ワルツ
コラン国家騎士団長と仕事の話をしていたウインは、ぱたりと手にしていた本を閉じた。
「……では、これで引き継ぎは終わりですね」
コランはどこか上の空で、ああ……と言った。
ウインはため息をつきたくなった。
今だけではない。今日は朝からこんな調子だ。
ウインは注意深く大男のコラン団長を見つめた。普段ならそのまま放っておくウインだが、ここまであからさまだと、聞かないと失礼にあたる。仕方なくウインは口を開いた。
「で……何があったのですか? 団長閣下」
「よく……聞いてくれた。それでこそ長い付き合いだ」
コランは真剣な表情で頷き、話を切り出した。
「明日なのだが。舞踏会があるのを知っているか」
それはウインのところにも案内状がきていた。父からの書状と一緒に。
ウインは嫌な予感がしつつも目を逸らして言った。
「存じております。情報としては」
「……それに出席してくれないか」
やはり。とウインはうんざりした。
「……確認したいのですが」
「なんだ」
「それは命令ですか。それとも個人的な頼みですか」
「~~~それは……」
答えに苦しんだコランは口ごもって言った。
「こ……個人的な……」
「では、お断りしても支障ありませんね」
ウインは速攻で先制した。
「失礼します」
舞踏会など、今までに一度たりとも出席したことがない。完全に自由参加だ。ただし、権力者たちが出席する舞踏会に行きたがらない貴族などいない。
何か言われる前にと、ウインは去ろうとしたが、コランが必死に呼び止める。
「待て! 待ってくれ、頼むぅ……」
泣きそうなコランのその声に、ウインはため息をつきながらも振り返った。
「なんですか。いったい」
「ギルキス様が直々に私のところにいらっしゃって、頼まれたのだ。お前が出席しないと私の立場が危ういのだ」
ギルキス様とは、ギルキス・シュランドの事だ。
予想通りの名前に、ウインはげんなりした。
「知りませんよ、そんなこと……」
「冷たいことを言うな……ウイン、頼む! この通りだ」
コランは机の向こうで、必死に手を合わせてウインに祈りだした。
「うんと言ってくれ、もうもらってしまったのだ!」
ウインは愕然とした。もしこれが公務に関することなら公然な賄賂だ。
「……いったい何をもらったのですか、今すぐに返してきてください」
「それが……もう無理なのだ」
「なぜですか」
「もう食べてしまった」
ウインはその言葉にクラクラするのを押さえ切れなかった。
「……まさか、食べ物でつられたのでは……」
「うむ、そのまさかだ。妻も喜んでおった」
「……威張らないでください」
ウインは軽蔑したような目でコランを見た。だがコランは助けを求めるような表情だ。
「食べてしまってから頼まれたのだ! どうしても断れなかった」
ああ……とウインは思った。
いかにも彼のやりそうな手だ。
それは“頼み”ではなく“脅迫”だ。
やることが、いかにも政治家の彼らしい。周りから抱き込み、根回しをし、決してウインを逆らわせないようにする。ウインの上官である国家騎士団長を懐柔し、断れないように差し向ける。もしウインが断れば、まさにコランの言った通り、団長の立場は危うかった。
「というわけで頼む! 後生だ! 出席するだけでいい! ただ顔さえ出せばいいから、頼む!」
大きな身体を縮めて拝み倒すコランに、ウインは大きなため息をついた。
翌日。
ウインはセントール城の隣にある、静かな森の中の巨大な建物の前にいた。舞踏会など出席したことがないウインには、着ていく服などない。ウインは黒い国家騎士の軍服正装だった。ウインはこの正装が嫌いだ。煌びやかな飾りのついた制服で、背の高いウインはやけに目立つ。胸にある三つの勲章も、見せて歩くのは苦手だ。嫌いな正装をするのをためらって、ここまで時間がかかってしまった。社交界の華やかな場も苦手な上に、最も苦手とする人物がいるのかと思うと、更にウインの足は重くなった。
それでも仕方なくその建物の中へ足を踏み入れる。入り口には警備の近衛騎士が数人立っているだけだった。舞踏会は、もうとっくに始まっているのだ。
ウインが奥へ入ろうとすると、白い近衛騎士がウインの前に立ち塞がった。
