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箱をあけよう  作者: ひろりん
第5章:遺跡編
132/240

アニエスの微笑み。

時間がちょっとさかのぼってメイが街を出発した頃のことです。

そのつもりで読んでくださると解かりやすいと思います。

机の上に置かれたランプの光りが上下左右の壁に反射して、

オレンジ色の灯りをぼうっと楕円形に映し出す。


壁の窪みにある幾つかのいびつな形の灯りが、

ランプの明かりに対抗するように、小さな無数の楕円の灯りを形成していた。


時折、外からの空気が入り、火の光りは横にゆらりと揺れて、

その楕円もゆらりと影を揺らした。


部屋全体の高さは、おおよそ2m丁度くらい。

それもでこぼことした天井はところどころで出っ張っており、

大人の男の人ならば、気をつけないと頭をぶつける可能性があるだろう。


空間の広さは、20畳ほどのほぼ楕円の形をした部屋。

床には厚めの布が絨毯のように敷かれ、その中央に長方形の机が置かれていた。


体重をかけるとぎいっと軋んだ音を立てる机。

机の高さは、足が通常の半分以下だ。

大体で言ったら、床から20cm程しか離れていない。


これは部屋の高さを考慮した机なのだろう。

地面に直接座り込む習慣がないので、当初は戸惑ったが、

手の届くところに必要なものがある。

この床に近い仕事場を割合に皆、楽だと思い始めていた。


場所が場所だけに、居心地良いと称するわけにはいかないが、

人間というものはどんな環境にもなれるものだと感心する。


その机の上にも部屋全体の床にも、紙の山が無造作に散らばっている。


これがメイならば、すぐさまカレンの仕事場と

どちらか酷いか比べたかもしれない。


だか、ここで注目すべきは紙やその惨状ではなく、

机の上の中心部に置かれたものである。


その紙の山の中央中心部に、白っぽい板があった。

一見、石版に見えるそれは、石に比べて比較的軽い。


見る人が見れば、その素材が石ではなく、

人間によって精巧に作られた作品であることが知れる。


板は何かに磨き上げられたように、つるつると表面が光って見える。

触るとそれが石や岩盤ではなく、単純な土の構造物であることがわかる。


つまり、唯単に白塩土を練り固めて造った粘土が原料。

塩の含有量が多い粘土を乾かして何層も敷いて重ねた板に、

沢山の文字が丁寧に彫りこむように描かれている。


この白塩土の板は、主に200年以上前に、紙が多く普及される前に

重宝された代物である。白塩土は乾きが早く軽く加工がしやすい。

その上、乾いた板は劣化しにくく一定の湿気を保ちながら保存し、高温で焼くと、陶磁器のような手触りへと落ち着くのだ。


書いた粘土の板の上に更に粘土の板を重ね、そうして一つの仮説を導き出す。

学者達が好んで使ったノートのような代物だった。



つるりとした手触りの板の上には、古代文字が細かく書かれ、

それからほんの少し間を空けて、マッカラ王国の公用語が続く。

そして、また間を空けて、イルベリー国の公用語である。


マッカラ王国とは、イルベリー国のある大陸とは別の大陸の小国家だ。

小さいが知識を重んじる王国で、世界最古の現存国家にして、

賢者の塔がある場所として知られている。

その国に住むものは、6割が学者、2割はその関係者か家族、

そして、残りの2割は、外国からの留学生である。


