第29話(裏)
――来ると分かっていた
黒鋼は、分岐点の手前で馬を止めていた。
谷から吹き上げる風が、外套の裾を揺らす。
「……来たか」
声は低く、確信に満ちていた。
桜花は、来る。
間に合わなかった場所を背負ったままでも、必ず来る。
◇
副官が、遠眼鏡を下ろす。
「桜花将、前に出ています。
主力は後方。
剣を抜く様子はありません」
「だろうな」
黒鋼は、短く頷いた。
ここは、斬り合う前に立ち合う場所。
剣より先に、覚悟がぶつかる。
「彼女は、
“見せて守る”つもりだ」
それは、挑発ではない。
逃げ道を自分から塞ぐ行為だ。
◇
黒鋼は、馬を進めた。
速度は一定。
急がない。
だが、止まらない。
「全軍、距離を保て」
副官が一瞬、躊躇う。
「……ここで衝突すれば、
市も避難路も巻き込まれます」
「分かっている」
黒鋼は、はっきり言った。
「だからこそ、
ここでは斬らない」
◇
前方に、桜花の姿が見えた。
外套を正し、剣に手を触れていない。
人の目がある。
逃げる者の目。
託す者の目。
「……重いな」
黒鋼は、心の中で呟いた。
ここで踏み込めば、
戦は簡単になる。
だが、簡単な戦は、
次に必ず歪みを残す。
◇
黒鋼は、馬を降りた。
将が、馬を降りる。
それは、退く合図ではない。
ここに立つという意思表示だ。
「桜花」
名を呼ぶ。
距離はまだあるが、声は届く。
「お前は、
それでも来た」
それは、責めでも称賛でもない。
事実の確認だ。
◇
黒鋼は、歩みを止めない。
「俺は、
切れる場所を切った」
言葉を選ぶ。
人の前で、逃げない言葉を。
「だが――
切れない場所からは、退いた」
市を切らなかった。
守る覚悟を、先に示されたからだ。
◇
副官が、低く囁く。
「……このまま膠着しますか」
「しない」
黒鋼は即答した。
「桜花は、
ここで“止まる”ために来たんじゃない」
彼女は、
次の選択を引き受けに来た。
◇
黒鋼は、桜花を見据える。
「……それでも来た、か」
口元が、わずかに緩む。
「ならば、
俺も――
それでも行く」
守るか。
通すか。
切るか。
どれも、もう軽くはない。
◇
黒鋼は、静かに命じた。
「別働隊、待機解除。
だが、
一線は越えるな」
副官が息を呑む。
「……圧だけを、かけるのですか」
「そうだ」
黒鋼は、前を見たまま言う。
「桜花は、
ここで剣を抜かない」
ならば、
剣を抜かせる理由を作る。
◇
風が、強く吹いた。
避難路に立つ人々の衣が揺れる。
黒鋼は、低く呟いた。
「……来ると分かっていて、
それでも来た女だ」
ならば、
ここから先は、
**互いに“分かった上で進む戦”**になる。
雷は、もう遠くない。
この場所で落ちるか、
あるいは――
この場所を越えた先で落ちるか。
黒鋼は、その答えを
桜花と同じ地平で待っていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、派手な展開よりも
「選んだこと」と「選ばなかったこと」
その両方に残る重さを描いています。
全部は守れない。
だからこそ、何を守るかを選ばなければならない。
その覚悟が、戦の形を変えていく――
そんな戦記を書いています。
田舎のおっさんが、
自分なりに人生を振り返りながら書いている物語ですが、
少しでも何か残るものがあれば嬉しいです。
次も、表と裏、両方から続きを書いていきます。




