溺愛されてもわからない
ほんの少し前まで、こんなことになるとは思いもしなかった境遇になってしまうことがある。
「溺愛を習ってきた」
「……今、なんとおっしゃいましたか?」
§§§
私は、国王の娘として生まれた。
なに不自由ないが、自由もない環境で育ち、定められたことをただ粛々とこなして生きてきた。
王族としての社交や政務を担い、あくまで礼儀正しく貞淑に。スキャンダルに巻き込まれぬよう慎重にふるまって、王国の礎のひとかけらとなるべく我を出さぬように気を付けた。
年頃になって、周囲の令嬢が愛や恋を夢見がちに語り始めても、それは私には縁のない話だった。王族の婚姻は政治であることは、しっかりと言い聞かせられていたし、納得もしていた。
実際に私と婚約した相手も王族への儀礼的敬愛を義務的に表すだけで、定められた公式の予定か緊急の用事があるとき以外は王宮に立ち寄りもしなかった。
仕方のないことだと思った。
彼は高位貴族でありながら型破りな気質の人で、王侯貴族の無駄なしきたりや陰湿な騙しあいの風潮を好まなかった。私は彼のそのまっすぐな強さは好ましいと思ったが、同時に危うさも感じていた。
王宮という魔物の巣にはそぐわない人。
こんなところに束縛してしまってはいけない人。
大きな翼で空を渡っていく鳥の風切り羽根を切るような真似はすまいと思い、私はいつでも彼が好きな時に訪れてくれるだけで満足するようにし、引き留めたり呼びつけたりするようなことはしなかった。
「次の上陸休暇に、また参ります」というのが習慣の彼は、島国である我が国の海軍艦隊を預る立場で、一年のほとんどを海で過ごしていた。
私と婚姻を結んで王族に連なれば、海軍総司令となることは決まっていたが、それは優秀な彼を我が国に繋ぎとめるための名目に過ぎず、褒章にはなっていないことは海の男は皆知っていた。
私は彼にとっては、ちょっと見栄えがいい足かせや首輪でしかなかった。
生真面目な彼は、王族でかつ婚約者である私を尊重して、丁寧に接してくれたし、それ以上を望める立場に私はいなかった。私達は、面会した折にただ時候の挨拶を交わし、静かに無難な近況を少しだけ語らう穏やかな関係でしかなかった。
力があるにも関わらず、宮廷の派閥から距離を置く彼を疎むものは少なからずいた。
私は私にできるやり方で、慎重に彼の悪評の芽をひそやかに摘んで回った。
王宮における表立った権力は、王や王子という男系親族が握っていて私に権限はほぼなかった。しかし、第一王子の母である現王妃が醜聞で離宮に遠ざけられているため、宮廷の女性社会のトップは事実上、私だった。
父である国王が近年体調を崩し気味であることから、政治の実権をにぎりつつある宰相が、自分の娘を第一王子の婚約者としたため、社交界の華やかな座は彼女のものとなった。だが、甘やかされて育った気の強い令嬢が取り廻せるほど王宮の女同士の駆け引きの闇の底は浅くない。ドロドロした嫉妬や羨望、陰口やあざけりの泥沼に、浸らず被らず、かといって単に距離を置いてすましているわけでもなく、上手に人間関係を調整するのは、気骨の折れる専門特殊技能なのだ。
国際情勢に目を向けず、内輪の権力争いに汲々とする我が国の危うさを感じながら、私は自分の目が届くほんのわずかな範囲で手を尽くしていたが、破綻はじきに訪れた。
第一王子が婚約者である宰相の娘をないがしろにし、当てつけのように身分の低い女を寵愛した。
隣国の離間工作なのは明らかだったが、重圧に耐えられなくなると情に溺れる気質をその母親から受け継いだ第一王子は、易々と安い女の手管にはまった。
父が壮健であれば、早い段階で咎めることもできたのだろうが、このころには父の病状は不自然なほど急速に悪化していて、まともに起き上がれる状態ではなかった。
この国はもうだめだ。
「我が国の海と殿下をお守りするのは、我が務めです」と言ってくれた婚約者に、貴方はその役目を降りることができると伝えるのが、私にできる精一杯だった。
この国に囚われずに、機会を見て生き残る道を探して欲しい。切実にそう思った。
彼が彼自身の実家に対して冷淡なのは知っていた。だから、私の婚約者であるなどという些細な義理のために、この崩壊しかけの国に殉じるようなことはして欲しくはなかった。