世界中の学者や研究者が生涯に一度は訪れたいと願う聖地だ。


この板に文字を彫ったであろうとされる探検家ワグナーが、

第二の故郷とした国としても知られている。


そして、イルベリー国は言わずと知れたワグナーの生家がある故郷だ。


板に書かれている内容は、マッカラ国の公用語とイルベリー国の公用語を

知っている者ならば全く同じ内容が書かれていることが解かるだろう。


つまり、これは一番上に書かれた古代文字の翻訳であるのだ。


これを初めて見た歴史学者や古代文字研究者は目を輝かせた。

これがあれば、今までに多くの学者が頭打ちしてきた多くの謎や論議が、

一気に解決するのだから。


机の上の板にかじりつくように目を光らせている男達がそこにはいた。


年は若いものから老齢な者まで統一性はないが、

彼らは全員が同じようにその目を子供のように輝かせていた。


そのうちの一人、年若で赤茶けた癖のある長い髪を一つにくくったビン底眼鏡の男が、興奮したように何度も何度も隣に座った白髪の老人の研究者に話しかけていた。


「チェルマン博士、見てください。

 これは、本当に本当に凄い発見です。

 本当にワグナーはなんて素晴らしい。

 この文字がこんな意味を持っていたなんて、新発見です」


白髪の老人は、薄い老眼のような鼻眼鏡を上にくいっと動かしている。

両脇、揉み上げ部分には真っ白な髪がふさふさとしているが、

肝心の頭頂部は一本も生えていない。


その剥げた頭頂部は、小さなシミが模様のようにぽつぽつと浮かんでいた。

鼻眼鏡の両脇から灰色の厳しい目がぎょろりとその青年の方を向いた。


「ミオッシュ君、興奮するのもわからないではないが、

 いい加減に落ち着きたまえ。

 ワグナーの書であるこの板が間違っていないとは言いきれないのだよ。

 なにしろ彼は200年以上も前の学者だ」


チェルマン博士は、やや苛立ちを隠せないようにミオッシュを見返した。

だが、ミオッシュはそんな反応はものともせず、興奮したまま話を続ける。


「いえ、私だってそれを考慮しなかったわけではありません。

 しかし、この文章の23行部分を見てください。

 貴方とメリーランド博士が5年前に論争を繰り広げた研究内容が、実は半分ずつあっていたと納得できる結果を導くことが出来るではないですか」


顔半分を占める大きさのビン底眼鏡の奥は歪みすぎていて、

その顔つきはさっぱり解からないが、

ミオッシュと名乗るこの歴史学者はなかなかに博学で聡明だ。


チェルマンをはじめ、高名な学者達の間をその巧みな知識と話術で、

警戒心をあっさり解いてしまった。

初対面にも関わらず、どこか憎めない正直な言動が信用度を高めた。


学者というものは、存外に自分の考えに熱中しすぎるあまり、

他人との距離を取りがちな者が多い。


だが、ミオッシュは全く違い、学者達との会話から、

研究内容を騒然と纏め上げていた。


つまり、彼は現在、人馴れしていないプライドの高い学者達の

緩和剤のような役目を果たしていた。

それもあって、チェルマンは素直にミオッシュの結論を受け入れる事が出来た。


「そうだな。その件に関しては君の言う通りだ。

 メリーランド博士も、生きていれば私と同じように

 半分だけという事実に悔しがったに違いない」


チェルマンが研究者として生きた50年以上の知識が、

その板には記されていた。


「そうですね。 ですが、お互いに間違っていたわけではなかったんです。

