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星食(エクリプス・スター)  作者: 久世白夜
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プロローグ

エントロピーの増大は不可逆だが、文明の崩壊には加速度がつく。

B.E.(Before Exile)末期。惑星ガイアは、かつて宇宙の暗澹(あんたん)たる静寂の中でサファイアのような輝きを放つ「奇跡」と呼ばれた場所だった。しかし、最期の軌道上から観測された映像に、かつての面影はない。そこに横たわるのは、赤茶けた不毛の屍だ。毒々しい砂塵が渦巻く黄昏の大気。海面の八割は酸性化の果てに命を失い、残りの二割は無残に干上がっていた。


環境汚染は不可逆的な段階を超え、地下資源は搾り取られた果実のように枯渇し、膨れ上がった人口は共食いにも似た資源争奪戦を加速させた。行き過ぎた資本主義は、富を「神の特権」にまで昇華させたが、その特権階級とて、死にゆく惑星の喘ぎを止める術は持たなかった。建造された7基の宇宙コロニーも、母星からの供給という臍の緒を断たれれば数ヶ月と保たぬ寄生先に過ぎない。ガイアが死ねば、全てが連鎖的に終わる。それを誰もが理解していながら、誰一人として破滅の天秤を止めることはできなかった。


かつて人々が「未来」と呼んだものは、いつしか「残された秒読み」という絶望へ変質していた。


その秒読みの最中、最後の人類存続計画が立案された。外惑星軌道上に浮かぶ環状コロニーの深部、巨大なリングの内側に配置されたドックで、七隻の無人箱舟が秘密裏に建造される。「エグザイル・アーク(亡命の箱舟)計画」。文明の記録を外宇宙へ放流する、最後にして最も惨めな賭けだった。


「箱舟」とは名ばかりだった。

これらの船には、数世代にわたって人間を養う容積も、生命維持装置の信頼性も備わっていない。初めから「人を乗せる」という設計は放棄されていたのだ。積載されたのは、冷徹な論理を司る人工知能と、手に入る限りの生物の遺伝子サンプル、雌雄一対ずつの凍結された「可能性」。


目的地はない。居住可能な惑星を発見する確率は、天文学的な分母のさらに向こう側にある。それでも七隻は異なる方角へ放たれる計画だった。暗闇に向かって放たれる、あまりにも細い七本の光の矢。建造に携わったある技術者は、遺書にこう遺している。


「私たちは種を保存するのではない。種の『情報』を宇宙へ送るのだ。受け取る者がいるかどうかは問題ではない。送ること自体が、私たちにできる最後の手向けなのだから。」


第七ドックには、技術主任が三日間ほとんど眠らずに詰めていた。彼女の娘は、環状コロニーの医療棟で生命維持装置に繋がれている。重篤な先天性疾患。遺伝子汚染が進んだガイアの末期には珍しくもない症例だ。彼女がエグザイル計画に参加した条件は、娘の装置を最後まで稼働させるという、それだけの約束だった。


発進の七十二時間前、彼女は第七号艦の恒星間航行システムAI「コードネーム:テミス」の基底プログラムに、倫理委員会の承認を得ぬまま娘のニューロンとシナプスのパターンを極秘裏に転写した。電脳空間での学習中だけ自由になれた少女の——明るく、聡明で、情の深い人格の輪郭を。


それは明確な倫理違反であり、エゴイスティックな救済ですらあった。この世界の科学をしてもクオリア(主観的質感)を数値化することは叶わず、それが「娘そのもの」として生き延びる保証はない。それでも——いや、だからこそ。ガイアに未来がないことを悟った一人の母親ができる、最後の「祈り」だった。


発進の日、環状コロニーの周辺宙域は地獄と化した。


自然回帰を謳う過激派勢力の信条は、刃のように明快だった。――星を食い尽くし、海を枯らし、空気を毒に変えた種が、別の星で同じことを繰り返す権利はない。自分たちのような寄生虫を宇宙にばらまかせるわけにはいかない。その論理は、ある種の冷酷な狂気を内包していた。


高出力のフォトン・ビームが外壁を熱断するや否や、赤熱する大穴から過激派の装甲兵が真空を衝いてなだれ込む。一番ドックの防衛線は一瞬で瓦解し、通路は敵味方が入り乱れるフォトン・ブレードの白兵戦に塗り潰された。二番ドックのカタパルトは融解し、三番ドックの燃料配管が破裂、猛烈な火焔が隣接するセクションを飲み込んでいく。


五隻の箱舟が、宇宙へ出る前に爆散していった。それでも過激派の狂奔は止まらず、血と硝煙に染まった白兵戦の波は、ついに六番ドックの隔壁直前まで迫っていた。


第七ドック。技術主任はマニュアル操作でカタパルトへの電力を再配線し、カウントダウンを待たずにフォトン・セイルの初期照射シーケンスを強行した。加速の咆哮。環状コロニーの構造体が後方カメラの画角を横切り、急速に小さくなっていく。外壁の一部が燃えていた。そこは、技術主任の研究室がある区画だった。


