淑女の道は遠いです。
左の道に入ってすぐに、ゼノさんの大きな声が回りに響いた。
「走れ、急げ。」
は?
疑問に思って首をかしげていると、レヴィ船長に握られたままだった手を
ぐっと引っ張られて何がなんだかわからないままに走りはじめました。
私達の視界に見えているものは、先頭を走るゼノさんが持つ松明の灯りと、
後ろのカミーユさんが持っている松明の灯りのみ。
周りには光りが一切なく、道は自然の洞窟のように天井がやけに丸みを帯びている。
私達の他には誰も居ないはずなのに、私達の走る足音以外にも、
沢山の別の音が岩壁に反響する。
一つは目に見える形で、
光源を追いかけるように先頭を走るゼノさんの松明を追って、
黒い粒のような物体がガシャワシャと音を立てて岩肌を移動していた。
天井、横壁、足元と黒い物体が大量に押し寄せる。
見た感じは茶色の岩肌が黒い物体に侵食されているようだ。
天井を走る黒い粒が時折ポトリポトリと私達の頭や肩に落ちてくる。
それがなにかわからない内に、いつの間にか私の頭の上に移動していたお猿が、
上手に私の上から叩きのける。
私の髪を掴んだままですので、すこし頭皮が引き攣れるのですが、
そこは我慢できます。
「ホホイホイ、おいらチョイチョウ、お前いらんヤイ。」
さすがお猿です。
掛け声がなんだか生き生きしていますよ。
まるで何処かのアクションスターのようです。
なんとなくですが、その黒い物体はゴキooに似ている気がします。
あんな生き物が私の頭に落ちたらと想像するだけで、背中に悪寒が走ります。
もう一つの音の出所は主に足元。
バリっとか、ゴリッとか、グシャって音が私達の足跡に合わせて鳴る。
なんとなく砂浜で貝殻を踏みしめているような感触が足の裏から伝わる。
この音はナンなのか、普通に考えても予測がつく。
が、あえて頭の中から削除したいと思います。
私達は、唯ひたすらゼノさんの後をついて走りました。
5分ほど走ったでしょうか。
足元に硬い石の感触が戻ってから、ゼノさんが全員を振り返りました。
「よし、もういいだろう。止まっていいぞ。」
ゼノさんの言葉で、前傾姿勢になっていた体が、
つま先を起点に前に転びそうになりました。
私の腰を抱えるようにしてレヴィ船長が引っ張ってくれなければ、
今頃は確実にべしゃって潰れていたか転んでいたでしょう。
ありがとうございます。
私は、ぜえぜえと荒い息を吐きながら下を向いて息を整えていると、
後方にいたカミーユさんが松明を持ってゼノさんの側に寄った。
2本の松明が一箇所に集まった為、更に明るくなった松明の光りに照らされて、
全員の様相がほぼ見渡せる。
一番先頭を走っていたゼノさんもレヴィ船長もぜんぜん息が切れてません。
私の横にいるカースもカミーユさんもです。
というより息を切らしているのは私のみでした。
私、明らかに運動不足です。
侍女の仕事で体力がついたと思っていましたが、持久力という点で不足なようです。
これは朝マラソンとか取り入れたほうがいいのかもしれません。
真剣に考えなければ、ちょっとだけ痩せたと思って喜んでいましたが、
筋力が減っただけと考えれば、喜べませんからね。
そういえば昔テレビで某有名女優の誰かが言いました。
十代過ぎたら、全てが急落すると。
ほっといていいのは10代まで。
私、改めて考えなくても10代過ぎてました。
駄目です。ぼうっと年を重ねている場合ではありませんでした。
この旅が終わったら、なにか考えなければいけません。
覚えている限りでラジオ体操をしようかしら。
息が整ってきたら、目線が下から上がってきます。
その時に気がつきました。
皆のズボンの裾に、紫というか赤黒い染料がべっとりとついてました。
皮靴は、染めたように真っ黒に染まってます。
自分のスボンの裾と靴を見ると同じようになっていました。
そして、ここが肝心。
凄く匂います。