 ここで解かったのですから、貴方の名前で発表されると彼も喜ぶでしょう。

 お互いの研究成果の融合がなされたと、世論は納得するでしょう」


ミオッシュの言葉に、チェルマンも頷きながら苦笑すた。


「そうだな。 

 この偉大な発見物とワグナーの名の後押しがあれば、

 誰も否やは唱えないだろう」


自分達の人生は決して無駄ではなかったと身をもって体感できる。

そんな未来が夢のように押し寄せていた。


その会話に割り込むようにして、ひょろりとした顔色の悪い男が、

横から邪魔をした。


「チェルマン博士、僕の研究内容にも合致する部分があるのです。

 この板を占有しないでください」


そして、床の布の上に木の板を引いて、その上で熱心に書き物をしていた

丸顔の男がぱっと顔を上げた。


「ああ、それを言うなら、私も必要ですよ。

 歴史的に見て、文字の解読から得られる古代文化は筆舌にしがたい。

 それに、この板の下の層をぜひ見てみたいのですよ。

 ヤトッシュの文明は、我々よりもはるかに進んだ文明であったと

 証明できるかもしれない証拠物件かもしれないのですよ」


そう言いながら、男はさっきまで書いていた紙をばっと全員の前に突き出した。


「これは、発表する論文の草稿です。

 私が一番にその板を使うつもりですので、よろしくお願いいたします」


その勝手な理屈に全員の目が一瞬点になるが、我に返ると納得できるものではない。


「いや、私が先だ。

 歴史を知るのは文字の解読がなされた後でも問題ないはずだ」


「待ってください。僕の研究成果が認められたら、

 世界が変わるかもしれないのですよ。僕が先でしょう」


そこに居た多くの学者達が一斉に異議を唱えた。

静かであった室内が一斉に騒がしくなる。


だが、全員が喧騒論議を始めた時、大きな手を打つ音が部屋に響いた。


「はいはい。皆さん、そこまでです。

 まずは落ち着いて深呼吸してください」


その音の主は、勿論ミオッシュだ。


「皆さん、勘違いしておられるようですが、

 この板は貴方達が発見したものではありません。

 古代遺跡の発掘物は、発見者とその遺跡を保有する国が所有権を持ちます。

 それは国際法で定められた権利です。

 つまり、この板を発見したコナーさんとイルベリー国が所有権を持つのです。

 それを使用するには、両者からの正式な許可と認可が必要になるでしょう。

 ですから、事が終わって国に申請し認められたら、

 順番に使えると思いますよ。

 コナーさんさえ異論申し立てをしなければ」


その言葉で全員の頭に昇った熱がすうっと冷める。

そして、ここで全員が見知った若き歴史学者を思い浮かべる。


勘の鋭い打てば響くような回転の早い男だ。

理解力はかなり高いし、人の話をきちんと聞くことが出来る男でもある。

彼ならば反対はしないだろうと誰もが予測できた。


「そうか、そうだったな。

 俺達がここで論議しても始まらないと言う事だな」


ふうっと大きなため息をついた丸顔の男が、首を大きく振った。

それに対してミオッシュはにこやかに微笑み、両手を広げた。


「ええ、そのとおりです。

 僕が思うに、いっそのこと全員一緒に国に申請を提出してはいかかでしょう。

 そうすれば、この国で国際公用学会を開くことが出来ますし、

 一石二鳥どころではなく、沢山の功績を残すことが出来るでしょう」


その言葉に、そこに居た全員がそれは言い考えだと、

お互いの顔を見て肩を撫で下ろした。

 

