1-1 冬空、素敵な雪景色
最高に皮肉が聞いている。
雨が止まない。
もう四、五日は降りっぱなしだ。しかしこれほど降り続いても、大人は定時に仕事へ行き、電車は遅延一つせず、学校は非情にもチャイムを鳴らす。世界は、僕一人の停滞などお構いなしに回り続けている。
何という、綺麗な…。
この雨はやがて、重たい湿り気を帯びたまま雪に変わるのだろう。
「……なあ、聞いてるのかよ」
不機嫌そうな声が、冬の湿った空気を震わせた。
「え?」
「リレーの話だよ。次の大会の」
「ああ……」
目の前に立つ瀬川耀太は、タオルで髪を拭いながら僕を睨む。部活一の熱血漢である彼にとって、今の僕はさぞかし不純物に見えることだろう。
「北野先輩と、お前と、俺。あとは一年の誰かを入れるのが一番現実的だ。それが一番うまくいく」
「……勝手に決めればいいだろ。けど俺が走っても、また台無しにするだけだ」
耀太の顔が、わずかに歪む。田島先輩と僕が決裂して以来、耀太は過剰なほど僕に気を遣い、同時に、練習に来ない僕をどこか軽蔑の目で見る。
「お前さ、今日の朝練もなんで来なかった?」
「……」
「気まずいのはわかる。けど、次はもう一ヶ月後なんだぞ。いつまで引きずってんだよ」
「田島先輩が謝るまでは、行かない。」
嘘だ。これはただの、薄っぺらな建前。
本当は、あのオレンジ色のトラックに立つのが、吐き気がするほど怖いだけだ。
「きもちわりいな。いつまでもメソメソしやがって」
耀太が吐き捨てる。僕らは友達だ。少なくとも、僕は彼以外に友達と呼べる存在を知らない。
けれど最近、陸上のことになると、僕らの間には言葉では埋められない絶望的な溝が横たわる。
「……耀太。俺、もう走れないよ」
震える声を押し殺して、僕は告げた。
「部活、辞めていいかな」
「は?」
耀太の拳が動いたのは、その直後だった。
「植田、本当にいいんだな」
職員室。タバコの煙の匂いが染みついた新田先生が、相変わらずやる気のない目で僕を見る。
「はい。お世話になりました」
頬が熱い。脈打つたびにズキズキと痛む。
「その顔、どうした。耀太とやり合ったか」
「……いえ。こけました」
「そうか」
新田先生はそれ以上、何も踏み込んでこなかった。
「一年半か…。お疲れ。」
「ありがとうございました。失礼します」
外に出ると、雨足はさらに強まっていた。
けれど、心は不思議と軽かった。居場所を失うということは、何にも縛られないということだ。ビニール傘を叩く雨音が、まるで僕の退場を祝う拍手のように聞こえた。頬をつたった雨がしょっぱかった。
「おい!!」
聞き慣れた声が校舎に響く。振り返らなくてもわかる。多分、中学で一番聞いた声。
「どこ行くんだよ! 室内練習だぞ!」
僕は答えず、地面を蹴った。
思い切り腕を降る。雨風が僕を押して、久しぶりに速く走れている気がする。
進め。
校庭の柵が、耀太の声が、後悔してやまない過去が、雨の中に溶けて見えなくなるまで。
逃げて、逃げて、気づいた。
傘を忘れた。
夢中で走って、全身が重い。向かいにある屋根付きのバス停へとび込む。疲れたから、何も考えずに足を止めていたかった。
そこには、先客が一人いた。
僕は極力、先客の視界に入らないよう屋根の端に寄る。バスに乗る気がないことをアピールした。
『本町行き。本町行き』
バスが来る。先客は乗らない。
『南幸大通り行き』
二十分後、雨音が弱まった頃に来たバスにも、先客は動かなかった。
「……乗らないの」
不意に、先客から口を開いた。
「あ、はい」
「……乗らないんですか」
「……うん」
先客は深い防寒具に身を包んでいたが、覗くスカートの柄から、同じ学校の生徒だとわかった。
