離縁された元男爵夫人は、家賃滞納中の魔法騎士見習いを拾う~ご飯を食べさせて人生相談に乗っていたら、三年後に求婚されました~
「離縁してほしい」
八年間連れ添った夫からそう告げられたとき、私は驚くより先に、やっぱり、と納得してしまった。
「……理由を聞いても?」
「他に好きな女性ができたんだ」
半年ほど前から、エドガーは明らかに変わっていた。夕食を共にする回数は減り、休日も屋敷を空ける。話しかけても上の空で、いつの間にか寝室まで別になっていた。
仕事が忙しいのだろう。私が余計なことを言えば、疲れている夫を困らせる。そう自分へ言い聞かせてきたけれど、理由はもっと単純だったらしい。
「相手は、オルコット伯爵家のセシリアだ」
「……そうですか」
彼女なら私も知っている。エドガーとは幼い頃から付き合いがあり、私たちの結婚後も何度か夜会で顔を合わせていた。
だからこそ、胸の奥に小さな違和感が残る。
知らない女性なら、まだよかったのかもしれない。
「それから、彼女は妊娠している」
さすがに、その一言には息が詰まった。
好きな女性ができた。
その相手は、私もよく知る伯爵令嬢。
そして二人の間には、すでに子供までいる。
つまり今日ここで私に話すよりずっと前から、エドガーの中ではすべてが決まっていたのだ。
けれど私は取り乱さなかった。怒鳴ったところで、お腹の子がいなくなるわけではないし、夫の気持ちが戻ってくるとも思えない。
「慰謝料は出す、だから――」
「分かりました。離縁に応じます」
エドガーは目に見えて肩の力を抜いた。
「物分かりの良い女で助かったよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸に残っていた何かが、すっと冷えた。
……私は物分かりが良かったのだろうか。
商家の娘だった私は男爵家へ嫁いでから、傾いていた家計を必死に立て直した。使用人をまとめ、領地から届く帳簿を確認し、夫の代わりに社交へ出ることもあった。
不満があっても、家のためだと思って飲み込んだ。
夫が疲れていれば何も聞かず、機嫌が悪ければそっとしておいた。
その結果が、「物分かりの良い女」という評価のひと言だった。
「慰謝料はそこまで多くは要りません。ただし、離縁後は互いに干渉しないことはお約束ください」
「あ、ああ。もちろんだ」
「では、それで結構です」
私は離縁状へ署名した。
泣いたのは、屋敷を出たあとだった。
実家へは帰れない。両親はすでに亡くなり、商会は親族が継いでいる。今さら離縁された私が転がり込めば、誰にとっても迷惑になるだろう。
だから慰謝料(思っていたよりも貰えたのは、元夫の恩情か、罪悪感か)を使って、王都の職人街にある古いアパートメントを一棟買った。
三階建て、全十室。
名前は【月桂館】。
一階には私の住居と共同厨房があり、近くには市場も井戸もある。建物は古いけれど、雨漏りを直して壁を塗り直せば十分住めた。
家賃収入があれば、一人で慎ましく暮らすぶんには困らない。
誰かの妻としてではなく、自分のために朝起きて、自分の食べたいものを作る。
そんな生活にも慣れ始めた頃、私は家賃台帳を見て眉をひそめた。
「二〇三号室……ノア・グレン。家賃滞納が三か月」
一か月目に督促状を出した。二か月目にも出した。
返事はない。
王立魔法騎士団の訓練生だとは聞いていたので、訓練が忙しいのだろうと少し待ったけれど、三か月はさすがに見過ごせない。
その日の昼、私は二〇三号室の扉を叩いた。
「ノアさん、いらっしゃいますか?」
返事がない。
もう一度呼びかけても静かなままだ。
さすがに不安になり、合鍵を使うべきか迷っていると、部屋の中から何かが倒れる大きな音がした。
「ノアさん?」
急いで扉を開ける。
床に、若い男が倒れていた。
「ちょっと、大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄ると、短く切った黒髪の青年がうっすらと灰青色の瞳を開いた。
入居時にも会っているけれど、その頃よりずっと痩せている。頬はこけ、ただでさえ長身の身体がさらに細く見えた。