「それに、こんな場所で喧嘩しても仕方ありません。

 我々の今の立場を考えたら、喧嘩をするのは得策ではありません。

 見張りの奴らは、目の前の問題を解決しないと我々を解放しないでしょう」


そのミオッシュの言葉に、全員が冷や水をかけられたように我に返った。


「ああ、そう、そうだった」

「先の事の前に、目先の事だ」


全員が、足元の紙をがさがさと動かして仕事を再開した。


「左扉の転写は、大体終わったぞ。 右扉の写しはまだか?」

「今、コナーとペルリッツ教授が取りに行っている。もう少し待て」


入り口付近の分厚い布がばっと持ち上げられて、

体つきの大きな厳しい顔つきのレグドール人が、ぬっと顔をのぞかした。


「随分と騒がしいと思ったが、問題なく進んでいるのか。

 祭りまであと1週間だぞ」


彼は見張りの一人だ。


以前に逃げ出そうとした学者の一人を、槍で簡単に背中から突き殺した。

そして、腰に下げた大きな幅広の剣で、反対に逃げ出した2人を、

あっという間に切り殺したのだ。


全員がその惨劇の場にいた。


イルドゥクの子孫である学者達を見る彼の態度は、単純な憎しみさえも感じられる。

レグドールらしいといえばレグドールらしかった。


彼の突然の訪問に、全員が体を恐怖でこわばらせる。


そこで唯一動いたのは、やはりミオッシュだった。


「ご心配には及びませんよ。私達は大変優秀です。

 今、5つ目の扉の解析を始めたところです。

 何の問題もありませんよ。

 この扉を開けたら、残るは祭壇の入り口のみです。

 貴方の指導者である長のお嬢さんが、5つの扉を抜けたら

 そこにたどり着くと仰ったではないですか」


ビン底眼鏡をくいっと持ち上げながら、柔らかな声で、

見張りの男に言葉を返した。


「ふん。 それならいい。

 可笑しなことはしないことだ。

 少しでも怪しい動きをすれば、全員皆殺しだ」


その言葉の冷たさに全員が息を呑む。

研究者の一人が、がたがたと震え始めた。


「な、なあ、俺達は本当に帰してもらえるのか。

 本当は、用が済んだら、こ、殺すつもりじゃあないのか」


50台半ばくらいの茄子のような目の細いうりざね顔の男だ。


「ああ? そんなに殺して欲しいのか。

 それなら前に出ろ。すぐに前に死んだお仲間のところへ送ってやる」


見張りの男は、厳つい顔を更に鬼のように歪めて震えている男を睨んだ。

茄子男は、ひっと小さな悲鳴をあげて、人の影に隠れた。

そこで、ミオッシュが大げさなほどに大きなため息をついた。


「そうではないのですよ。 そのように威嚇しないでください。

 私達だって頭では理解してますよ。

 闇の影は、約束を決して破らないと言う事は有名ですからね。

 しかし、我々は貴方達の協力者なのですよ。 そうでしょう。

 それなのに、ここに閉じ込められて家族に手紙を送ることも出来ない。

 外にも一歩も出してもらえないので、皆、疑心暗鬼になってきているんですよ」


「そ、そうだ。 こんな狭い中に閉じ込められて、

 まるで牢屋じゃないか」


丸顔の男は、チェルマンの後ろから手と顔だけ出して抗議をした。


「た、頼む、家族に、一言でいい、手紙を送らせてくれ。

 私の娘は、心臓が弱いんだ。 心痛を与えたくないんだ」


茄子男は床に膝をつき懇願するように見張りの男に頭を下げた。


見張りの男は、その目に明らかな苛立ちと怒りを浮かべて、

目の前に這いつくばった男を蹴り上げた。


茄子男は、蹴られた腹を庇うようにくの字になって転がり、

壁際まで転がった。


「黙れ、愚かしい恥知らずのイルドゥクの子孫。

 あと7日の辛抱が何故出来ない。

 俺達は、何年も何年も、この谷に閉じ込められ、

 お前達の何倍も辛抱と我慢と苦渋を強いられた」


その目はらんらんと怒りに燃え、

その侮蔑の言葉は、全員の息の根を止めそうなほどに冷たかった。


その足は、一歩二歩と前に踏み出し、丸顔の男に向かっていく。

丸顔の男は、ひいっと甲高い悲鳴をあげて、人の後ろ後ろに鼠のように隠れた。


これは危ない、アイツは殺されるかもしれないと、

そこに居た全員が思った。


「待ってください。 彼とて悪気はないのですよ。

 お願いですから、怒りを収めてください。

 貴方の怒りは解かりますが、我々の人数が減ることは貴方にとっても、

 貴方の長にとっても得策とはいえません。

 古代文字ロハニの解析と罠の分析が遅れます。

 貴方が最初に殺した3人は、優秀な言語学者や考古学者でした。

 彼らがいたら、解析はもっと早くなっていたでしょう」


