レグドールの里:会合
夕日も既に落ち、周りには細くなりつつある月の光がぼんやりとあたりを照らす。
黒く長く伸びた雲が月の輪郭をかき消し、月の光は地を照らす役目を失った。
昼間の乾いた熱い空気が、嘘のように冷えはじめ、地熱は急激に下がり
むき出しの岩肌はひやりと冷たくなる。
レグドールの里では当たり前の毎日であったが、
この寒暖差はかなり厳しい。
里のそれぞれの家は、自然に出来た岩屋を改装しているため、
長屋のように近所が隣り合っている。
家の玄関と思しき場所には、動物の骨と石灰を削り練り合わせた小さな灯篭が、
岩の一部をくりぬいて設置されている。
そして里のほぼ中央にぶら下がっている鐘楼の下にも、
誰が作ったのかわからない大きな3メートルはあろうかと思われる、
大灯篭があった。
この大灯篭の火が燈されるは祭りの前1週間から、代々長老の役をするもの、もしくは、
その血筋に繋がるもののが自ら火を燈す。
いわゆる祭りの儀式の前夜祭のようなものだ。
この灯篭は、レグドールの習慣では迎え火とも言われ、
彷徨っている仲間の魂が、この火に導かれてこの里に無事帰ってきますようにとの
願いを込めて毎夜ともされる。
大灯篭を中心にぽつぽつと灯りが燈る様子は、
家に灯りが燈るのと同じくらいに温かく感じるものだ。
灯篭の火は、通常は火が暮れるとすぐにつけられるのだが、
本日はどうやら勝手が違うようだ。
殆どの家々の灯りは消えたままだ。
大灯篭の火はつけられているが、里の各家の明かりの殆どが燈されていない。
だからだろう、静かな里の夜が余計に暗く物悲しい様相を見せていた。
そんな中、白い息を弾ませながら、一人の少女が真っ暗な道をひた走っていた。
足取りはまったく迷いなく、暗闇の中でまっすぐに目的地に向かっていた。
中央広場の大灯篭の側を通り過ぎた時、
その火の灯りで少女の容貌が薄っすらと判別できた。
金の煤けたようなレグドール特有の髪は、強い癖毛らしく、
風も吹いていないのに、うねうねと大きく波打っていた。
幅狭なリボンのような布で髪を左右に二つに分けて括っていたが、
髪の量と癖毛のせいで、耳の下に大きな毛玉が乗っかっているように見えた。
この里の人間には珍しい、明るい瑠璃色の瞳は小さいながらも見開かれ、
いささか低い鼻の上には、そばかすが所狭しと黒点を打っていた。
年は15くらいだろう。
髪の間から見える首にも、顔にも皺らしい皺はどこにも無い。
瑞瑞しい褐色の肌は、健康そうに輝いていた。
彼女が向かっていた先は、集会所。
急いでいくのは、遅れたからだ。
家の仕事と年寄りの世話がなかなか終わらなかった為、
里の住人の義務である集会所での話し合いに遅れてしまったのだ。
里の中でも高台に位置するその岩屋は、大きな空洞で、
里の人間全てが入ってもまだ余裕があるはずだった。
この場所は、基本集会所だが、今までの毎年の祭りの儀式の祭典は、
殆どここで行われていた為、レミにも勝って知ったる場所だ。
彼女も、彼女の隣人の同じ年の婚約者も、本日は祭りの最終計画とやらで、
絶対参加を義務付けされていた。
「ああ、もう、嫌になっちゃうわ。
行く間際になって、おばあちゃんが急に咳き込むんだから」
最近になって、彼女の祖母は、急激に体力を落とし始めた。
去年の同じ頃にはまだまだ壮健で、あと10年は大丈夫と言われていたのに。
彼女の祖母はレグドールの巫女の血筋で、
若くして外の国に出奔し、多くのことを知っていた。
若い頃は闇の影の一人として活躍し、この里に多くの金を落とした里の英雄だ。
彼女が里に帰ってきたのは、子供を身ごもったからだ。
博識な彼女は、子供を産み育てながら、
里の外のことを子供達に教え、それを生業にしていた。
孫の彼女もその生徒の一人だったが、
とにかくもって祖母は彼女の自慢の祖母であった。
美しく聡明で公正な人柄は里の誰しもに好かれていた。
今は、酷く痩せて、皮とわずかな肉が骨をまとっているだけとなる容貌だ。
優しかった祖母がどうしようもなくやつれていく日々は、
彼女の日常に大きな影を落とした。
「祭りが終われば元気になるわ。きっと。
だって、長が言ったのよ。
今度の祭りが成功したなら、私達はこんな辺鄙な場所ではなく、
約束された富める地を手に入れることができるの。
