誰も見ていませんでした。
レヴィ船長のお友達で、行方不明であるディコンさん。
噂だけでしか知らなかったレヴィ船長達の幼馴染。
真面目で、真っ直ぐな正直者で、曲がったことが大嫌いな堅物。
融通が利かないから、無能な上司からは嫌われ、なかなか出世しないらしい。
頑張っても給料は変わらない役所勤めなのに、いい加減なことは決してしない。
信念を持って仕事をしている上、責任感が強く面倒見がいいと評判は高い。
部下からは慕われ、仕事関係者内でも信頼は厚い。
容姿は悪くないのに、まだ奥さんが居ないのよって、
デリアさんやウィケナさんが楽しそうに語ってくれました。
レヴィ船長やカースだって、彼の事を私に話すときは、
懐かしさと友愛から、嬉しそうな、楽しい表情を浮かべていた。
彼の事を心から信頼しているのが目に見えてわかる。
どんな人なんだろうって、会うのがすこし楽しみでした。
その彼が、現在、私の目の前に現れました。
正確には、屈強な男の人たちに担ぎ込まれましたと言うほうが正しい。
手や腕、首や腰に逃げ出されないように縄で括られている。
男達の支えをなくすと、よろよろと壁に向かって体が傾いでいく。
肩を壁に押し付けるようにして、ようやくその体を支えているように見えた。
口から吐く息は小さく小刻みで、喘鳴音が喉から漏れる。
かろうじて立つことが出来る状態なのだろう。
自由に動けず壁にもたれかかっている彼に、男達が蔑みの視線と嘲笑が降る。
彼は、あからさまに侮蔑の態度から軽く突き飛ばされ、無造作に床に転がされる。
彼の首や足首には何度も擦れて皮膚が破け血が固まりどす黒く縄目が変色している。
あれは何度も抵抗して縄を解こうと動かすとあのような後が出来る。
私が以前に誘拐されて縄で縛られた後の傷跡と全く同じかそれよりも酷い。
それに肩を上下させ体を震わせ、苦しそうな喘息に近い荒れた呼吸、
顔色は褐色なのに明らかに蒼白い。 細身の体は苦痛に体を曲げる。
米神に絶え間なく汗が浮かび流れ落ちる。
苦悶に耐える顔は、整っている顔立ちも相まって壮絶な色気さえも生み出す。
ウィケナさん、容姿は悪くないって謙遜だったんですね。
むしろ悪いところを捜すのが難しい容貌のお兄さんです。
レヴィ船長やカースとは違った種類の繊細さが際立つ感じのハンサムさんです。
長い癖のある煤けた金髪が、うねりをもって汗の重力に逆らい顔を彩る。
大きめな瞼に長い睫毛、鼻筋の通った高めの鼻腔、薄い唇。
正に生きた彫刻のごとくな美形です。
思わず、オスカルーって、叫びたい。
いや、彼は男の人だ。さすがにそれは違うだろう。
長い睫毛がわずかに伏せられ、体の奮えにあわせて小さく揺れる。
彼は、かろうじて意識があるらしく、目は薄くだが開いている。
意思の力でやっと意識を保っているのだろう。
白く小さい煙のような息を小刻みに吐く。
唇の端から血がにじんで汗と混じって落ちる。
白い歯が血で滲んでいるのは、唇を噛んでいるせいだろう。
だが、その意識も今にも途切れそうだ。
誰が見ても明らかに体の調子が悪く、
彼は、医者を今すぐに必要としている重病人だった。
日本で彼にあったら、すぐさま救急車が呼ばれるだろう。
そこまでじっと見たあと、はっと気がついた。
なにを観察しているんですか、私。
このままだと、ディコンさんは死んでしまうかもしれないでしょう。
首や足首の傷跡は、血が固まった後まだ出血が続いているようだった。
転がされている床の部分には黒いシミがじんわりと広がっていた。
もしかしたら敗血症とか、破傷風とかにかかったのかもしれない。
そうならば正しい治療をいち早くしないと助からない。
松明の影が長く伸びて、黒い影がまるでディコンさんに襲いかかる死神に見えた。
頭に重い症状の病名が浮かんだら、途端に思考が慌て始めた。
それに、先ほどの死神幻想が追い討ちをかける。
「あの、あの、アニエスさん。
その人、えーとディコンさん? は、随分調子がよくないみたいです。
お祭り参加ではなく、私達と同じ観覧希望にしませんか?
