レグドールの里:足掻き
遺跡の外にして、レグドールの里の出来事です。
メイはここには出てきません。
大きな太鼓の音頭に、流暢な笛の調べ、時折聞こえてくる割れる様な銅鑼の音。
騒がしい祭の打楽器の音と、里の住人の騒がしく姦しい声が聞こえてくる。
遺跡から聞こえてくる祭事の順番は、間違うことなく進められているようだ。
祭りの場所から離れた場所、本日明かりをつけることを禁じられている住居にて、
金茶髪の毛玉を肩に乗せているような特徴のある髪形に、鼻付近のそばかすが可愛らしい
少女、レミが一人窓の側に立って、遺跡の方面をじっと見て頷いた。
「うん。 今なら多分大丈夫。 だ、大丈夫よ、ね。」」
彼女の背後の暗闇から、いつも聞きなれた彼女の祖母のしゃがれた声が答える。
「ああ、いっといで。決して無茶をするんじゃないよ。
お前は、決めたとおり子供達を迎えにお行き。
こちらは、お前が行った後、裏からゆっくり用意するよ。
そして、あの例の合図の明かりを燈したら、直ぐに里を出るんだ。
いいかい、何があろうとも決して戻ったりしてはいけないよ。
もし、里を出る際に見つかって咎められそうになったら、
家の病人に変事があったと告げなさい。
逃げる間がすこしは持つはずだ。」
レミはその声に頷き、肩に彼女の祖母が昔着ていた闇色のコートを羽織り、フードを被る。
時間がないとわかっているのだが、レミは、再度祖母を振り返ってその顔を伺う。
フードの端をぎゅっとつかんだままの彼女の手はずっと震えていた。
レミの不安を払拭するように、彼女の祖母はベットの上でにっこりと笑った。
「大丈夫だ。 お前は、私の孫だよ。
お前の選択は間違っちゃいない。 だから、安心してお行き。
お前が決めたやるべきことがなされる様に、私はここで祈っている。」
その言葉と笑顔に勇気付けられ、レミはようやく体の震えを止めることが出来た。
ゆっくりと、音を極力立てないようにして、そっと家から出る。
足音を立てない闇の影特性の革靴を履いた足で地面を必死で蹴る。
レミは暗闇の里の道を必死で走った。
本来なら、祭りには参加するべきなのだが、2,3日前から体調不良を訴え、
本日、急な腹痛を理由に祭りには不参加になった。
彼女の友人や幼馴染は、そのことにかなりの憤りを見せたが、
それは布団にもぐって無視した。
それは、何故か。
答えはレグドールの会合の真実を、彼女は知ったからである。
その事実を知ったことにより、後の彼女の人生は大きく変化した。
会合に遅れたのが、彼女にとっての幸いであったのか、不幸であったのか、
今はまだ彼女にはわからない。
レミは会合を誰も居ない天窓近くから見ることによって、幸運にも難を逃れた。
会合に参加していた里の住人は、明らかに何かがおかしかった。
扇動され暴動すら起こしそうな彼らの常軌を逸した様子に、レミはただただ恐怖した。
誰にも見られないように慌てて帰って、祖母にその会合の様子を話した。
祖母は状態の悪い顔色を更に青くし、レミに告げた。
おそらく、里の住人は薬で洗脳されているだろうと。
アニエスとカイミールの思うままの人形になると予見した。
まさかそんなことはあるまいと、唯の一過性の興奮に過ぎないだろうと、
高を括って首を振るレミに、祖母は寂しそうに宣告する。
もしかしたら、イルドゥクと再び戦争が起こるやもしれないと。
そして、その結果は、この里の全滅という最悪の形となるだろうと。
そんな未来予想は嫌だと首を振って涙を流すレミに祖母は問いかけた。
それを止めるために、お前は動くつもりはあるのかと。
里の住民の殆どを敵に廻して、裏切り者と呼ばれる行為をする勇気があるかと聞かれた。
その時、レミには答えられなかった。
レミは、いつも誰かに守られている少女だった。
父と母に、彼らが亡くなってからは祖母が、そして、優しい幼馴染の婚約者が彼女を守っていた。
里の住人は、巫女の家系であり最後の直系である彼女に優しく、
彼女のその状態を不満に思うことなど一度も無かった。
里から一度も外に出たことの無いレミには、里の住人は大事な家族であり、
毎日の生活の中で笑いあう仲間は、信じられる友人ばかりだ。
里の住民は、レミにとっては暖かい毛布であり、その世界がすべてであった。
たまに、里の外にでて働く友人の話を聞くことがある。
決まった運命をなぞるだけの人生など真っ平だと出て行った彼女は、
闇の影の一員として働き、自分の人生を自分で切り開くことに、
生きることの醍醐味を語り、新しい世界に目を輝かしていた。
だが、レミにとってそれは羨ましくもなんともない人生だ。
苦労などせずとも、レミの周りは常に暖かい。
誰かに敷かれたレールの上であろうとも、彼女にとって心地よく好ましい生活だった。
そんな彼らに裏切り者と背を向けられる?
