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途中下車

作者: 蒼樹 章久


「美香ちゃんて言うんだぁ。可愛い名前だね」

「え~、変凡な名前ですよぉ」

オーバーな黄色い声が、立花謙二に浴びせられた。そして、健康的な張りのある綺麗な手が立花の肩をつつく。

謙二は満面の笑みを浮かべて、今さっき手渡された、手元の派手な名刺と目の前の名刺の主を交互に見つめた。

今日は当たりかもしれない・・・

名刺には、決して上手いとは言えない幼稚な字で「美香」と書かれていて、ご丁寧に名前のあとにハートマークが大きく描かれている。

名刺の下には、「無邪気な子犬」という、とても店の名前とは思えないようなネーミングの店名が印字されていて、店の住所と電話番号が書かれている。

もっとも、このネーミングに惹かれて店に入ったのだが。

裏を返すと、白紙の地に「火・水・金;20:00~24:00」と、更に幼稚な文字で書かれていて、ここにもご丁寧にハートマークが散りばめられていた。

美香の出勤日と勤務時間である。

連絡先は書いてないのか・・・

謙二は、少しがっかりした表情をしたが、それはそれで聞き出せばいいのだ。

問題ない。

謙二も抜け目なく自分の名刺を美香に渡してある。

美香は、手渡された謙二の名刺を珍しそうに眺め、

「立花さんて、マネージャーさんなんだぁ。偉いんだね」

と、しきりに頷いている。

おそらく、マネージャーが会社でどういう位置づけにあって、謙二がどんな権限を持って仕事をしているかなんて考えもしないで吐いたセリフだろう。

が、悪い気はしなかった。

謙二の鼻の下はますます伸びていった。

いけるかもしれない・・・

根拠のない可能性が脳裡をよぎる。

いや、いつも、その可能性に賭けていると言っても過言ではない。

腕時計に目をやると、午後10時を廻ったところだ。

1時間か・・・



謙二に与えられた時間は1時間に過ぎない。お持ち帰りが出来れば別だが、万が一ダメだった場合、11時にはここを離れなければ、家に帰れない。

のんびりはしていられない。

謙二は、帰り支度をしている最中に声をかけてきた、部長の上村の顔を浮かべて苦々しく思った。

帰り際に話す内容じゃなかったのに・・・

謙二は、上村に向かって内心毒づいた。

今日は8時には退社するつもりだった。どこかでゆっくりらーめんでも食べて、新しい店を開拓するつもりだった。

それなのに、上村の野郎・・・

明日の会議の報告内容を見せろと言ってきやがった。しかも、その都度因縁をつけてきて、結局1時間半も打ち合わせに要した。

あいつの所為でメシぬきだ・・・

謙二は、食事抜きでキャバクラに直行した自分の行動を、上司の所為にして面白くなさそうに舌打ちをした。

「どうしたの? 怒ってる?」

美香が怪訝そうに謙二を覗き込んだ。

かわいい・・・食べてしまいたいくらいだ。

途端に、謙二の表情はにやけた。

「だって、メールアドレスも電話番号も書いてないじゃないか」

険しい表情の原因を摩り替えるくらいの術は心得ている。

「えっ、だって・・・ メールくれるの?」

「あたりまえじゃん。絶対するって」

「じゃぁ、書いてあげる」

美香は、謙二の手元から名刺を奪うと、裏面にカラーペンで番号とアドレスを書き始めた。

予定どおりだ、というより、思った以上に脈があるかもしれない。

謙二は、落ち着きをなくして、そわそわし始めた。

外泊の理由を考えながら、どのタイミングで妻に電話しようか思案していた。

「はい、書いたよ。ほんとにメールくれる?」

美香は、下から見上げるように謙二に近づいた。

かわいい・・・抱きしめちゃおうか、と一瞬思った。

「絶対必ず間違いなくメールする」

随分な念の押しようである。

「何か飲んでいい?」

「何でも飲んでいいよぉ」

謙二は、甘ったるい声で首を傾けた。

完全に撃沈されてしまっていた。



別にムシャクシャしていたわけではないし、自分が特別女好きというわけでもないと思っている。

衝動的、といえば言えなくもないが、発作的ではないことは確かだった。

灯りに誘われる蛾・・・なんて表現はしたくないが、さしずめネオンに吸い寄せられる孤独な中年サラリーマンとでも言おうか。

最初からキャバクラ好きだったわけではなかった。

最初は、何気なくストレス解消のつもりでキャバクラに入ったと思う。

10代や20代前半の、ぴちぴちした女の子の黄色い声は、30代後半の妻との関係も冷め切ったサラリーマンには麻薬のような効果があった。

気づいたら、会社からまっすぐに帰宅する日の方が少ない生活になっていた。

会社の近くのキャバクラは、会社の人間に会いそうで避けたい。が、家の近所では誰が見ているかわからない。

自然と、ネオンのある街に途中下車する羽目になった。

まぁ、定期券の範囲内なので、余分な金を使っているわけではなかった。

一軒のキャバクラでは何人もの女に手を出せない。結局、常に新規開拓の必要性が出てくる。

営業マンだった若い頃、この精神を持っていたら、もっと成績がよかっただろうに。

この行動力を仕事に生かせなかった自分が残念でならない。

勿論、目的は若い子と話したいわけでもなく、ましてや酒が飲みたいわけでもない。

目的は唯ひとつ、若い、張りのある肉体に触れることだ。

こうして通いつめるのは、そのための投資、種まき、なのである。



彼は今までの人生で数多くの途中下車をしてきた。

というより強いられたと言った方が正解かもしれない。

最初の途中下車は大学受験の時だった。

それまでは順調に決まった線路の上を一定の速度で走り続けていたと思っている。

親が自慢して廻るような子供だった。