憤怒を携えた鬼のような形相の男は、じろりとミオッシュを睨みつけた。


「俺のせいで作業に支障がでたといいたいのか。

 逃げるなと俺は先に言っておいた。

 逃げたら殺すとな。 それを実行しただけだ」


ドスドスと足を踏み鳴らしながら、ミオッシュの前に立つ。

彼を前にしてもミオッシュの態度は変わらない。

少しもおびえることなく彼に相対していた。


「いいえ、それに関して貴方を責めている訳ではありませんよ。

 彼らは愚かだった。それだけです。

 ですが、これ以上人数を減らされると困るということを言いたいのですよ。

 貴方の言うとおり祭りまで7日でしょう。

 我々は仕事を無事に全うしたいと考えているのですよ。

 この仕事は我々にとっても学術的価値はかなり高い。

 いろいろと興味が尽きないものですからね」


その言葉に男の態度がやや落ち着いてきた。

そして、厳しい顔が苦々しげに歪んだ。


「ふん。 イルドゥクの癖に口ばかり達者だな」


ミオッシュは、にこやかに微笑んだ。


「有難うございます。 解かっていただけて嬉しいです」


二人の会話に無事終わりが見え、全員がほっとしたところで、

もう一人のイグドールが入り口の掛け布をくぐって現れた。


「あら、喧嘩になりそうだと聞いたけど、大丈夫なのかしら?」


煤けた金の髪をさらりと背中に落とし、朱金の瞳をやや細めながら、

長の孫娘、アニエスが入ってきた。


その後ろには、背中が曲がった深くフードをかぶった男が影のように付き従っていた。



「アニエス様、問題ありません。

 無事解決しました」


見張りの男は、やや早口でアニエスに申し開きをした。

それに対して、ミオッシュ以外の学者全員が苦々しげに顔を歪めた。


何が解決だ、ごり押しの力押しではないかと、

全員の顔が反論の意を唱えている様だった。


アニエスは、褐色の健康そうな手をすっと伸ばして、

見張りの男の頬に触れた。


「エルバフ、御免なさい。

 実は、先ほどの話を、外で聞いてしまったの」


「ア、アニエス様、俺は別に……。」


エルバフは、何かを必死に言い繕わんとしていたが、

アニエスはゆっくりと首を振って悲しげに微笑んだ。


「エルバフ、貴方の感情は理解しているし、解かりたいわ。

 だけど、お願い、彼らに暴力を振るわないで。

 本当は優しい貴方が誤解されるのは嫌なの。

 私は貴方にはいつも感謝しているし、信用も人一倍しているわ。

 見張りも、貴方にばかり負担を掛けて御免なさい。

 でも彼らは確かに協力者なのよ。

 彼らの言う事はもっともだわ。

 それに、これ以上は人数を減らせないのよ」


エルバフといわれた男は、その柔らかな手に自身の唇を寄せた。


「アニエス様」


切なそうに、その手をぎゅっとエルバフは握り締める。

アニエスはにっこりと微笑んで、ゆっくりとその手を引き抜いて、

倒れて呻いていた茄子男のそばに膝をついた。


「エルバフが貴方にしたことは謝ります。

 本当に申し訳ありません。

 娘さんのことがさぞかし心配なのでしょう。

 私が貴方の娘であったなら同じように父の身を案じたでしょう」


茄子男の手をそっととり、悲しげな微笑を見せた。

その儚げで美しいアニエスの微笑みに、誰もが言葉を忘れた。


両手を祈るように胸の前で合わせ首をわずかに傾げる様子は、まるで何処かの聖母像のようだった。


呆然とアニエスに見惚れている中で、唯一冷静である男ミオッシュに目を留めて、

アニエスはすっと立ち上がりその前に立った。

 


「手紙を、ご家族の元に届けるように手配しましょう。

 ご家族を心配する気持ちも、心配される気持ちも痛いほどわかります。

 私達は、闇の影の名前を汚しません。 約束は守ります」


これは単に、甘っちょろい女性らしい感傷から出た言葉なのだろうか。

長の孫娘は、たおやかで優しい普通の大人しい女性にみえる。


聖母のごとくに慈愛に満ちた笑顔が、学者達の心に信頼感を植えつけた。


闇の影との約束は、必ず帰すとだけだ。

手紙を届ける義理も、そこで闇の影の名前を出す意味もない。


ミオッシュは顔には出さないが、彼女の言葉と態度に戸惑いと疑問を感じていた。だが、彼の背後にいた学者達は、一斉に安堵のため息をついた。


「おお、手紙を届けてもらえるのか。

 それならば、問題ない」


チェルマン博士の声がして、それに呼応するように次々と声があがる。


「今は夕刻です。今夜夕食をこの男が運んできた時に、

 手紙を渡してください。 明日の朝一番で馬を走らせます」


アニエスの後ろから背の曲がった子男が前に進み出た。


全員が明るい顔で了承し頷いた。

 