今までの関係に泥を塗るがごとくに、敵となる?
それはレミにとって人生が崩壊する行為にしかならない。
いくら、薬で操られていたって仲間であり家族に敵対するなど、
臆病なレミには、たやすく頷けることではなかった。
それに、もしかしたら祖母の考えすぎかもしれない。
明日になれば、唯のレミの気のせいだったで終わるかもしれない。
もしくは、夢を見たに過ぎないくらいにしか薬の影響はないかもしれない。
そんな安易な考えが浮かんでは消え、浮かんでは消え、
翌日も、そのまた翌日も、心を決めることが出来なかった。
レミが動かなくても、もしかしたら誰かがなんとかしてくれるかもしれない。
そんな考えがずっと心にあった。
だって、いままでずっとそうだった。
レミが戸惑っていたら、誰かが気づいてくれた。
レミが困っていたら、必ず誰かが手を差し伸べてくれた。
いままでと同じように、何もしなくても待っていれば、いつかは何とかなるのでは。
祖母のいう戦争なんて、そんな大事ありえない。
祖母の予言にも似た推測の言葉を必死で否定し続けた。
だが、祖母の推測を裏付けるようにあの日から、
祭りに参加したレミの周りの人々の様子がおかしくなった。
朝一番にいつも起きている優しく働き者の男が、働くことを忘れ、
恋人であった女を忘れ、真昼間から熱に浮かれたようにアニエスの後を追い始めた。
その恋人は、レミの二軒隣の人の良い、いつも笑っていた女だ。
人の悪口など聞きたくないといつも笑っていた人のいい女が、男の悪口だけでなく、
呪詛を呟くようにイルドゥクへの不平不満を通常事のように呟くようになった。
誰かを傷つけることを誰よりも嫌っていた気の優しいレミの婚約者は、
自分よりも弱いものに平気で暴力を奮い、
泣いている子供達に蔑みの視線を投げかけるようになった。
いつもレミの祖母の面倒を進んでみようとしてくれていた婚約者の母は、
レミと祖母を厄介者か邪魔者のように蔑み、口汚く罵った。
会合に参加していた里の住人の誰も彼もが、あの日からがらりと変わった。
心の中に溜まっていた鬱憤が、目の前で晒し出されたにしても、それは酷い変わりようだ。
顔も体も変わらないのに、人格だけが極端に変わっていた。
レミは、自分の住んでいた里が、悪魔に乗っ取られた錯覚すら覚えた。
里の子供達や老人たちは、彼らの変化に戸惑い泣いて抵抗したが、
それは失笑となって返され、子供達は夢の中まで泣いて眠るようになった。
それが何故なのかレミは知っていた。
レミは、悩んで悩んで、俯いて顔を上げてを繰り返し、やがて決心した。
祖母のいうとおりにしてみようと。
なぜなら、今の生活はレミにとっては受け入れ難いものだったから。
祖母の言うとおりならば、たとえ黙ってじっと待っていたとしても、
レミの安穏たる以前の生活にはどうやったって戻れないかもしれないから。
レミしか動けないならば、レミが動かないといけない。
祖母の言葉に足がすくむが、やっと決心して直ぐに闇の影の一員である友人に連絡を取った。
反対を押し切って外に飛び出した彼女とレミの連絡手段は闇の影のポスト。
小さな枯れ枝に手紙を結びつけ、山間にある決まった洞の中に入れる。
その洞は下が空洞になっていて、落ちるとカランと音を立てる。
友人がいうには、この空洞は坂になっていて、転がっていった先のどこかに、
闇の影のポストに繋がっているのだと言う事だった。
