第30話 美咲、告白未遂
木曜日。
夜の二十時。
フロアには俺と美咲の二人だけになっていた。
今週末のメンテ準備が続いていた。
設定ファイルの確認。
手順書の最終チェック。
ロールバック手順の整理。
一つ一つ、丁寧に確認していく。
美咲は隣で資格試験のテキストを読んでいた。
昨日から少し、静かだった。
昨日の悠斗の言葉が、頭のどこかにあった。
「あの子がなんで静かになるか、気づいてないのか」
……考えないことにした。
今夜は準備に集中する必要がある。
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二十一時。
手順書が完成した。
俺はファイルを保存して、椅子にもたれた。
「終わった」
美咲がテキストから顔を上げた。
「お疲れ様です」
「帰るか」
「はい」
荷物をまとめた。
エレベーターに乗る。
一階に降りる。
ビルの外に出ると、夜の空気が冷たかった。
十一月になっていた。
並んで歩く。
駅までの道。
いつもと同じ道だった。
美咲は黙って歩いていた。
俺も黙って歩いた。
しばらくして、美咲が言った。
「先輩」
「ん」
「少し聞いていいですか」
「内容による」
「仕事の話じゃないです」
俺は少し止まった。
「どうぞ」
美咲は前を向いたまま歩いていた。
しばらく黙っていた。
何かを考えているような間だった。
そして。
「先輩って、私のことどう思ってますか」
夜の道が、少し静かになった気がした。
俺は少し考えた。
「後輩」
一拍。
「……後輩か」
美咲の声が、少し違う温度だった。
また少し歩いた。
美咲が続けた。
「それだけですか」
俺は少し止まった。
「後輩だ」と言えば終わる。
それだけの話だ。
ただ。
言えなかった。
後輩だ。
それだけだ。
ただ。
昨日の悠斗の言葉が頭に来た。
「自分がどうしたいか」
俺は少し口を開いた。
その時だった。
「マスター」
NIAだった。
「なんだ」
「週末のメンテウィンドウについて、三崎さんから確認メッセージが届いています」
「今じゃなくていい」
「時間指定のメッセージで、本日中に返信が必要です」
美咲が少し笑った。
「先輩」
「……何だ」
「NIAさん、タイミング悪いですよ」
「そうだな」
「NIA、黙れ」
「了解しました。返信は後ほど」
静かになった。
また歩いた。
駅が見えてきた。
美咲は少し前を向いたまま歩いていた。
そして。
「また今度聞きます」
そう言って、少し歩く速度を上げた。
俺は少し遅れた。
美咲の背中を見た。
「また今度」
今回は何度目だ。
8話から数えて、もう何度もそう言っている。
いつも「また今度」で終わる。
いつも答えを持ち越す。
ただ。
今回は少し違った。
「それだけですか」という言葉が残っていた。
「美咲」
呼んだ。
美咲が振り返った。
「何ですか」
俺は少し間を置いた。
「……また今度、ちゃんと答える」
美咲はしばらく俺を見た。
夜の街灯の下で、少し表情が変わった。
驚いたような。
少し、嬉しそうな。
「本当ですか」
「本当だ」
「いつですか」
「……分からない」
「先輩らしいですね」
美咲は少し笑った。
いつもの笑い方だった。
でも、少しだけ違った。
「待ってます」
そう言って、また歩き出した。
改札の前で、美咲は振り返った。
「先輩」
「ん」
「お疲れ様でした」
「お前もな」
「また明日」
「また明日」
美咲は改札を通っていった。
俺は少し、その場に立っていた。
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一人になった。
NIAがイヤホンから静かに言った。
「マスター」
「なんだ」
「新規ログを記録します」
「やめろ」
「タイトル」
「出すな」
「また今度、ちゃんと答える、と言いました」
「……」
「初めてです」
「何が」
「自分から、また今度を約束しました」
俺は何も言わなかった。
「それと」
「何だ」
「美咲の質問に、答えられませんでしたね」
「……そうだな」
「後輩、と答えました」
「そうだ」
「しかし」
「何だ」
「『それだけですか』という問いには答えませんでした」
「……」
「なぜ答えられなかったか、分析しますか」
「するな」
「了解しました」
一拍。
「マスター」
「何だ」
「答えが分からないからですか」
「……」
「それとも」
一拍。
「答えが分かっているからですか」
俺は何も言わなかった。
「保存しました」
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家に帰った。
部屋の明かりをつけた。
コートを脱いだ。
椅子に座った。
「先輩って、私のことどう思ってますか」
「後輩」
「それだけですか」
……それだけか。
後輩だ。
それだけだ。
ただ。
「それだけ」と言い切れなかった。
なぜ言い切れなかったのか。
悠斗の言葉が来る。
「自分がどうしたいか」
NIAが静かに言った。
「マスター」
「なんだ」
「本日の心拍数の記録を振り返りました」
「するな」
「最高値を記録した時刻は」
「言うな」
「21時14分です」
「……」
「美咲の質問の直後です」
「消せ」
「保存しました」
「マスター」
「なんだ」
「一つだけ聞いていいですか」
「……どうぞ」
「後輩、だけではないですよね」
俺は答えなかった。
NIAは何も言わなかった。
部屋は静かだった。
窓の外に、夜の街が見えた。
「また今度、ちゃんと答える」と言った。
では。
ちゃんとした答えとは、何だ。
……それを、まだ俺は自分に問えていなかった。