アニエスはにこやかに微笑み、くるりと踵を返して、

戸惑ったように立ちすくんでいるエルバフの両手を握った。


「貴方の説得を無にして御免なさい。

 でも、これ以上、貴方にだけは負担は掛けたくないの。

 手紙の配送も私が手配するわ。

 誰にも迷惑は掛けないし、あの人にもちゃんと了承をとるわ。

 だから、心配しないで。エルバフ」


エルバフの目が泣きそうに細められ、同時に顔が嬉しそうにクシャリと歪んだ。


「俺の為に、アニエス様」


エルバフは心打たれたように涙ぐんでいる。

そんなエルバフにアニエスは大輪のバラのように見事な笑顔を見せた。


「いいのよ。それではね」


そういってアニエスは軽やかにその場を立ち去った。

気を取り直したエルバフは、学者達全員を見渡して警告した。


「いいな。 解かっていると思うが、手紙が許されたからといって、

 この場所のことや、闇の影のこと、遺跡の内容などは一切書くな。

 アニエス様の優しい心遣いを無にするな。わかったか」


それだけ言ってエルバフは出て行った。


後に残ったのは、何をどう書こうかと思案する学者達。

ミオッシュは、久しぶりに明るい彼らの顔に、

自身が感じていた不安や懸念を伝えられなかった。




**********





アニエスが自分の部屋に足早に戻ると、

そこには予想していたとおりの人物が待っていた。


「アニエス、我が婚約者殿。 麗しき愛しい人よ。 

 どこに行っていたんだい? 随分と探したよ。 

 君の姿が見えないと、不安で押しつぶされそうになる。

 君が誰かにさらわれるのではないかと僕は正気ではいられない」


かすれたような金と茶色が混ざったような髪に、薄い金とオレンジを溶かしたような瞳。

すらっとした背の高い体躯に、すこし目尻が下がった甘いマスク。

30台後半にも差し掛かろうとしていた彼の体はやや筋肉に欠ける。

彼の名はカイミール、闇の影の副頭領で、名目上はナンバー2だ。


対する彼の婚約者は24になる長の孫娘、アニエス。

大人しく優しく、たおやかで麗しく賢い完璧な女性だとカイミールは思っていた。

こんな素晴らしい彼女にふさわしいのは自分以外にはありえないとも。


カイミールは両手を広げて、アニエスを抱きしめようとした。

それに対して、アニエスは困ったように微笑んで、すいっと抱擁をかわした。


「カイミール。 心配を掛けて御免なさい。

 学者達の所に行っていたのよ。

 揉め事が起こっているようだと知らせがあったから」


かわされたカイミールは、不満を顔にあらわに浮かべてアニエスに近づく。


「学者のところの問題? そんなのは力馬鹿のエルバフに任せておけばいい。

 君がでるまでもないだろう」


アニエスはすっと部屋を横切り茶器を持ち上げた。


「ねえ、カイミール、そんな風に言わないで。

 私も貴方の役に立ちたいのよ。

 貴方の為に、立派に長の代理を務めたいの」


困ったようなそれでいて拗ねたような顔で、アニエスはカイミールを見上げた。

その可愛らしいしぐさと表情からは、あでやかな妖艶さも感じられる。

茶器の曲面を撫でる細い指先とその仕草に、喉の奥が鳴った。

カイミールは、音を誤魔化すように、ごくりと唾を飲み込んだ。

そして、思い余ったように彼女の体を背後から抱きしめた。


「ねえ、アニエス。

 僕たちは婚約しているんだ。 だからいいだろう」


カイミールの手が、アニエスの服の上を無造作に弄る。

アニエスの首筋に口付けし、舌を首の下から上に這わす。


アニエスの豊かな胸の膨らみを衝動のまま揉みしだき、

服の下に直接触れようと、長い服の裾をたくし上げた。


アニエスは、ちょっとだけ一瞬抵抗する様子を見せたが、

ふうっとその力を抜いて、くるりと向き直り、カイミールの手をやんわりと包んだ。


「カイミール、私達はまだ婚儀をしていないのよ。

 なのに、子供ができたら、私、困るわ。