「雨宿り?」
「……はい」
「雨、止むの?」
「……わかりません」
「わからないのに、待つんだ」
三本目のバス、『千里台病院行き』が霧の奥に消えていったときには、彼女の姿は消えていた。
僕は一人残され、なんだか満足して、濡れた体を引きずってさして遠くもない家へと走り出した。
翌日。当たり前だが、耀太はいつもの角に居なかった。今日はひたすら学校に行くのが憂鬱で、なのにいつものように僕の足は止まらなくて。学校は逃げてくれないから、気付けば教室だった。
ドアをあけた瞬間、石油ストーブの独特な臭いが鼻をつく。一昨日までは、耀太と二人で「くっせえな」と笑い合っていた匂いだ。
耀太は自分の席で机に突っ伏していた。僕は何も言わず通りすぎて、窓際にある自分の席に座る。
ふと、昇降口の方を眺めると、見覚えのあるマフラーを見つけた。
赤いチェックのマフラー。
「先客……?」
思わず声が漏れた。すると、前の席の男がくるりと振り返った。
「ん? 何か言ったかい?」
線出守。学級委員長で、誰にでも完璧な笑顔を向ける「善人」の象徴のような男。
「あ、いや。何でもない」
「『先客』か。誰のことだい?」
聞こえていたのか。ならなぜ聞いた。
「あの、赤いマフラーの子……名前、なんだっけ」
線出は目を細め、まるで記憶のファイルを取り出すような仕草を見せた。
「成瀬のことかい? おいおい、もう十二月だよ。クラスメイトの名前くらい覚えないと」
「……悪い」
「悩みがあるなら聞くよ、植田くん。ずっと浮かない顔をしている。成瀬と何かあったのかい?」
その親切心が、今はただ眩しすぎて痛い。同い年の癖に、ここまで気を遣われると自分が惨めに思えてくる。
僕は線出の「余裕」に毒気を抜かれ、つい言いかけた。
「実は、部活を……」
その時、始業のチャイムが会話を遮った。
「頬、どうしたの?」
休み時間、今度は後ろから声をかけられた。
振り返ると予想外の顔でビックリした。
浅田志乃。耀太の元カノで、男子に物怖じしないことで有名な女子。ああ、物怖じというか、「ははは」といった感じ。要するにおとこったらしだ。
「なんか腫れてない? 昨日までなかったよね」
「え、ああ……」
なんだなんだ。やけにフレンドリー。彼女と話したのは今が初めてだ。
「保健室行こう。ほら、連れてってあげるから」
「いや、え?いいって!」
有無を言わせぬ勢いで腕を引かれる。周囲の冷やかし混じりの視線が突き刺さる。なんだなんだ。何が起きている…?
その時だった。
ガラッと、音を立てて教室のドアが開いた。
一瞬で教室が静まり返る。
そこにいたのは、昨日の「先客」こと、成瀬未来であった。
僕は息を呑んだ。
彼女と目が合った瞬間、背筋に冷たい氷を押し当てられたような錯覚に陥った。
その目は、人のそれではない。
光を一切通さない、底なしの泥のような黒。
彼女はコンマ数秒だけこちらを凝視した後、音もなく自分の席へと歩いていった。
「……びっくりした」
浅田が僕の腕を掴んだまま、呆然と呟く。こればかりは、浅田と同じ感想だった。
人の目ではなかった。あれは。いや、違う。たまたまそう見えたのか。
とにかく、たった数秒の衝撃が、僕をその日、成瀬未来のことばかりを目で追わせた。
耀太との喧嘩も、部活を辞めてしまったことも、その時は忘れて、ひたすらに理由もなくその目の奥を探った。
そして1日かけて見つめた目の奥には、特に何もなかった。特に何もなかったのだ。
帰り道、校庭でラインを引く陸上部の姿を見た瞬間、やはりあいつに殴られた頬が、また熱く、ズキズキと痛み出した。
狭い癖に、ちゃんと寒いこの街さえ恨んでしまう不器用さに、心底嫌気がさした。