大丈夫。私は彼にとって命をかけるほどの存在ではないはず。
「王国に栄光あれ」
「ご武運を」
海軍式の礼をした彼に、兵を戦地に送る王族としての言葉をかけながら、私は彼が私とこの国を見捨てて自由になってくれることを祈った。
私のささやかな願いは天に届かなかった。
関係が悪くなっていた隣国との間に戦争が始まった。海戦である。
宮廷で権力を失い、立場が危うくなった宰相は妻子を伴って隣国に亡命し、状況は悪化の一途をたどった。権力を手にした第一王子は暴走し、外交交渉に注力すべき国内の貴族は保身に走った。
戦争は長期化の様相を呈し、第三国も参戦するに至って、国内情勢はどん底に落ち込んだ。
「殿下、お支度を」
「何者です。ここが王女宮と知っての侵入か」
「無礼は承知の上ですが、ことは急を要します。民衆が蜂起しました。じきに宮殿にも暴徒が押し寄せるでしょう」
「そうですか」
「……嘘だと断じはなさらないのですね」
「今にそのようなことになるとは思っておりました」
夜更けに私の元にやって来た黒衣の男は深々と頭を下げた。
「安全な場所にお連れします」
「いえ、私が生き残ったところで無駄な火種となるだけでしょう。見苦しい真似はしたくありません」
私は黒衣の男がベルトに挿している短剣に目をやった。
「どうか無益な辱めを受ける前に、私をここで眠らせてくださいませ」
「わかりました。それが殿下のご要望であれば従いましょう。ただし」
「貴女様への伝言をお預かりしておりますので、判断はそれを聞いてからに」と黒衣の男は言った。
"愛している。必ず戻るから、俺を信じて待っていて欲しい"
「かの方は今も海で戦っております。どうぞ殿下もお気を強く持ってください」
「優しい嘘ね。あの方はそんなことは言わないわ」
黒衣の男は、被っていた黒い帽子をぐしゃりとつかんで、床に叩きつけた。
「この一言をあの朴念仁に言わせるために、僕がどれだけ苦労したと思っているんですか! つべこべ言わずにさっさと支度してついてきてください!!」
「……はい」
黒衣の男のぼさぼさになった赤毛が、暖炉の残り火で焔のように揺れて、私はそのあまりの剣幕に思わず「ごめんなさい」と謝った。
§§§
自分は暗黙官だと名乗った黒衣の男に連れられて、私は窮地を逃れた。
暗黙官というのは、王家に口伝のみで伝わる家訓を伝授する役目なのだという。
「聞いたことがありません」
「ですから、手遅れになる前に参りました」
「もう王家などなくなったのですから、あなたも解放されて良いのですよ」
「そうはいきません」
赤毛の暗黙官は、ものすごく嫌そうに顔をしかめた。
「残念ながら、閣下には伝授してしまいました。あの堅物。今更取り消しても、はいそうですかとは言ってくれないでしょう」
「何を伝えたのですか」
"相手よりも幸せになってはいけない"
「一番重要な原則だと言ってしまいました。貴女様が非業の死を遂げたら、あの無鉄砲が何をしでかすかわかりません」
「それが原則でしたら、私もあの方より幸せになってはいけないのではなくて?」
暗黙官は泣きそうなしかめっ面のままコクリと肯いた。
「酷な話です。ですから貴女様には、今、戦場で荒波に揉まれながら世界を相手に無謀な戦をしているあのバカ閣下よりもつらい道を歩む覚悟をしていただかねばなりません」
「この国をまとめろとおっしゃるのですね」
「はい。それもただ一人残った王族として、事実上、虜囚の身で」
「生きて、責任を負えと」
「はい」
突発事故のような小競り合いから始まった暴動は、時が経てば収束するだろうが、その後に速やかに秩序をもたらすには、あらゆるものが荒らし尽くされて焼け野原になってからでは遅い。旧体制をよく知るものが舵を切り、すべての責を負うことで、無意味で野放図な虐殺や破壊を止める必要がある。
「新政権が発足するまでのつなぎとして、女王にご就任願います」
「……あなたには、嫌な役目をさせてしまいましたね」
「もう一つ、暗黙官として嫌な原則を告げなくてはなりません」
「なんでしょう」
"国王やそれに準ずるものは、涙を流してはならない"
「それは、昔から心得ておりますわ」
私は微笑みを浮かべ、私の前に跪いた暗黙官に、貴婦人らしい態度で手を差し伸べた。