「失礼。帯剣が許されておりません。ウイン隊長殿」
「わかった」
ウインは白蛇と腰装備の短剣を外して、近衛騎士に手渡した。
「これでいいか」
「はい、確かにお預かり致します。他に武器をお持ちでしたら……」
「ない。脱がせて確かめるか?」
ウインはまさに不機嫌だった。それを隠さずジロリと近衛騎士を睨み付ける。近衛騎士はぎくりとして、一歩下がった。
「い、いえ。どうぞお入り下さい」
ウインは無言で奥へ歩いていった。
正面の巨大な扉は閉まっていた。近衛騎士がウインを見て駆け寄る。
「ウイン隊長殿。こちらは一般客広間です。右の廊下から奥へどうぞ。上段の貴族客広間は廊下の奥です」
「わかった。ご苦労」
ウインはそっけなく言うと、言われた通り廊下を奥へ移動した。
その廊下には微妙な傾斜がついている。この建物は上段と下段にわかれているようだった。下段は一般客、上段は貴族専用だ。廊下の途中に、また近衛騎士が二人立っている。
ウインは密かに思った。
この警備の厳重さからいって、中には王族の誰かがいるのだろう。
二人の近衛騎士はウインを見て同時に一礼する。ウインは無言で通りすぎた。ほどなくして右側に小さな扉がいつくも並んでいた。そのどれもが全開に開いていて、中がよく見える。中には華やかな空気が充満していた。貴族女性のさまざまな香水の香り、着飾った女性たちの色とりどりのドレス。華々しい社交界の一幕がここにあった。
ウインはこういった華やかな場が苦手だった。ウインは温室で育てられた貴族の御曹司ではない。作り笑いなどできないのだ。
ウインは辟易しつつその中へ入った。猛獣の巣の中のほうがよほどましだ。と思いながら。
広間では何百人という貴族たちが飲んだり食べたり踊ったりと、好き勝手に楽しんでいる。気の遠くなるような広い空間。驚くほど高い天井。そこから巨大で美しい燭台が鉄の糸で下がっている。この建物の上座に位置するところに、三つの特別な席があった。
ウインはその三つの席に回って挨拶をしなくてはならない。もちろん、挨拶をしたらすぐにでもここを出るつもりだった。
まずは中央の席。
一番の上座から挨拶することが決まっている。
「殿下。ご機嫌麗しゅう」
ウインがその中央に跪いて言うと。つまらなそうにしていた少年はウインを見た。
「ウイン来たのか!」
ユリウスは顔を輝かせ、大きな椅子から飛び降りた。たたっと軽い足とを響かせ、ウインに近寄ろうとしたが、すぐに近衛騎士に阻まれる。更に二人の近衛騎士はウインの左右に立ち、長槍をウインの前で交差した。
「お前たち……相手はシュランド家の御曹司だぞ! 失礼だと思わぬか!」
白い甲冑の近衛騎士たちは揺るがずに言う。
「お近づきになりませぬように、とのお達しですので」
「っ……」
ユリウスが怒りの色を示した時、ウインは静かに言った。
「殿下。どうかそのままで」
ユリウスはウインの深い声を聞くと、顔をしかめた。
「なんだ、お前まで」
「私のような者にお近づきになられませぬよう」
「……ならば近こう寄れるまで偉くなれ」
ウインは苦笑した。どれほど偉くなろうが、王族の近くに自分が立てるわけがない。
「ご冗談を」
「冗談などではないぞ。ウイン、私に剣を教えるのだ」
「恐れ多きことにございます」
ユリウスは憮然として何か言いかけた時、側近の一人に促され、仕方なく席に着いた。
「では失礼致します」
王子が何かとんでもないことを言い出す前に、ウインは跪いたまま、頭を下げ後退した。
不機嫌そうにしているユリウスを後にし、ウインは左側にいる男の前で跪いた。
アルテス・フェロー。
セントール王国執政官の一人。セントールの実権を二分する男。軍法を司るその人物は、権力者にしては比較的若い。
「ご機嫌麗しゅう。アルテス様」
ウインは跪き、頭を下げた。彼は飲み物を口にして、大きな椅子にゆったりと腰をかけていたが、ウインを見るなり細い目をますます細めた。
「おや。これはお珍しい……ウイン殿。剣武祭では主役の貴方が、舞踏会でも主役を乗っ取るおつもりかな?」
「……滅相もございません」
ウインの最上官である彼は、飲み物を置き、口元だけで不敵に笑った。
