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離縁された元男爵夫人は、家賃滞納中の魔法騎士見習いを拾う~ご飯を食べさせて人生相談に乗っていたら、三年後に求婚されました~

掲載日:2026/09/17

「離縁してほしい」


 八年間連れ添った夫からそう告げられたとき、私は驚くより先に、やっぱり、と納得してしまった。



「……理由を聞いても?」


「他に好きな女性ができたんだ」


 半年ほど前から、エドガーは明らかに変わっていた。夕食を共にする回数は減り、休日も屋敷を空ける。話しかけても上の空で、いつの間にか寝室まで別になっていた。


 仕事が忙しいのだろう。私が余計なことを言えば、疲れている夫を困らせる。そう自分へ言い聞かせてきたけれど、理由はもっと単純だったらしい。



「相手は、オルコット伯爵家のセシリアだ」


「……そうですか」


 彼女なら私も知っている。エドガーとは幼い頃から付き合いがあり、私たちの結婚後も何度か夜会で顔を合わせていた。


 だからこそ、胸の奥に小さな違和感が残る。

 知らない女性なら、まだよかったのかもしれない。



「それから、彼女は妊娠している」


 さすがに、その一言には息が詰まった。


 好きな女性ができた。

 その相手は、私もよく知る伯爵令嬢。


 そして二人の間には、すでに子供までいる。

 つまり今日ここで私に話すよりずっと前から、エドガーの中ではすべてが決まっていたのだ。


 けれど私は取り乱さなかった。怒鳴ったところで、お腹の子がいなくなるわけではないし、夫の気持ちが戻ってくるとも思えない。



「慰謝料は出す、だから――」



「分かりました。離縁に応じます」


 エドガーは目に見えて肩の力を抜いた。


「物分かりの良い女で助かったよ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸に残っていた何かが、すっと冷えた。


