起きないこの場所に一人取り残されるのは嫌だった。
外の空が、薄紫色に変わりつつあった。
もうじきに夜明けが来る。
「こっちだ。何も聞かずについてきてくれ」
薄闇の中、がっしりしたマノワの背中を追って行った。
何も聞かずにと言われたが、そんなこと言われなくても、
なぜか聞こうという気はなかった。
大地はまだ足元で揺れている。
友人たちや里の住民は誰一人起きてこない。
そんな時なのに、何故か不思議と高揚感を覚えていた。
その原因を考えるに突き当たってみれば、マノワの言葉だ。
大人しく気弱で、体も弱く、幼馴染にすら馬鹿にされ、
自分でも男らしらの欠片もないと自覚している。
何時も誰かのそばでへらへらと笑っているだけで、
いいところが一つもない自分が必要とされている。
それがとてつもなくフェルジの心を弾ませた。
前に出す足の一歩一歩がとても軽く感じた。
なんだか、心に光が当たったような気がして、心が湧きたった。
連れて行かれる先がわからない、しかし、不安や陰りは全くなかった。
それどころか、自分が必要とされているところへ案内されると思えば、
未知の冒険の物語を読むようにわくわくした。
こんな時に不謹慎だなと良心がとがめるが、はやる心を止められなかった。
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これが彼の人生を、そして、レグドールの里の、
ひいてはイルベリー国の命運を分けることになる。