「ふふ……楽しまれよ」
「失礼致します」
ウインは一礼すると立ち上がり、ユリウス王子の前でまた一礼し、今度はユリウスの右側にいる人物の前に跪いた。
「お久しぶりでございます……父上」
ギルキス・シュランド。
セントール王国執政官の一人。アルテス同様、セントールの実権を二分し、経済と司法を司る。ウインに似た美しい顔立ちで、ただそこにいるだけで威厳を放つ。吊り上った目をしていて口ひげが特徴的だ。常に眉間に深い皺が刻まれていて、笑顔になることがあるのかと思わせる。その硬い表情から、この男の気難しい気性を端的に現しているようだった。背の高い彼もまた、大きな椅子に腰をかけていた。
ギルキスはウインを厳しい目で見下ろした。
「来たか……息子よ」
「はい。ご命令通りに」
「よく来た。お前ももう、その歳だ。そろそろ結婚を考えねばな」
ウインは、またかと目を閉じた。
この二人はもうずいぶんと長い間、この事で反発し合っているのだ。
「父上。私はどなたとも結婚する気はございません」
「だまれ、代々続いてきたシュランド家の血を絶やす気か」
ウインは静かな声で言った。
「はい。残念ながらシュランド家は私の代で終わりです」
「なんだと……貴様」
怒りの表情でギルキスは立ち上がった。
「父上。このような場では言動を乱しませぬよう」
「……おのれよくも」
ギルキスの手が怒りで震えていた。この男は気が短く、すぐに激昂しやすい性質だ。
彼はつかつかとウインに歩み寄り、跪いているウインの胸倉を掴み、強引にウインを立たせた。そして近くで小さく言った。
「お前に女を抱かせるためならば、私はなんでもするぞ。どんな手を使ってでも、お前に子を作らせる」
ウインは父を真剣に見つめ、言った。
「父上……私と同じ思いを、子に与えたくはありません」
「……」
そう言うと、ギルキスの怒りが少し和らいだようだった。ウインを放し近くで言った。
「お前の気持ちなど関係ない。ただの義務だ。私とてそうだった」
ギルキスは知る人ぞ知る、男色だ。義務で女性と結婚したという事だ。彼の妻はもうこの世にはいない。
彼はまた元の椅子にどさりと腰を下ろした。肘を置き、顎を手の甲に乗せて言う。
「だが今日のところは踊るだけでいい。誰か一人、誰とでもいい。女人と一曲でも踊るのだ。わかったな」
「父上。私は誰とも……」
ウインが言いかけたとき、ギルキスがウインを睨み付けて言った。
「許さんぞ。私を怒らせたらどうなるか……その身をもって知っておろう」
「……」
ウインは辛い過去を思い出し、きつく目を閉じた。
「……行け。貴婦人ならば誰でもいい。わかったな」
有無を言わせぬ父の迫力に、ウインは口をつぐみ一礼した。
「……失礼致します」
ウインはそう言うなり、大股でつかつかと歩いて行った。広間の出口へ向かって一直線に。
もちろんウインに踊る気はさらさらなかった。
もう少しで出口というところで、突然横から女性が飛び出してきた。
「!」
その白いドレスの女性とぶつかりそうになり、ウインは急停止した。
「ッ……失礼」
女性とぶつかる前に止まったとはいえ、もし驚かせたら、踵の高い靴を履いている女性は転びかねない。しかしその白いドレスの女性は、その足元を危うくすることはなかった。
妙に背の高い女性は、ウインを見上げて微笑み、言った。
「私と一曲踊っていただけませんか?」
そのたおやかな女性の声に、ウインは視線を逸らした。
「残念ですが、私は……」
ウインは言いかけて硬直した。女性が小声で言ったからだ。
「踊らないと、お仕置きなのだろう? 騎士隊長」
その女性は恐ろしく低い声で、くく……と笑った。
「お前はっ……!」
ウインは愕然とした。
見ただけではわからなかった。
それほどに1番の顔は変わっていた。鋭かったその双眸は、虫も殺したことのない貴婦人の目。化粧など見せたことのなかった薄い唇は、魅力的なぽってりとした紅い唇。艶のある長い髪は背中まで伸びていて、見事な巻き髪だ。その髪に桃色の花がついていた。耳飾りは控えめな真珠。ふわりと漂う清楚な花の香り……元から美人である1番は、見事にかわいい貴婦人に変身していたのだった。