おばあちゃんの病気もそうしたら、たちどころに良くなるに決まっているわ」
酷く咳き込む祖母の背中をゆっくりと摩りながら、
彼女は自身と祖母を励ますように、言葉を吐いた。
そんな彼女に祖母は、喉をかすれるような細い息を吐きながら、
孫である彼女に反論した。
「いいや。 私は、もうじき、死ぬよ。
たとえ、祭りが、成功して、神の力で、生きながらえたとして、
それが、なんになろう。 私は、もう十分に生きた。
だから、あの儀式を、止めるよう、レミ、お前も、考えておくれ」
枯木のように細い手は思ったよりの力があり、
その手は孫の腕をしっかりと掴んだ。
「儀式を止める? 何を言うの。
あれは一族の悲願でしょう。 神の力を私達が手に出来たら、
この里より富んだ土地に移り住めるわ。
それに蔑まれることもない。
すべてが一族の総意なのよ」
レミは、祖母の様相に慄きながらも、長と長の孫娘が言っていた言葉で反論する。
「だから、なんの罪も無い力弱い子供らの命を奪うのは正等だと、
お前は考えるのか、レミ」
ぜえぜえっと苦しい呼吸に載せるように、吐き出された言葉にレミの息は詰まる。
「だって、あれは、……イルドゥクの民じゃない」
レミのつむぎ出される言葉には力が無い。
「お前が、彼らに何をされた。
彼らの祖はわれらの祖と敵対関係であったのは事実。
だが、今のお前に、囚われの身である力ないあの子達が何をしたのだ」
「おばあちゃん、だって……」
レミは、祖母の過去を思い、唇を噛んだ。
「私の夫は、闇の影の仕事で死んだ。
それは、あの子達のせいじゃない。
いいかい、レミ、よく考えるんだ。
大きすぎる力は、必ず災いを齎す。
この里も、この里の人間も、そんな過去の遺物は忘れるべきなんだ」
祖母の言葉は、レミの反論を許さない。
なぜなら、レミの反論できる論点は全て人の受け売り。
自分で考えて出した答えではなかったから。
「よく考えるんだ。
虐げられたからといって関係の無い力弱き者を鞭打つは、鬼の所業だよ。
闇の影は、決して仁義に劣った真似はしない。
それが、このレグドールの里の信念だったはず。
現に、影の首領のあの男は、祭りには参加しないと言っているだろう」
その祖母の言葉に、レミも眉を寄せて顔を曇らせる。
「でも、おばあちゃん、副頭取のカイミール様は、アニエス様と
祭りを取り仕切っていらっしゃるじゃないの」
レミの腕を握り締めていた祖母の手が、その力を抜きずるりと体が傾いだ。
「カイミールは、空っぽだよ。
何も考えていない、自己顕示欲にまみれた唯の男だ。
闇の影の首領には到底なれない男さ」
レミは力の抜けた祖母の体を、引きずるようにして奥のベッドへと連れて行った。
「レミ、アンタは私の孫だ。イグドゥールの気高き巫女の血を引いた者だ。
お前は、あんな奴らの言葉に誤魔化されず考えておくれ。
祭りに、過去の因縁や柵、恨みつらみを重ねてはいけないんだ。
言われ無き暴力という名の生贄は災いを呼ぶんだ。
力でもって支配するものは、狂気と悲しみだけさ。
我らの神は、狂った住人を喜び迎えると思うのか」
巫女であった祖母の言葉は、小さく小さくなり、
その目は閉じられ、沢山話して疲れたらしく、寝息を立て始めた。
「おばあちゃん。 私はおばあちゃんのように強くないんだよ。
皆の決定を反対するなんて、……無理だよ」
そっと毛布を引き寄せ、祖母の体の上に掛けて家を出た。
集会所に入ると、中は大きな松明が煌々と掲げられ、
中央の縁台を中心に、老人を除く全ての里の人間が集まっていた。
レミが足を踏み入れた時には、集会所の場所は入り口まで人で溢れていた。
背の低いレミは、人々の外枠からその様子を伺うが、さっぱり見えない。
そこで、ちょっとだけひらめいた。
この集会所の岩屋の上の方に出る階段があることを思い出した。
もともとは集会所の灯りを上の方から燈すための灯篭がある
場所に行く階段であったが、今は使われてない。
その場所は、狭いながらも人より一段高い見晴らしのよい場所だ。
集会所の岩屋の外から上がる階段にさっさと登って、
上から集会所の様子を伺うことにした。
案の定、たどり着いた場所には誰も居ない。
レミはそっと誰にも見咎められないように、影に身を隠しながら、
その様子を観覧した。
