第30話(裏)
――剣を抜かせる理由
黒鋼は、分岐点を挟んだ向こう側に立つ桜花を見ていた。
剣を抜かない。
それどころか、避難民の先頭に立ち、自ら道へ踏み出した。
「……なるほどな」
声は低く、しかし乾いていなかった。
苛立ちでも、失望でもない。
理解だ。
◇
副官が、歯を食いしばる。
「将。
このままでは、圧が意味を失います。
剣を抜かせるつもりだったのでは……」
「つもりだった」
黒鋼は、否定しない。
「だが、
彼女は“抜かない理由”を先に出した」
恐怖で道を開くのではない。
威圧で人を動かすのでもない。
自分が先に通る。
それは、
剣を抜くよりも、
ずっと重い選択だ。
◇
黒鋼は、ゆっくりと馬を進めた。
距離を詰めるが、越えない。
「桜花は、
ここで剣を抜かない」
それは予測ではなく、確信だった。
彼女は、
“剣を抜いた瞬間に失うもの”を、
正確に数えている。
◇
避難路を進む人々の背が見える。
怯えはある。
だが、逃げ惑ってはいない。
黒鋼は、その光景を無言で見つめた。
「……剣を抜かせる理由が、削られていく」
圧を強めれば、
彼女は民を守るために剣を抜く。
だが、それは――
黒鋼の勝ちではない。
それは、
黒鋼が“抜かせた”という事実になる。
◇
黒鋼は、馬を降りた。
副官が、息を呑む。
「……将?」
「ここで剣を抜かせても、
得るものは少ない」
黒鋼は、視線を外さずに言う。
「彼女は、
剣を抜かずに進む姿を、
人の前で示した」
それは、
次に剣を抜く時の意味を、
より強くする。
◇
黒鋼は、静かに命じた。
「別働隊、引け」
副官が、思わず声を上げる。
「……引く、のですか」
「後退じゃない」
黒鋼は、淡々と続ける。
「理由を作り直す」
◇
圧が消える。
道は、完全に開いた。
避難民の列が、途切れずに進む。
黒鋼は、その背を見送りながら呟いた。
「……剣を抜かせる理由は、
力で作るものじゃない」
恐怖でもない。
威圧でもない。
「逃げ場のない選択を、
与えるものだ」
◇
黒鋼は、最後に桜花を見た。
剣を抜かず、
人の中を歩く女。
「桜花」
名を呼ぶ。
「お前は、
剣を抜く前に、
覚悟を使った」
ならば自分は、
その覚悟が通じない局面を作る。
「次は、
剣を抜かずには守れない場所だ」
◇
風が、再び向きを変えた。
雲が厚くなり、空が暗くなる。
雷は、
まだ落ちない。
だが――
剣を抜く理由は、
確実に作り直され始めていた。
いつも読んでくださって、ありがとうございます。
ここ最近は、
「守る」「切る」「選ぶ」
そんな話が続いています。
書いている側としても、
簡単な答えは出せないまま進んでいますが、
だからこそ、この形で書いています。
田舎のおっさんの戦記ですが、
もう少しだけ、お付き合いください。