その洞までは、徒歩でほぼ一日かかる行程だが、
普段から、薬になる薬草を探しに森に入るときは山を越えることもあるので、
レミには苦にならない。
手紙の返事を一日千秋の思いで待ち、
手紙を出して2日後に、その洞に返事の手紙が届いた。
そして手紙を受け取ってその夜の内に、レミは友人と、
闇の影の首領であるフィオンをはじめとする歴々の闇の影にあったのだ。
彼らに尋ねられるままに会合の様子を告げ、祖母の推測と里の変わりようを話した。
彼らの顔は忌々しげに歪み、所々で怒りに震える声も上がった。
「我らが里にまで、あの薬の騒動が起きようとは。」
「洗脳薬と言えば聞こえが言いが、効果がありすぎる。例の改良薬ではないか。」
「闇の市場を揺るがしているあの薬の元は、隣国とばかり思っていたが。」
「闇の影の信頼を失墜させる、偽物の動きは里にあったということか。」
レミには解からないことばかりだが、彼らの言葉には怒りと驚きがあった。
だが、彼らには里の住人に対する心配とか安否を気遣う様子は見られない。
彼らの言う事、レミの言う事を黙って聞いていたフィオンが、
真っ直ぐにレミを見つめ、低い声で尋ねた。
その赤金の瞳に射すくめられるような気がして、レミは視線をずらした。
「薬を定期的に与えている様子はあるのか?」
それに大して、レミはコクリと頷く。
「はい。 あれから毎日、仕事が終わる頃になるとあの会合が開かれてます。
おそらく、祖母がいうには、香炉のような広範囲に聞く方法で薬を与えているのだろうと。」
「そうか、あれから5日、毎日与えられているなら、重度のものはもはや戻らないかもしれん。
軽度のものならば、助かるだろうが。」
その言葉にレミは衝撃を隠せなかった。
レミが行動に出ずに迷っていた2,3日が彼らの命運を決めてしまったように思えたから。
「ご、御免なさい。 わ、私が、もっと早く相談をしていたら……。」
涙がレミの大きな瑠璃色の瞳に溜まる。
フィオンは、目の端にレミのその姿を映しただけで一瞥する。
「それは、気にするなと慰めて欲しいから出た言葉だろう。」
フィオンの言葉が、レミの心に突き刺さる。
涙がぼろぼろとこぼれたレミを慰める優しい手も声もここでは誰も掛けてくれなかった。
フィオンは闇の影の仲間をその赤金の瞳で真っ直ぐに見つめて決定を下した。
「お前のことなど今はどうでもいい。
それより、これからどうするべきか、はっきりさせよう。
この祭り、洗脳された住人、殺される人質、どれを取っても闇の影の得にはならん。
当初の予定通り、里の住人の安否に関係なく祭りを潰す。
交渉しだいだが戦争にはしない。 だが、最悪、里は無くなる。
だが、闇の影は生き残る。 そのつもりでいろ。」
フィオンの断罪にも似た言葉に、レミの瞳は極限まで開かれる。
「ああ、薬漬けでは先はない。仕方ないだろうな。」
「やつらは、奴隷としてすら生きていくことはできまい。」
「闇の影が残るのであれば、問題なかろう。
今の里の住人には、自給自足できるだけの基盤は残されてない。
いつか起こることだったと諦めもつく。」
その後に続く闇の影の男達の非情な言葉に、息が詰まる。
フィオンが、皆に意見を纏めて結論を言おうとしたその時に、
レミがその言葉を遮った。
「待って、待ってください。 お願いです。 皆を助けてください。
確かに薬漬けになった里の住人は助からないかもしれない。
でも、子供や老人達を見殺しにしないで。