「……家賃なら」
「はい?」
「待ってくれ……」
「そんな話の前に、すべきことがあるでしょう!」
私はノアを一階の共同厨房まで連れていった。
パンを切り、鍋に残っていた肉と豆の煮込みを温める。野菜をたっぷり入れたスープも用意した。
「食べられますか?」
「他人である貴方に食事を出してもらう義理は……」
「では家賃の取り立てをしますよ」
ノアが警戒するように私を見る。
「三か月分、今すぐ払ってください」
「……無理だ」
「でしょう? なら食べなさい」
「いったい、どういう理屈で」
「このまま餓死したらどうするのです。私に死人から家賃を催促しろと?」
しばらく睨み合ったあと、ノアは諦めたように椅子へ座った。
一口だけのつもりだったらしい。
けれど煮込みを食べた途端、手が止まらなくなった。
「おかわり、ありますよ」
「……いただこう」
「パンも?」
「それも」
結局、きれいに二人前を平らげた。
食後のお茶を置いてから、私は向かいに座る。
「さて。そろそろ事情を聞かせてもらいましょうか」
「それは……俺の個人的な問題なので」
「あなたは三か月家賃を滞納している住人で、私は家主です」
「……」
「その上、私の夕食を二人前食べました」
ノアが気まずそうに視線を逸らす。
「少しくらい話してくださっても、罰は当たらないと思うのだけれど?」
逃げられないと思ったのか、ノアは渋々口を開いた。
訓練が増えて、それまで続けていた荷運びの仕事を辞めたこと。
蓄えが底をつき、食費まで削っていたこと。
そして、次の査定で成績が上がらなければ、魔法騎士団を除隊になるかもしれないこと。
「魔法の才能はあると言われる。でも集団訓練になるとうまくいかない」
「どうして?」
「他人に合わせるのが苦手なんだ。自分でやった方が早い」
「分からないことは教官へ聞かないの?」
「いつも自分で考えている」
「困ったときは仲間に助けてもらえば?」
「迷惑をかけるだろ」
私は思わずため息をついた。
「あなた、昔の私みたい」
「あなたが?」
「ええ。私は八年間結婚していたの。でもうまくいかなくて」
夫の態度が冷たくなっていることには気づいていた。でも理由を聞かなかった。
自分が我慢すればうまくいくと思っていた。言わなくても、夫婦なら分かってくれると思っていた。
「結果、夫には好きな女性ができて、その人との間に子供までできていたわ」
ノアが目を見開いた。
「……そんなことを語らせてしまって、すまない」
「あなたが謝ることじゃないでしょう」
思わず笑ってしまう。
「ただね、離縁して分かったの。人って、思っているほど相手のことなんて分からないのよ」
ノアは黙って聞いている。
「苦しいなら苦しい。分からないなら分からない。助けてほしいなら助けてほしいって、言葉にしなければ伝わらないわ」
「でも、それは弱い奴がすることだ」
「だったら私は、とても強い妻だったのね」
「え?」
「八年間、一度も助けてって言わなかったもの」
私は肩をすくめた。
「その結果が離縁よ。だから今は、あまりお勧めしないわ」
ノアはしばらく何も言わなかった。
翌日の夜。
厨房で夕食を作っていると、訓練帰りのノアが顔を出した。
「……今日、同期に頼んでみた」
「何を?」
「連携魔法の練習。俺が苦手だから、もう一度付き合ってくれって」
「まあ」
「教官にも聞いた。どこが悪いのか」
相変わらず無愛想だけれど、昨日より少しだけ顔が明るい。
「それで?」
「散々駄目出しされた」
「良かったじゃない」
「どこがだ」
「直すところが分かったのでしょう?」
ノアは不満そうな顔をしたあと、ふっと小さく笑った。
それから彼は、時々厨房へ顔を出すようになった。
「今日は一回うまくいったんだ」
「それは良かったわね」
またある日は、
「また隊列を乱してしまった……」
「大丈夫、明日は乱さなければいいのよ」
しばらく経つと、
「教官に前よりマシだと言われた」
「ずいぶん控えめな褒め方ね。でも成長したってことじゃない、おめでとう」
食事をしながらそんな話を聞く時間が、いつの間にか私の日常になっていた。
