第32話(裏)
――勝たないという選択
黒鋼は、桜花の剣先が示した“空間”を見ていた。
刃は地を割らず、人も斬らない。
ただ、境界を示している。
「……なるほどな」
低く、息を吐く。
勝たない。
退かない。
だが、斬らない。
それは、戦を終わらせるための一手。
しかも――相手に委ねる形での一手だ。
◇
副官が、声を潜める。
「将……
このまま通せば、
我が軍は何も得られません」
「違う」
黒鋼は、視線を逸らさずに言った。
「得ないという選択を、
ここで選べる」
戦場で最も難しい判断。
勝てる局面で、勝ちを取らない。
◇
避難民が、一人、また一人と進む。
恐怖はある。
だが、混乱はない。
黒鋼は、その歩みを止めない。
「……桜花は、
勝ちを取りに来ていない」
それは、弱さではない。
むしろ、最も厄介な強さだ。
◇
黒鋼は、ゆっくりと剣の柄に手をかけた。
だが――抜かない。
「全軍、
その場を保て」
副官が、思わず言葉を失う。
「……将?」
「剣を抜けば、
この提案は無意味になる」
ここで一太刀交わせば、
戦は“いつもの形”に戻る。
それだけは、避けねばならない。
◇
黒鋼は、声を張った。
「桜花」
名を呼ぶ。
距離はあるが、確かに届く。
「お前は、
勝たない一手を出した」
その事実を、
黒鋼は重く受け止めている。
「ならば俺は、
負けない一手を選ぶ」
◇
その意味を、
兵たちはすぐには理解しない。
だが、黒鋼は続ける。
「この場で、
剣を交えない」
それは、退却ではない。
降伏でもない。
戦の目的を、
この一点から外すという宣言だ。
◇
避難民の列が、途切れなく進む。
道は、確かに開いた。
黒鋼は、その光景を目に焼き付ける。
「……桜花」
心の中で、名を呼ぶ。
「お前は、
剣を抜いても、
剣に頼らなかった」
それは、
戦場で最も信用できる姿だ。
◇
副官が、低く問う。
「……この戦、
終わったのでしょうか」
「いいや」
黒鋼は、静かに首を振った。
「形を変えただけだ」
ここでは勝敗を決めない。
だが、この選択は、
必ず次の局面に影を落とす。
◇
黒鋼は、最後に一歩だけ前に出た。
「桜花」
声は、低く、しかし真っ直ぐだ。
「この一手、
俺は受け取った」
それは、同意ではない。
だが、拒絶でもない。
「次に会う時、
同じことはできない」
その言葉は、
警告であり、約束でもあった。
◇
風が、静かに吹き抜ける。
雷は、落ちなかった。
だが――
落ちなかったという事実が、
戦の重さを、さらに増していく。
黒鋼は、剣から手を離した。
勝たない。
負けない。
この選択を背負って、
次の戦場へ進む。
それが、
将としての責任だと知りながら。
《雷哭ノ桜花戦記 ― 表裏双章 ―》は、
同じ話数を「表」と「裏」の二話で構成する戦記です。
表では桜花の視点から戦を描き、
裏では敵将・黒鋼の視点から、
同じ戦の別の意味と判断を描いています。
どちらが正しいかではなく、
それぞれが何を選び、何を背負ったのか。
戦を一方向ではなく、立体的に描くことを目的としています。