匂いでいったら、生ゴミのような匂いを更にすっぱくした感じです。
思わず、鼻を押さえました。
私の様子を見て、カースが説明をしてくれます。
「これは甲花虫の体液です。
さっき走ってきたところは巣の真ん中ですから仕方ないでしょう。」
ああ、あの黒いゴキooは甲花虫というのですね。
名前だけでもゴキooでなくてほっとしました。
カースとレヴィ船長は地図を取り出し、ゼノさんと話し合いをしてます。
私は離れたところで、後方確認のために残っているカミーユさんと一緒に、
大人しく立ってます。
大人しくないのは、私の頭の上のお猿だけです。
「ヤイヤー、不味いポイ。」
お猿は先ほどまでのテンションのままで、私の髪を掴んだまま、
足をばたばたさせて遊んでます。
「お猿、もう虫居ないよ。 だから大丈夫だよ。 有難う。」
見えないままで頭の上に手を伸ばしてお猿の頭を撫でようとしたら、
お猿は私の手のひらをそっと広げて、手の上に乗りました。
そのまま私の目線まで手を降ろすと、
お猿は黄色の物体を両手ですっと差し出しました。
ナンだろうと受け取ってみたら、天昇した例のあの虫のなれの果てでした。
手足は見事にもがれ、頭ももげているし、羽もきれいにない。
今は芋虫のような物体に様変わりしていた。
「神様の守護者、おいら強しヨイ。」
お猿はふんっと胸を張ります。
「は、ははは、お猿、ご苦労さまでした。」
道の端にそれをぽとりと落して、とりあえず合掌しました。
ゴキooではない、ゴキooじゃないと唱えながら。
旅からかえったら一番にお風呂に入ろうと心に固く誓いました。
さて、先ほど飛び込むようにしてこの場所に入った私達でしたが、
改めて見渡してみると、岩肌の色が変わっていることに気がつきました。
さきほどまでの岩肌が茶色の砂岩のような色をしていたが、
ここは黒と白が斑になった岩肌で、その上ごつごつしている。
足元も誰かが踏みしめたような跡は全くなく、どちらかというと自然のままの石。
白い部分は松明に光りに反射してキラキラと輝いて見える。
そっと触れると、ザリッと指の先で鈍い音を立てた。
指先にパラパラと残るのは白い砂のような粉。
これはナンだろうと首をかしげていると、カミーユさんが教えてくれました。
「ここの鉱石は塩分を大量に含んでいるので、こんな岩肌なんです。
大昔はここは海底であったという説もあるのは、この鉱石のせいかもしれない。」
なるほど、塩が光っているのですね。
「この鉱石はイルベリー国には沢山あるのですか?」
「いいえ、この里付近には沢山ありますが、他では見たことはありません。」
へえ。ここだけなんだ。
落ちている小さな小石を拾って手のひらにぎゅっと力を入れると、
パラパラと細かく砕ける。
なるほど、これは岩塩なのかもしれません。
イルベリー国は海に囲まれているし、この谷の向うは高い山だ。
ここもかなり標高は高いが位置的には谷間の窪地。
そう考えれば、塩を含んだ岩石が転がっていることも理解できる。
「そっか、昔はここに湖とかがあったのかもしれないね。」
「海じゃなくて、湖なのか? 何でそう思うんだ?」
ゼノさんがいつの間にか私達の会話に参加していました。
振り向くと、レヴィ船長もカースもいました。
お話は終わっていたようです。
「昔、習いました。 海水の温度が高い時に塩分を大量に含んだ雲が海上で作られ、
それが標高の高い山の冷気によって冷やされ、塩分濃度の高い雨が振り、
窪地に溜まって塩の湖が出来ることがあるそうです。」
うん、確かそうだったとおもう。
子供の頃、母親と一緒にテレビで見た記憶がある。
「雲は、海で出来るのか?」
レヴィ船長の質問に首を傾げました。
あれ? うーん、この世界ではまだ解明されてないのかもしれません。
「雲は何で出来ているのか、いまだに誰も解明できていないのに、
メイちゃんはなんで知っているんだ?」
何で知っている?