それで、薬、そう、お医者さんに見てもらいましょう。」
私は、とりあえずディコンさんの様子を知ってもらうために声をあげた。
「メイ、貴方、ディコンを知っているのかしら。」
アニエスさんの言葉は、私が予想していたものとは違う。
今のディコンさんの様子を見て、彼の体を気遣うとか、
私の言うとおりにお医者を呼ぶとかする気配は全くない。
彼女の答えに疑問を感じながらも、質問に対する答えを言った。
「あ、はい。 ええっと、あのその、知っているけど知りません。」
私の答えにアニエスさんはその美しい顔を微妙に歪めるだけで、
指先一つ、目線すらディコンさんに動かそうとしない。
その様相にも私のパニックはおさまるどころか一層悪化する。
目の前に死にかけの重病人、ディコンさん。
ああ、なんでこの世界に救急車はないのかしら。
早く病院、薬、医者ー、誰か、春海、じゃ無くて、なんだっけ、癒しの神様。
名前忘れちゃったけど、後からしっかり祈るからディコンさんを助けてください。
「それは、一体どっちなのよ。」
苛ついた感情をあらわにした様子で、再度問いかけてきたアニエスさんに、
自分でも訳がわからないほどにパニックを起こしていました。
彼が、5人目の宝珠の持ち主とわかったこともパニックに拍車をかけたようです。
何がどうなって5人目が宝珠で、死にそうで救急車は来なくて、
アニエスさんは、美人だけどディコンさんはオスカルで、
カッコいいけど、死んだらもっと駄目で。
落ち着いて、落ち着けば、落ち着く時、ああ、駄目。無理。
こそあど言葉なんてしている場合ではない。
「ディコンって、今、俺が言葉に出したからね。
メイは、俺の言葉尻を拾っただけさ。
今の状態のディコンを見たら、こんな風に動揺しても可笑しくないだろう。」
私のパニックをおさめるべくフィオンさんが、私を正面から見据えるように、
肩の位置を変え、動かないように頭の上に手を乗せた。
「落ち着け、深呼吸しろ。
君が慌てても、どうにもならない。」
深呼吸の指示で、とりあえず私は肺に大きく空気を吸い込む。
吸い込み、吐き出しとスーハースーハーと何度か繰り返して、
やっと落ち着きました。
フィオンさんに、よしっといって頭を撫でられた。
なんとなく今の私は、小さな子供になった気分だ。
もういい年した大人なのに。
先日、大人になろうと心に誓ったばかりなのにこの有様。
頭からすっぽりとまるっきり抜けてました。
大人なキーワード。
今からもう一度頭に刻むのです。
「ふうん、まあ、そういうことにしておいてもいいわ。
でも、メイの意見は却下よ。
ディコンは曲りなりとも長の血筋。 祭り参加は絶対なのよ。
こんな状態なのは残念だけど、ね。」
アニエスさんの無情な言葉に、愕然とする。
重病人だとわかっているのにこの仕打ち、あまりにも酷いです。
フィオンさんは、顔は笑みを浮かべているけれど、
アニエスさんに向ける視線は厳しい。
「祭りには、長の代理である優秀で美しい君がいれば何の問題もないだろう。
それとも、今にも死にそうなディコンがここにいる必要があるのかい?」
フィオンさんの張り付いた笑みの後ろで、なんだか冷たい空気が流れる。
「あら、優秀だなんて、貴方から褒められるのは何度でも嬉しいものね。
でも、駄目よ。長の血筋の者には、特別な役目があるのですもの。
100年に一度の大祭は、貴方が知らないことも多いということですわ、フィオン様。
彼は、半端者でイルドゥクの中で育った異端児でも長の直系に違いないのですから。
里のために、里の住民の悲願成就の為、祭りに協力してもらう約束なのよ。
ねえ、ディコン、私の従兄弟。」
アニエスは、すっと腰を屈めて床に転がっているディコンさんの頬を、
白い指でそっと線を描くように撫でた。
半分強制にも聞こえる祭りへの参加義務。
しかし、ディコンさんは、ゆっくりとだが、それに対して確かに頷いた。
役目とやらを了承したという意味だろう。
フィオンの右眉が一瞬上に傾いた。
ディコンさんは、あんな状態にも関わらず、祭りの参加を了承しているのだ。
何が彼をそうさせるのかわからないが、もはや止めることが出来ないということだろう。
この上は、お祭りが少しでも早く終わるように祈るしかない。
その時、コーンコーンコーンっと何かを打ち鳴らす音が里中に、
もちろん遺跡内部にもはっきりと届いた。
遺跡の外からも大きな叫ぶような呼び声が響いた。
「開始の時刻だ、祭りの本祭が始まるぞ。」
