第二十一話(裏)
――黒鋼は、形を壊さない
谷へ踏み込んだ瞬間、黒鋼は悟った。
これは、避けられない場所だと。
進路は一本。
両側は切り立った岩壁。
隊列は自然と伸び、速度は前後でずれる。
「……ここか」
低く呟く。
その声に、苛立ちはない。
桜花は、戦場を作らない。
だが――
作らざるを得ない瞬間だけは、決して逃さない。
「前進を止めるな。
だが、詰めるな」
黒鋼の命令が、即座に伝わる。
「速度を落とせ。
後方は押すな。
中央を潰すな」
矛盾した命令だ。
だが、それを理解できる兵だけが、ここにいる。
◇
次の瞬間、谷が鳴った。
矢が降る。
岩が落ちる。
出口が塞がれる。
「……来たな」
黒鋼は馬を進めない。
前へも、後ろへも。
隊列の“詰まり”が生まれる。
だが、完全な混乱ではない。
「慌てるな!」
黒鋼の声が、谷に響く。
「止まるな。
だが、突っ込むな!」
雷のような奇襲。
それでも、黒鋼は“形”を保つことを選ぶ。
◇
副官が駆け寄る。
「出口が封鎖されています!
正面突破は――」
「しない」
黒鋼は即答した。
「これは、突破戦ではない。
耐える局面だ」
桜花は、斬ってこない。
突っ込んでもこない。
ただ、崩れるのを待っている。
「……上手い」
黒鋼は、はっきりと認めた。
「ここで前に出れば、
彼女の雷が“正面”から落ちる」
それは、勝てるかもしれない。
だが、勝ったとしても、
失うものが大きすぎる。
◇
黒鋼は、外套を翻した。
「後方、五隊。
左右の岩壁へ取り付け。
登れるところだけ登れ」
「敵弓兵がいます!」
「承知の上だ」
正面を押さず、
側面を崩さず、
“上”を使う。
これは突破ではない。
脱出でもない。
戦場を、薄める行為だ。
◇
時間が、ゆっくりと流れる。
矢は尽き始め、
落石も間隔が空く。
桜花は、斬ってこない。
黒鋼は、突っ込まない。
雷は、まだ落ちない。
「……桜花」
黒鋼は、谷の奥を見据える。
「お前は、
俺が前に出るのを待っている」
そしてそれは、
彼女が“最も美しく勝つ瞬間”でもある。
◇
黒鋼は、馬上で深く息を吸った。
「ならば──
今日は、落ちない雷を選ぶ」
命令は短い。
「全軍、ここで耐えろ。
夜まで動くな」
副官が息を呑む。
「……夜まで、ですか」
「そうだ」
黒鋼は、静かに頷いた。
「雷は、焦れた方に落ちる。
今日は──
俺が、焦れない」
◇
谷の中で、時間だけが積み重なっていく。
戦っているのに、
決着はつかない。
桜花は待つ。
黒鋼は崩さない。
雷は、まだ空にある。
だが――
落ちる場所は、もう決まっている。
それを、
互いが理解していることだけが、
この戦場の唯一の均衡だった。