 ……私は物分かりが良かったのだろうか。


 商家の娘だった私は男爵家へ嫁いでから、傾いていた家計を必死に立て直した。使用人をまとめ、領地から届く帳簿を確認し、夫の代わりに社交へ出ることもあった。


 不満があっても、家のためだと思って飲み込んだ。

 夫が疲れていれば何も聞かず、機嫌が悪ければそっとしておいた。


 その結果が、「物分かりの良い女」という評価のひと言だった。



「慰謝料はそこまで多くは要りません。ただし、離縁後は互いに干渉しないことはお約束ください」


「あ、ああ。もちろんだ」


「では、それで結構です」


 私は離縁状へ署名した。



 泣いたのは、屋敷を出たあとだった。


 実家へは帰れない。両親はすでに亡くなり、商会は親族が継いでいる。今さら離縁された私が転がり込めば、誰にとっても迷惑になるだろう。


 だから慰謝料(思っていたよりも貰えたのは、元夫の恩情か、罪悪感か)を使って、王都の職人街にある古いアパートメントを一棟買った。


 三階建て、全十室。

 名前は【月桂館】。


 一階には私の住居と共同厨房があり、近くには市場も井戸もある。建物は古いけれど、雨漏りを直して壁を塗り直せば十分住めた。


 家賃収入があれば、一人で慎ましく暮らすぶんには困らない。

 誰かの妻としてではなく、自分のために朝起きて、自分の食べたいものを作る。


 そんな生活にも慣れ始めた頃、私は家賃台帳を見て眉をひそめた。



「二〇三号室……ノア・グレン。家賃滞納が三か月」


 一か月目に督促状を出した。二か月目にも出した。


 返事はない。


 王立魔法騎士団の訓練生だとは聞いていたので、訓練が忙しいのだろうと少し待ったけれど、三か月はさすがに見過ごせない。


 その日の昼、私は二〇三号室の扉を叩いた。



「ノアさん、いらっしゃいますか?」


 返事がない。

 もう一度呼びかけても静かなままだ。


 さすがに不安になり、合鍵を使うべきか迷っていると、部屋の中から何かが倒れる大きな音がした。


「ノアさん?」


 急いで扉を開ける。

 床に、若い男が倒れていた。



「ちょっと、大丈夫ですか!?」


 慌てて駆け寄ると、短く切った黒髪の青年がうっすらと灰青色の瞳を開いた。


 入居時にも会っているけれど、その頃よりずっと痩せている。頬はこけ、ただでさえ長身の身体がさらに細く見えた。


「……家賃なら」

「はい?」


「待ってくれ……」

「そんな話の前に、すべきことがあるでしょう!」


 私はノアを一階の共同厨房まで連れていった。

 パンを切り、鍋に残っていた肉と豆の煮込みを温める。野菜をたっぷり入れたスープも用意した。



「食べられますか?」


「他人である貴方に食事を出してもらう義理は……」


「では家賃の取り立てをしますよ」


 ノアが警戒するように私を見る。


「三か月分、今すぐ払ってください」

「……無理だ」


「でしょう? なら食べなさい」

「いったい、どういう理屈で」


「このまま餓死したらどうするのです。私に死人から家賃を催促しろと?」



 しばらく睨み合ったあと、ノアは諦めたように椅子へ座った。


 一口だけのつもりだったらしい。

 けれど煮込みを食べた途端、手が止まらなくなった。


「おかわり、ありますよ」

「……いただこう」


「パンも?」

「それも」


 結局、きれいに二人前を平らげた。

 食後のお茶を置いてから、私は向かいに座る。



「さて。そろそろ事情を聞かせてもらいましょうか」


「それは……俺の個人的な問題なので」

「あなたは三か月家賃を滞納している住人で、私は家主です」


「……」

「その上、私の夕食を二人前食べました」


 ノアが気まずそうに視線を逸らす。


「少しくらい話してくださっても、罰は当たらないと思うのだけれど?」


 逃げられないと思ったのか、ノアは渋々口を開いた。


 訓練が増えて、それまで続けていた荷運びの仕事を辞めたこと。


 蓄えが底をつき、食費まで削っていたこと。

 そして、次の査定で成績が上がらなければ、魔法騎士団を除隊になるかもしれないこと。



「魔法の才能はあると言われる。でも集団訓練になるとうまくいかない」

「どうして?」


「他人に合わせるのが苦手なんだ。自分でやった方が早い」

「分からないことは教官へ聞かないの?」


「いつも自分で考えている」

「困ったときは仲間に助けてもらえば?」


「迷惑をかけるだろ」


 私は思わずため息をついた。


「あなた、昔の私みたい」


「あなたが?」


「ええ。私は八年間結婚していたの。でもうまくいかなくて」


 夫の態度が冷たくなっていることには気づいていた。でも理由を聞かなかった。


 自分が我慢すればうまくいくと思っていた。言わなくても、夫婦なら分かってくれると思っていた。



「結果、夫には好きな女性ができて、その人との間に子供までできていたわ」


 ノアが目を見開いた。


「……そんなことを語らせてしまって、すまない」


「あなたが謝ることじゃないでしょう」


 思わず笑ってしまう。


「ただね、離縁して分かったの。人って、思っているほど相手のことなんて分からないのよ」


 ノアは黙って聞いている。



「苦しいなら苦しい。分からないなら分からない。助けてほしいなら助けてほしいって、言葉にしなければ伝わらないわ」


「でも、それは弱い奴がすることだ」


「だったら私は、とても強い妻だったのね」


「え?」


「八年間、一度も助けてって言わなかったもの」


 私は肩をすくめた。


「その結果が離縁よ。だから今は、あまりお勧めしないわ」


 ノアはしばらく何も言わなかった。



 翌日の夜。

 厨房で夕食を作っていると、訓練帰りのノアが顔を出した。


「……今日、同期に頼んでみた」

「何を?」


「連携魔法の練習。俺が苦手だから、もう一度付き合ってくれって」

「まあ」


「教官にも聞いた。どこが悪いのか」


 相変わらず無愛想だけれど、昨日より少しだけ顔が明るい。



「それで?」

「散々駄目出しされた」


「良かったじゃない」

「どこがだ」


「直すところが分かったのでしょう?」


 ノアは不満そうな顔をしたあと、ふっと小さく笑った。



 それから彼は、時々厨房へ顔を出すようになった。


「今日は一回うまくいったんだ」

「それは良かったわね」


 またある日は、


「また隊列を乱してしまった……」

「大丈夫、明日は乱さなければいいのよ」


 しばらく経つと、

 

