第1話 男なのにOL扱いされる朝
朝の満員電車は嫌いだ。
正確には、満員電車そのものより、そこでたまに発生する"面倒な親切"が嫌いだった。
「どうぞ」
座席の前に立った瞬間、スーツ姿の中年男性が立ち上がった。
俺は一瞬、背後を見た。妊婦も老人もいない。どう考えても、譲られているのは俺だ。
「……いや、大丈夫です」
「いえいえ、どうぞ」
「いや、本当に」
断っても、相手はにこやかだ。善意の顔をしている。善意だからこそ厄介だった。
たぶんこの人は、こう思っている。
――若い女性が立っている。譲るべきだ。
違う。俺は男だ。
まあ、見た目と声だけ見ればそうは思えないのもわかる。肩まで届かないボーイッシュなショートヘアに、細身のスーツ。声は手術で整えてあるから、電話越しならまず女性としか思われない。顔立ちも昔から中性的寄りだったせいで、最近は完全に"そっち側"に分類されることが増えた。
だが、だからといって毎朝これを食らうのは普通に面倒くさい。
「マスター。本日の女性認識イベント、通勤開始から七分で発生しました」
イヤホンから、淡々とした電子音声が流れる。
スマホAI、NIAだ。
「記録するな」
「時系列ログは重要です」
「俺の尊厳よりか?」
「比較対象として不適切です」
こいつ、最近ちょっと煽り性能が高い気がする。
ため息をついて、結局俺は座席を断りきれず、一礼だけして車両の端に移動した。
朝から疲れる。
まだ会社にも着いてないのに。
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俺が勤めているのは、都内にある中堅IT企業――東都システムソリューションズ。
名前だけ聞くと立派だが、中身はどこにでもあるSIer寄りの会社だ。社内インフラ、客先ネットワーク、サーバ保守、障害対応、情シス的な雑用。火消しから配線確認まで、だいたい何でもやる。
所属はインフラ運用課。
Linuxサーバとネットワーク機器に囲まれて生きる、夢も色気もない部署のはずだった。
はずだったのだが。
「神代さん、おはようございます」
受付の女性が会釈した。
「おはようございます」
俺が返すと、相手は一瞬だけ表情を明るくした。
この反応にも慣れている。
たぶん声だ。
朝一の挨拶が想定より綺麗な女声で返ってくるせいで、一瞬"できるOL"みたいな印象になるらしい。知らんけど。
エレベーターに乗り、七階へ上がる。開いた扉の先で、すでに数人の社員がデスクについていた。
そのうちの一人、三十歳くらいの切れ長美人がこちらに気づいて手を上げる。
「おはよう、凛さん」
高城沙羅。同じ部署の先輩だ。仕事ができる。冷静。顔がいい。そして困ったことに、未だに俺をほぼ女性社員として扱っている節がある。
「おはようございます、高城さん」
「今日、新人来るから。たぶん神代さんが面倒見ることになると思う」
「俺がですか」
「だって話しやすそうだし」
たぶんその理由の八割は、俺の見た目が柔らかく見えるからだろう。サーバ障害で徹夜明けの顔でも、外見だけはそこそこ"とっつきやすい先輩"に見えるらしい。納得はいかない。
「マスター。母性を期待されています」
「うるさい」
「独り言ですか?」
高城さんが首をかしげた。
「……いや、NIAに文句言ってただけです」
「ふふ。仲いいですね」
AIと仲良くて嬉しいことがあるなら教えてほしい。
席に着き、PCを起動する。監視画面は平和。夜間アラートも軽微。いい朝だ――と思った、その時だった。
フロアの入口から、ぱたぱたと慌ただしい足音が近づいてくる。
「し、失礼します!」
振り向くと、そこに立っていたのは小柄で元気そうな若い女性だった。明るい茶色の髪を一つに結び、少し大きめの社員証を首から提げている。新しいスーツがまだ身体に馴染んでいない感じが、いかにも新人だ。
「本日付で配属になりました、結城美咲です! よろしくお願いします!」
元気が良すぎて、フロアの空気が少し揺れた。
高城さんが軽くうなずく。
「結城さん、こっち。今日の教育担当は神代さんだから」
「はい!」
結城美咲は、まっすぐこちらを見た。
そして、ぱあっと顔を輝かせた。
「よろしくお願いします、神代先輩!」
……ん?