高校受験は、親の希望どおりの学校に、何の不安もなく合格した。

高校3年間は、親の期待を裏切ることなく、常にトップクラスの成績で卒業を迎えた。

だが、その直後に挫折を味わうことになった。

自信があった志望大学にかすりもしなかったときは、ショックで3日間寝込んだ。同級生が一駅先に進むなかで、彼だけが予備校という駅に途中下車する羽目になった。

これは挫折ではない。単なる途中下車なのだ。

そう自分に言い聞かせた。

長い人生に一度くらいは途中下車しても、それはそれでいいことだ、そう信じた。

結局、1年間の途中下車の甲斐もなく、最初の志望大学以上の結果を残すこともなく、1年遅れで高校時代の仲間を追いかけることになっていた。

だが、これをきっかけに彼は、まるで各駅停車のごとく途中下車を繰り返すことになる。



2度目の途中下車は大学1年のときだった。

ワンダーフォーゲル部に所属した謙二は、生まれて初めて真剣に女性を愛することになる。

相手は同じ部のマドンナ的存在だった同級生で、吉野美由紀という名だった。

緊張の中で告白をし、最初のデートに扱ぎ付けた。

好印象だった。3度目のデートでキスをした。少し震えたが、これも成功だった。

次のデートで男になる、そう信じて疑わなかった。

浮かれていた彼は、友人に誘われるまま合コンに参加し、その日のうちに一番人気だったOLと一夜を共にしてしまった。

大学1年の夏の出来事である。

だが、そのことが美由紀に知れ渡ることになった。

妬んだ友人がバラしたのだ。

謙二は、美由紀から左頬を張られ、二度と口を利いてもらえない存在にかわってしまった。

そして、「女にだらしない不潔男」というレッテルを貼られ、大学時代は二度と彼女ができない運命を背負った。

たった一度の火遊びで、彼女が出来るというチャンスを逃すことになってしまったのである。

不運だった、わけではなく、これも途中下車に過ぎないと自分に言い聞かせた。



3度目の途中下車は就職したときだ。

マスコミ関係に進みたかった彼は、尽く不採用になり、結局、中堅商社の営業をやることになる。

これも途中下車だ。

自信を失いかけている自分に、そう言い聞かせて、マスコミ関係に進むチャンスを待っていた。

だが、これが途中下車というなら、再び乗車することはなくなってしまうことになる。何しろマスコミ関係には依然として進めていないのだから。

これは路線変更だ。ポイントが切り替わっただけだ。

だが、ポイントが切り替わっても、途中下車がなくなったわけではなかった。

営業成績が振るわず、総務部に転属になった。総務部ではミスが多く、上司に見切られて営業アシスタントに回された。

通常は女性がやる仕事である。

自信を失い、会社を辞めようかと考えていたとき、今の妻である早紀子と知り合った。

営業アシスタントとして仕事を熱心し教えてくれた、短大出の1年先輩の社員だった。

「あなたには、あなたに相応しい仕事があるの。営業アシスタントも重要な仕事で、私たちがいなかったら、営業マンが安心して営業できないでしょ?」

彼女の言葉に何度勇気づけられたかわからない。

気づいたら、謙二は早紀子にプロポーズしていた。

そして早紀子の返事は即答だった。

あたしでよかったら、幸せにしてください・・・



結婚の翌年に長女が生まれた。それから2年後に長男ができた。早紀子の希望どおり、一姫二太郎だった。

子供たちは闊達で素直に育っていると思う。

今年で長女の麻衣は小学6年生に、長男の一哉は小学4年生になった。

ふたりとも父である謙二を尊敬してくれている。

これも早紀子のお陰だった。

まてよ、そういえば・・・



謙二はハッとして顔を上げた。

早紀子と知り合ってから一度も途中下車をしていないのに気づいた。

仕事も今は何とか落ち着いている。

36歳でマネージャーなら申し分ないだろう。

会社は、この不景気の中、順調な業績を伸ばしている中堅の広告代理店だ。会社の雰囲気も、仕事をしている環境も悪くない。

家族は全員健康で、特に問題もなく生活している。

早紀子・・・

彼女が俺の途中下車の旅を止めてくれたのだ、と謙二は気づいた。

ひとりで生きているときは、あれほど途中下車を繰り返してきたのに、早紀子と知り合ってから、一度も挫折や屈辱を味わっていない。

早紀子が自分を守っているのか・・・

早紀子が傍にいてくれるから・・・

それなのに、それなのに、今の自分は何をやっているのだろうか?

自分から途中下車をしてどうする。

何故自ら列車を降りたりするんだ?

どうして早紀子の期待に答えようとしないのだ?



謙二は突然立ち上がった。

「どうしたの? トイレ?」

美香が驚いて謙二を見上げた。

謙二は手に持っていた美香の名刺をテーブルに置くと、美香を見下ろして、

「ごめん。急用を思い出したんだ。悪いけどチェックしてくれないか?」

怪訝そうな美香の顔を尻目に、財布から現金を取り出した。

途中下車はもう終わりだ・・・

謙二は、3万円をテーブルの上に置き、静かに言った。

「何も自分から降りることはなかったんだ。永久に降りなくていいチケットを手に入れたじゃないか」

「何のこと?」

戸惑った表情の美香を見ながら、

やはり早紀子の方がかわいい、そう心から感じていた。

「変な人・・・」

美香の不機嫌そうな顔を見つめて、謙二は静かに首を振っていた。

美香が、幼稚で下品な女に見えていた。

危なく大切なチケットを失うところだった、と彼はそっと胸を撫で下ろしていた。


                                   終


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