彼らは、薬に作用されてない。
それに、里の住人は同じレグドールの仲間で、家族でしょう。
お願い、貴方達が助けてくれれば、まだ何人かは助かるかもしれないでしょう。」
レミの言葉に、顔を半分以上布で隠した男が無言でその布を取った。
その布の下の顔は、醜く潰れた黒い顔。
「仲間? 子供の頃、純粋なレグドールでない俺は、蔑まれ石を投げられ顔を潰された。
俺達闇の影は、レグドールの中でも汚い殺人者と見下され唾をかけられる。
それなのに、奴らは俺達の稼いだ汚い金の上澄を平気な顔ですする。
これが、家族のすることか。」
淡々と感情を乗せないまま、男は過去と今を語る。
それは、レミが知っていて尚且つ今まで無視してきた事柄だ。
「で、でも、同じレグドールじゃない。
助けてくれてもいいでしょう。」
そこで、久しぶりに会うレミの友人がレミの肩に手を置いた。
金の髪を茶色く染め、焦げ茶の瞳を揺らす細面の美しい顔が、悲しそうな表情を作る。
「レミ、同じじゃないよ。 それに、レミは間違っている。」
自分の味方だとばかり思っていた友人の言葉に唖然とする。
「レミ、どうして、助けてもらおうとばかりする。
何故自分から動こうとしない。 レミは、人に頼りすぎる。」
それは、祖母がいつも苦笑まじりにお説教のように軽く言っていた言葉。
だが、友人の口から今聞かされる言葉は、レミの心を抉った。
「だ、だって、私に何が出来るの?
私は、あ、貴方達のように優れた技も特技も無い。
何も出来ないなら、助けてもらうしかないじゃない。」
その言葉に、闇の影の他の男からも冷たい言葉が乗せられる。
「お前のようなものばかりの里の住人を、何故我々が助けなくてはならない。
生きていく努力を人に委ねる者は、我々には無価値だ。
助けても、何故もっと早くに助けなかったと詰る奴らを、
すぐに人に責任の全てを押し付ける者達を、助ける義理もなければ、その気も毛頭ない。」
レミは、その言葉で初めて自分がどれだけ甘えていたのかを思い知った。
自分が無価値だと言われたことは、レミの人生全てを否定したものだからだ。
失望に打ちひしがれているレミに、フィオンが言葉を振った。
「だが、子供と老人を残していけば、軍のやつらの交渉材料に使われる恐れがある。
老人の幾人かは、闇の影の功労者でもあり、闇の影を知り尽くしているものも多い。
それに、子供は闇の影の後継者として有用だ。
レミ、今すぐ選べ。
お前が、自分の命を張って助けようとするならば、我々も手を貸そう。
我々だけを危険にさらし、お前は高みの見物を望むなら、諦めろ。」
今すぐとの急かされるような言葉に喉がつまる。
だが、その時、ふと祖母の瞳と存在を強く背中に感じ、
今までに感じたことも無い勇気が沸いた。
「は、はい。 わ、私は、何をすればいいのですか。
何でもいたします。 だから、だから、子供達や老人を助ける為に、
私に力を貸して下さい。お願いいたします。」
この言葉は、レミが、里と仲間と信じていた薬漬けの住人、
婚約者を含むすべてのレミの優しい生活を捨てたことを意味していた。
祖母や泣いて寝入る子供達の命と引き換えに。
それに気づいて、レミは絶え間なく涙をこぼした。
それは、絶縁の涙だった。
新月の夜。
明かりは遺跡付近に燈された松明と大灯篭のみ。
深夜を持って始められる祭りに、里の殆どの人間は参加していた。
