第十九話(裏)
――黒鋼は、血の巡りを測る
夜明け前の谷に、焦げた匂いが漂っていた。
黒鋼は馬を止め、静かに鼻先を上げる。
「……焼かれたな」
副官が険しい顔で頷く。
「補給中継地、半壊との報です。
糧秣の損失は三割超。
輸送路も一時的に遮断されています」
「死者は?」
「少数です。
逃げ延びた者が多い」
黒鋼は、短く息を吐いた。
「桜花の手だ」
断定だった。
完全に断たず、しかし確実に“狂わせる”。
彼女が好んで選ぶ刃の入れ方だ。
「……止めに来ない。
だが、効かせに来た」
副官は歯噛みする。
「補給が揺らげば、進軍速度は落ちます。
一度、前線を止め、再編を──」
「不要だ」
黒鋼は首を振った。
「止まれば、彼女の狙い通りになる。
“選ばせる”ために打たれた一手だ」
進むか、整えるか、追うか。
いずれも正解であり、同時に罠。
「ならば、選択肢を減らす」
◇
黒鋼は地図を広げ、補給線の流れを指でなぞった。
「被害はここだけでは終わらない。
次に来るとすれば──二日以内、別の中継点だ」
「守りを厚くしますか?」
「厚くしすぎるな」
黒鋼は淡々と言った。
「守りを見せれば、彼女は“揺さぶり”を深くする。
必要なのは、防御ではなく“流動”だ」
命令は、静かに、しかし大胆だった。
「補給を分散。
夜間移動を標準化。
中継点は固定せず、巡回型に切り替える」
副官の目が見開かれる。
「それは……効率が落ちます」
「効率は、血が巡って初めて意味を持つ」
黒鋼は地図を畳む。
「多少の損失で済むなら、流れを保つ方が勝つ。
彼女は“止めない”。
ならば、止まらない構造に変える」
◇
昼過ぎ、逃げ延びた補給兵が連れてこられた。
顔色は悪く、手が震えている。
「……雷の女だ。
正面に立たなかった。
炎が上がり、道が塞がれ……
気づいた時には、もう……」
黒鋼は黙って聞いていた。
恐怖は、誇張を生む。
だが、恐怖そのものが“情報”でもある。
「逃がされた、か」
彼女は、意図的に逃がす。
噂を運ばせ、判断を揺らすために。
「よくやった。下がれ」
兵が去ると、黒鋼は外套の留め具に触れた。
「……桜花。
お前は、戦場を作らず、
戦の“巡り”に手を入れてきた」
その口調に、苛立ちはない。
むしろ、慎重な評価があった。
◇
夕刻、全軍に通達が出る。
「進軍は継続。
ただし、速度を均すな。
前進は波のように、強弱をつける」
追われているように見せない。
追わせない。
だが、止まらない。
「補給線を守るために、主力を割くことはしない。
“主力が止まらない”こと自体が、最大の防御だ」
黒鋼は、北嶺の稜線を見据えた。
「彼女は、追わせる側に回ったつもりだ。
ならば──」
低く、確かな声で続ける。
「追われながら、前に出る」
◇
夜。
焚き火の列が、規則的に移動していく。
固定されない光。
定まらない影。
黒鋼は馬上で、その流れを確認した。
「……いい」
桜花の雷は、確かに効いている。
だが、血はまだ巡っている。
「次に彼女が狙うのは、
補給“そのもの”ではない」
黒鋼は静かに結論を置く。
「補給を“守る判断”だ」
追えば、前が薄くなる。
守れば、進みが鈍る。
迷えば、全てが遅れる。
「桜花。
お前は、俺に“迷わせたい”」
彼は、わずかに口角を上げた。
「だが──
俺は、迷いを“工程”に組み込む」
夜空で、雷が一度だけ光る。
それは、次の局面がすでに動き出している合図だった。
戦は、静かに、しかし確実に
正面衝突へ向かわない形で
深みへと沈んでいく。