テレビでは結局何を言っているのか解からなくて、母親に解説してもらった。
「母に教えてもらいました。」
「なるほどな。 メイちゃんの母親は言語学者で考古学者だったな。
あの国は、俺が知る限り一番学問に精通しているから、そう言う事もあるか。
自慢の母親だな、メイちゃん。」
そういえば、セランの奥さんは学者の偉い人でした。
私の母は学者ではないけれど、いろいろテレビ百科のように物知りな人だった。
どこそこの歌舞伎役者と女優の息子がこの人よっとか、
テロップには決して流れない情報を湯水のように知って薀蓄を披露していた。
「はい。」
そう返事を返すと、なんとなく、母は自称学者でいいかもと思い始めた。
勿論、我が家限定ですけどね。
セランにお土産に持って帰ろうと、小さな小石を幾つか拾い、
ポケットの中の手ぬぐいに包んで、
オレンジの小石が入っている反対のポケットに入れました。
ちなみにお猿は今、オレンジの小石と共にお昼寝をしているようです。
ポケットからスウー、ピーと寝息が聞こえます。
先ほどは大活躍でしたから疲れたのでしょう。
ゼノさんは、うんうんと頷きながら、私の頭を撫でまわしました。
これは、褒められているんですよね。
結果、お猿によって荒らされていた髪が更にぐしゃぐしゃになりました。
今、私の髪はハリネズミ状態になってます。
そういえば、私、櫛を馬車の中に置いてきたことを思い出しました。
乙女にあるまじき所業です。今ここで、凄い後悔してます。
壊れた携帯とかふやけた手帳なんかを置いてくればいいのに、
何故に私は櫛とか鏡とかの乙女必須グッズを置いて、
役に立たないガラクタを持ってきているんでしょうね。
小さなため息をついていたら、カースがゼノさんの手を跳ね除けて、
優しく手櫛で整えてくれました。
有難うごさいます。 カースの優しさが身にしみます。
私の女子思考力が足りないばかりに、カースお兄様には面倒を掛けます。
「まあ、それはそうと、この先は崖だ。」
そうですね。 もちろん、気がついてましたよ。
だって、尖った岩の先がありません。
先ほどまでと同じように突き当たりならば、
どこかに仕掛けがあってその向うに道があるのではと思うところだが、
本当に、道どころか広がるのは空間のみ。
つまりがけっぷちです。
通路の先が正に無い。
松明をかざして真っ暗な崖下を照らしてみたが、
火の灯りが届く範囲では床は見えない。
向うの壁は3m近く離れている。
普通の人間ならば飛び越えるのは無理な距離だ。
それに対岸に岸がない。 向うは全くのつるっぺたの壁だ。
ゼノさんは崖の淵を幾つか検分した後、平然と右手の親指を下に向け、
「ここを降りる。」
と崖下を指差しました。
カースが、足元に転がっていた小さな小石をポンと崖下に蹴り出すと、
カンカンコンカーン、コンコンカラカラァァァァ。
段々と音は小さくなっていきますが、石が何処かにぶつかりながら落ちる音は、
ずっと続いている。
「随分と深い谷底ですね。
つまり落ちたら痛いではすまないと言う事です。」
カースの言葉にごくりと唾を飲み込みました。
落ちたらまっさかさま。
ぐしゃぐしゃゾンビの道再来かと冷や汗が出てきそうです。
だって、ロッククライミングなんかしたことありませんよ。
子供の頃の消防訓練でも、布の滑り台を下りるだけでロープを使って降りたことない。
ちなみに筋力にも体力にも、先ほど自信をなくしたところです。
不安なままゼノさんを見ていたら、
荷物の中からロープを2本取り出し、1本を一番頑丈そうな岩に結び付けた。
残りのもう一本のロープを腰に結び、その先をカミーユさんに渡し、
ロープの先をギュッと持ち、いきなりヒラリと崖下に飛び降りた。
私は、ぎょっと目が飛び出さん限りに驚きました。
だって、命綱があるとはいえ、無謀ですよ。
オロナooCのCMだって、もっと慎重です。
慌てて崖端に走りよったら、ゼノさんは見事に壁に、
ヤモリみたいにへばりついてました。
片手にロープ、もう片手に松明を持ったまま器用に壁に張り付いて見える。
よく見れば、岩壁の突起に足を掛けているのですが、私には一瞬ゼノさんは
ヤモリの生まれ変りかなにかの別な生き物に見えましたよ。
そして、私達が見守る中、するすると崖を下っていき、
上から3mほど下の窪みにたどりついた。
下で松明がくるくると回されて無事を知らしてます。
大声を出さないと言う事は、話すなと言う事でしょう。
そういえば、崖は音が反響しますからね。
カミーユさんが、するするとゼノさんがつけていた命綱のロープを引き上げ、
ロープの先をレヴィ船長に渡しました。
レヴィ船長はロープに輪を作り、輪に足を掛け、腰にもう一つのロープを巻き、