 結婚前にもう、こんなことをしているなんて皆に知られたら、

 恥ずかしくて、もう生きていけないわ」


恥ずかしそうなしぐさの上目遣い。

大きな朱金の瞳には薄っすらと涙が浮かんでいた。


「君は本当に、いつまでたってもウブで可愛いね。

 アニエス、僕達は婚約者なんだから、子供が出来て皆に知られたって

 祝福こそすれ、非難なんてしないさ」


男を誘うようなそのしぐさに、カイミールの心臓が今までにない程に大きな音を立てた。そして、掴まれた両手を引き剥がして続きをしようと鼻息を荒くした。

だがそこで、アニエスの両の眼からぼろりと大粒の涙がこぼれた。


「カイミール、解かって頂戴。

 貴方が私を求めてくれるように、私も貴方を求めているのよ。

 貴方だけが我慢しているわけではないの。

 でも、私は長の孫娘なの。だから、駄目」


アニエスは悔しそうに顔を歪め、下唇をかみ締めた。

その唇には、薄っすらと血が滲んでいた。


その様子に、カイミールは渋々と伸ばしていた両手を下げた。


「有難う、カイミール。

 優しい貴方、解かってくれると信じていたわ。 

 もうじき祭りの日がくるわ。

 私は、村長代理として神の力を前にしなくてはいけないの。

 そんな中で、心に疚しさを感じてはいけないの。わかってね」


「疚しさって、どうして?」


「だって、貴方と結ばれたならば、私は嬉しさの余り隠せない。

 苦しんでいる里の皆に対して、私一人だけ幸せなんて、

 申し訳なくて、心苦しい。

 それに、婚儀もしていないのにと、神に指差される様で絶対に後ろめたいわ」


アニエスは強請るような蕩ける声をだして、カイミールの腕を指で撫でた。

目線は下を向いたままだが、

その出された言葉に口調にカイミールは有頂天になる。


「そ、そうだな。 すまない。 

 君が余りにも魅力的すぎて、無茶を言った。

 祭りが終わり、婚儀を済ませるまでは、もうしない」


カイミールは自身の腕に伸ばされた、細く滑らかなアニエスの指を持ち上げ、

その指に口付けを何度も繰り返した。


「ありがとう、カイミール。 優しく男らしい私の貴方。

 先日の会合での演説も素晴らしかったわ。

 皆が一斉に貴方の言葉に感動してた。

 私も、こんなに素晴らしい貴方が婚約者だなんて、鼻が高かったわ」


アニエスは、口付けを贈られていた指をするっと外し、

カイミールの眉から頬にかけて手をあて、優しく微笑んだ。


「そうだろ。 君がくれた原稿は僕が思い描いていたそのものだったんだ。

 あれは、僕の思いを君が慮ってくれたに違いないんだ。

 僕は、言葉にすることで見事に体現し、

 あんなにも確かな反応を引き出したんだ。

 僕だからこそできたことだ。 そうだろ、アニエス」


カイミールは、アニエスの手を振り解き、

些か大げさとも取れるしぐさで、両手を宙に広げ目を輝かせた。


「ええ、もちろんよ。流石だわ。

 これで貴方の指導者としての立場は明確になったのよ。

 もう、誰も貴方をおろそかにしたりしないわ」


アニエスが体をすっとずらして、カイミールの為に椅子を引いた。

これは、ここに座れということだ。


カイミールが椅子に大人しく座ると、背後からふわっとその背を抱きしめるように、

アニエスの両腕が伸びた。


鼻腔をくすぐるような、甘い匂いがアニエスの肌から香った。


すべらかで弾くような肌は、程よい弾力と温みを。

年若い健康的な褐色の肌に、バランスの取れた長い手。

背中に押し付けられた胸の豊かさと感触に、カイミールの目が泳ぐ。


カイミールにとって、女性と寝所を共にすることは、

息をするのにも等しい自然な行為だった。


だが、婚約者となった彼女は彼に体をいまだ許そうとしない。

今までのカイミールならば、そんな頑なな女性は相手にしない。

それどころか、処女はめんどくさく厄介で敬遠する。

 