「教官に前よりマシだと言われた」

「ずいぶん控えめな褒め方ね。でも成長したってことじゃない、おめでとう」


 食事をしながらそんな話を聞く時間が、いつの間にか私の日常になっていた。



 そして数か月後。

 夕食の支度をしている私のところへ、ノアが勢いよく入ってきた。


「聞いてくれ、受かったんだ!」


 一瞬、何のことか分からなかった。


「もしかして、騎士団の査定に?」

「ああ! 無事に入団できた……」


 珍しく、子供みたいに笑っている。

 私まで嬉しくなって、自然と顔がほころんだ。


「おめでとう、ノア」

「貴方のおかげだ、本当に感謝している」


「あなたが頑張ったからでしょう」

「それでもだ」


 真っ直ぐ見つめられて、なぜか少しだけ胸が騒いだ。


 私は誤魔化すように台帳を指差す。



「それならお礼は、家賃でお願いね」


 ノアの笑顔が消える。


「……分割で頼む」

「あら」


「な、なんだ」

「ちゃんと素直に頼めるようになったじゃない」


 今度は二人で笑った。



◆


 それから早くも三年が過ぎた。


 私は三十三歳になり、月桂館も少しだけきれいになった。

 屋根を直し、厨房を広げ、空いた部屋へ新しい住人を迎えた。


 ノアは正式な魔法騎士となり、魔獣討伐や救助任務で功績を上げ、今では小隊を任されている。それでも二〇三号室だけは手放そうとしなかった。


「エリートなんだし、もっと良い部屋に住めるでしょう?」


 何度そう言っても、


「ここがいい」


 それだけだった。



 ある夕方。

 厨房でシチューを煮込んでいると、騎士団の制服姿のノアが帰ってきた。


 三年前より身体つきは逞しくなり、黒い上着の肩には小隊長を示す銀の飾りが付いている。


「ただいま」


「おかえりなさい。今日は早かったのね」


「ああ」


 食事中も、妙に落ち着きがない。

 何度も口を開きかけては黙るので、とうとう私は笑ってしまった。



「何か言いたいことがあるなら、言葉にしなさいって教えなかった?」


 ノアが私を見る。


「俺は……貴方から多くのことを教わった」


 彼は椅子から立ち上がり、私の前まで来た。


 そして跪き、小さな箱を差し出す。

 開かれた蓋の中には、銀色の指輪が収まっていた。


「……ノア?」


「三年前、俺は金もなかった。家賃も払えなくて、騎士になれるかも分からなかった」


 私は指輪と彼の顔を交互に見る。


「あなたが飯を食わせてくれた。俺の話を聞いて、頼っていいって教えてくれた」


「それは……」


「今は騎士になった。給金もある。あなた一人くらいなら一生食わせられる」


「もう少し言い方があるでしょう」


 思わず吹き出す。

 けれど、ノアは笑わなかった。



「クラリス」


 初めて、家主でも奥様でもなく、名前だけを呼ばれた。


 それだけで胸の奥が熱くなる。


「俺は恩返しで言ってるんじゃない」


 灰青色の瞳が、迷いなく私を見つめていた。



「あなたが好きです」




 夫に捨てられた日、もう誰かの妻になることなどないと思っていた。


 誰かに期待すれば、また傷つく。

 一人なら、それで十分だと思っていた。



「俺と結婚してください」


 その言葉を聞いた途端、なぜか三年前のことを思い出した。


 痩せ細って床に倒れていた青年。

 煮込みを夢中で食べていた横顔。


 不器用に「頼む」と言えるようになった日。


 助けたつもりだった。

 けれど、あの日から少しずつ前を向けるようになったのは、きっと私も同じだった。



「……一つだけ条件があります」


 ノアの表情が強張る。


「家賃の滞納は禁止です」


 一瞬の沈黙のあと、彼が呆れたように笑った。


「まだ言うのか」

「家主ですから」


「では頑張って稼がないと。他には?」

「そうねぇ、あとはお互いに我慢せず話し合いましょう。これは絶対の約束よ」


 私は差し出された指輪を受け取った。

 ノアの顔が、三年前に査定へ合格した日よりも嬉しそうにほころぶ。


 そんな顔を見ていると、私まで笑ってしまう。



 離縁されたときには、人生から大切なものを奪われたと思っていた。


 けれどあの日手にした慰謝料で買った古い月桂館には、家賃を三か月も滞納した、とんでもなく手のかかる住人がいた。


 どうやら私は、ずいぶん良い買い物をしていたらしい。


雨続きなので心が晴れる短編を目指して書いてみました。

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