「参りましょう」
病死した父と処刑された第一王子の後を継いで、私は王国最後の女王となった。
戦争が終わり、国民政府が樹立され、諸外国は新たに新政権の代表と国交を結んだ。
役目を終えた私は、黒塔に幽閉され……なぜか新政府のトップの座について現れたあの人に助け出された。「こちとら通らねぇ無茶を無理やり通して、全員黙らせてここまで来たんだぞ」と言われたが、どのくらい無茶をすればそんな無理が通ったのかさっぱりわからない。
「お迎えできる用意があります。ただの……一市民の妻として我が家にお越しいただけますか?最愛の人よ」
こうして私は、はじめて王族の身分から解放され、愛する人の手を取って、心のままに涙をあふれさせることができた。
§§§
「珍しく早いお帰りだと思ったら、急になぜそんなお話を?」
旧貴族街にある学術院の大庭園に面した邸宅の一つを買い上げて、私達は一市民としての新生活を始めていた。客用寝室が二つしかない小さな邸宅は、使用人も最低限しか置く必要がなく、新しい日々はたいそう倹しく穏やかだった。
外套を使用人に渡した夫は、いつものように書斎には行かず、私を居間に伴った。
「前から気にしていただろう、”溺愛”。だから、いったいどのようなことをすればいいのか教えてもらってきたのだ」
「まぁ」
一体どこのお方がそんな酔狂に付き合わされたのかと思って、尋ねてみると、彼は「暗黙官だ」と答えた。
「ご息災でしたか」
「相変わらず、ひ弱で泣き言の多い男だが、元気にはしているようだったぞ」
「そうですか」
お可哀想なことだことと、クスクス笑っていたら、夫は居間のソファに座って、ポンポンと自分の膝を叩いた。
「というわけで、さっそく"溺愛"してやろう。さあ来い」
私は思わず真顔になった。
「今から、ここで、ですか?」
「そうだが……何か片付けねばならない用事があるならあとにしようか」
「そういうわけではありませんが」
私は自信満々でニコニコしている元海軍提督の夫をまじまじと見つめた。
潮風に洗われた猛々しい黒髪の美丈夫。きりりとした目元は涼やかで一点の曇りもない。
正気らしい。
「暗黙官さんから、どのように、何を習ってきたのか教えていただけますか」
「うむ、回りくどい精神論ではなく、実戦形式で具体的な実技を習得してきたから安心しろ」
私はめまいを感じた。
「後ほど暗黙官さんのお住いの住所を教えてくださいませ。わび状を送らないと」
「感謝状の間違いだろう。まぁ、贈るかどうかは実際にどの程度役に立ったかによるか」
夫は「さぁ、遠慮せず」と言って、私に向かって大きく手を広げた。
これは一体どう対処すればいいのだろう。
「どのようにすれば、よろしいのでしょうか?」
「俺の腕の中に来い。あとは俺に任せておけ」
不安しかない。
「そうそう。どうにも嫌なことをされたら、腕でも背中でもいいから3回トントントンと叩いてくれ。そうしたら止めるから」
「わかりました」
私は恐る恐る夫の前に立った。
あっと思う間もなく、彼は一瞬で私を抱きすくめて自分の膝の上に抱え込んだ。
そこから先はもう何が何やらで……彼自身が「もう習ったこととかどうでもよくなったから我流で行くぞ」と言い出してからは、まったくまともな思考ができなくなってしまった。
ほんの少し前まで、こんなことになるとは思いもしなかった境遇になってしまうことがある。
私はこれ……溺愛されているのでしょうか? それとも彼に溺れているのでしょうか?
何が何やらさっぱりわかりませんが、たぶん幸せです。
当然、3回トントントンと叩くような余裕は一切なかった。
愛する嫁のために、第一市民という名で実質帝政の独裁政権作った"丸呑みリヴァイアサン"閣下、手加減なし。
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溺愛シリーズの前2作はこちらです。
(1)「溺愛なんてくだらない」提督視点
https://ncode.syosetu.com/n0313iy/
(2)「溺愛だってしてみたい」暗黙官視点(溺愛習いに行った時の話)
https://ncode.syosetu.com/n4561lq/