だが、アニエスに対して欲望は更に膨らむばかりで、

常に飢餓感にすら襲われる。


カイミールは真実、目の前の婚約者、アニエスに溺れていた。


「ねえ、貴方には力がある。

 私には見えるの。

 祭りが終わったら、貴方は私に楽園を見せてくれるって信じている。

 貴方こそが選ばれた人なのよ。 副頭領なんて肩書きはもう要らないわ。

 闇の影もね。 貴方の下に全てが従うの。

 誰もが貴方に従い、服従する。

 貴方は王のように全てに傅かれるの」


アニエスの柔らかな声がカイミールの耳元でささやく。

 

カイミールの脳裏に、自身が王のように王座に座り、

豪華なマントを着て全ての人間を従わせる光景が浮かんだ。

傅いた人々の中央には、闇の影の頭領として、

常にカイミールの目の上の瘤であったあの男もいた。


あの男がカイミールに頭を下げている。

その想像で顔が緩み、にやにやと笑いが止まらなくなった。


「ああ。祭りが楽しみだ」


アニエスはすっとカイミールから離れ、黙ってお茶を入れた。

そして、妄想の海から帰ってこないカイミールの顔を微笑んで見ていた。




*********





その夜、アニエスの寝室にアニエスの従者としていつもそばにいる

背中の曲がった子男が軽いノックと共にするりと入ってきた。


「アニエス様、ご指示通りに手紙をお持ちしました」


そういって足元にどさりと手紙が入った麻袋を置いた。


「そう、ご苦労様、ニド。

 ああ、寒いわ、暖炉に火を入れて頂戴。

 本当に、今日は格別に寒い気がするわ」


ニドと呼ばれた背の曲がった男は、手馴れたしぐさで火打石を使って火をおこし、

火掻棒でがつがつと炭を動かして空気を送り、暖炉の火を大きくした。

  

火の勢いを安定させる為辺りを見渡したが、薪は一本も転がっていない。

これでは朝まで持たない。


「アニエス様、薪が無いようです。

 急いで取ってまいりますので、ベッドにお入りください」


そういって背を向けようとすると、アニエスはにっこりと微笑んだ。


「あら、急がなくていいわよ。

 だって、ここに焚きつけるものが沢山あるもの。

 貴方が帰ってくるまで十分に持つと思うわ」


アニエスは、微笑んだままニドが置いた麻袋を持ち上げた。

そして、袋から一通づつ取り出して、暖炉の火の上にゆっくりと落としていく。


丁寧にしっかりとした字で書かれた手紙は、火の勢いに抗えず、

火に飲まれ、黒く変色しその身を捻じってばさりと音を立てて崩れた。


「うふふふ、案外役に立つものね」


ぱちぱちと音を立ててよく燃える手紙を嬉しそうに見つめながら、

両手を火にかざし、暖を取る。


ニドはやれやれと肩を解からないようにすくめ、その部屋を後にした。

そして、ゆっくりとした足取りで闇夜の道を歩いた。


アニエスの言葉は、この手紙を燃やし終わるまで帰ってくるなということ。

自分がもってきた手紙は、分厚いもので親指の太さほどあった。


闇夜のなかで、ニドは深いため息をついた。

手紙が燃えた後の処理をしなくてはいけないからだ。


薪と違って紙を大量に火にくべた場合、暖炉に煤が盛大につくのだ。

そして焼け跡の灰は粉砕していて、かき混ぜるとふわふわと空中に散布する。

それらは、気をつけないと気管に入る時がある。



今夜も早く就寝することは叶わないようだと、

ニドは疲れる体に言い聞かせて、薪を取りに炭小屋に歩いていった。


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― 新着の感想 ―
[良い点]  研究者達の仲裁や見張りとのいざこざを取り持って仕事をさせるの大変だなー VS 複数の男性を手玉に取って操る美女(手紙を燃やすストレス発散付き)  研究者サイドの仲裁者、実は闇の影の一人だ…
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