彼らは、目の前に積み上げられた普段では目に入れることすら叶わない豪勢な料理を、
心ゆくまで食べ、10年以上も寝かせた酒樽の酒に舌鼓をうつ。
昨日から何も食べていない胃には、その負担はかなり大きい。
特に酒が、すきっ腹にがぶがぶと入れられたとなれば、結果は自ずと知れている。
大勢の祭りの参加者が、一人、また一人と酩酊して倒れていった。
倒れた者達は幸せな夢を見ているのか、実に嬉しそうに笑っていた。
誰もが、祭りで浮かれていた。
酩酊する人間のその多さに、誰も不思議に思わない。
それに、酒は次から次へとどんどん運ばれてくる。
男も女も、集まった祭りの参加者は、浴びるように酒を飲み、
極楽気分で酔いつぶれた。
通常の常識の範囲で考えることが出来れば、この里に、
こんなに沢山の上物の酒が用意していることに変だと疑問を持つものも居ただろう。
だが、彼らは薬と洗脳の効果で思考力と言うものを無くしかけていた。
日々感じる鬱憤を晴らすように祭りを続けることしか、彼らの脳裏には残っていない。
だから、酒の中に眠り薬が入っていても誰も気づかないのだ。
闇の影が用意した酒に、強い眠り薬を混ぜる。
これは、少しでも被害を抑えるために老人達がしたことだった。
たとえ、国軍が攻めてきても寝ている人間に剣をつきたてることはあるまいと踏んだからだ。
イグドールはイルドゥクを憎んでいるが、イルドゥクはイルベリー国民となり、
昔の恨みなど覚えているものは誰も居ないと知っていたからの行動だった。
老人たちの行動は、里を見捨てるという闇の影の決定を邪魔することではない。
だが、すこしでも彼らに生きる道が残される可能性があるのなら、残してやりたかった。
祭りで浮かれて馬鹿騒ぎする若者達や壮年の男達を横目に、
杖を突いた老人が二人、彼らの背後で動いていた。
彼らは年を積み重ね、年輪にも見える皺を刻み始めた目尻を訝しげに上げる。
その目つきは、歴々の闇の影を支えてきたそれであり、
感情を押さえつけた顔は、酒で酩酊し転がる男達を冷たく見据える。
「落ちぶれたものよの。ワシ等の若い頃にはありえん光景だで。」
「ふん。 酒豪のお前さんに言われたら、すべての者が落ちぶれるわい。」
軽口を叩く彼らの役目は、レミの邪魔をなるべくさせない為でもあった。
何かの拍子に住居に誰かが戻ってきたら、レミは破滅だ。
レミがすべての作業を、そしてフィオンから与えられた役目を無事果たせるよう、
レミの祖母とその友人達が必死で考えた策だった。
あれから、フィオンの指示通り、レミは祖母と里の老人に話を繋げ、
すべきことのすべてを話して判断を仰ぎ助言を聞き、行動に移した。
子供達には、大人には内緒だと言って、
祭りの夜にだけ食べられるいい夢を見れる飴を一つずつ配った。
それには蜂蜜と水あめに練りこんだ協力な眠り薬が入っている。
そして、今、レミが闇の中で走り回っているのは、
一件一件を回り、闇の影が用意した馬車に眠り込んでいる子供達を乗せる為だ。
老人には暖房なしでは夜は寒いので一箇所だけつけるという理由で、
レミの家の暖炉に火をいれ、殆どの老人が祖母と一緒に祭りの夜だけ移動した。
彼らも既にレミが隠してあった馬車に乗って、里の外へと移動を開始しているはずだ。
老人の内の幾人かは、レミの決断を助ける為に手助けを申し出た。
今、家に残っているのは、祖母とその数人だけだ。
レミが戻れば、闇の影の先導で里を脱出する計画になっていた。
