第34話(裏)
――精算を引き受ける者
黒鋼は、橋のこちら側で足を止めていた。
霧の向こうに、桜花の気配がある。
剣は抜かれていない。
だが、場はもう戦場と同じ重さを持っていた。
「……精算、か」
低く呟く。
言葉を、反芻する。
◇
副官が、慎重に報告する。
「桜花軍、
橋と水源の外周に展開。
奪還の動きではありません」
「そうだろう」
黒鋼は頷いた。
奪えば、戦になる。
壊せば、恨みが残る。
桜花は、
どちらも選ばない形を作りに来た。
◇
黒鋼は、橋の欄干に手を置いた。
冷たい石の感触が、指に残る。
ここは、
生活の線であり、
兵站の線であり、
そして――
選択の線だ。
「俺は、
戦わなかった代償を取った」
それは否定しない。
分岐点で剣を振らなかった。
避難路で勝敗をつけなかった。
だから、
別の場所で圧をかけた。
◇
黒鋼は、静かに続ける。
「だが――
それは、精算ではない」
奪った。
保持した。
示した。
それだけだ。
戦を終わらせるには、
誰かが引き受けなければならない。
◇
副官が、低く問う。
「将。
ここで剣を交えますか」
「いいや」
黒鋼は、即答した。
「ここで剣を交えれば、
精算は“血”になる」
それは、
一番簡単で、
一番後に残る形だ。
◇
黒鋼は、剣の柄に手をかけ――
そして、離した。
「俺が、
引き受ける」
副官が、目を見開く。
「……何を、でしょうか」
「戦わなかった結果だ」
◇
黒鋼は、声を張った。
「桜花」
霧の向こうに向けて。
「お前は、
戦を終わらせる場所を持ってきた」
声は、静かだが、揺れていない。
「ならば俺は、
ここで“戦を続けない責任”を引き受ける」
◇
黒鋼は、命じた。
「水源から手を引け。
橋の保持を解除する」
副官が、言葉を失う。
「……将、それは」
「退却じゃない」
黒鋼は、淡々と続ける。
「精算だ」
◇
兵が動く。
橋の先にあった圧が、静かに解けていく。
奪われていた線が、
再び、戻る。
だが、
何もなかったことにはならない。
◇
黒鋼は、桜花のいる方角を見た。
「お前は、
終わらせるために来た」
ならば自分は、
終わらせる選択を背負う。
「この精算は、
俺の側に残る」
◇
風が、霧を押し流し始める。
橋の向こうに、人の気配が戻る。
黒鋼は、深く息を吐いた。
勝ったわけでも、
負けたわけでもない。
だが――
選択は、確かに終わった。
◇
黒鋼は、最後に一歩だけ前に出た。
「桜花」
名を呼ぶ。
「この戦、
ここで終わらせる」
それは宣言だった。
同時に、
次の戦が始まる合図でもある。
精算は済んだ。
だが、
背負ったものは消えない。
戦は、
次の形へ進む。
より重く、
より静かな形へ。
《雷哭ノ桜花戦記 ― 表裏双章 ―》は、
同じ話数を「表」と「裏」の二話で構成する戦記です。
表では桜花の視点から戦を描き、
裏では敵将・黒鋼の視点から、
同じ戦の別の意味と判断を描いています。
どちらが正しいかではなく、
それぞれが何を選び、何を背負ったのか。
戦を一方向ではなく、立体的に描くことを目的としています。