アニエスの周りにいた屈強の男達のなかでもざわめきが走る。
「おお、時間だ、祭りがついに始まるぞ。」
「100年ぶりの大祭だ。 」
「ああ、我らの悲願成就の時がすぐそこに。」
男達の表情は一様に明るく、希望に満ち溢れている。
その目は、これから始まる祭りへの確かな期待があった。
彼らの前に居るアニエスの表情も、先ほどまでとは全く違う。
きらきらと目を輝かせ、今にも始まるであろう何かを待っている子供のような顔をしていた。
アニエスの後ろに影のように控えていた背中の曲がった男が、
アニエスの後ろからそっと声を掛ける。
「アニエス様、予定通りに計画の実行を。」
アニエスは、その言葉に手に持った錫上をぐっと握り締める。
そして、くるりと振り返り、彼女に付き従っていた牛のような大男に優しく微笑んだ。
「エルバフ、カイミール様をここにお連れして下さるかしら。
彼には手伝ってもらいたいことがあるのです。」
「アニエス様、手伝いなら俺にだって出来ます。
力仕事も剣の腕も、カイミール様よりももっとお役に立てます。」
アニエスの側から離れたがらないエルバフの手を、彼女はそっと握る。
「もちろん、貴方の力を疑ったことはないわ。
でも、カイミールは私の婚約者ですし、
先先代の長の直系との噂もあるのは知っているでしょう。」
その言葉に、エルバフは鼻を大いに顰める。
「あんなのは、眉唾ものだ。
アイツは嘘つきだから、アニエス様も里の皆も騙されているんだ。
だって、直系のしるしだってアイツは持ってない。」
そうだろうと同意を得るべく、エルバフは周りに視線を向けて、
フィオンに目を止める。
「カイミールは、闇の影の仕事で早々となくなった先先代の元婚約者の子供ではあるな。
生んだ本人が、婚約の証をもってして、長の子供だと名乗りを上げたのは後の事。
だが、それが嘘だと暴くことも今になっては難しい。
先先代の直系と本人が回りに思わせており、本人もそう信じて振舞っている。
だから、役に立たずとも、今現在、闇の影の副頭取の地位を与えている。」
カイミールさんって、目の前のアニエスさんの婚約者ですよね。
優秀で美人な彼女の婚約者なのに随分な評価を受けているんですね。
フィオンさんなんか、役立たずってはっきり言ってます。
でも、アニエスさんは、そんな婚約者の評価にも全く動じない。
それどころか、嬉しそうに笑っている。
「あら、でも、ここでその問題も解決できると思うわ。
だって、長の血を引いていなければ、祭りの役目は果たせないのですから。
彼が役目を果たせなければ、長の血を継いでない。
つまり、偽者で騙りだと証明できますわね。
そうすれば、彼は闇の影の地位も、私の婚約者としても地位も失うでしょう。
でも、本当だったなら、そんな噂話も立ち消えになることでしょう。
私としては、どちらでも良いのですが、神も真実を知りたいと思うのよ。
ねえ、エルバフ、貴方もそう思わない?」
エルバフは、カイミールが偽者ならばアニエスの婚約者の地位を失うと
いう言葉を聞いて、その顔を一瞬でぱあっと明るくして、
振り子の反動のように何度も上下に頷く。
「もちろん、俺もそう思います。
これで、忌々しい奴の化けの皮を剥がしてやれる。
ああ、なんて嬉しい。
はい、アニエス様、今すぐに、奴をココにお連れします。」
エルバフは目を輝かして、踵を返し軽やかに走って行った。
その背後を見つめながら、フィオンはそっと口角を隠すように手で顔の下反面を隠す。
「……なるほど、長の血。」
ぼそっと呟いたが、それを聞いたものは誰も居ない。
アニエスは続いて残りの男達に向かって微笑んだ。
「貴方達にはお願いがあるのです。
一人は長を迎えに行ってちょうだい。
祭りにはやはり代理ではなく長が必要でしょうから。
それから他の方は、エルバフが返ってきたら、遺跡の入り口で一緒に待っているようにと
伝えて頂戴。必要なら拘束もやむ得ないでしょうからよろしくね。
ここにはカイミール様と長だけが入るように。」
エルバフとは違い、彼らは従順にアニエスの命を聞き頷く。
その目は、まるで人形のようで、皆が皆一様に同じような顔つきをしていた。
そして、ゆっくりと足を出口に向けてその姿を消した。
気がつけば、アニエスの後ろで薄紫の煙のでる香炉がゆらゆらと揺れている。
背の低いニドが素早くアニエスの前に出る。
あれは、私が倒れた時に持っていたものと同じ香炉。
アレを吸ったらまた倒れる?