中央の縁台には、カイミール様が立ち、浪々と響く大きな声で、
腕を振り上げ、里の皆を前に演説をしていた。
カイミールは、中年にもさしかかろうという年齢の男だが、
顔立ちは柔和で端正な顔立ちをしていた。
背は高く、すらっと背筋の伸びた体躯は少しお腹の出っ張りを隠している。
俗に言う甘いマスクだが、里の人間には余り人気はない。
なぜなら、女性関連がだらしが無いことで知られているからだ。
口が達者で、すぐに力の強いものに靡く。
逞しい男達のなかでも、すこし敬遠されていた男であった。
そんなカイミールが何年か姿を消して後、
突然、闇の影の副頭取になったのは、アニエス様と婚約したからであろう。
長の代理である孫娘のアニエス様は、その後ろで楚々として控えている。
相変わらずの麗しい美貌だ。
「虐げられし我が同胞達よ。
我らが飢えに苦しむ時、イルドゥクの奴らは、丸々と太った肉を食べ、
我らが病で苦しむ時、奴らは石を投げこの身を蔑んだ」
レミは里の住民達の顔を上から見渡した。
「健気な我が同胞達よ。
楚々として生きる糧を得る為、闇の影に身を落とした我らを、
捕まえてなぶり殺しにしたのは、イルドゥクの奴らだ。
その殺された同胞達の恨みを忘れたのか」
縁台のすぐ右側にいるのは隣の叔母さん。
おばあちゃんの世話もよくしてくれる、レミの婚約者のガトゥの母だ。
いつも大人しくにこにこ笑っていた叔母さんの顔は、怒りに震えていた。
「我慢強い我が同胞達よ。
我らの祖は、多くのものを奪われたにも関わらず、
その心は驕ることなく、気高いものだった。
だが、そんな祖に、そして我らに、苦渋をしいたのは誰だ」
縁台の中央付近に居たのは、レミにとって兄のような幼馴染。
穏やかで決して荒ぶることのなかった彼が、顔を真っ赤にして怒っていた。
「正義の心を重んじる我が同胞よ。
これは、真の正義にして、あるべき姿に戻す戦いなのだ。
事なした後には、誰しもが我らに跪き、誰もが我らに敬服する。
我らには、富める土地と栄光が齎される。
その土地にて全ての夢が叶うのだ」
縁台の左側に居たのは、いつもは大人しく腰の低いレミの婚約者。
明らかに興奮した顔で、腕を振り回しまわりの大人達と一緒に叫んでいる。
「祭りによって、我らはかつての栄光を取り戻さん。
驕り高ぶったイルドゥクの奴らに神の鉄槌を振り下ろすのだ。
100の贄は、我らの栄光の礎とならん。
その魂は我らの神によって、我らを見守り、我らの祖と共に我らを守るであろう」
里の住民の熱気が渦となって、熱く空気を変えていた。
カイミールの掲げた腕に呼応するように、皆が腕を持ち上げる。
レミが見た里の住人の顔は、今までに見たこともない顔ばかりだった。
興奮し、蛇蝎を飛ばし、大声を上げて威嚇する。
レミは、その様子にただ震えていた。
そして、頭の中で、先程聞いた祖母の言葉が何度も蘇る。
(狂った民)
(力は災いを呼ぶ)
下の集会所に居た幾人かの人間は、雄牛のように鼻息を荒くし、
力を誇示する為に足を踏み鳴らしていた。
その中には、レミと同じ歳のレミの婚約者もいた。
彼らの様子は正に狂っているとしか思えなかった。
涙を浮かべながら震えるレミは、恐ろしさでいたたまれなくなり、
その場から後ずさりした。
その時、縁台の後ろで立っていた美しいアニエス様に、ふと目が向いた。
長老の孫娘で、私達の里のことや私たちの生活のことなど、
事細かに世話を焼いてくれる信頼できる人。
カイミール様の婚約者で、次期長にふさわしい美しく賢い女性。
そのアニエスは、誰も見ていない縁台の端の影で、笑っていた。
それは、氷のような背筋が凍える微笑。
その目は、話に聞く悪魔のように煌き嬉しそうに瞬いていた。
レミは、震えるからだを抱きしめて、カチカチとなる歯を止めるべく、
自分の右手を噛んだ。
そして、誰にも見られないように、自分の家へと急いで走って帰った。
祖母に今自分の見たことを正確に伝えるために。
だから気がつかなかった。
中央に添えつけられた縁台に側に、出入り口付近に、
それこそ部屋の隅々に置かれ、
人々の足元付近から立ち上っていた無味無臭の煙が入った香炉の有無を。
アニエスは、縁台の四隅にもある小さな香炉を持ち上げて、
誰も見ていない影で、その口角を上げていた。




