4、鉄の味の口づけと、永遠の別れ
二月の後半、大公国軍最高司令官フリーデリケ公女から、スコリア地域の部隊に対し、中間線への組織的な戦略的撤退の命令が届いた。それは、スコリアという防波堤の放棄であり、同時にルイーズとヴァルターの二人の旅の終わりを意味していた。
ルイーズはヴァルターを首都に送ることにした。母への推薦状をつけて。その推薦状は彼女が、プライドを捨て、母に頭を下げるようにして書いたものだった。この少年は大公国軍の将来を担う逸材だ。首都で教育を受けて、兵を無駄に殺さない指揮官になってほしい。それがルイーゼの願いだった。
雪は、空からの慈悲ではなく、ただ地上を拒絶するように冷たく降り積もっていた。帝国軍の追撃を遅らせる、しんがりの部隊に二人はいた。燃え盛るスコリアの陣地を背に、泥濘の影で立ち止まった二人の間には、硝煙の臭いと、あまりにも重い立場の違いという断崖が横たわっている。友軍と離れ二人きり、進む道は二股に別れている。
「……行きなさい、ヴァルター。これは命令よ」
ルイーゼの声は、凍てつく空気を切り裂く剣のように冷徹だった。彼女の手には、母メヒティルト将軍への推薦状が握られている。それはヴァルターにとっての生存の切符であり、同時に、憧れ続けた彼女からの追放宣告でもあった。
「嫌だ……僕は、あなたを置いてなんていけない……!」
ヴァルターが叫ぶ。その頬には返り血が凍りつき、唇は極寒と疲労で割れ、痛々しく赤く染まっていた。その瞳に宿る、あまりにも純粋で、あまりにも残酷な愛の光。 ルイーゼは、自分の中の魔女が悲鳴を上げるのを聞いた。この少年を自分の駒として使い倒してきた罪悪感。けれど、その少年が今、自分を救おうとしている。ルイーゼは初めてヴァルターを一人の男として見つめた。
「黙りなさい」
彼女は一歩、踏み出した。ヴァルターの幼い肩を掴み、その華奢な身体を引き寄せる。 驚きで見開かれた少年の瞳に、ルイーゼの女の翳が覆い被さった。
次の瞬間、二人の唇が重なった。
それは、詩人が謳うような甘い夢ではない。
ヴァルターの割れた唇から滲む、生暖かい「鉄の味」。戦場の死臭と、ルイーゼの髪から微かに漂う石鹸の匂いが混じり合う、暴力的なまでの現実。彼女は、自らの舌を、少年の口腔へ……あたかも最後の毒を流し込むかのように、深く、執拗に滑り込ませた。
雪が、血の汚れを覆い隠すように降り積もる。
「……ん、……ぁ……」
少年の喉が鳴る。初めて知る女の熱に、ヴァルターの脳は白く焼き切られそうになる。 けれど、その熱はあまりにも悲しい。 ルイーゼの唇は、彼を求めているのではない。彼を突き放すために、その魂に消えない呪いを刻印しているのだ。
ルイーゼは震える少年の唇を奪いながら、心の中で告解していた。これは救いではない。
私は今、この子の未来を私の影で塗り潰している。一生、他の女の唇に触れるたび、私の血の味を思い出させてやる……。彼女の指が、ヴァルターの襟足を強く引き寄せる。それは抱擁というよりは、獲物を逃さない捕食者の動きだった。
「いい、ヴァルター。これが最後よ。この味を、一生忘れないで」
唇を引き剥がしたルイーゼの瞳には、もはや慈悲などなかった。そこにあるのは、自らを戦火に捧げる決意をした、一人の騎士の顔だった。
「この味を思い出すたびに、あなたは思い出すの。私を置き去りにして、あなただけが生き残ったという事実を。私を救えなかったという、あなたの無力さを。……そして、その痛みこそが、あなたを兵を殺さない指揮官へと育てる糧になる」
ルイーゼは、少年の胸に推薦状を渡し、剣帯ごと剣をはずし、彼の右肩から掛けた。
「これは私が母から授かった剣よ。私にはもう必要ないけれど、あなたを首都まで守る盾にはなるわ」
そして、ルイーゼはヴァルターの背中を力いっぱい首都の道の方へと突き飛ばした。最初にあったころはひ弱な子どもだったのに、彼の身体は彼女の力ではほとんど動かなかった。
「行きなさい、私の騎士! 私の恋を、こんな泥の中で終わらせないで……!」
ヴァルターは、ルイーゼの力ではなく彼女の感情に押されて、よろめきながらも走り出した。何度も転びそうになる。肩にかかる剣の重さが辛い。涙で視界が歪み、喉の奥には、まだ彼女と共有した鉄の味がこびりついている。
丘の上で振り返った視界の先、白銀の闇に溶けていくルイーゼの背中は、もはや聖母ではなかった。それは、少年の青春を無残に食い破り、彼を大人の荒野へと解き放った、美しくも孤独な魔女の姿だった。
ルイーゼはヴァルターのような将来のある少年が、その可能性を発揮できる時間を稼ぐために戦場に残ることを決めた。エキノキマエラ子爵の騎士団に編入してもらう手筈は整えてあった。そのとき子爵はこう言っていた。
「ルイーゼ卿、実を言うと、泥と鉄で人がすり減らされる場所で、保育園ごっこして子供たちの命を浪費するくらいなら、あのとき、私を不快に思って帰国してほしかったのだよ」
そう言って彼はルイーゼに微笑みかけた。
「謝罪しよう、ルイーゼ卿。私は君の母親を見て、君の才能を見ていなかった。次の陣地でも私の騎士団が防衛を務める。君のような死神に愛された騎士が必要だ。私と共に地獄へ残ってくれないか?」
団長にそう言われ、すぐに感謝と共に了承した。前線に残るのは、同僚たちへのうしろめたさでも母への反発心でもなかった。純粋な未来への期待だった。それに……、彼女には自分が死に追いやった年端もいかない少年少女たちへ贖罪の義務があった。
ヴァルターは、丘の上で要塞に向かって去りゆく彼女の背中を、涙で歪む視界で見送った。 彼女を失うことでしか、彼は大人の男になれなかった。手に入らないからこそ、ルイーゼは彼の中で、永遠に理想の姿のまま変わらない恋人となった。
スコリアの激戦で稼いだわずかな時間は、和平への外交的な灯火となった。しかし、ヴァルターの心に刻まれたのは、外交的な成果などではなかった。それは、失うことによってのみ自分の血肉となった、美しくも残酷な欠落の愛の記憶。銀白の雪原に、少年の自立のために捧げられた、極上の恋の残骸が埋まっていた。