そう思ってメイは、縛られた両手を鼻と口の前に当てる。
それを見て、アニエスがくすりと笑った。
「メイ、心配せずとも貴方にはもうこの薬は効かないわ。
先ほど解毒薬を飲んだでしょう。 まだ効力は続いているはず。
この薬は先ほどのものとは違うけれど、基本的な作用は一緒なの。
平然としているフィオン様も勿論、解毒薬をすでに服用されているのでしょう。
本当に手際がいいこと。 さすがですわ。」
アニエスは、今にも高笑いしそうなほどに麗しい笑みを見せながら、フィオンを褒める。
さすがと褒めるその裏側には一体何を企んでいるのか。
その意図がわからないので、フィオンはアニエスに対しての賛辞を続ける。
「美しい君に褒められるのは光栄だね。
用心深いのが俺のとりえの一つだからね。
その香炉は、カイミールを迎えるためのものかい。
そんなものを使わずとも、カイミールは君の言う事なら何だって聞くだろうに。」
アニエスは、フィオンの言葉を否定することはないが、ただ苦笑する。
「カイミール様はちょっと繊細なとこがあるの。
残念なことに貴方ほど豪胆ではないのよ。
彼と長だけがこちらにと言っても、怖気づいて護衛を連れてこようとするでしょうね。
遺跡の入り口までは周囲の目もあるし、むしろ堂々と来るでしょうが、
遺跡に入ってしまえば、何処かに隠れるかもしれないでしょう。
だから、ニドを護衛に向かえにいってもらうのよ。」
ニドはフードを深く被り直し、アニエスに小さくお辞儀をした後、
紫の煙をくゆらせながら、後ろの道へと消えていった。
フィオンは、カイミールを繊細と称したアニエスの表現に面白そうに苦笑する。
「その繊細な婚約者のカイミールを、香炉で無理やりに意識を奪った後、
ここに連れてくるのかい? それに長は高齢で、以前にも病で倒れている。
その香は長にはかなりの負担だと思うのだが、優しく美しい自慢の孫の君はどう思う。」
自慢の孫の一言で、アニエスは一瞬だけ顔を歪める。
だが、すぐに妖艶な微笑みを載せた。
「カイミール様の為に必要だと思うからですわ。
それに、自慢の孫としては、体の弱った長を意識のないまま運ぶのは、
孫として、体を気遣ってのことだと思っていただけませんかしら。」
長は体が弱いのに薬で無理やり連れてくるようだ。
それって、気遣いと言っても良いものなのだろうか。
彼らの会話も気になるが、私はディコンさんの様子が気になる。
さっきから、ディコンさんの目が閉じられたまま開かない。
体もぐったりしたまま、生気というものが実に弱弱しい。
ああ、私の荷物の中に確か、セランが万が一で用意してくれた
痛み止めとか、血止めとか入っていたのに、私の荷物はどこにいったんだろう。
ディコンの様子をはらはらしながら気にかけているメイを傍目に、
フィオンとアニエスの会話は続いている。
会話は緊張感をはらんでいる為、声を掛けるタイミングが難しい。
アニエス、倒れているディコン、縛られたフィオンとメイだけが、
開いた最後の扉の前で、それぞれの感情をもってそこに残っていた。
だが、彼らは誰も見ていなかった。
メイのポケットにいたはずのお猿が、そっとポケットを抜け出して、
問題の扉を開けた内部に降りていったところを。