ウインは愕然としたまま女の顔を凝視した。1番は照れたように女声で視線を逸らす。
「そんなに見ないでくださいませ」
ウインはそう言われてから、はっとした。
衝撃的なその違和感に、1番と言いかけ、すんでのところで口元に手をあて、一歩後退する。
1番はその一歩をウインに歩み寄り、またしても小声で言った。
「今日はクレイディアと呼ぶがいい。私が踊ってやろう」
「なん……」
「お前を助けてやるというのだ」
「余計なっ……」
1番は、そう言いかけたウインの手を強引に掴み取り、広間へ引いた。
信じられないことに、ウインは足元を崩し、あっという間に女性の手に引かれた。
この場面をみる者が見たら、この女が相当な手練れだとわかっただろう。しかし何百人もの貴族たちが踊る中で、それを見ていた者はいなかった。貴族たちが踊り回る広間に出ても、まだウインたちに気がついた者はいない。
ウインは、女が止まったので、やっとのことでその手を振り払った。
「なんの真似だ、貴様」
睨み付け、帰ろうとしたウインの手を、1番はまた強引に掴み、自分の腰に添える。
ウインは驚き、ぎくりと硬直した。
殺気がないため、どう動くかが予想できない。ウインは全身からどっと汗が噴出すのを感じた。この女はただの女ではない。剣聖である自分が手を焼くほどの短剣使い。しかもそれは二刀流だ。過去に恐ろしい速さで、その刃が目の前をすり抜けたのを思い出し、ぞっとする。
その恐ろしい手練れの女は挑発的に笑った。
「ふっ……シュランド家の次期当主とあろう者が、ワルツも踊れないのか?」
「……」
ウインは、先ほどの父の言葉がちらつき唇を噛み締めた。
ギルキスの怒りの矛先は自分だけに留まらない。世話になっているコラン団長に被害が及ぶことは明白だ。しかし自分はどの女性とも踊る気は無い。気のない相手と踊るなど、その女性に失礼だ。なによりその後、言い寄られては面倒だ。あの強引な父のことだ、必ずその女性に近づき、結婚させるように仕向けるはずだ。抜け目のないあの男が、この機会を逃すはずがない。遠慮なくその強大な権力をちらつかせ、有無を言わせず結婚まで持ち込むだろう。
だが……ここで1番という相手に妥協をしておけば、すべてが丸く収まる。散々嫌がらせを受けてきた商売敵の1番が相手ならば、誰にも迷惑をかける事はない。1番の正体など、誰にもわからないはずだ。そして正体を知ったところで、結婚など到底無理。相手は貴族ではない。公表できぬ相手と結婚など、させるはずがない。
「―――……」
ウインは女の腰に手をあてたまま、その屈辱に眉根を寄せ、一歩足を動かした。あとはそのまま弦楽器の調べに身をゆだねる。
「!」
1番は自分でやっておいて驚いていた。
信じられないような心地で、ウインの腕に身を任せた。
ひらりと白いドレスが舞う。二人の黒い髪も、弧を描き風に乗る。互いの匂いが感じとれるような、その至近距離でウインが歯噛みした。
「覚えておけ……この屈辱、必ず晴らす」
「ふふ……礼には及ばん。踊れるじゃないか」
しかめっ面で踊るウインの周りにいた貴族たちが、それに気付き始める。ひそひそとした囁き声は、踊る二人を中心に、広間の全体まで広がりつつあった。
「あれはシュランド家の……」
「国家騎士と聞いていたが……」
「お相手の貴婦人はどなたかしら……」
誰もがクレイディアを見たことがない。見も知らぬ貴婦人と、人間嫌いと噂高いウインが踊っているのだ。瞬く間に広間の隅々に噂が広まった。
しばらく経てば、もはや誰もそこで踊ってはいなかった。ウインとクレイディアだけが、立ち尽くす貴族たちの合間を縫い、華やかに踊っていた。
ギルキス・シュランドが目を見張り、呆然と一人息子を凝視した後、側近の一人に何事かを耳打ちする。
アルテス・フェローは、さも面白い余興を見ているように笑い、側近の一人に、あの貴婦人は誰だと聞いた。
退屈そうにしていたユリウス王子は立ち上がり、顔を輝かせて手を叩いた。
踊るウインの視界の端に、コラン・レイドが親指を立てているのが見えたがウインはそれを当然のように無視する。