「えっと、神代です。よろしく」
「わあ、すっごい綺麗な声ですね……! しかもめちゃくちゃ美人……」
「美人って言うな」
「えっ、すみません! あ、でも本当にすごいです、会社にこんな綺麗な先輩がいるなんて思わなくて……!」
やばい。距離感が近いタイプだ。
しかも"悪意ゼロで踏み込んでくる"系のやつだ。こういう人種は、地雷原をスキップで走る。
高城さんが微笑ましそうに見ている。助ける気はないらしい。
「じゃ、神代さん。午前中は社内システムと運用ルール説明してあげて。結城さん、神代さん優しいから何でも聞いていいよ」
「はい!」
いや待て。"優しい"は危険ワードだ。新人が遠慮なくなる。
案の定、結城は俺の隣まで来ると、椅子を寄せて座った。近い。普通に近い。肘が当たりそうだ。
「神代先輩、よろしくお願いします!」
「……おう」
「先輩って、何年目なんですか?」
「六年目」
「えっ、若い! しかも綺麗! すごい!」
「褒め方が雑なんだよ」
「あ、すみません。でもほんとに。すっごいOL感あるのに、インフラなんですね」
その一言で、俺の指が止まった。
「……今なんて?」
「え?」
「OL感ある、って言った?」
「はい。あ、悪い意味じゃなくて! すごい仕事できそうな、綺麗なお姉さん感っていうか」
高城さんが遠くで頷いていた。頷くな。
俺はゆっくり息を吸った。
「結城」
「はい!」
「俺、男」
数秒の沈黙。
結城の笑顔が固まった。
「……えっ?」
「男」
「えっ」
「戸籍上も身体的にも、現時点では普通に男」
「えっ、えっ、ええっ!?」
声がでかい。
フロアの何人かがこちらを見た。やめろ。そんな視線を集めるな。
結城は口元を押さえ、顔を真っ赤にしていた。
「す、すみませんすみませんすみません! 完全に女性の先輩だと……!」
「だろうな」
「だって声も見た目も……!」
「まあ、それはそう」
「じゃ、じゃあさっきの綺麗とか美人とかOL感とか全部……!」
「事実として受け取っておく」
「優しい!」
「そういう問題じゃない」
ぴこん、とスマホが震えた。
画面を見ると、NIAからメッセージが一件。
《新人社員・結城美咲による女性認識イベントを記録しました》
俺は即座に画面を伏せた。
「NIA……お前あとで消すからな」
「先輩、もしかしてAIにもいじられてます?」
「観察精度が高いな、新人のくせに」
結城はおそるおそるこちらを見たあと、少しだけ困ったように笑った。
「でも、よかったです」
「何が」
「怖い先輩じゃなさそうで」
そう言って、こいつはまた距離を詰めてくる。
肩が触れる。新人教育用の画面を覗き込むためだとわかっていても、近いものは近い。
シャンプーの甘い匂いがした。
仕方ない。新人教育だから、仕方ない。
「マスター。心拍数が微増しています」
「黙れ」
「神代先輩、やっぱ独り言多くないですか?」
「AIに殺意向けてるだけだ」
「仲いいんですねえ」
だから何でそうなる。
結城はけらけら笑い、俺のモニターを覗き込んだ。
「これが監視画面ですか?」
「そう。サーバとネットワークの死活監視。ここが赤くなったら、俺たちの平和な時間は終わる」
「わあ……地味に怖いですね」
「インフラは地味に全部怖い」
「かっこいい……」
「どこが?」
「そういうことを真顔で言うとこです」
意味がわからない。
だが、その時点で俺はまだ知らなかった。
この新人が、今後わりと本気で俺の平穏を壊してくることを。
そして。
その日の昼休み、こいつが何の迷いもなく俺に向かって――
「神代先輩、女子更衣室ってどこですか?」
と聞いてきて、俺の頭痛の種がさらに増えることも。
……インフラ運用課に、新しい障害が配属されたらしい。