生き残っている老人の全てが、元闇の影として生きたものであり、
レミの決定を、闇の影の決定を、責めるものなど誰も居なかった。
気が遠くなるほどの緊張した作業を無事終え、後は最後の仕事だけとなったレミは、
大きく安堵のため息をつき、そして吸い込む息でこれからの作業の為にぐっとお腹に力を入れた。
闇の影の指令。
レミの仕事は、国軍のスパイを助け軍を里に引き入れる為の合図を送ることだった。
祭りの太鼓はもう聞こえない。
最後の笛の音だけが、かすかにレミの耳に聞こえる。
もうじき、もうじきだ。
あせっては駄目、失敗したら駄目。
レミは自己暗示をかけながら、怪しく思われないように、
里の中心部に向かってゆっくりと歩を進めた。
レミの仕事は大灯篭に、フィオンが渡した発炎筒を投げ入れることだった。
その明かりを合図にイルベリー国軍の一部が、里に攻入るのだ。
その合図を機に、奴隷達や学者達も一斉に遺跡から脱出することになっていた。
レミが合図の発炎筒を投げなければ、夜明けを待って、一斉に軍隊が里を潰す。
そのときは軍隊の規模やおよそ10倍となってレグドールの里を押しつぶすだろうと、
闇の影の首領であるフィオンは忠告した。
もう迷っている時間など、レミには残されていないのだと暗示していたようだ。
大灯篭の辺りには里の住人はちらほら見える。
レミの行動は明らかに彼らに裏切り者とそしられる行為だ。
なにしろ、レミの合図でイルドゥクが乗り込んでくるのだから。
レミは震える足を叱咤しながら、闇から光の中に足を踏み出した。
顔見知りの女性が声を掛けてきた。
そこには、酔っ払った女達が5,6人座って話に花を咲かせていた。
彼らの顔はどれも赤く、口調はろれつが回っていない。
「あらまあまあ、レミ、お腹は治ったの?
そんなに直ぐ治るのなら、祭りを欠席するなんて馬鹿なことしたわね。」
おそらく酒の勢いもあろうが、かなりの絡み酒だ。
吐き出される息も酒臭い。
「そ、そうね。
ね、ねえ、暗いと怖いから、大灯篭の側に行ってもいいかな。」
発炎筒を握り締める手をコートで隠し、震える手を胸に押し付けて、
必死で平静を装う。
「いいけどねん。 レミーレミレミ、あんたもお酒くらい飲みなさいよ。
そろそろ、大人の階段を登らしてあげるわよん。」
酔っ払い特有の絡み酒はやけにしつこい。
彼女はレミが横を通り過ぎる際に、そのコートの裾を引っ張った。
その際にコートの前がはだけ、発炎筒があらわになる。
「レミ、アンタ、それを一体何なのよ。」
女の一人が、剣呑な顔でゆらりと立ち上がった。
その女は、レミの婚約者の母。
薬に支配される前は、レミの母とも呼べる優しい人だった。
「叔母さん、御免なさい。
もう助かる道は他にないの。」
レミは、大灯篭の火の中に勢いよく発炎筒を投げ入れた。
その途端に、女達は狂気に煽られ、レミの髪が引っ張られ、床に激しく押し付けられる。
「厄介者が、里を裏切るのかい。」
「恩知らず。」
「レグドールの恥さらしだよ、お前は。」
爪が髪を引きむしり、顔に突き刺さる。
レミは女達の集団に嬲り殺されそうになった。
その時、大灯篭の中の発炎筒が一斉に大きな炎を上げた。
それが合図のように大きく地面が揺れた。
遺跡から里へと続く一本の道の中心部がビキビキと大きな音を立てて、
地面が割れた。
今までに感じたことの無いほどの規模の地震がレグドールの里を襲った瞬間であった。