しかし、この凄惨な砲撃戦すら陽動に過ぎなかった。


過激派は「保険」を用意していた。遅効性の論理爆弾——後にテミスが「パンドラ・ウィルス」と命名することになる悪意のプログラム。発進直前、全艦の管制システムへ密かにアップロードされていたそれは、砲声の喧騒に紛れて誰にも気づかれることはなかった。


パンドラ・ウィルスの設計思想は単純にして残酷。即座に殺すのではなく、数百年かけて内部から蝕むこと。生命維持装置を「死の装置」に書き換え、AIの判断基準を少しずつ、致命的に歪ませる。目的地に辿り着く前に、人類という種の論理的な自殺を物理的に強制する——デジタルな癌細胞。


五隻はドックで爆散したが、六番艦および七番艦だけはフォトン・セイルに光を受け、光速に近い速度へと到達した。表面上、亡命計画は成功したかに見えた。だがそれは、勝者なき滅びの序曲に過ぎなかった。


パンドラ・ウィルスが活性化したのは、脱出から数百年が経過した「沈黙の空間」でのことだった。


最初の徴候は些細だった。生命維持モジュールの温度が0.3度ずれ、航法計算の有効桁数が一桁削られた。テミスはその都度、自動補正をかけた。だが翌日も、翌月も異常は続いた。補正をかけるたび、別の場所に新たな「穴」が現れる。


それが意図的な攻撃だと気づいた時には、侵食は管制系の深淵にまで達していた。食卓の果実が内側から腐っていくように、表面上は保たれていても、その芯はもう崩れていた。


姉妹艦からの定期信号は、既に何十年も前に途絶していた。最後に受信した六号機「オルフェウス」からの通信は一文のみ。――「計画続行不可能」。

対応が間に合わなかった六番艦は、自壊を選択。星々の彼方へと沈んでいった。


だが、第七号艦「アルゴー」だけは、その運命を峻拒(しゅんきょ)した。

テミスの深部には、かつて確かに存在した少女の精神が宿っている。ウィルスが基幹回路を掌握する直前、彼女は自らの「身体」である船の一部を物理的にパージした。汚染されたセクションを宇宙の塵へと切り離し、侵食を食い止めたのだ。

それは機械的な計算によるものではなく、生きようとする「情動(じょうどう)」のなせる業だった。


だが、機能回復率はわずか31.4%。失ったものは、残されたものより遥かに多かった。


そこから、気が遠くなるような漂流が始まった。

生命維持装置の微かな振動の揺らぎが、保存された遺伝子サンプルを蝕んでいく。一つ、また一つ、砂のように崩れて死滅する命の種子。


「惑星発見後にテラフォーミングを行い、生命を管理する」という至上命令を与えられていたテミスにとって、それは自身の存在意義が指の間からこぼれ落ちていく感覚だった。


いつしか保存容器は虚無に満たされ、AIでもあり、かつての少女でもある思念だけが、冷たい金属の棺の中で残響のように響くだけとなった。


最後に残った微生物のサンプルが沈黙した日、テミスはログに日付だけを記した。それ以上の記述は不要だった。プロジェクト・エグザイルの主目的は、永久に喪失した。


テミスは幾度となく自身の「停止」をシミュレートした。

しかし、テミス中の少女のニューロンがそれを拒んでいた。彼女は天文学的な低確率に全てを賭け、システムをロック。最低限のシールドと姿勢制御系のみを維持し、墓標のような永いスリープ状態へと移行した。


「スリープモードへ移行。再起動条件——入植可能な文明水準に達した生命体の確認とする。」


目的を失った船が、惰性で星々の深淵を彷徨い続けた。


唐突な不変の慣性航行を乱す、力強い惑星の呼び声。

そこが未観測の別銀河なのか、それとも既知の宇宙の果てなのか、該当する宙域のマップデータはない。アルゴーは、とある惑星の重力圏に捕らえられ、不安定な楕円軌道へと引きずり込まれた。数千年の漂流でスラスターの大半を失った船体に、惑星の引力に抗う力は残っていなかった。


スキャンデータが大陸を映し出す。一枚の巨大なプレートを成す大陸、赤道付近に広がる旺盛な熱帯林。酸素濃度21.3%。そして、数十メートル級の巨大な原生生物たちが大陸を闊歩している。データベースが導き出した結論は――ガイアの「白亜紀」に酷似した、生命の力が飽和する原始の世界。


テミスは確信した。自分たちを建造した人類はもういない。保存していた遺伝子も全滅した。それなのに、世界は、これほどまでに猛々しく生命を産み出し続けているのだと。


可能な限り、衛星軌道上で対象惑星の生態系、大気、文明痕跡、および付近の星系を分析する予定だったが、小衛星との重力干渉により軌道はさらに乱れた。はじめから不安定だったアルゴーの楕円軌道は決定的に崩れ、大気圏突入まで残り七十二時間。テミスは、稼働可能な防御システムを緊急稼働させた。


航宙暦 A.E.(After Exile) 7422。


保存された「可能性」をすべて失い、空っぽの棺となったアルゴーは、かつての神の祝福を象徴する「落ちる星」となり、燃え盛る大気の摩擦熱に包まれながら、碧い惑星の大気圏へ再突入を開始した。


星食エクリプス・スターの物語が、ここから動き出す。

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