ゼノさんと同じくひらりと軽やかに崖に飛び降りました。
じっと見ていましたけど、レヴィ船長は船の壁面を上り下りする時みたいに、
するすると軽やかに降りていきます。
ヤモリではなくロープエレベーターのようです。
そういえば、船に乗っている船員の皆も船の壁面を降りるのが上手だったなあ。
補給の為立ち寄った港で、壁面の修理や、船底付近にいつの間にやら引っ付いていた
フジツボのような物体を掃除する為に、船員がするするとロープで上り下りするのは、
見惚れるほどに職人芸だった。
レヴィ船長も職人芸を身に付けているんですね。
見惚れているうちに、レヴィ船長は窪みに着いたようです。
松明がくるくると回る。
引っ張りあげられたロープをカースに渡され、
カースがにっこりと私に微笑みました。
「メイ、貴方の番です。」
私は首が痛くなるほどにぶんぶんと首を振りました。
「こ、心の準備が出来ていませんので、カースが先に行ってください。
私は一番最後でお願いします。」
ここを降りるとなると、心臓がドキドキと激しい動悸を訴えた。
深呼吸が必要ですが、あんまり吸い込むと、
足元の虫の体液の匂いが気になって咽そうだ。
にっこりと微笑んだままのカースは私の左足にロープの輪をかけて、
そのままそのロープを腰にぐるぐると巻きつけて、そのロープの一端を私に握らせると、
私の意識が混乱している内に、両脇で持ち上げられ、崖の側まで連れて行かれた。
「今からゆっくり降ろしますから、貴方はこのロープの先だけを握ってなさい。」
カースがにっこり有無を言わせない笑顔で、崖淵でその手を離した。
ええっ、ちょちょっと待ってプリーズといわないうちに、
体は一瞬の浮遊感の後、重力の赴くままに下に落ちます。
私は思わず目を瞑って、手に持たされたロープを必死で握り締めました。
お腹に違和感が感じられる前に、がくんと落ちるのが空中で止まりました。
上を見上げると、カースが私を吊り下げているロープの端を自分にも巻きつけて、
落ちる速度を調節してくれていた。
私はほっと一息つくと、安堵の余りつい下を見てしまい、
ぞっと背筋が振るえ体が強張った。
固まったままの私はゆっくりと崖を下っていき、
無事にレヴィ船長の居る場所にたどり着き、しっかりと両手で抱きかかえられた。
「メイ、大丈夫だ。 ロープを離して、俺の首に手を廻せ。」
レヴィ船長に言われるまま、ぎこちなく首にぶら下がるように手を廻すと、
私の体を片腕でひょいと子供を持ち上げるように抱き変え、
体に巻きつけられたロープがするりと外され、ロープはゼノさんに手渡される。
レヴィ船長は私の様子を見てちょっとだけ笑うと、その場所から少しだけ移動した。
レヴィ船長は私を抱きかかえたまま、頬を撫で、鼻筋を指でたどり、
私の体の強張りをほぐすように、肩を指で軽く揉んだ。
肩を押す指は優しく、気持ちよい。
私は、固まった体をほぐすように目を閉じ、大きな深呼吸をした。
レヴィ船長の匂いに、心から安心する。
「メイ、大丈夫か。」
その言葉で、目を開くと目の前にレヴィ船長の微笑みがありました。
「はい。有難うございます。レヴィ船長。」
にっこりと笑ってレヴィ船長に答えました。
レヴィ船長の笑みが深くなり、顔が近づいてきて、
ちゅっと軽いキスを落されました。
「それならいい。」
すっと顔が離れて、足を床につけられましたが、
いきなりのキスに星が頭に回ったような気がします。
さっきの怖かった崖下の景色が見事に頭から吹っ飛びました。
さすがレヴィ船長です。
見事に効果覿面です。
嬉しくて顔がにやけて、変な顔になっているのを除けば、
すべて問題なしです。
この顔を見られたら、カースに何を言われるか解かりません。
手で顔をぐにぐにとマッサージして、なんとか変顔を治めます。
そして気がつけば、カースとカミーユさんが、
当然のようにいかにも簡単に降りてきてました。
二本のロープもいつの間にか回収されカミーユさんの荷物の中です。
本当に手際いいです。
私達のいる窪みは洞窟のように奥に道が伸びていました。
ゼノさんは、荷物を担いで松明を持ち上げ、号令をかける。
「この先は、蛇の部屋だ。 足元を見ないで進め。」
へ?
今度は蛇ですか。
次から次へと、気を抜けない状況に思わず、
苦いものを飲み込んだときのような変な顔をしていたようです。
「メイ、その顔は淑女から程遠いですよ。」
カースに言われて、はっと顔を覆いますが、時既に遅しでした。
ぶほっ
ゼノさんの咽るような笑い声が聞こえました。
そういう時は、見ない振りをするのが紳士なのですよ。
淑女の道は険しく遠いようです。
誤字直しました。