そして数か月後。
夕食の支度をしている私のところへ、ノアが勢いよく入ってきた。
「聞いてくれ、受かったんだ!」
一瞬、何のことか分からなかった。
「もしかして、騎士団の査定に?」
「ああ! 無事に入団できた……」
珍しく、子供みたいに笑っている。
私まで嬉しくなって、自然と顔がほころんだ。
「おめでとう、ノア」
「貴方のおかげだ、本当に感謝している」
「あなたが頑張ったからでしょう」
「それでもだ」
真っ直ぐ見つめられて、なぜか少しだけ胸が騒いだ。
私は誤魔化すように台帳を指差す。
「それならお礼は、家賃でお願いね」
ノアの笑顔が消える。
「……分割で頼む」
「あら」
「な、なんだ」
「ちゃんと素直に頼めるようになったじゃない」
今度は二人で笑った。
◆
それから早くも三年が過ぎた。
私は三十三歳になり、月桂館も少しだけきれいになった。
屋根を直し、厨房を広げ、空いた部屋へ新しい住人を迎えた。
ノアは正式な魔法騎士となり、魔獣討伐や救助任務で功績を上げ、今では小隊を任されている。それでも二〇三号室だけは手放そうとしなかった。
「エリートなんだし、もっと良い部屋に住めるでしょう?」
何度そう言っても、
「ここがいい」
それだけだった。
ある夕方。
厨房でシチューを煮込んでいると、騎士団の制服姿のノアが帰ってきた。
三年前より身体つきは逞しくなり、黒い上着の肩には小隊長を示す銀の飾りが付いている。
「ただいま」
「おかえりなさい。今日は早かったのね」
「ああ」
食事中も、妙に落ち着きがない。
何度も口を開きかけては黙るので、とうとう私は笑ってしまった。
「何か言いたいことがあるなら、言葉にしなさいって教えなかった?」
ノアが私を見る。
「俺は……貴方から多くのことを教わった」
彼は椅子から立ち上がり、私の前まで来た。
そして跪き、小さな箱を差し出す。
開かれた蓋の中には、銀色の指輪が収まっていた。
「……ノア?」
「三年前、俺は金もなかった。家賃も払えなくて、騎士になれるかも分からなかった」
私は指輪と彼の顔を交互に見る。
「あなたが飯を食わせてくれた。俺の話を聞いて、頼っていいって教えてくれた」
「それは……」
「今は騎士になった。給金もある。あなた一人くらいなら一生食わせられる」
「もう少し言い方があるでしょう」
思わず吹き出す。
けれど、ノアは笑わなかった。
「クラリス」
初めて、家主でも奥様でもなく、名前だけを呼ばれた。
それだけで胸の奥が熱くなる。
「俺は恩返しで言ってるんじゃない」
灰青色の瞳が、迷いなく私を見つめていた。
「あなたが好きです」
夫に捨てられた日、もう誰かの妻になることなどないと思っていた。
誰かに期待すれば、また傷つく。
一人なら、それで十分だと思っていた。
「俺と結婚してください」
その言葉を聞いた途端、なぜか三年前のことを思い出した。
痩せ細って床に倒れていた青年。
煮込みを夢中で食べていた横顔。
不器用に「頼む」と言えるようになった日。
助けたつもりだった。
けれど、あの日から少しずつ前を向けるようになったのは、きっと私も同じだった。
「……一つだけ条件があります」
ノアの表情が強張る。
「家賃の滞納は禁止です」
一瞬の沈黙のあと、彼が呆れたように笑った。
「まだ言うのか」
「家主ですから」
「では頑張って稼がないと。他には?」
「そうねぇ、あとはお互いに我慢せず話し合いましょう。これは絶対の約束よ」
私は差し出された指輪を受け取った。
ノアの顔が、三年前に査定へ合格した日よりも嬉しそうにほころぶ。
そんな顔を見ていると、私まで笑ってしまう。
離縁されたときには、人生から大切なものを奪われたと思っていた。
けれどあの日手にした慰謝料で買った古い月桂館には、家賃を三か月も滞納した、とんでもなく手のかかる住人がいた。
どうやら私は、ずいぶん良い買い物をしていたらしい。
雨続きなので心が晴れる短編を目指して書いてみました。
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