貴族女性と踊っていたラスティン・レイドは、他の貴族たち同様、動きを止め、隊長の踊る姿を、あんぐりと口を開けて眺めていた。
しかし……当のウインは、そんなことを気にしている余裕はなかった。
ワルツの足運びは、シュランド流の剣技とよく似ている。
十年以上前に一度だけ習ったはずのワルツが、何百とあるシュランド流の剣技が混ざり合い、ウインの頭の中を乱していく。身体に馴染んでしまっているその剣技が、ワルツの邪魔をする。集中しなければ、すぐに剣舞になるだろう。
初めは屈辱しか感じていなかったウインだが、頭の中はもう必死だった。次第にウインの表情にも険が取れていき、涼しい目が長い睫毛に伏せられ、集中しきった表情になる。
クレイディアはその表情を近くで見て、心臓が高鳴り、頬が上気するのを感じた。しかし目を閉じて集中しているウインは、その様子に気付くことはなかった。
上段の貴族の広間が、しんと静まり返っていたその異常は、下段の一般客が踊る広間にも伝わった。上段の様子がおかしいと、一般客は上段を見上げた。故意に非番にされていた二番隊の国家騎士は、貴族であるラスティン。そして二人の班長を除き、ほとんどがそこにいた。
―――あの恐ろしい隊長が、かわいらしい貴婦人とワルツを。
ほとんどの騎士が飲み物や食べ物を取り落とし、一人は倒れた。
マフェルは近くで倒れたスタンレイに目もくれず、愕然としてウインを見ていた。
ラヴィアンも、それを驚きの表情で見上げていた。彼の抜け目のない瞳が、華麗に踊るその女性を注意深く観察する。ラヴィアンの頭の中に、ありとあらゆる貴族の名が浮かんでは消えていく。なんとゼロ番代の諜報士である彼にさえ、その貴婦人の正体はわからなかったのだ。
舞踏場の外から、2番が踊るクレイディアを見ていた。
そしてにやりと笑う。
―――見事だぜ、クレイ。
心の中で賞賛する。
貴婦人に化ける諜報士など、それ専用に育てられた者のみができるものだ。貴族特有の立ち振る舞いは、一朝一夕でできるものではない。腰の高さ、顎の位置、腕一つ上げるのでも優美なその動きは、幼い頃から叩き込まれてきた英才教育のなせる業だ。立ち方一つ取っても平民と貴族とでは差がある。
今のクレイディアはどこからどう見ても名門の令嬢だった。しかもクレイディアは、普通の女性の身長ではない。背の高すぎるウインの相手では、クレイディアほどの長身女性でないと、釣り合わないのだ。
どこからどう見ても、ウインとクレイディアは“お似合い”だった。
ウインにとっては長い一曲でも、クレイディアにとってはあっという間の一曲だった。
ワルツはしめやかに和音で曲が終わり、二人は自然に離れる。
ウインが手を離し、そのまま2、3歩後退した。無表情でクレイディアを一瞥すると、そのまま背を向け、素早く歩く。
ウインは誰も見ないようにして、大股で出口に向かって一直線に歩み去った。その場のどよめきが、ウインの足を速めさせる。
残されたクレイディアは、たくさんの視線に晒されることになった。
クレイディアはどこか夢の中にいるかのように、遠くを見ていた。
だが彼女に、余韻に浸る暇はない。彼女は、はっとすると、白いドレスのスカート部分を両手でつまみ上げ、たっと走り出す。ウインを追いかけて、同じ出口へと走りだした。
すると、同時にギルキスの側近も動く。クレイディアを逃がすまいと、数人の男たちがクレイディアを追いすがった。
彼女が出口に姿を消した一瞬、男たちが廊下へ雪崩れ込む。
だが、しかし……
男たちは驚きの声を上げ、廊下を見渡した。
彼女はどこにもいなかった。
他に扉があるわけではない。ただ左右に伸びたレンガの廊下に赤い絨毯が敷いてあり、どこまでも伸びる廊下の先に、不機嫌そうに歩き去るウイン・シュランドの後ろ姿があるだけだ。
そこに立っていた二人の近衛騎士は、ウインに気をとられていて、何も見ていなかった。
男たちは焦り、騒然となりながら白い貴婦人を探した。
しかしその手掛かりさえ、見つけ出すことができない。
謎の白い貴婦人は忽然と消えたのだ。
まるで煙のように。
ウインは軽く振り返って、慌てる男たちをちらりと見たが、不機嫌そうにため息をつきながら建物の出口へと去って行った。
End…